日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
努力こそボクのスタイル
2007年06月19日 (火) | 編集 |
 今日は、サンケイスポーツ(6/19)裏一面に掲載してある
 『泣いてたまるか!』
 ~今だから話そう、あの時、あの瞬間~
 より。
 パイレーツ・桑田真澄投手について書き綴ってあります。
 
 大リーグ史上7番目の高齢となる39歳70日で
 メジャー初登板を果たした。
 愛する巨人で投げられなくなった時、
 新たな目標にしたのが、

 “20歳の頃の忘れ物”といえる大リーグ挑戦。
 年齢、小さな体のハンディ、大幅な収入源、さらには
 オープン戦での右足ねんざを乗り越えた桑田の哲学とは―。
  
          (田代学、広岡浩二通信員)

~大幅な減収~  
 大半の野球関係者やファンは
 『メジャー昇格は絶対無理』とせせら笑っていた。
 投手としての桑田は終わっている、と。
 大リーグ挑戦も『コーチ留学』と陰口を叩かれ
 『引退して巨人に残る方が利口だ』と助言してくる人もいた。
  

 『ボクはね、ここまで叩かれて、叩かれてきた。
  誰に何を言われても気にしない。
  
  目標に向かって努力するのがボクのスタイルですから。
  努力する姿勢が好きなんです。
  
  だからメジャーに上がったら偉いとか、マイナーのまま
  だったらダメだというのはない。
  
  大事なのはプロセスなんです』―。  

 大好きな巨人のユニホームを着られなくなって、
 20歳の時に抱いた夢を追いかける決意を固めた。
  
 助っ人として来日したビル・ガリクソンに出会い、大リーグに
 憧れたのは巨人3年目の88年。
 前年に最優秀防御率のタイトルを手に入れ、この年の
 開幕投手に指名されるなど、飛ぶ鳥を落とす勢いだった
 桑田は、全ての面でどん欲に上を目指していた。
  

 全盛期には何度も球団幹部に大リーグ移籍を訴えたものの
 全て却下。近年は『もう無理だと思っていた』というが、
 巨人を自由契約になったことで大リーグ挑戦の機会が
 巡ってきた。
  
 20年前の“忘れ物”を探しに行く千載一遇のチャンス。
 オリックスを指導していた当時に桑田の投球を見ていた
 ジム・コルボーン投手コーチの橋渡しでパ軍入りを決めた。
  


~ハンディ克服~  
 夢の扉は開かれたが収入は激減した。
 メジャーに昇格できれば年俸65万ドル(約7670千万)
 になるが、マイナーのままなら年俸5万ドル(約590万円)
 最高時は3億円以上、昨季でさえ1億5千万円だった桑田の
 年俸は、巨人入団時の年俸(480万円)まで急落した。
    
 それでも家族の理解を得て単身渡米。
 全盛時ならありえず、20年前の夢を追いかけて
 いるからこそできた選択だった。
  

 『確かに地位やお金は大事。ボクも、お金では苦労してきた。
 だけど、お金じゃ買えない、手に入れられないものがある。
  野球は今しかできないからね。
  ボクは、まだ投げたかったし、投げられる自信もあった。
  そのチャンスを与えてもらったんだから、
  お金の問題ではなかった』―。
  

 予想された通りメジャー昇格の道は平坦ではなかった。
 投手陣では最も小柄(1㍍76㌢)で、断トツの最年長。
 速球はMAXでも140㌔に届かなかったが、桑田自身は
 口ほど身体的なハンディを気にしていなかった。
 清原(オリックス)に出合ったPL学園入学時や、内野手に
 転向した方がいいと言われた巨人入団時にも
 同じようなことを克服してきたからだ。
  

 『体全体だけでなく、頭の中も使えば何とか勝負できる。
  命綱であるカーブにも使えるメドが立った。
  コントロールとスピードの変化(緩急)に
  自分の経験を加えた投球をしていきたい。
  すごいことはできないが、小さなことを心を込めてね』―。
  


~驚異の回復で~  
 そんな自信をつかんだ矢先、アクシデントに襲われた。
 開幕1週間前のオープン戦でベースカバーに走った際、
 球審と激突。 日本から観戦に訪れた家族の目の前で
 右足首に重度のねんざを負った。
 この日好投すれば開幕メジャー昇格が当確となって
 いただけに精神的なダメージは倍増した。
  

 『倒れた瞬間は右足首に全く力が入らなくて、さすがに
  “これだ終わるのか”と思った。
  手術したら今季は投げられないからね。
  でも検査の結果、メスを入れなくて済んだ。それからは
     
 「野球の神様が“またメジャーに上がるのは早い」と
  止めてくれたんだ”と思えるようになった』―。
  

 診断を1ヶ月も上回る驚異的な回復振りでリハビリを
 終えた桑田に
野球の神様”は最高のデビューの舞台を
 用意してくれた。
  
 伝統のヤンキースタジアムで10日に行われた
 ヤンキース戦。
 (日本時間11日)
 『読売新聞』の広告が入ったフェンスが開き、左中間奥の
 ブルペンから登場した背番号18は、巨人時代の後輩
 松井秀喜とも対戦した。
  

 『夢を実現するチャンスを頂いたことに改めて感謝している。
  自分自身も、よく頑張ってきたと思う。
  また次の目標に向かって努力したい』―。
  

 20歳の頃のような投球はできなくても、
 当時夢見た大リーガーにはなれた。
 本拠地・ピッツバーグでの初登板も終えた桑田は、
 憧れていた米国での第2の投手人生を満喫している。 
   


 『努力こそボクのスタイル』―。
 この努力の証が『背番号18』全てに込められていると
 思います。
 『背番号18』が告げられたのは、ニューヨークへ向かう
 乗り替え途中の空港でのこと。
 その時、涙を流して喜んでいた桑田の姿を、
 スポーツ番組独占で放映していて見ていました。
 私も涙が止まりませんでした。
 どんな思いでここまで辿り着いたか―。
 その苦難をこのブログでも度々紹介してきて
 ブログを書いてきて良かったな、と思っています。
 ブログを始めてから、さまざまなプロ野球選手を追い求め、
 今までとは違った角度で見て聞いて感じて・・・。
 そして、桑田選手の人生の岐路に書けたことに
 感謝し感激しています。
 野球の奥深さを、まざまざと思い知らされ、益々野球好きに
 させられました。
 
 “桑田真澄”から学ぶものは たくさんあります。
 『感謝する心』『謙虚な心』『努力した証』―。
 子供達に夢や希望、勇気を与えてくれている桑田選手に
 益々の活躍を期待したいですし、
 書き綴らせてもらいます。
 応援しましょう! 桑田真澄を!
 
 
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック