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不振の3年目、荒川道場へ(2)
2010年05月28日 (金) | 編集 |
読売新聞『時代の証言者』ホームラン王 王貞治(11)より

長嶋(茂雄)さんを語る場合に、1959年(昭和34年)の
天覧試合でのサヨナラ本塁打が引き合いに出されます。
でも、あの試合では僕も打っている。
長嶋さんとのアベック本塁打の第1号なんです。

≪昭和天皇を迎えて初の天覧試合は59年6月25日、
 後楽園球場で行われた。
 阪神に2対4で先行されていた7回、
 王選手は小山正明投手から右翼席へ同点本塁打を
 たたき込んだ。
 これが布石となり、9回の長嶋選手の劇的な
 サヨナラ本塁打が生まれた≫


僕の本塁打の印象が薄いのは仕方ない。
長嶋さんはこの試合で本塁打を2本打っていて、
1本が衝撃的なサヨナラですから。
でも1年目に球史に残る試合で打てた。
このシーズンに打った本塁打は7本ですからね、
僕に運があったということです。

しかし入団から3年間、僕は泣かず飛ばずです。
お粗末な3年間でした。

1年目は打率1割6分1厘。
2年目は早大の一塁手だった木次(文夫)さんの入団で奮起し、
2割7分を打った。
本塁打はチーム最多の17本でしたが、三振も多くてね、
何と101個にもなった。

プロの世界は甘くない。
3年目はスランプです。
相手チームや投手に研究されたのか、打率は2割5分3厘、
本塁打も4本減って13本です。
多摩川で猛練習をしたが、どうもバッティングに自信が持てない。
川上(哲治)さんに
『これだけの素質を持っているのに歯がゆいな』
と言われたことがあります。
どうしたらいいのか、僕は分からなくなっていました。
荒川さんから電話をもらったのは、
そんな昭和36年12月のことです。
『巨人のコーチになる』と。

荒川さんは中学2年の時に偶然出会い、
僕に左で打つよう助言し、早実に行くよう勧めてくれた。
奇縁というか、もう運命だと思いましたね。

≪荒川博コーチの就任は、この年から指揮を執っていた
 川上監督の要請で実現した。
 川上監督は『王を本塁打25本、2割7分を打てる打者に
 してくれ』と頼んだという。
 王を長嶋に次ぐ3番打者にしたい、
 というのが川上監督の考えだった≫


巨人のユニホームを着た荒川さんは、
多摩川グラウンドで僕の打撃フォームを見るなり言いました。
『ひでえもんだ』
『野球のボールじゃあ無理だな。
 ドッジボールでも投げなきゃ打てんな』と。
『遊びは上手になったらしいが、野球は下手になったな』
とも言われた。
荒川さんとの再会の初日は、この三つの言葉だけで
終わったんです。

数日後、言われました。
『やる気があるなら、3年間は俺の言うことを黙って聞け』。
夜遊びはやめろ、酒もたばこもやめろ、と。
『理屈はともかく、やめるということが大切なんだ』
と荒川さんは言う。
荒川道場の始まりです。

(西部編集委員 伊藤哲朗氏)
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コメント
この記事へのコメント
この記事でも、思いますね。余計な事を捨てて大事な事に集中する大切さが。酒もタバコも捨てて練習に打ち込んだんでしょう。

またいつも思うんですが、星稜高校の山下監督や長島監督に出会った松井、横浜高校の渡邉監督や東尾監督に出会った松坂、野村監督に出会ったマー君。

皆、運命に導かれるような物語があります。

だから、私は、中日に入団した近江の小熊のように物語のある選手に魅力を感じます。

また、世の中での成功は、大部分は運だと思っています。その人が真に立派で実力があったとは限らない。

だから、私は、プロ野球も勝ち負けだけでドラフトや編成の評価をしません。

勝ち負けなど、一つの偶然の積み重ねにすぎないと思うんです。
2010/05/28(Fri) 21:04 | URL  | 一花 #-[ 編集]
一花さんの今回のコメントも納得です。
勝ち負け、打てた打てないよりも
そこまでの工程がどうだったか、
自ら理解し次に備え学ぶ姿勢が後に形となり
一つでも身になればと思います。
一歩一歩地道に積み重ねていく大切さ、
大事ですよね。
2010/05/29(Sat) 20:22 | URL  | kuni28 #-[ 編集]
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