日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
合言葉は 『AFT』 (6)
2009年09月22日 (火) | 編集 |
指揮官自ら闘志をむき出しにして、選手を引っ張っていった須藤。
審判への抗議も帽子を叩きつけて、鬼の形相で迫ることもよくあった。

1990年(平2)2月1日。
大洋のキャンプ地、沖縄・宜野湾は気温15度で曇り空。
同じ沖縄・読谷でキャンプインした、
ダイエーが田淵幸一新監督の人気で平日にもかかわらず、
500人が見に来たのに対し、
その10分の1の観客の中で須藤大洋も始動した。
新監督は何を考えているのか?
選手が手探りの中、
須藤がナインに示した姿勢は英単語の頭文字3つ、
「AFT」に凝縮されていた。
  

Aは「アグレッシブ=気迫」、
Fは「ファンダメンタル=基本」、
Tは「テクニック=技術」。
  
須藤は「AFT」という言葉をマスコミを通じて
ファンにも浸透させ、90年の大洋は積極果敢な
攻めの野球を、基本という土台に技術を上乗せして
展開していくことをアピールした。
  
  
それまで首脳陣の作った練習メニューを
“こなしているだけだった”大洋のキャンプは、
須藤がノックバットを片手に一日中歩き回って移動すると、
緊張が走った。
どんな細かなプレーも見逃さず、
気がついたらその場で独特のダミ声を張り上げたからだ。
かつて巨人の“鬼軍曹”と呼ばれた頃のような、
鉄拳制裁の嵐にはならなかったが、ゲンコツに蹴り、
バットの柄でコツンといった光景はいたるところでみられ、
緊張感ととともに笑いも時折出た。
  

「声はよく出て明るいが、まるで高校野球」。
キャンプ巡りをする評論家は相変わらず
大洋の評価は高くなかった。中には
「今年の大洋は雰囲気がある。台風の目になるぞ」
と予言した解説者もいるにはいたが、
新監督が就任しても総じて“ノーマーク”状態だった。
  

オープン戦は7勝9敗5引き分けで12球団中10位。
セ・リーグでは、またもや“最下位”。
今年もやっぱり…とファンや関係者の頭に不安がよぎった。
しかし、須藤はこの21試合を通じて
  
「ゲームの中における選手の能力をつかむことができた」と、
ある種の手応えを感じ、
選手が日に日に気迫を前面に出して
プレーしている実感を得ていた。
  

須藤の手応えは現実のものとなった。
4月7日、中日との開幕戦。
初回に期待の中山裕章が3点を失ったものの、
3回に4安打を集めて逆転。
その後も一進一退の攻防を繰り広げ、
延長11回降雨コールドで5-5の引き分け。
続く8日も延長戦に突入。
ベテラン市川和正捕手の犠飛で勝ち越すと、
復活した新ストッパー、遠藤一彦が
無得点に抑え8-7で逃げ切り。
前日から通算して22イニング、
計8時間27分かけての須藤大洋の初勝利だった。
  

試合終了後、宿舎へ移動するバスに最後に乗り込んだ須藤は
遠藤からもらったウイニングボールを掲げて選手全員に言った。
「みんな、ありがとう!」。
帽子を取って深々と一礼すると、車内は拍手と歓声。
粘ってもぎ取った勝利。
大洋ナインにとっては、
自信を深めた雨中でのナゴヤでの2試合だった。
  

そして大洋はペナントレースの前半戦を大いにかき回した。
中日に勝った後、3戦連続逆転勝ち。4月にも首位に立ったが、
5月5日にも横浜で阪神に勝ち再び“奪首”。
ここまで13勝6敗1引き分け。
前年の同時期は7勝14敗で最下位。
  
まったく逆の成績に新聞には連日
“今年の大洋はひと味違う”“須藤マジック”の言葉が踊った。
  

前年13試合しか出場していない3年目の横谷彰将外野手を
1番・中堅で開幕スタメンに使い、
三塁にも思い切りの良さが売りの清水義之を抜てき。
21歳の野村弘樹投手を先発の柱として起用し、
期待に応えて初のふたケタ11勝を挙げた。
捕手はまだ2年目、20歳の谷繁元信を、
失敗しても失敗してもスタメンで多用。
  
思い切った若返り、若手の可能性にかけた須藤の用兵。
それは須藤がプロ入りした
当時の毎日オリオンズの監督で恩師と仰ぐ、
別当薫の用兵と重なるものだった。
  

オールスター前を7年ぶりとなる3位で折り返し、
最終的にも3位でシーズンAクラスを確保。
前年より勝ち星を17増やした。
対巨人は11勝15敗と負け越したものの、
89年の5勝21敗の屈辱から比べれば雲泥の差だった。
  

その須藤へセ・リーグはご褒美を贈った。
「特別功労賞」。
リーグに活気を与え、
プロ野球ファンを魅了したというのが授賞理由だった。
現役時代、これといって表彰歴がなかった須藤にとって、
輝かしい勲章となった――  
  


須藤 「AFTは僕の一つの人生哲学なんだ。
    “意欲をもって基本を大事にしてテクニックを磨いていく”
     という考え方。
     プロの選手は一番上にテクニックがきてしまう傾向に
     あるんだけど、それはダメなの。
     まず、意欲が大事で、
     それが備わっている者が
     基本を土台にして技術を身につけるというのが
     正しいプロセスだね」
  

    「実はAFTは巨人のファームで監督やっていた最後の年
     あたりから、選手に言うようになったの。
     アメリカのメサで短くて分かりやすいキャッチフレーズは
     ないかなと考えてたの。
     最初は“明るく、厳しく、夢を持て”だった。
     それをもっと短く、分かりやすく表そうと思って、
     これを英語にしたらどうなるかって、
     アメリカ駐在で巨人の渉外担当だった
     リチャード背古に聞いたの。
     “気迫は英語で何て言うんだ”
     “アグレッシブだ”みたいなやり取りして。
     それでAFTとなったんだ」
  

     「僕の監督1年目の90年は前年最下位だし、
      失うものがなかった。
      だから選手が新監督が掲げる方針でやってみようという
      気になったんだと思う。
      それである程度勝っていったから、選手が乗ってきた。
      90年は逆転勝ちも多かったよ。
      お客さんも結構来てくれて、選手をノセていった。
      だから僕はフランチャイズ、
      横浜でいい投手を使うように考えていた。
      横浜でぶざまな負け方はしたくないから、
      極端な話ビジターはいいと割り切った。
      いずれ優勝争いを本当にできるようになったら、
      しっかりローテーション組んで勝ちに行けばいいと」
  

     「だって、ローテーション組めないんだもの。
      投手がいなくて(笑)。欠端、大門、野村…
      時々ベテランの斎藤明夫。アキオくらいのベテランが
      先発で行くと、降ろすのに苦労するのよ。
      どうしても0点ていうわけにはいかない、
      3点や5点取られるのよ。
      それでマウンド行って、ギリギリになってね。
     “悪いけど…”なんて言いながら気を遣ったりね。
      遠藤がアキレス腱のケガからの故障上がりで
      長いイニングいけないから、抑えやってもらってね。
      アイツには感謝している。
      身体もキツイのに文句も言わずに
      黙々と放ってくれましたよ」
  

      「それと巨人相手の時は特別だったね。
       僕は巨人戦での査定を他球団の1・5倍にしたの。
       力の差は歴然としていたけど、11も勝ったでしょ。
       翌年は13勝13敗で五分だもの。
       選手は巨人戦の時は張り切ってたね。
  
       気迫を出すと、巨人コンプレックスは薄くなっていったね」  

      「打撃陣は非力だったね。
       セ・リーグでチーム本塁打が100本いかなかったの
       ウチだけだもん(90本)。
       パチョレックもアベレージは高いんだけど、
       外野フェンスの前で失速するし、
       マイヤーは場外まで飛ばす代わりに、
       一塁守ってても1メートル横の打球も捕れないし…。
       面白い男だったけどね、マイヤーは。
       クビになって礼を言いに来たのは、
       マイヤーと(巨人の)呂明賜だけだったね。
       マイヤーは“アメリカに帰るのは残念だけど、
       ボスを尊敬している”って。
       それはともかく、まあ非力な分、足でかき回したりして、
       プレッシャーかけるしかなかった。
       それで足のある若い選手使ったの。
       最後はシーズン乗り切るだけの体力がなくて
       失速したけど、
       何かやってくれるんじゃないかという期待を
       ファンには持ってもらうことができたシーズン
       だったんじゃないかな」
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック