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鬼軍曹、復帰(4)
2009年09月17日 (木) | 編集 |

85年、須藤は王監督2年目に1軍の守備走塁コーチに就任。
王と須藤はサシで酒を酌み交わす仲で、互いによき理解者だ

1981年(昭56)11月、
幻の“大洋・長嶋監督就任”騒動に巻き込まれる形で、
ホエールズを去らなければならなくなった須藤。
82年はネット裏からもう一度野球を勉強することになった。  
日本テレビでの解説、夕刊紙での評論家活動と、  
ユニホームを着ている以上に多忙な日々を過ごすことになったが、
一方で古巣・巨人は水面下で“鬼軍曹”の
いち早い復帰のタイミングを探っていた。
  

巨人は81年に藤田元司監督、王貞治助監督、
牧野茂ヘッドコーチの「トロイカ体制」で、
日本ハムを倒して8年ぶりに日本一を奪取。
翌82年も中日に最後の最後でペナントをさらわれたものの、
2位でシーズンを終了。
投手では江川卓、西本聖、定岡正二、
打者では原辰徳、中畑清、篠塚利夫らが中心となり、
戦力は充実していた。

ただ、気がかりなこともあった。  
1軍のレベルに高さに、ファームの選手が気後れし、
活気がなかったことに、正力亨オーナーらは危機感を感じていた。
  

2軍のレベルアップを優先事項として掲げた
正力オーナーの頭の中で、
真っ先に名前が挙がったのが須藤だった。
かつて河埜和正らを一人前にした実績だけでなく、
大洋で残した遺産にも注目した。
  
工場勤務から大洋2軍監督として球界復帰後、
須藤は大洋を2年で退団したが、その間に教え込んだのは、
徹底したプロ意識、積極的な姿勢、加えて状況判断…。
  
その教え子たちは須藤退団の翌82年、
7年ぶりイースタン・リーグ優勝。
2年目の高木豊は1軍に定着、
屋鋪要もレギュラー獲得に近づいていた。
  

83年、須津は1年で評論家を卒業。
2軍内野守備コーチとして、8年ぶりに巨人に復帰。
同年と翌84年をファームで過ごした。
  

84年、巨人軍は創立50周年を迎え、
1軍は藤田監督から王監督にバトンが渡った。
メモリアルイヤーに優勝は至上命令だったが、
王ジャイアンツは一度も優勝争いをできずに
開幕当初からBクラスに低迷。
オールスター直前の7月19日に後楽園の大洋17回戦に
8-2と大勝して3位に浮上したのが精一杯。
優勝した広島に8ゲーム差をつけられた。

50周年にV逸したジャイアンツは
コーチ陣のてこ入れを図った。
その目玉が川上巨人時代の厳しさをコーチとして
体験している須藤の王体制入りだった。
  
しかし、須藤が10年ぶりに戻った巨人の1軍は
選手とコーチが“仲良し集団”となり果てていた。
王監督一人がムキになって試合に臨んでいるという状態で、
チーム内の溝は想像以上に深かった。
  
85年4月は5位。
8月24日の広島15回戦を3-1で取り、
首位に立ったがこれも3日天下。
ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の
クリーンアップを中心に打線が爆発した阪神に奪回され、
最後まで虎の尾を捕まえることはできなかった。
優勝の望みが絶たれてからは無気力な試合が続き、
残り15試合で3勝11敗1引き分け。
2位も陥落し、阪神と12ゲーム差をつけられ惨敗。
貯金わずか1でAクラスを確保するのがやっと。
  
戦力の問題というより、接戦になると勝てない、
淡白なジャイアンツにファンはいら立った――  
  


須藤  「いきなり大洋をクビになって1年解説の仕事を
     やっていたら、巨人の監督だった藤田(元司)さんが
     “スーやん、もういい加減帰ってこいよ”って声をかけてくれたの。
     実は長嶋さんが(昭和)55年に解任されて、
     巨人の監督が藤田さんになった時にも声をかけられてたの。
     守備コーチで巨人に戻ってこいと。
     でも、大洋の2軍監督の1年目が終わったばかりで、
     契約もあったし
     “球界復帰の手助けをしてくれたチームに恩義がある”って
     断った。それで守備コーチになったのが、
     藤田さんの慶応の後輩の江藤省三なの。おもしろいよね、
     その1年後に大洋から出て行くことになるんだから。
     本当にタイミングですよ」

     「58年に巨人に復帰して、また2軍の守備コーチになった。
     復帰した年に1軍は日本シリーズで広岡(達朗)さんの
     西武に負けて、藤田さんが辞めて、ワンちゃんに譲った。
     だけど、王監督の1年目は3位で
     優勝争いに全然絡めなかった。
     それでコーチ陣の入れ替えをしようとして、
     僕が2軍から呼ばれたんだ。
     久しぶりの1軍コーチだったんだけど、
     まず感じたのは
     コーチと選手が馴れ合い過ぎていたということ。
     末次(利光)、柴田(勲)、堀内(恒夫)なんか
     現役の選手とそれほど年齢が違わないことも
     あったんでしょう。厳しさがなかったね。
     だから、僕が60年に入っても、もう出来上がった雰囲気
     というのがあったから、それをなんとかできなかった」
  

     「それで60年に阪神に優勝されてから球団に言ったの。
      “オレも退くから(コーチを)
      みんな一新したほうがいい”って。
  

      そしたら、周りはいろいろなことを言ってきたよ。
      須藤はわがままだとか、何様のつもりだとか。
  
      でも、やらないと巨人はダメになると思ったから。  
      それで2軍監督のクニさん(国松彰)を1軍のヘッドにして、
      僕が2軍監督になると提案した。
      ワンちゃんには話し相手が必要だし、
      クニさんなら適任だと思ったからね。
      自分から2軍監督になると言った僕も珍しいけど、
      本当は2軍でやってみたいという気持ちが強かった。
      過去に2軍でコーチやったり、
      大洋で2軍監督も経験して、
      失敗を積み重ねながら得た
      僕なりの理想があったからね。
      それを実現したいという思いがあった。
      だから1年で1軍のコーチは終わって、
      61年から2軍監督になったのよ」

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