日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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オレ流長時間練習は“農耕的”収穫目指すもの
2011年02月26日 (土) | 編集 |
2月12日サンケイスポーツ『’11 ノムラの考え』より

キャンプ特別編として、中日・落合監督(57)と
約1時間半にわたって『監督とは』『キャンプとは』をテーマに
激論を戦わせた。
両者はミーティング重視の野村流、長時間練習の落合流という
好対照な“キャンプ哲学”を持つ。
落合監督の『ノムさんの野球は、狩猟民族の考え』という
奇抜なオレ流理論を『ノムラの考え』で解き明かす。

~あえて古い野球~

北谷には、雨まじりの冷たい風が吹き抜けていた。
その中で、中日の選手は朝9時から夜まで練習している。
12球団で一番多く練習をさせる理由はなぜなのか?
そこに『落合博満は名監督か』という問いに答えるヒントが
隠されている気がした。

落合 『へたっぴは練習するしかない。
    この時間の長さが普通なんだと思う。
    オレは古い野球を現在の野球界に伝える、
    取り入れることが必要だと思っていた。
    練習のやり方を知らない子に、教えてやらないのは、
    指導者の怠慢ですよ。
    オレは実は、ノムさんにもキャンプの練習が短くなった
    責任の半分はあると思いますよ』

信じられない言葉が返ってきた。
落合は、独特の言い回しで、その理由を説明した。

落合 『ノムさんの野球は“狩猟民族”の考え方だと思う。
    組織立って、頭で戦略を考えるでしょう?
    相手を誘い込んで、ここへ投げざるをえない、
    取り込んで打ち崩していく。
    だから配球とかを重視する。
    そのためにミーティングをやるんでしょう?』

他球団の練習時間が減ったことまで、私の影響とは思えない。
だが、私はキャンプで、練習にかけるものと同じ位の熱意を
ミーティングに費やしてきた。
夜間練習の代わりにミーティングをと考えたのも事実だ。
キャンプは選手がまったく白紙の気持ちで、
純粋な向上心と吸収力を保っている期間だ。
だからミーティングで人生論や野球論を語ってきた。
根本には、『技術だけでは勝てない』という信念がある。
『無形の力』で技術を補うべきだと考えてきたからだ。

落合 『実は11球団のキャンプにスコアラーを
    派遣しているんですけど、
    毎日、他球団の練習内容を報告書にして送ってくる。
    それを見て、“こんな練習量でいいのか?”と思う。
    弱いチームは特に』

私が“狩猟民族”なら落合は“農耕民族”なのか。
農耕とは、土壌の改善、品種の改良によって収穫量アップを
図るものだ。

落合 『監督8年目だけど、残っている選手は15人ほど。
    70人以上ユニホームを脱がせてきた。
    コーチも20人は入れ替えている。
    それでも一部のベテラン、中心選手は
    “コーチに言われたくないよ”というのもいる。
    その時はオレしかいない。
    オレの数字を抜いてみろ、その後で能書き垂れてみろ、と』

ベテラン井端は、若手の堂上直らにあおられて
泥まみれになっている。
練習段階でケガに負けない体力と技術を身に付けさせて、
生き残った選手にチャンスを与える。
もともと中日には戦力がある。
だから『無形の力』で戦力の隙間を補うのではなく、
目に見える実力と言う『有形の力』を徹底強化する。
これがオレ流の正体―。
コーチの指導力という土壌、選手の品種改良に徹する。
そのために必要なのが、練習時間の長さなのだろう。

環境に応じて、監督の哲学、信念も変化する。
落合のアプローチは私と異なるが、理解できる。
『常勝チーム』ができないのは戦力均衡だけでなく、
監督が2年、3年周期で入れ替わることも原因だと思う。
落合に8年間任せた球団の理解も大したものだ。

落合 『今年はオレが何も言わなくても、選手が勝手に競争を
    している。
    それが一番いい。
    だから手応えがある』

ここまで言われると、やはり今季も中日が優勝候補の筆頭と
言わざるをえない。
落合は8年かけて『長い練習による競争』というスタイルを確立し、
常勝に近いチームを築いた。
そこには『有形の力』の徹底強化という信念がある。
そのブレない信念こそ、名監督の条件である。

        サンケイスポーツ専属評論家 野村克也氏

~野村克也と落合博満~
もともと三冠王同士で、打撃理論を戦わせてきた。
落合氏が巨人を自由契約となり日本ハムへ移籍した1996年オフは、
当時ヤクルト監督の野村氏が獲得に乗り出した経緯もある。
監督として対戦した2006年以降、交流戦で落合監督が
『ベンチに座ってばかりじゃ不健康』と
野村監督を打撃ゲージ裏に呼び出し、
野球談議に花を咲かせるのが恒例になった。

 

 
     
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ファンとのつながり求め
2011年02月22日 (火) | 編集 |
『ラミちゃん』の愛称で知られるアレックス・ラミレス選手といえば、
巨人の不動の4番打者。
独自のパフォーマーンスでも異彩を放つ。
ホームランを放ってベンチに戻ってくると、
マスコットのジャビットと軽妙な動きを披露し、
観客を沸かせる。

2月11日読売新聞宮崎版は、
『ラミレス選手 日本文化体験』と、
宮崎キャンプの練習の合間を縫って、地元の宮崎学園の
中高生と書やいけばなを楽しむ様子を紹介している。
ラミレス選手は、生徒らの手ほどきで、
毛筆で『寿』という字を書き上げ、
菜の花を剣山に挿してみせた。
この体験も早速、新たなパフォーマンスの検討テーマになった。
巨人軍のファンサービスを担当する貴島勝司さん(45)はこの日、
車を運転してラミレス選手を学校へ送り迎えした。
その車中で2人は、
『書道や華道の動きを取り入れるのは?』
『地味な動作をどう工夫する?』と、
様々なアイデアの話題で盛り上がったという。
『ラミちゃんにとっては野球と同じくらい大切なことなんです』
と貴島さんは言う。

実際、振り付けが決まるまでは手間暇がかかっている。
お笑い番組のDVDを取り寄せ、人目を引く動きを研究する。
ホームページに寄せられたファンの声にも目を通し、
どんなネタが好まれているのか分析。
シーズン直前には早々と球場入りし、ジャビットと何度もリハーサルを
繰り返す。

なぜ、そこまでこだわるのか。
本人に尋ねると、
『自分自身が楽しい性格だと思っている。
 その楽しさをファンやチームメートと共有したい、
 という思いがパフォーマンスには詰まっている』―。

折りしもキャンプ宮崎は、新燃岳の噴火や鳥インフルエンザに
苦しんでいる。
日々のプレーやパフォーマンスを通じて、
『宮崎の人たちを少しでも元気づけたい』と真剣そのものだ。

相談相手の貴島さんはこうも言う。
『言葉の通じない異国の地。
 ラミちゃんは自分のアクションにお客様が喜ぶとで、
「自分はファンと本当につながっている」と実感することが出来る。
 だからあんなに一生懸命なんだ』―。

キャンプ後半は那覇へ移る。
地元の『エイサー』も学びたいらしい。
ラミちゃんのこだわりは、とどまるところを知らないようだ。

           読売新聞 2月19日付け『NWSなおにぎり』より
                  社会部デスク 岡部氏
夜の公園で母と練習
2011年02月15日 (火) | 編集 |
   読売新聞(1月13日付け)~拓く 沢村の挑戦 (中)~


大学時代の猛練習で剛腕投手へと飛躍した沢村だったが、
野球への直向きな姿勢は、幼い頃から
何一つ変わっていなかった。
母・和子(54)は、
『自分が決めたことに対しては、絶対に譲らなかった』と、
懐かしむ。

幼稚園に通っていた当時は、Jリーグ開幕の影響で
空前のサッカーブーム。
沢村もヴェルディ(現東京V)に憧れ、幼稚園の卒園文集に
『プロのサッカー選手になりたい』と
書き込んだほどだ。
そんなサッカー好きが野球にのめりこんだのは、
栃木市の小学校2年生の時。
サッカー仲間が少年野球に入団したことをきっかけに、
『野球をやりたい』と父・伸一(54)に頼んだ。
『水泳・習字など色々な習い事をさせたけど、
 自分からやりたいと言ってきたのは野球が初めて』と和子。
それが図らずも、運命的な出会いになった。

チームで決められた週末の練習だけでは物足りず、
平日は共働きの両親が帰宅するのを待って、
バトミントンのシャトルなどで打撃練習。
夜になっても、近所の公園で母親が懐中電灯で照らした
壁を的に、ボールを投げ続けた。
市内の遠投大会では、小学3年生から4年連続で優勝。
『とにかく投げるのが好き。
 マウンドにいる時が一番、自分らしくいられた』―。
だから、小学校の卒業文集では、
『ドラフト1位でプロ野球選手』と夢を記した。

佐野日大高(栃木)監督の松本弘司(59)には、
今でも忘れられない光景がある。
沢村が2年生になる春、練習試合のため、関西に遠征して
平安高(京都)と対戦したときのことだ。
試合終盤、後に西武に入団する銀仁朗との対戦で
本塁打を打たれ、右腕は泣き崩れた。
繰り返すが、公式戦ではない。
『たかが練習試合で、あそこまで気持ちが入る選手は
 そういない』と松本。
高い志は、言葉にも表れた。
高校卒業式直後、沢村は1年時の担任で、野球部コーチの
永田泰彦(36)に告げた。
『プロに行きます』―。
入学時、初めて交わしたあいさつと、同じセリフだった。

野球以外で目立つことは苦手で、
クラスでは『地味な図書委員を引き受けた』。
普段は遠慮がちな少年だったが、
こと野球になると別人になるらしい。
栃木市内にある実家には、使い古された硬式球が残っている。

小学生の時に沢村が手に入れ、黒のペンでこう書き込んだ。
150㌔を出せるような練習を―。
有言実行を貫く信念で、夢をつかんだ。

最速157㌔ 努力の結晶
2011年02月11日 (金) | 編集 |
読売新聞(1月12日付け)~拓く 沢村の挑戦 (上)~

最速157㌔の速球を誇り、アマチュア球界ナンバー1の評価を受けて
巨人にドラフト1位で入団した沢村拓一投手(22)~中大~。
『人生を自分の力で切り「拓」いてほしい』と両親が名前に込めた通りの
野球人生を歩んできた黄金ルーキーの足跡をたどる。


1月8日から始まった新人合同自主トレでのキャッチボールが、
同僚のため息を誘った。
沢村の投球が糸を引くように伸び、相手のグラブに収まる。
この右腕の魅力は、何と言っても球速150㌔超えの速球だ。
4年前まで、130㌔後半を出すのが精一杯だった。
そう聞かされても、信じられないかもしれない。

剛速球を武器に2度の沢村賞に輝いた、ソフトバンクの
斉藤和巳(33)のような本格派投手に憧れ、
佐野日大高(栃木)ではブルペンで直球ばかりを投げ込んだ。
ただ、遠投120㍍を超える強肩がありながら、
球速は伸びずじまい。
甲子園出場を果たせず、控え投手で最後の夏を終えた。

中大進学が決まったとき、18歳の沢村は考え込んだ。
どうすれば壁を乗り越えられるか、悩んだ末に、
一つの答えを出した。

誰の指示でもなかった。

『上半身の力だけに頼って投げているから、
 球速が出ないんだ。
 下半身を鍛えれば、150㌔だって投げられるはず』―。

全体練習の前後に、バーベルを担ぎ、黙々とスクワット。
『プロの一流選手でさえ、努力している。
 だったら、その倍は練習しないと追いつけない』と、
ひたすら鍛え続けた。
くじけそうなときも、
『自分でやると決めたことは、変えたくない。
 自分に負けることが一番嫌いだから』と歯を食いしばった。
大学4年でやってプロに行けなければ、野球はやめる―。
両親に宣言した大きな決意が、体を突き動かした。
鉄の塊を上げ下げするたび、足腰は分厚い筋肉に
覆われていた。

果たして、沢村の努力は正しかったのか。
結論は昨年5月4日の神宮球場、東都大学リーグの東洋大戦で
証明された。
初回、『157㌔』の速球表示。
『投げられる力が目に見えて変わった。
 努力は無駄ではなかった』―。

今では最高で245㌔のバーベルを担ぎ上げる。
高校時代に75㌔程度だった体重は90㌔を超え、
58㌢だった太ももは65㌢に、ヒップは108㌢に。
成人式で着たスーツは、すぐに着られなくなった。

中大監督の高橋善正(66)は4年前を振り返り、
『特に光るものはなく、目に付いたのは癖のないフォームぐらい。
 もう少しセレクション(新人部員選抜テスト)のレベルが
 高ければ、入学していなかった』と打ち明ける。

ゼロから出発した右腕は、たゆまぬ努力で中大のエース、
大学日本代表、そしてドラフトの目玉へと駆け上がった。

今、『何かを得るためには、何かを犠牲にしないといけない』と
自信を持って言える。
学生生活を野球に捧げ、磨き上げた剛腕だった。


好青年なだけでは生きていけない!?斉藤佑樹に必要なのは“悪の勇気”
2011年02月09日 (水) | 編集 |
                  鷲田康 = 文
≪前略≫

~スライダーを生かすための厳しい内角と制球力が斎藤を生かす~
 
あるプロ野球関係者と日本ハム・斎藤佑樹投手の
プロでの成功の条件を話していたとき、こんな話を聞いたからだった。

「斎藤が成功するかどうかはシュートを覚えるかどうか。
 彼の一番いい球はスライダーだが、
 いまのままではそのスライダーもウイニングショットとしては使えない。
 あのスライダーを使える球にするためには、
 シュートを覚えて内角を厳しく突けるかどうかだろう」

 確かにその通りだと思う。

 だが、そこでもう一歩、踏み込んで考えたことがある。

それは斎藤がいかにマウンドで、
悪の顔を持てるかということだった。

シュートを覚えて、内角を突くだけではない。
場合によっては半端ではなく、
懐の奥深くめがけて打者をのけぞらせる。
その“悪の勇気”を持つことも必要なのだ。
そして何より、まずはそれを実行できる技術を身につけられるかどうかだ。
斎藤の試金石は、そこにあると思うからだった。

「ペドロの真骨頂はコントロール。
 真っ直ぐはもちろんだけど、
 切れのある変化球を自在にコースに投げ分けられる。
 その能力の高さが彼の一番の持ち味だ」

これは松井のマルティネス評だった。
それはシアトル・マリナーズのイチロー外野手も口を揃えて話している。

逆に言えばそれだけボールをコントロールできる能力が高いからこそ、
首狩りまがいの危険なボールも平気で投げられるということでもある。

~究極の制球力を誇る投手だけに“悪の勇気”は宿る~


「制球の悪いヘボ投手がインハイを無謀につけば頭に当たる。
 ただ、制球のいい投手は頭を狙えばそこにいくが、
 そこからちょっと外せば打者の体を起こして、
 頭に当てることもない。コントロールとはそういうものだ」

巨人V9のエース・堀内恒夫元監督は、
本当の制球力についてこう話している。

胸元を深くえぐれる特権とは、
その微妙なコントロールを持つ投手だけのものである。
そしてその特権を持つものは、
打者を制する究極の方法論を持つことになる。

日本球界で言えば、かつての西武・東尾修投手であり、
広島の北別府学投手もそうだった。
いずれも球威ではなく、内角の厳しいところを突ける技術と、
躊躇なくそこに投げられる“悪の勇気”を持ち合わせていた。
そうして200勝をマークしたわけだった。

~絵に描いたような好青年の斎藤は、悪の顔を見せられるか?~

キャンプ初日から大報道陣に囲まれ、追いかけまわされても、
斎藤は嫌な顔ひとつ見せることもないという。

「ひとことで言えば見た通りの好青年です」

 ある日本ハム担当記者の人物評だ。

だが、そんないい人・斎藤が、ひとたびマウンドに立ったら、
悪の顔を見せられるか?

「Who's your daddy?」

打者に向かってこう叫び、
投手としての己の征服欲を露わにできるようになれば……。

 一流への道も、必ず開けるはずである。

引退後の就活が心配でしょうがない!?不況下におけるプロ野球選手の不安
2011年02月08日 (火) | 編集 |
            田口元義 = 文 

 一般社会の若者同様、プロ野球選手も「将来が不安」。

先日、日本野球機構(NPB)が「引退後に関する意識調査」の
結果を発表した。
アンケートは昨秋、宮崎のフェニックスリーグに出場した
約250名の若手プロ選手を対象に実施。
実に7割を超える選手が、
「引退後の生活に不安を感じている」と回答した。

'05年のドラフトから導入された育成枠制度により、
プロ入りの門戸は広がり、
多くの若手にチャンスが与えられるようになった。
その反面、2~3年でクビになるケースも増えてきている。

このアンケートでは、セカンドキャリアとして希望する職業で
最も多かったのが、「高校野球の指導者」だった。

 だが、理想だけでなれるものではない。

~あまりに困難な「高校野球の指導者」への道~

早鞆高校(山口)で監督を務める元ダイエーの大越基氏は、
引退後、貯金のほとんどを学費や教員免許を
取得するまでの生活費に充てるなど苦労を重ねた。

'09年に西武を戦力外になった三浦貴氏も、
現在は高校野球の監督を目指し大学の夜間に通っているが、
昼間は一般企業で働いているため休む暇などないという。

何より、高校野球指導者になるためには
大半の野球選手が苦手としているであろう勉強に励まなければならないし、
その期間の生活苦は先の2人のエピソードが物語る通りである。

一般企業への就職を希望している選手も多いそうだが、
これにしても安易にとらえると痛い目に合う。

 
'00年代初めに巨人でローテーションを務めていたある選手は、
引退後、野球界に残ることが無理だと悟り、
一般企業への就職に切り替え何社か面接を受けた。
そこで言われたのは金銭面でのことだった。
彼は現役時代、最高で年間1億円近く稼いだ経験もあった。

「うちは年に3、400万円しか払えないけど、と言われたんです。
 自分も早く職に就きたいから『いくらでも構いません』
 と答えたんですが……。
 結局、それが断り文句だったんでしょうね。
 企業側として自分に社会人としての経験がないことを知っていますから、
 やっぱり採りづらかったんでしょう」

その後、彼は幸運にも在京球団の職員として
再スタートを切ることができたが、
本人は「運がよかっただけです」と言う。

~野球との縁を切って社会人として自立を目指した人も~

引退直後に、そのような現実を元プロの先輩から聞かされた選手OBがいた。
彼は、あえて知人に頼らず求人雑誌で見つけた企業に応募し、
晴れて営業職に就くことができた。
現役時代は、20代で1000万円以上を稼いでいた選手である。

「野球関係の方には頼りたくなかったんですよ。
 これからの人生を社会人として生きていくためには
 自立しないといけませんから。
 会社の面接では驚かれましたよ。
 『なんで一般応募なんですか?』と(笑)。
 でも、そのほうが『それほどうちの会社に入りたかったんだ』
 と誠意が伝わると思って」

~スター選手でも先行きは不透明──解説者、評論家という仕事~

一般企業以上に、野球関係の仕事に就くとなると現実的にはかなり厳しい。
解説者や評論家は定年がないため年配のOBが多く、競争率も高い。
仮に携わることができたとしても、
安定した収入を得られる人間は少ない。

20年以上の現役生活で十分な実績を作り、
今年から評論家として再スタートをきることができたOBですら、
「野球をやっていたほうがある意味では楽だったかもしれません」
と不安をにじませていた。

「2月からキャンプが始まりますが、
 交通費、宿泊費など費用はすべて自腹なんですよ。
 引退してからラジオや雑誌の仕事もいただいていますが、
 フリーで働いている方に1回の仕事で貰えるお金を聞くとびっくりします」

だからこそ、日頃の営業活動が必要だ。
現役時代は日本一に貢献し、
今はプロ野球中継などで解説を務める在京球団のOBは危機感を口にしていた。

「どこも不景気ですから。
 今は地方のゲームだと交通費が出ませんので
 仕事が回ってこないんですよ。
 だから、自腹でもキャンプは全球団を回って情報を得たり、
 野球関係者やメディアの方たちと交流を深めておく。
 そうすれば、『この仕事をお願いしよう』
 と声をかけていただける回数も増えるんで」

このように、現役時代に実績を残した者ですら安穏としていられないのだ。

~巨人が現役選手向けに開いた「マネープラン講座」~

昨年から巨人は、球界初の試みとして都市銀行の職員を講師に招き、
今後の人生でどのくらいのお金が必要なのかを選手に理解させる
「マネープラン講座」を実施している。

金銭感覚が希薄と言われるプロ野球選手にとって、
このような対策は非常にいい。
しかし、これはあくまで将来的に役立つ知識であり、
固執しろというものではない。

引退後の保障がないプロ野球選手にとって
「先行きが不安だ」という気持ちは分かる。
けれども、今回の意識調査の結果を見て率直に感じたのは
「あまりにも夢がなさすぎる」ということだ。
プロで成功するために入ったのではなく、
むしろ入るのが目的だった、とすら感じさせてしまう。

だが、巨人やアンケートを実施したNPBのように、
選手のセカンドキャリアへの意識を高めさせようと
動き出す流れがあるのも事実。

例えば、引退後の再就職先の窓口拡大など、
選手と組織の意識のバランスが保てるような
確固たるシステム作りが球界全体で行われていくのであれば、
選手の気苦労も軽減されるはずだ。
そういう未来が拓けるのであれば、現役時代は野球だけに打ち込める。

そのための今回の意識調査だとすれば、
意味があるものだったと言えるだろう。  


【筆者プロフィール 田口元義氏】

1977年福島県生まれ。元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じてアスリートの魂(ソウル)を
感じられる瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。

斎藤は投手に必要な資質を備えている
2011年02月02日 (水) | 編集 |
サンケイスポーツ『 '11ノムラの考え』(1月13日付け)より

~よく走っておけ~

斉藤佑樹が新人合同自主トレで学ぶものはほとんどないだろう。
『グラウンドでよく走っておけ』くらいしか言わなくていい。
昨年12月、ある表彰式で同席した。
礼儀正しく、そつなく、賢い子というのが第一印象。
田中将大(楽天)がプロの4年間で成長を続けたように、
斎藤には早大での4年間が貴重な時間になったのだろうと感じた。

本人は『とにかく開幕1軍』と謙遜しているようだ。
しかしプロの世界では、謙遜は必ずしも美徳とは言えない。
私なら1年目から斎藤を成功させてみる。

投手に必要な資質に技術・体力・知力など
『外面的な要素』があるが、
斎藤はそのほとんどを備えている。
だから「走っておけ」でいい。
これから必要なのは、以下の『内面的要素』の意識だ。


①投手は試合の7割以上の勝敗に影響する野球の主役である

②投手は常に打者に対して挑戦的であるべき

③コンディション調整を体得せよ

④投球の組み立てを常に考えよ


私が監督として斎藤に接するならば、
特に④を重んじて『今から配球を勉強しておけ』という。
斎藤は本格派投手ではない。
私のいう本格派というのは、打者が直球を待っていても、
直球で空振り三振に仕留められる投手。
同じ日ハムのダルビッシュ投手は、
『状況に応じて本格派と技巧派を使い分けることができる』投手だが、
斎藤はまだそのレベルには達していない。

だとすれば、斎藤がなすべきことは配球の勉強だろう。
まず12種類のボールカウントの性質を学び、
常に状況と相手打者を思い浮かべながら、
打ち取るためのシュミレーションを重ねることだ。


4年前を思い出す。
田中の1年目。
マウンドに送り出すとき、私はいつも
『打たれて帰ってこい』と念じた。
高校からいきなりプロに入った田中には、
技術不足や配球の未熟さを打たれた痛みで学ぶことの方が
多いだろうと考えた。
だが、大学を経てきた斎藤は違う。
周囲が『まだ自主トレなのに』と笑っているうちから、
即戦力として頭の中でデビュー戦へ向けた
準備を始めるべきなのだ。
幸いなことに、梨田監督は捕手出身。
ぜひ、捕手の視点から斎藤を導いてほしい。

               サンケイスポーツ専属評論家・野村克也氏
ついに殿堂入りを果たした落合監督。野球人としての行き着く先は・・・
2011年02月01日 (火) | 編集 |
              鷲田康 = 文 

いつも「権威」や「力」に背を向けてきた、と言われている。

確かに高校時代は学校に背を向けた。
だからしょっちゅう授業をさぼり、映画館に通っていた。
いつも一番後ろの右端に座り、南北戦争で没落した南部貴族の娘、
スカーレット・オハラの波乱万丈の半生を描いた
『風と共に去りぬ』を観るのが大好きだった。

大学に進むと野球部に所属したが、体育会的な気質に背を向けた。
わずか半年で退部して、ブラブラしていた頃には、
プロボーラーを目指したこともあった。

そして東芝の府中工場で季節工として働いたのをきっかけに、
再び野球と出会った。
社会人野球でメキメキと頭角を現し、
1978年のドラフト3位でロッテに入団した。

しかし、ここでも球界の常識には、背を向けて生きた。

1年目のキャンプで元監督に打撃を酷評され、
コーチの声にも背を向けた。
独特の打撃理論で3度の三冠王を手にすると、
「選手は個人事業主」と選手会労組にも背を向けた。

監督になっても、ワールド・ベースボール・クラシックに背を向け、
チームがペナントで勝つことのみを価値として追い求め続けている。
勝利至上主義はファンという見えない力にも
背を向けているとも言われてきた。

~球界の常識に背を向けつづけた落合監督が手にしたものとは?~

そんな中日・落合博満監督が、
ついに野球殿堂という「権威」を手にした。

「私はユニホームを着ている間は、
 この賞とは無縁だろうと思っていました。
 ユニホームを脱いでから、いつかもらえればいいなと思っていた」

受賞の会見で落合監督は、静かにこう語ったという。

選手時代の実績は、あのONと比肩することは誰もが認めるものだった。
しかしその文句ない実績にもかかわらず、
この2年、続けて1票差で殿堂入りを逃したことは、
記者投票というシステムの在り方に大きな波紋を投げかけるものとなった。

マスコミという「権威」に背を向け、
その「力」にそぐわなければ評価を得られない――
特に地元でもある名古屋の記者クラブ所属記者の票が、
あまり入らなかったことが、余計にこの印象を強くするものとなった。

「どうせなら3年連続1票差で落選した方が面白かったんじゃないか。
 他人がやらないことをやるのはいいことだ」

スピーチではそんな経緯も、らしいコメントで笑い飛ばした。
ただ、ゲストスピーチでOBの杉下茂さんはこう断じている。

「もっと早く入って然るべきだった」

そういう意味では、やっと正当な評価を受けて、
落合監督は殿堂入りを果たしたということだった。

~ミスターも認める、落合監督の群を抜いた「監督力」~

そんな「反権威」の落合監督だが、実は監督としては、
最も「権威」と「力」をもってチームを動かす監督である。
こう評したのは巨人の長嶋茂雄終身名誉監督だった。

「いま、もっとも厳しい、非情な監督は中日の落合監督でしょう」

長嶋さんに「監督論」を取材したときの話だった。
勝つために監督は権力を持ち、その権力を非情に行使しなければならない。
これがミスターの「監督論」の第一条だった。

「巨人の原監督も、そういう意味では決断力もあり、
 特にここ数年は、いい意味で非情な監督になっている」

 ミスターの評価だ。

「ただ、監督の持つ権限を冷徹に行使するという点では、
 いま落合監督に勝る監督はいないかもしれない」

独特の野球観で選手を見定め、
その野球観から外れる選手は容赦なく切り捨てていく。
常に“競争”という言葉で選手を駆り立て、
ちょっとでも油断を見せれば主力選手といえどもポジションを奪っていく。

~WBCの逆風を受けた落合監督が思った、正力松太郎の心~

監督という権力を存分に行使してチームを動かす――
それが落合監督の力だ。
と、同時にこれまでの「力」に背を向けるイメージとは真逆に、
実は意外に「権威」を求める部分があるのも、
この監督のもう一つの顔だった。

「これが正力松太郎さんの目指した野球界か聞いてみたい」

WBCの選手派遣辞退から思わぬ逆風にさらされた一昨年のシーズン。
東京ドームでのクライマックス・シリーズに敗れた落合監督から、
想定外の名前が口を突いた。

 なぜ正力松太郎だったのか?

それはちょっと意外だが落合監督にとって、
正力松太郎という存在が、
日本のプロ野球の権威の象徴だからだったというのだ。

WBCへの選手派遣で猛烈なバッシングを受けたが、
ペナントレースを重視した自分の考えは、
プロ野球の父と言われる大正力の「権威」が担保してくれるはずだ。
そんな思いがあるから、
あそこで思わず正力松太郎の名前が口を突いたのだという。

だからプロ野球の世界で最も欲しかったのが、
その名を冠した「正力松太郎賞」だった。
その最も「権威」ある「正力松太郎賞」は、
監督就任4年目の2007年に日本一に輝いて手に入れている。

~正力松太郎賞と野球殿堂では、まだ夢は終わらない~  

「現役時代に自分で取れる賞は全部取った」

 落合監督は豪語した。

だから現役を退いた後は、
人から与えられる三つの賞を手にすることが夢なのだともいう。
その一つ目が正力松太郎賞。
そして二つ目の野球殿堂入りも果たしたいま、
落合監督が最後の三つ目として求めるものは、いったい何なのか……。

 それは国民栄誉賞だというのだ。

球界では、王貞治ソフトバンク球団会長と
連続試合出場の世界記録を持つ元広島・衣笠祥雄さんの
二人しか持たない最後の「権威」は、
もはや野球界という枠を越える世界の話だった。

「野球界からもらえるものは全部、いただいた」――。

殿堂入りのスピーチ。
そんな話を胸に聞いたこの言葉に落合監督の願いを感じ、
「なるほど」と妙に納得させられた。  



【筆者プロフィール 鷲田康氏】

1957年埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。