日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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不器用さが生んだ剛速球 ~澤村拓一~
2011年04月19日 (火) | 編集 |
                高川武将=文

頑固なまでのストレートへの拘り。
自らに課し続けた過剰な負荷。
巨人軍への熱き憧憬。
あまりに真っ直ぐな23歳の若武者はいかにして生まれたのか。
2人の恩師、良き好敵手、そして本人の言葉から実像に
迫った。


澤村はグラウンドでは滅多に笑わない。
いつもニコニコしている同僚の坂本勇人や、
斎藤佑樹(日本ハム)とは対照的だ。
直後に行なわれたインタビュー。
開幕先発ローテーション入りを確実にしたルーキーは、
無愛想にも見える真面目な顔で、のっけから過激な言葉を吐いた。

「先発ピッチャーである以上、
 その日の調子の良し悪しに左右されることはないですね。
 その場、その場で勝負するしかない。
 勝負事は、勝つか負けるか。
 極端な話、やるかやられるかの世界なわけじゃないですか」

 殺るか、殺られるか。

かつて、プロ野球選手から聞いたことがあっただろうか……。

「逃げ道を作りたくないんです。
 1点くらい取られてもいいとか、
 自分に都合のいい言い訳を作ってマウンドに上がりたくない。
 本当に一人ひとり、打ち取ることしか考えていません。
 技術云々よりも、まずは気持ちで負けちゃいけない。
 向かっていきたいですね」

こちらの目を真っ直ぐ見つめ、端然と話す姿は、
果し合いに赴く野武士のようだった。

~スピードスケートか競輪の選手と見まがうほどの尻と太腿~

日本球界に久しぶりに現れた剛球投手である。
大学生最速の157kmをマークしたのは、
昨年春の東都大学リーグ戦でのことだ。
高速スライダーやツーシームが全盛となり、
手元の微妙な変化球で勝負する投手が大半を占めるようになった時代に、
ズドンという重みのあるストレートは異質とさえいえる。

東京ドーム初見参となった3月2日の西武戦では、
投球練習の1球目で球場全体がどよめいた。
投球内容は意外にも繊細で、丁寧に制球した変化球を効果的に交えて、
4回を無失点。
だが圧巻は、やはりストレートだった。
勝負を挑んだ中島裕之の第1打席、
全球ストレートで0-3から見逃し三振に切って取ったのだ。
見ている者の心をときめかせる、そんな威力と魅力がある。

スケールの大きさと野武士のような佇まい。
澤村はどこか、時代と逆行して生きてきたように見える。

西武戦後のベンチ裏通路。
流行のストリートファッションに身を包んだスマートな選手が多い中、
澤村だけ、何かが違った。
彼とて、ジーンズを穿いてはいるのだが……
脚が太すぎるのだ。
ウェイトトレーニングで鍛え上げた、
はち切れんばかりの尻と太腿は、スピードスケートか、
競輪の選手と見まがうほどだ。
スクワットでは240kgの重量を10回も持ち挙げる。
巨人投手陣の最高重量が140kgだから、いかに並外れているかがわかる。

なぜ、彼は、過剰なまでに肉体を鍛え上げねばならなかったのか。
ユニホームに隠されていたこの太い脚こそ、
高校ではエース失格の烙印を押された澤村が、
即戦力で巨人に1位指名されるまでになった足跡を
如実に物語っているはずだ。

~人一倍練習に励んだが、大成しなかった高校時代~

ドラフト会議後の昨年12月、母校、
栃木県の佐野日大高へ挨拶に来た澤村の腰回りを見て、
松本弘司監督は驚嘆したという。

「尻がでかくなったなぁ……」

教え子の成長した姿を見ようと、
神宮球場まで観戦に出かけた4年春のリーグ戦で会ったときより、
さらに大きくなっていた。

「よっぽどトレーニングを積んでいるんだなと感心しましたね。
 高校のときは線が細かった。
 体格も投げるボールも、大学4年間で本当に変わりました。
 全くの別人ですよ」

今や、184cm、90kgの体格を誇る澤村だが、高校入学当時は、
身長は今と変わらないものの、体重は73kgと細身だった。
それでも、右の本格派で、既に遠投120mを誇る地肩の強さがあり、
「この子が成長したら甲子園で勝てる」と松本は思った。

澤村は人一倍練習好きだった。
全体練習だけでは物足りず、夜な夜な、周囲の山中を一人で走っていた。
だが、体は思うように出来ず、本格派投手として大成はしなかった。
3年春の県大会こそエースナンバーを背負ったが、
最後の夏は技巧派の投手に奪われ、澤村は3番手、4番手に落ちた。
チームは準優勝したが、登板すらなかった。

~練習ではカーブも投げたが、試合ではストレート一本やり~

原因はストレートへの頑ななまでの拘りにあった。
当時の澤村の球速は最高で138km。
高校生では速い部類だが、さすがにそれだけでは抑えられない。
ただ、カーブの一つも投げれば、十分、通用する。
「もう少し変化球を混ぜろ」と松本は何度も諭した。
練習ではカーブも投げるのだが、試合になるとストレートを投げまくる。
結局は、大事な場面で高めに浮いた棒球を痛打される。
そんなことが何回もあった、と松本は振り返る。

「もう、真っ直ぐばっかし、投げてました。
 もし私がベンチから変化球のサインを出しても、
 首を横に振っていたでしょう」

ただ、澤村が反抗していた、というわけではないようだ。
松本が怒っても、ふて腐れるような態度を見せたことがない。
きちんと話は聞くのだが、なぜか、試合になるとストレート一本やりになる。

「140kmを出したいと個人練習も頑張っていた。
 頑固ですね……でも、今思えば、
 ストレートに拘ってやり抜く意志の強さが今に繋がった。
 自分でやると言ったら必ずやる。
 今どき珍しい、男気のある子なんです」

~セレクションで「運よく拾われ」東都二部の中大へ~

松本の脳裏に焼きついているのは、3年の夏が終わり、
野球漬けの日々からの解放感で遊びに走る選手たちの中、
澤村だけが黙々と練習を続ける姿だった。
先輩の会田有志(中大―巨人)の薦めで受けた
中大のセレクションに合格した澤村は、毎日、走り、投げ、
ウェイトトレーニングにも取り組み始めた。

「もう一回、大学で勝負するという気持ちだったんでしょう。
 大学に入ってからも、オフになると必ずここに来て練習してましたね。
 遠投が好きでねぇ。
 ボンボンボンボン……低い弾道でビューンと行くから、皆、たまげてましたね」

学校の広大なグラウンドを見やると、つくづくといった感で呟くように言った。

「いやぁ、本当に凄い。何であんなに変わっちゃったんだろう……」

高3の夏、中大のセレクションで、まだ細身だった澤村は1球だけ、
141kmをマークした。
当時、コーチだった高橋善正監督は
「特に見るべきものはなかった」という。

当時の中大は東都の二部。
高校の一流どころは集まりにくかった。

早い話、運よく拾われたのだ。

1年春からマウンドに上がった澤村だったが、
ストレートへの拘りは全く変わらず、
真っ直ぐ一本やりの投球だった。

「下級生の頃はそれでもいいんだよ。
 だって、ピッチャーとして認めてないから。
 バッターにしようかと思っていたくらいだからね」


~「お前はピッチャーじゃない、単なる『投げ屋』だ!」~

一部昇格した2年秋、
澤村の球速は150kmを超えるようになった。
その頃から、高橋は澤村に容赦ない罵声を浴びせるようになる。

「お前はピッチャーじゃない。単なる『投げ屋』だ!」

かつて中大で35勝を挙げ、
1967年にドラフト1位で東映(現・日本ハム)に入団。
右サイドハンドからの絶妙なコントロールを武器に、
'71年に完全試合を達成するなど活躍し、
数球団で投手コーチを歴任した高橋にとって、
澤村はおよそピッチャーではなかった。

「ただ、強い球、速い球を投げたいだけの投手。
 ピッチャーとして丸っきり評価していなかった。
 肝心なところで抜けたボールを投げて一発を浴びる。
 チームを勝たせる投手じゃない。
 コントロールと変化球を磨けと、口うるさく言ってきた。
 プロに行ける球の力はあった。
 でも、プロに行きたいなら、
 入団1年目から10勝できるピッチャーじゃなきゃ意味がない。
 投げ屋じゃ勝たせてくれないんだ」

高橋が説き続けたのは、
ピッチングとは何たるものかという当たり前の理屈だった。
スピードガンと勝負しても自己満足にしか過ぎない。
打者を打ち取るのがピッチャーだ、と。

真剣に耳を傾ける澤村だったが、高校時代同様、
その投球内容は、全く変わらなかった。
真っ直ぐで押しては打たれ、
降板するとベンチ裏で一人、泣いていた。

~ウェイトトレーニングがより過剰になっていく……~


「ブルペンで隣で投げていると、
最初はカーブやスライダーを投げるんですけど、2、3球投げたら、
あとは真っ直ぐばかり。
変化球も投げればもっと楽に抑えられるのに、
なぜやらないんだろうと、不思議でしたね」

同級生で主戦投手の一人だった山崎雄飛(東京ガス)は、
いまだに首をかしげるのだ。

3年春は3勝3敗、秋は4勝4敗。
打線が弱かったこともあるが、
その頃までの澤村は単なる「投げ屋」だった。

入学時から続けてきたウェイトトレーニングが、
より過剰になってきたのもこの頃からだ。
週3回、約2時間。
チーム全体のトレーニングを終え、仲間に食事に誘われても
「俺はウェイトやっていくから」と、一人、居残って鍛え続けた。
負荷重量は日に日に上がっていった。

「ピッチングと呼べる投球をしたのは、あの試合だけだね」

中大のウェイト場は、球場の一塁側ベンチ裏にあり、
狭く、昼間でも薄暗い。
登板予定の無い試合中に、「ウリャー!」という澤村の叫声が
グラウンドに響き、
監督に「声を出すな」と窘(たしな)められたこともある。
試合があろうと無かろうと、
澤村は歯を食いしばって重いバーベルを持ち挙げ続けていた。

ようやく、高橋も認めるピッチングをしたのは、
4年秋になってからだ。
亜細亜大戦で延長10回を3安打16奪三振で完封、
1-0の勝利をもたらした。
ストレートと変化球の割合は半々で、球速も150kmをマークした。

「ピッチングと呼べる投球をしたのは、あの試合だけだね。
4年春までは、完封しても無駄な四球が多くて、
俺に怒鳴られ続けていたんだから。
秋になって、俺の言うことも必要だとわかってきたんじゃないかな」

 そこまで言うと、高橋は「結局は……」と言葉を継いだ。

       ◇       ◇       ◇

なぜ、澤村は愚直なまでにストレートに固執し続けたのか。
そして、なぜ、ヤンキースからのオファーを断り、
日本球界を選んだのか――。

つづきは、雑誌「Number」776号、
もしくはNumberモバイルでお読みください。

~Sports Graphic Number 776~   定価:550円(税込)
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【密着ドキュメント】 東北楽天不屈の挑戦
【東北の希望の星】 田中将大 「白球に想いを込めて」
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ぶれない野球でチームを支える。ペナントの行方を決める「ベテラン力」
2011年04月06日 (水) | 編集 |
                     田口元義 = 文


彼らは多くの苦難を味わい、その都度、
煩悶しながらも自ら答えを導き出し、結果を残してきた経験がある。

だからこそ、いかなる状況であろうとも泰然自若の精神を貫き、
ゲームでは安定した力を発揮することができる。

 これが、ベテラン選手の共通項だ。

今年、満40歳以上の選手は12球団中8球団で14名。
30代後半も含めれば、全球団にベテラン選手がいることになる。
日程が進むにつれ苛烈さが増すペナントレースにおいて
最終的にチームを救うのは、昨シーズンでいえば、
リーグを制した中日の山本昌やロッテの井口資仁、今岡誠のように、
戦い方を熟知しているベテラン選手であるケースが目立つ。
今シーズンも、おそらくそのような展開になる可能性は高い。

~4番を任された山崎武司の揺るぎない「ベテラン力」~

なかでも、最も「ベテラン力」が試されるのは楽天の山崎武司だ。
12球団で唯一、監督が代わり、
しかもそれが闘将・星野仙一となればチームはガラリと変わる可能性がある。

だが山崎は、「だからといって自分を変えてはいけない」と、
キャンプ前からその姿勢は一貫している。

「星野監督になってチームがより戦う集団になることは非常にいいことです。
 でも、トップが代わったからといって自分の野球観、
 今までやってきたことがブレてはいけないと思うんですよ。
 確かに、人や環境が変わったことで、
 自分をよく見せようとうわべだけの理想は誰だってあるだろうけど、
 現実はそんなに甘くはない。
 最終的に勝つのは、
 どんな状況でも日頃から小さなことをコツコツと努力できる人間だと
 僕は思っています」

中日時代から山崎を知り尽くしている星野は、
チーム内の競争を表面化させる一方で、早々と4番に任命した。
打線の幹を安定させれば、
枝をいかようにアレンジしようとも倒れることはない。
そんな思惑が窺える楽天は、昨年の最下位から一気に頂点を狙う。

~田口壮は言葉ではなく、身をもってチームをまとめる~


昨年5位のオリックスも、ベテランがポイントと言えるかもしれない。

岡田彰布監督にして「ベンチにおるだけでも違う」
と言わしめた田口壮は、打撃コーチの正田耕三いわく、
言葉ではなく行動で引っ張るタイプだ。

「率先して練習してくれるし、ゲームでも攻守交代を含めて
 常に全力疾走している。
 コーチが言葉で教えきれないことを、
 彼は身をもって若い選手に伝えてくれている。
 存在自体が戦力というのは間違いないでしょう」

特にオリックスは、外国人選手をはじめ大型補強を行っただけに、
チームの結束力低下が懸念される。
そのため、昨シーズンは代打が中心だった田口も、
様々な役割を与えられることだろう。

~ベテランの力を結集してリーグ連覇を狙う中日~

ベテランの力でチームの浮上を期するのがパ・リーグであれば、
セ・リーグはその力で上位を死守すると言ったところか。

昨年の中日は、まさにベテランの力でリーグを制したチームだった。
扇の要である谷繁元信や4番の和田一浩、守護神・岩瀬仁紀はもとより、
8月に左肩痛から復帰し、
わずか2カ月足らずで5勝を挙げた山本昌の存在は大きかった。

この4人に加え、昨年、横浜から戦力外を受けた佐伯貴弘が
入団したことも中日にとっては大きなプラスとなりそうだ。
横浜時代、低迷するチームに活を入れ続けた男は、
45歳までプレーした指揮官の落合博満から、
「もっと本能で打て」といったベテラン力を注入されただけに期待が持てる。

その中日に昨年、逆転優勝を許し2位に終わった阪神もベテラン勢が多く、
今シーズンはその活躍如何で順位が左右されそうだ。

 そうなると、キーマンはやはり金本知憲になる。

~記録から解放された金本知憲はケガを克服できるか?~

昨年に右肩を故障し、
現時点でも数十メートルのキャッチボールや外野ノックを受けているが
完治までには至っていない。
しかし、「監督から怪我を気にされるような選手ではいたくない」と
自分の体に対しては強い矜持を示す男である。
記録から解放された今、焦る必要などない。
幾多の怪我を克服してきた鉄人・金本であれば、
ゲームに出る以上、最高のパフォーマンスを見せてくれるに違いない。

プロ野球の開幕を間近に控えて起きた未曽有の大震災。
多くの選手が被災者を慮り、
「こんなときに野球をしていいものか」と複雑な心境を漏らしているし、
実際問題、オープン戦の自粛などから各チームの調整不足は否めない。

そんななか、12球団で最も震災の影響を受けた楽天のベテラン・山崎は、
「自分たちにできることは野球しかない」と言った。

 山崎だけではなく、ベテランたちはきっと理解している。

 状況が変わろうとも自分たちの野球は変わらない、ということを。

「勇気」ではなく「義援金」を!球界が果たすべき、本当の復興支援
2011年04月05日 (火) | 編集 |
                   鷲田康 = 文


東北地方を中心に東日本を襲った大地震と大津波の被害は、
刻一刻と深刻になっている。
被災地ではまだ死者、行方不明者が増え続け、
何とか一命を取り留めた人々も、
極寒の中で物資不足に苦しみながらの避難生活を強いられている。

その中でプロ野球界は開幕問題を巡って、
すったもんだの論争を繰り広げた。

仙台を本拠地とする楽天を抱えるパ・リーグは
早々に開幕延期を決めたが、
セ・リーグはそうはいかなかった。

「(復興のために)あらゆる努力をする。
 その努力の源泉は明るい活力。
 明るい活力をもって国民大衆に示すことができるのはプロの選手たち。
 選手が全力でフェアプレーで緊張した試合をし、
 観衆が元気を持ってくれれば生産性が上がるんです」

3月16日に行われた巨人の激励会では、
読売グループの総帥でもある渡辺恒雄球団会長がこう主張。


そんな様子を見ていて思い出した言葉がある。

「被災直後はあまりの被害の甚大さに何もできず、無力感に襲われた」

1995年。関西地区を襲った阪神淡路大震災を振り返った
故・仰木彬さんの言葉だ。


~「がんばろう神戸!」を合言葉に初のリーグ優勝へ~

仰木さんはこの年、
被災地の神戸を本拠にしたオリックス・ブルーウェーブの監督だった。
そして1月の震災から2カ月余経った開幕で
「がんばろう神戸!」を合言葉にチームを率いて、
オリックスとしては初となるリーグ優勝へと導いた。

だが、その仰木さんですら、被災直後には、あまりの被害の大きさから、
野球どころではない、と絶望感にさいなまれていたというのだ。

野球が本当に人々の力となれたのは、被災から数カ月経った後だった。
人々が復興への道を歩きだしたとき、
初めてスポーツは元気や勇気のシンボルとなる。
そうして初めて「がんばろう神戸!」という掛け声とともに、
オリックス・ブルーウェーブという野球チームも
復興の象徴としての役割を担えたというのだ。


~「野球で勇気づけられるというのは思い上がりだと思う」~


「復興が見えた時に野球で勇気づけることはいいと思うが、
 いま、野球で勇気づけられるというのは、思い上がりだと思う」

 ヤクルトの宮本慎也内野手はこんなことを言っている。

いまは野球を見せることで、
被災地の人々を勇気づけるなどというレベルの問題ではない。
宮本の言うことは、まさにその通りのことだった。

それでは球界を含めて、我々、被災を免れた人間は何ができるのだろうか?

それはまず、普通に自分の仕事を粛々とやること、働くことしかない。

プロ野球選手はやはり野球をする以外にはないのだ。

そうすることで経済を動かし、支援する物資と資金を作り出していく。
祈りや勇気という言葉ではなく、
今はお金と物をどれだけ被災地に送れるか。
それが被災を免れた私たちが、まずできることであると思う。

「経済活動を停止したら日本社会は沈没するだけ。
 何でもかんでも自粛すればいいというものじゃない」

 これは3・25開幕を主張した巨人・清武英利球団代表の発言だ。


~プロ野球界ができることは「野球」での支援しかない~

野球をやれば、そこに人が集まり、
そこで募金ができ収益をチャリティーに充てられる。
現実問題として地震直後の3月15日に行われた
巨人と阪神のオープン戦ではその収益金と100万円余りの義援金などを含めて
3000万円が被災地に送られることになった。
それはいま野球界ができる、数少ない被災地への支援活動ということなのだ。

これから先の復興という観点で考えれば、この清武代表の発言にも一理ある。
ただ、そうした活動と現実的な危機の兼ね合いをどう考えるか。
そこが今回の一番の問題だった。

電力不足の首都圏でナイターによる開催には、
圧倒的な人が違和感を持つはずだ。

地震による影響と福島の原子力発電所の事故等で計画停電が実施され、
交通機関の運行にも支障をきたしている。
関東各地では停電で暗い夜を過ごしている人々も大勢いる。
混乱こそあれ、経済を動かすという意味でも、
この強行開催にどれほどの効果があるのかも疑問が残るだけだった。


~「勇気を与える」というおためごかしでなく義援金を!~


 ならば……あえて思う。

球界は「勇気を与える」などというおためごかしではなく、
本当に復興支援のために徹底したお金集めに取り組んでほしい。

例えば今季は公式戦の入場料を一律100円アップして、
それをチャリティーにしてはどうだろうか。
もちろんファンだけではなく、
球団も入場料収入から一人について50円分を復興資金にチャリティーする。

ファンは球場に行くことが復興支援につながり、
球団と選手も一人でも多くのファンを集めることが
被災地への具体的な援助へとつながる。
昨年は12球団の観客動員は合わせて2214万1003人。
単純計算で33億円余りの資金が集まることになるはずだ。

実質的に何をしてくれるのか。
被災地が待ち望んでいるのは、明るい活力ではなく、
やっぱり食べ物であり、ガソリンであり、
復興に向かったときの住むべき家であるはずだ。

 それを支援する。

球界としてやらねばならないことは、まずそういうことであるはずだ。