日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
懸ける (4)
2008年09月15日 (月) | 編集 |
『笑顔 彼と母の分まで』 ― 女子車椅子バスケ・吉田絵里架選手

神戸市の実家の本棚に、1枚のスナップ写真が飾られている。
19歳の冬、岡山・鷲羽山を訪れた際に撮った
お気に入りの1枚だ。
部屋に帰るたび、肩を抱いてくれた恋人に、
『頑張って生きてるよ』と心の中でつぶやく。


女子車椅子バスケットボール日本代表主将の
吉田絵里架選手(31)が、
恋人の運転する乗用車で事故に遭ったのは1997年、
この写真の2ヶ月後のバレンタインデーだった。
意識が戻った時は、病院の集中治療室のベッド。
全身に激痛が走るなか、
『みー君は無事なの?』と恋人を気遣った。
父の健四郎さん(50)からは
『別の病院で元気にしているよ』と言われたが、
1週間後に真実を知る。

『即死やった』―。
そして自分はもう歩けないことも聞かされる。
『なんでそんなウソ言うん?』―。
現実と信じられず泣き明かした。


2年前の阪神大震災で自宅が倒壊して生き埋めになり、
当時はまだ仮設住宅暮らし。
震災のショックから立ち直りつつあった母の裕美子さんは
度重なる心労に耐えられず、事故の2年後に38歳で亡くなった。



入院先で知り合った女性に誘われて、車椅子バスケに出会った。
中学校では陸上の中距離選手だったが、球技は苦手。
障害で体をひねることができないため、
ボールを床から拾い上げるのも難しく、
シュートはリングにも届かない。
腕は筋肉痛でパンパンに張った。
障害を持ち、同じように結婚や仕事への不安を抱える友人ができて、
何となく続けてきた。


練習に身が入るようになったのは、
2000年のシドニーパラリンピックで女子日本代表が
銅メダルを誇らしげに掲げる様子を目にしてからだ。
相手に抜かれそうになると、必死に食らいついた。
連携プレーでシュートが決まると、競技の面白さも知った。

初出場したアテネパラリンピックではメダルに届かなかった。
北京では悔しさを晴らそうと、昨年4月に練習環境にも恵まれた
愛知県に引っ越した。
毎日のようにボールに触れ、コートでは誰よりも大きい声で、
味方を励ます。



あの事故後、警察署で見せられた恋人の乗用車の写真が
忘れられない。
道路左側の電柱に激突したのに、右側の運転席が
跡形もなくひしゃげていた。
前後の記憶は途切れているが、
『助手席の私を守ろうとして、ハンドルを切ってくれたのかな』
と思っている。

ケガを負ったことで、一生続けたいと思える車椅子バスケに出会えた。
それでも、ふとした拍子に、
『あの事故に遭わなければ』と考える。
立って歩ければどんなにうれしいか。
何よりも恋人だって母だって、いまも目の前で
笑顔を見せてくれていたはずだ。


事故で死のふちを覗き込み、限られた人生を楽しみ、
幸せに暮らしたいと思うようになった。
自分は、恋人や母の命も背負ってコートにいる。
『精一杯生きるよ』―。
その誓いをボールに込めて、リングを狙う。


                読売新聞 『懸ける』より
                            近藤幹夫氏

 
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック