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高校3年間は男の修行!(2)
2007年07月23日 (月) | 編集 |
 阪口監督は、愛知大を卒業してすぐの1967年に母校
 東邦の監督に就任し、退任するまで甲子園出場春夏通算
 24回、
うち優勝1回、準優勝2回。
 当時の愛知は杉浦藤文監督率いる中京(現中京大中京)の
 全盛で>、「相手がステンレス軍団ならうちはブリキ軍団。
 倒すには3倍の猛練習しかない」
と、
 早朝から夜遅くまで、選手と共に休むことを忘れて
 グラウンドに立ち続けた。
 4㌔のウサギ跳びをさせたとか、合宿をすれば教室に
 新聞を敷いて寝て、1週間風呂に入らなかったとか、
 今の選手が驚くような、まさにハングリー精神で
 鍛え上げる指導だった。


 以来、甲子園の強豪校として君臨した東邦だったが、
 以外にも部費は年間50万円以下で、進学校ゆえに
 選手獲得も思うようにならず、苦悩したことは
 少なくなかったという。


 『グラウンドの土も自分たちで買うような状況で、
  つまりは甲子園に定期的に出るようになると、
  学校側も段々と協力的ではなくなるんですよ。
  心底燃えることが出来なかった時期は正直辛かった。
  それを知って他校からの誘いも実はあったんだが、
  だもすぐにノー。
一度ここでやると決めたこと、
  十分だと。そういう生き方しかできないんですよ、
  僕は』
―。


 延長10回裏、2死からの逆転サヨナラという劇的な
 幕切れで上宮(大阪)に勝った1989年のセンバツ
 優勝が44歳の時。
 こらえきれず涙を見せた阪口監督だったが、その姿は
 今に思えば年齢以上の貫禄、重みを感じさせるものだった。
 その優勝から早20年。
 当時の指導について『骨と皮にしちゃったな』と
 反省の弁を込めながら、猛練習と並んで思い出すのは、
 真夜中の電話だという。


 『打てなかったらどこ見てるんだ、何やってんだと、
  真剣勝負ゆえについ怒鳴ってしまうんだが、
  言った後から僕自身が気になって仕方ない。
  結局真夜中に選手の自宅に電話して、
  怒って悪かったな、短気になって言い過ぎたよ、と
  謝って回っていた。そうすると、子供も翌日張り切って
  練習してくれて。よく言われました、“電話魔だ”と。
  今はそんな必要ないけどね(笑)』―。



 思わぬ一面である。そう聞けば、当時女生徒からの信頼も
 厚かったというセリフもうなずける。
 青春真っ只中の高校生の数ある悩みに、それこそ最後の
 とりでのごとく答えていたのが阪口先生。

 通りいっぺんの答えに終始せず、生徒にあっと言わせる
 ような幅広い発想で、幾度も彼らのピンチを救ったのだ。

 『阪口先生は先生じゃない、先生を通り越していると
  言った女生徒もいたな。ちくらんし、解決策を持って
  いると。そんなときは、素直に嬉しかったなぁ』―。



 では、野球部員にとってはどうなのか、と言えば、
 やはり監督は鬼の阪口。

 それが大きな武器となり威力を発揮するのは、
 高校3年間を終えたまさにその時からである。

 就職試験の面接で、東邦を卒業、鬼の阪口のしごきを
 受けたと言えば相手も納得。
 学生時代に何をしてきたかと聞かれたら、
 監督はこう答えるように教えている。


 “男の修行をしてきました!”―。

 『そう言うと面接官がみんな大笑いするって。
  学生時代に耐えることを学んだ子供は社会に出ても強い。
  会社はそういう人材を求めているはずだから』―。


 今年12月に指導者生活40周年記念の祝賀会が
 今や相当数の教え子が全国に散らばり、さまざまな世界で
 活躍している。親子二代にわたって阪口監督の指導を
 受けた教え子もいて、そんな人々が、新たな挑戦に
 踏み切った現在の阪口監督を、陰日なたとなって
 支えている。
 

 『大垣に来て、毎晩僕の体のマッサージしてくれるヤツが
  います。夜中12時まで、汗だくになって。
  他にも何かと気遣いをしてくれる教え子がたくさんいて、
  みんなが自分の生き様を理解してくれているのかなと、
  改めて思う。こうなると教え子を通り越し、
  仲間だね』―。


 人生、人との出会いで全てが変わると思っている。
 大垣日大に来て特に感じているのは、
 新たな素晴らしい出会いに恵まれたこと。

 『だから自分も成長できる』と言い、その一方で
 長く師と仰ぐ人の言葉も忘れていない。
 阪口監督が今も心の奥深くに刻んでいるのは、
東邦高1年時の担任で、平成元年優勝の時の
部長、故・和田悟先生の言葉。


 小柄ながら目に力があり、一番前の席に座って茶目っ気
 たっぷり、クラスの人気者だった阪口少年を和田先生は
 ことのほか可愛がった。

 “阪口は私の趣味”と他の先生に公言したほどで、
 理由は野球のグラウンドに来れば分かると
 ハッキリ言ったという。その和田先生が指導25周年の
 折に寄せてくれた文面を結ぶ言葉は
 
“心をもらえ、心ある人間たれと説く君の指導方針で
  立派な球児、人間作りをしてくれたまえ。
  私はそれを期待し、確信している―”。


 『今も思い出すとポロっと涙が出る時がある。
  この文章にたがわない生き方をせねば。異なる生き方を
  したらいかん、というのが、常に自分の心にあります』―。

                       (続く) 


 
 
 
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コメント
この記事へのコメント
ありがとう
まず。お礼です、ありがとうございます。

和田先生の事を調べていてこのブログを
拝見しました。和田先生と坂口監督との関係は今初めて知りました。
和田先生が部長となるとき、きっとご年齢的に無理していたんだろうと思っていましたが
可愛い教え子の坂口監督のため、一肌脱いだのでしょう、眼に浮かびます。

一つだけ。。。東邦高校は当時、進学校ではないです(笑)共学になってから普通の
レベルでしたが。
いい選手を獲得できないのは、部費が少なかったのと(優勝当時は50万円より高かったですが)
プロ野球造成高校ではなかったからではないかと
個人的に思っています。

どうもありがとうございます。

東邦高校卒業生より。
2012/09/01(Sat) 21:38 | URL  | ゆみこ #-[ 編集]
ゆみこさん、初めまして。

この記事、私も読み直して
改めて思うところがありました。

指導者以前に人として
選手らやOBの子たちと接する姿に
頬が緩みます。
人間的な温もりのあるエピソードですよね。


私のブログも2006年12月からスタートして、
この所、息子の方で何かと慌しく、
パソコンを開く時間もかなり減りましたが、
時々、心に残る記事や
皆さんに伝えたい記事を通して、
勉強していきたいと思っております。

このブログを初めに掲げた目標(甲子園出場)は
達成したので、
次は、息子(高1)がレギュラーになり
(今回は一軍帯同でしたが)
甲子園で活躍してくれることを願いたいものです。

末永く宜しくお願い致します。

(コメントを贈ることが遅くなり、
 大変失礼いたしました)
2012/09/17(Mon) 08:26 | URL  | kuni28 #-[ 編集]
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