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肩を痛め、打者へ転向
2009年01月30日 (金) | 編集 |
読売新聞 『時代の証言者』より。

1956年(昭和31年)、張本勲が高校1年生の時に、
広島の松本商(現瀬戸内高)から、名門、
大阪の浪華商(現大体大浪商)に転校しました。
2年生になると、思いもかけない人から、
プロ野球に誘われました。
巨人の水原茂監督(当時水原円裕)です。
浪商の当時の前監督、中島春雄先生とシベリア抑留時代に
戦友だったそうで、その縁で、喫茶店で会うことになりました。
  

びっくりしましたね。
テレビで見る大監督でしたから。
当時の巨人は右投手が中心で、
左の先発は義原(武敏)さんぐらい。
だから、左腕投手の私に声が掛かったようです。
  



~56年の巨人は別所毅彦投手が27勝、堀内庄投手が14勝、
 大友工投手が12勝を挙げるなど、右腕中心の編成だった。
 左腕は中尾投手が5勝、義原投手は6勝で、
 2ケタ勝利はいなかった~


その時、巨人に入りたかったんです。
嬉しかったので、
『是非、入団させて下さい』と答えました。
  
しかし、広島でタクシー運転手をしている兄に相談すると、
『高校だけは卒業してくれ』と言われました。
もし、野球がダメでも、高校を卒業していれば、
就職に有利だからという理由です。
父親を早くに亡くしているので、兄の言うことは絶対です。
仕方なく、納得しました。
中島先生が水原さんにもその話を伝えたのでしょう。
『立派なお兄さんだな。卒業するまで待ってるぞ』 
と言ってくれたそうです。


しかし、その後、左肩を痛めました。
投手がやりたかったので、
『野球を辞めよう』とまで落ち込みましたが、中島先生に
『お前は絶対、打者の方がいい。
 足も速いし、オレは、初めからそう思っていたんだ』と諭され、
打者として勝負することを決めました。
それからです。
毎日、先生のところにバットを持って、
スイングを見てもらいに行きました。
  


浪商では、先輩の坂崎一彦さん(巨人など)も、
かなり打球を飛ばしたみたいですが、
私の方が遠くに飛ぶので、近所から苦情がきて、
さらにフェンスを高くしてもらった記憶があります。
浪商は転校した年に、部員の暴力事件で1年間の
対外試合禁止処分を受けましたが、
解除された2年生の秋の大会では相当、打ちまくりましたね。

3年生の秋には在日韓国人高校生の全国選抜チームに選ばれ、
韓国に遠征出来た事も、いい思い出です。
韓国では物凄く歓迎され、たくさんの賞を獲得できました。
  


~58年(昭和33年)12月の報知新聞によると、
 張本さんは2年生だった57年、15試合に出場し、11本塁打をマーク。
 韓国人選抜チームではセンターを守り、
 本塁打賞、盗塁賞、四球賞を獲得している~  


私はこの経験で、さらにプロでやる自信が膨らみました。
帰国すると、たくさんのプロ球団から誘いが来ていました。

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