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懸ける (2)
2008年09月11日 (木) | 編集 |
北京での障害者スポーツの祭典、パラリンピック。
プロアスリートとしての将来をかけ、
義足の右足でしっかりとトラックを踏みしめた。
6日の開会式で旗手を務めた陸上走り高飛びの
鈴木徹選手(28)。
アテネ後の4年間、スポンサー会社の破たんや
ひざの故障にも負けず、パラリンピックに戻ってきた。


高校3年の時、ハンドボールで国体に出場、
全国3位に入るほどの選手だったが、
18歳の冬に乗用車を居眠り運転して事故を起こし、
卒業式の日に右足を切断した。

リハビリで走り高跳びに出会い、シドニー、アテネと連続で
パラリンピックに出場。
海外遠征や合宿の費用はほとんどが自己負担だったため、
アテネで不本意な6位に終わると、
競技に集中しようとプロアスリートを目指した。

パラリンピックでの活躍を伝える新聞やテレビ番組の録画ビデオを
持ち歩き、100社以上の企業にスポンサー契約を掛け合ったが、
次々と門前払い。
『僕って、これぐらいの価値なんだ』と、障害者スポーツの認知度の
低さを思い知らされた。

ようやく大阪のIT関連企業と年間250万円で契約。
2006年10月には世界で3人目の2メートルジャンパーになったが、
その3ヶ月後にスポンサー会社が経営破たんし、
契約は打ち切られた。


当時はアテネ大会直後に結婚した妻、麻美さん(32)との間に
長男の勇悟君(1)が生まれたばかりで、
家計を支えるために宅配会社で仕分けのアルバイトを始めた。
度重なる左ひざのケガも乗り越え、
北京に照準を合わせてきた。


足を切断する前は、パラリンピックさえ知らなかったが、
事故で走り高跳びと出会ったからこそ、夢がかなえられ、
胸を張れるようになったという思いがある。
『メダルを取ることが義務』―。
フィールドで自分が義足姿で高々とバーを飛び越える時、
義足を堂々とつけられる世の中が来ると信じている。

 
                        読売新聞より
                            近藤幹夫氏
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