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甲子園が産んだ怪物(1)
2007年09月12日 (水) | 編集 |
 この夏、高校通算本塁打記録を『87』に塗り替え、
 バッターとして騒がれた中田翔だが、彼がマスコミの前に
 初めて登場した時、最初に印象付けたのは『投手・中田』の
 姿だった。
 ところが、2年春に右肘を故障してからというもの
 かれに付けられたイメージは、『清原以来』と称される
 ホームランバッターとしての姿。
 昨年秋に、投手として復活を果たしたものの、
 思うように肘は回復せず、自分の気持ちとは裏腹に上昇する
 『打者株』に、中田は投手への想いを封印してきたのだ。
 この夏の大会前も
 『上の世界では、バッターとして勝負したい』と
 公言するようになっていった。
 だからこそ、甲子園への夢が破れ、次なるステージへ
 進む中田が『投手』の選択肢を語ったことは、
 長らく封印してきた投手への想いを再燃させたという
 意思表示だった。
 入学時の中田の投手としての凄みを知っていた記者たちは、
 それに安堵したのだ。
  


 この3年間の中田のハイライトシーンといえば、
 1年夏の甲子園1回戦・春日部共栄戦だろう。
 5番を任されていた中田は、乱調のエース辻内を助け、
 5回途中から登板。
 146㌔のストレートを武器に4回1/3を1失点に
 抑えた。さらに、7回には勝ち越しとなる130m弾を
 左中間スタンドにぶち込んだ。

 『マウンドで投げたいと思っていた。僕の持ち味は
  思い切り行くということなので、思い切りいきました。
  ホームランは思い切り振って、パッと見たら
  入っていました』ー。
  
 試合後、中田はそう語った。
 投げて『松坂』、打って『清原』クラスの逸材と、
 誰もが色めき立った。

 だが、それと同時に『投手・中田』と『打者・中田』の
 どちらが本物なのか、どちらでプロの世界で挑戦して
 いくべきなのか、あちこちで、騒がれるようになった
 のも、この頃からだった。

 
 中田を指導する大阪桐蔭・西谷浩一監督は、
 どちらをも評価した。
 『今までウチに来た投手の中では間違いなく
  ナンバーワンです』
 『たくさんの選手を見てきましたけど、パワーだけなら
  桁外れに一番の打者です』
 この10年で13人のプロ野球選手を輩出している
 大阪桐蔭にあっても、中田は投打どちらをとっても
 秀でた存在と西谷監督は評す。
 
 ただ、そう話す指揮官は投打に才のある彼から、
 どちらを棄てさせるという考えは最初からない。  
 『よく言うのですが、僕は中田がピッチャーであるべきか
  バッターであるべきかという考えを持っていないんです。
  入学してきた時から『エースで4番』になるための
  プログラムを作ってきました』ー。

 とはいえ、『エースで4番』というポジションが簡単に
 こなせるポジションかというと、そうではない。
 80年の歴史を誇るプロ野球においても、
 海の向こうのメジャーリーグにおいても、今、そんな
 『どあつかましい』ポジションを担っている選手は
 いない。それだけ、同時に全うすることが難しい
 ポジションなのだ。
  
 少年野球ならザラにあるポジションなのに、それが、
 成長していくにつれて減っていく。
 このポジションに求められるものが、年代を経るに
 つれて重くなるからだが、実際、高校野球までが限界
 だろう。しかも、その高校野球ですら、最近の
 『エースで4番』は形だけのものが多い。
 投打ともに高水準を保ったままの選手が
 いないのが、現状だ。

 だが、少年野球の観点に立ち返って考えてみると、
 『エースで4番』の概念は実に明瞭である。
 一番野球が上手な選手が、ピッチャーをやり、4番を打つ。
 マウンドに立つものは元来、運動能力に長け、
 それだけの精神力も備えている。
 王貞治しかり、桑田真澄しかり、松坂大輔しかり。
 田中将大も、斉藤佑樹の打撃も非凡だった。
 マウンドに立つ人間には、野球選手としての優れた
 ポテンシャルが備わっているはずなのだ。
 中田も同じである。
  
 チームメイトの丸山貴司主将が証言する。
 『投げても打っても、すごいんですけど、入学して
  一番驚いたのが、意外に足が速いんです。
  運動能力が高いんです。打って投げて守って走れる選手
  なんです』―。

 中田こそ『エースで4番』を成し得る男。
 西谷監督はそこを目指したのだ。
 1年秋の新チーム結成以降、実質的に『エースで4番』
 というポジションを中田に用意し、誰もが成し遂げなかった
 『投打の怪物』育成を実戦しようとしたのだ。
 高校2年の春、中田は最速151㌔を投げ、
 本塁打も36本を記録。松坂と清原を一人で演じる、
 彼はその道を確かに歩もうとしていた。


 中田は元々、投打共に自信を持っていたわけではない。
 どれだけ両面で騒がれても、入学当初から、
  
 『僕はバッターというより、ピッチャー。
  投手として注目してもらって、ここに来た』と
 話していた。
 
 それは西谷監督も同じで、中学時代の中田を初めて
 見た時、『こんな中学生がいるんか』と驚いたのは
 打棒の方ではなく、投球の方だった。
 実際、中田自身の野球への想いは常に、ピッチングに
 向いていた。ことピッチングに関しては、人一倍の
 こだわりを持っていたし、投打のどの部分を比較しても
 打者にはなくて投手にしかない物が、中田には多かった。

 それは、こだわり、勝負勘、粘り、繊細さ、経験、
 修正能力、度胸といったものだった。
 野球選手としてのプラス要素は全て、投手の能力に
 備わっていたのだ。
前出の丸山は言う。
 『繊細さと豪快さを兼ね備えた投手。ピッチャーとしての
  弱点が全くないですね』―。

 ピンチになると、簡単に追い込むし、大きなリードをする
 走者がいれば、必ず刺す。バントヒットも許さないし、
 カバーも怠らない。
 『投手・中田』にスキはなかった。


 そんな時、中田に右肘の故障という転機が訪れた。
 大阪府大会準決勝の浪速戦で故障し、それから約6ヶ月の
 間、投手から離れることとなる。
 故障をしたのが5月だったから、7月になっても
 投げられない状況が続いたのは、もはや重症といえた。
 結局、高校2年の夏は、投手としての活躍を断念。
 それまで『ピッチングのついで』だったバッティングに
 より結果を求めていくことになる。


 ピッチングに向いていたものをバッティングに向けていく。
 そう意識を変えただけで、中田は本塁打を量産。
 年間51本塁打の驚異的な数字で、
 打者としての才能を開花させた。
  
 バッターボックスでの風格、放たれる大人びた弾道。
 ファンは、メディアは、スカウトは、『打者・中田』に
 多くの期待を寄せるようになった。
  
 2年夏は大阪府大会で4試合連続の5本塁打。
 甲子園1回戦の横浜戦では、観客の度肝を抜く、
 バックスクリーン左への140m弾。
 バッティングへの注目は日増しに増え、投げられない
 期間が長引くほど、中田はバッターとして
 表現されるようになった。

                  (続く)
       
  
 
 
 
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