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問題の“大洋新監督”(3)
2009年09月14日 (月) | 編集 |
ヤクルトのヘッドコーチにと須藤を誘った武上四郎監督。
球団期待の生え抜き監督だったが、
84年シーズン途中で休養し、思うような成績は残せなかった。

2年にわたり須藤が手塩にかけた大洋の若手選手は
一段とたくましくなり、
1軍にいつでも行けるレベルの選手も徐々に増えていった。
須藤は5年計画でチームを強化、
1軍で通用する選手の育成に取り組もうとしていた。
大洋球団も須藤にファームをあと3年任せる方針だった。

ところが1981年(昭56)、
一部フロントが80年に巨人軍監督を解任された、
長嶋茂雄前監督の招へいに動き、
最下位から抜け出せない土井監督をシーズン中の9月に更迭。
復帰の意欲十分の長嶋を大洋は獲得寸前までこぎ着けた。

須藤と長嶋。
あれから6年の歳月が流れていたとはいえ、
長嶋巨人1年目の野球に疑問を感じ、
球団を後にした過去が須藤にはあった。
結局、81年は長嶋大洋にはならず、
その懐刀だった関根潤三が
「いつでもミスターに監督の座を明け渡す用意がある」
と前代未聞の就任あいさつをして、
大洋1軍監督に。
須藤の運命は決まった――  


須藤  「56年秋、まだ大洋の2軍の面倒を見ていた時に、
     ヤクルトの武上四郎監督から
     “1軍のヘッドコーチで僕を助けてください”って、
     話があった。かなりいい条件だったよ。
     ヤクルトはあの頃、アリゾナで海外キャンプやったりと、
     羽振りが良かった。    
     女房が初めて“お金で動いていいんじゃないの”って
     言いましたから。
     それくらい良かった。
     ところが、その前に大洋の柴山二郎代表から
     “もう3年面倒見てくれ”と2軍監督の続投をお願いされた。
     いいですよって承諾してたのよ。
     だから、ヤクルトの話を条件がいいからって、
     そう簡単に受けるわけにはいかなかったの。
     結局、断ってしまった」

     「そしたら、その直後ですよ。
      忘れもしない昭和56年11月8日に大洋をクビになった。
      なぜなら、大洋はその時、
      浪人中の長嶋さんを監督にしようと一生懸命だった。
      それで僕がいたら邪魔でしょ。
      50年のときに巨人から出て行ったんだから。
      結果的に監督は関根潤三さんになったけど、
      ミスターはやる気満々だったんだ。
      ある大物に相談したら、
      ――まだ生きているから名前は言えないけれどね――、
      やめろって止められて断念してしまった。
      大洋・長嶋監督が誕生していた可能性は十分あったねえ」

      「でも、大洋では最後に最高の思い出を作れた。     
       というのは、退団が決まった翌日の11月9日に、
       グラウンドで選手にあいさつしたの。     
       そしたら、選手が僕を胴上げしてくれてね。
       嬉しくて、嬉しくて。本当に自主的に選手がやってくれたの。
       報道陣はいないし、写真も残っていない。
       新聞もベタ記事扱いだったけど、
       あの胴上げは最高だった。
       巨人のファームで優勝監督になって胴上げを何回かされたけど、
       一番印象に残っている胴上げはあの大洋球場での胴上げだね」

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