日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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『走り込み』か『野球で作る』落合流か― 巨人川相2軍新監督の育成法に注目 
2010年11月27日 (土) | 編集 |
球界で“走り込み神話”は根強い。
元祖といえるのは、カネやんこと金田正一元ロッテ監督だ。
徹底的な走り込みで下半身を強化。
そうして作り上げた強靭な土台で通算400勝を達成したのだから、
説得力がある。

同じように走り込みの大切さを説いていたのは今オフ、
巨人に復帰した川口和久投手総合コーチ。
こちらは満足な室内練習場完備していなかった広島時代、
雨が降るとヘドが出るほど走らされたが、
実はそれが夏場以降のスタミナに結びついたと説く。

もちろん、野球選手にとって下半身の強化は
体力づくりの大事なテーマの一つ。
それぞれの話には『なるほど』とうならせるものがある。
だが、同じ野球選手の体の作り方でも、
走り込みとは違う考えがある。

野球で使う筋肉は、野球の動きで作っていくというものだ。
『やっぱりバットを振る為の筋肉や体は、
 スイングでしか作れない』
こう主張するのは巨人・高橋由伸外野手だが、
実は中日・落合博満監督も同じ考えを持つ。
落合監督も現役時代はとにかくバットを振って、
ノックのボールを追いかけて体を作り上げてきた。

『走り込みじゃあ、走るための筋力しかつかないだろう。
 野球の動きは複雑。
 その複雑な動きに対応できる筋肉や関節を作るには、
 野球の動きをするしかない』―。

そこには投手と野手の違いがある。
投手の肩は消耗品で、来る日も来る日も投げ込みだけで
体を作るわけにはいかない。
そこで、肩に負担をかけない体作りの方法として、
走り込みの比重はぐっと大きくなる。
もちろん、野手でも走り込みに意味がないわけではないが、
ことしの中日の主力選手の活躍を見ると、
落合流の体作りには、やはり大きな説得力を感じることになる。

来季の巨人2軍監督には、そんな落合監督の下で
コーチ経験を積んだ川相昌弘氏が就任した。
落合流を肌で知る新監督が、どんな練習方法で
若手育成に新しい風を吹き込むのか。
そこに注目をしたい。


      サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
        スポーツジャーナリスト・鷲田康氏      
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『復帰組』~メジャー経験を日本球界に還元
2010年11月21日 (日) | 編集 |
メジャーで変わった姿を見せる―。
それが大事な仕事になるはずだ。
前アスレチックス・岩村明憲内野手の楽天入りが発表された。

『メジャーで学んだのはチームワーク。
 弱いチームからワールドシリーズまでいったけど、
 みんなでカバーしようという和。
 四球を選んで進塁でつなぐことも必要だし、
 そういうことをこのチームでも伝えたい』―。

入団発表での岩村の発言だ。
ヤクルト時代は長打狙いの粗いバッティングが目立つ
場面もあった。
そんな岩村の口からこういう言葉が出る。

ア・リーグ東地区の万年最下位だったレイズで、
08年に米国版下克上ともいえるワールドシリーズ進出を達成。
チームが若かったこともあり、
リーダーとしてメジャーの選手を引っ張った経験は
ダテではないということだった。
メジャーを経験することが、
選手にとって大きな肥やしになっている。
今の岩村からは、そんなムードが自然と伝わってくる。

日本人選手のメジャー流出を危惧する声は多い。
今年もポスティングでアスレチックに入札された
楽天・岩隈に続いて、ロッテの西岡、小林宏、日本ハム・建山らが
メジャー移籍の可能性を模索している。
また、来年にはソフトバンク・和田に川崎、西武・中島らも
移籍希望を出すのは確実とみられている。

この流れはもはや止めようがない。
だとすれば、それをもっと建設的に考えたい。
そのための一つの道として、メジャー帰りの選手達が、
色んな意味で活躍して、
日本球界にいい影響を及ぼすことが必要なのだ。

かつて日本ハムに戻ってきた新庄は、賛否両論はあったが
チームの活性化を導いた。
今年も日本シリーズを制したロッテには、
井口と薮田という復帰組がいて、
2人は下克上日本一のキーマンとなっている。

選手のメジャー挑戦が、日本球界にとってマイナスだけではない。
オーバーに言えば、復帰組には、
それを身を持って示す義務がある。
その気概を持ってグラウンドに立つ―。
そう語る岩村に大きな期待をしたくなった。


    サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
               鷲田康氏(スポーツジャーナリスト)
“選手のミス”が救った日本シリーズ。『プロ』の監督が揮うべき采配とは?
2010年11月14日 (日) | 編集 |
           鷲田康 = 文 


「ミスターの野球が懐かしい」

あるテレビ関係者がつぶやいた。

日本シリーズの第5戦の真っ最中だった。

この試合で中日の落合博満監督は、明らかな“捨てゲーム”を作った。

1点を先制したその裏、先発の中田賢一投手が4失点して逆転を許すと、
そのまま続投。
一方的な展開で9失点した5回まで中田を引っ張り、
中継ぎ投手陣の温存をはかったのだ。

「3つまで負けられる。ムリする必要あるか?」

試合後の落合監督のコメントだった。

中田は2回以降は落ち着きを取り戻し、
投手に打順が回らないDH制で交代機が難しかったのも確かだった。
そうして続投させているうちに4回に本塁打であっという間に2点を追加され、
5点差となり試合はほぼ決まってしまった。

だからムリする必要はない。
あとは淡々と味も素っ気もなく9回を消化するということだった。

~真剣勝負と興行を両立させたミスターの“サーカス野球”~

だが、プロ野球とは、お金を払ったお客さんが見ている試合なのだ。
もちろんテレビで観戦しているファンは無料だが、
そのためにテレビ局は1試合1億円近い放映権料を払って、中継権を買い、
そうして成り立っている興行なのは厳然たる事実だ。

テレビ関係者が嘆くのは、5回に中田が連打を浴びても、
まったく交代のそぶりを見せず、
その後も何の起伏もないままに試合を流したことだった。
そしてそのテレビ関係者は、
思わず巨人・長嶋茂雄監督(現終身名誉監督)を思い出して
つぶやいたというわけだった。

「ミスターなら必死に追いかけて見せ場の一つも作ってくれるのに……」

長嶋野球と言えば、“カンピューター野球”“サーカス野球”と言われて、
不確実性の野球の代表というレッテルを貼られた。

'90年代から2000年代初頭にかけ、
他チームから主力選手を引き抜いた巨大戦力を率いながら、
ついに連覇はできなかったのも、その長嶋采配に要因があるとも言われる。

~ファンを楽しませて勝つための奇策が長嶋野球の真骨頂~

「長嶋野球は全試合を勝ちに行く」

よく言われたことだ。

「そんなことをしていたら、勝てる試合も勝てなくなる。
 そんな戦略性を欠いた采配では、勝てるわけがない」

 もっともな意見だった。

だが、これは長嶋野球の目指した凄さを理解していないからだった。

「我々はいかにファンを楽しませて、その上で勝つかなんですよ」

 ミスターは言っていた。

 ファンを楽しませて勝つ。

そのためにはファンの考えを超えた野球をしなければならない。
奇想天外。
セオリーを超えたセオリーの野球。
そういう野球にチャレンジしてこそ、
本当の醍醐味をファンに伝えることができる。

~監督の指示を裏切る選手のミスが凡戦にドラマを作った~

シリーズ史上最長、5時間43分の激闘となった第6戦。
実は試合内容としては、史上まれにみる凡戦だった。

中日・落合監督もロッテ・西村徳文監督も、
走者が出れば1死からでも送りバントで得点圏に進めて安打が出るのを待つ、
という作戦に終始した。

 実に堅実な野球。

 監督が批判されない作戦だった。

だが、この試合では、監督の堅実なサインに、
ことごとく選手がヘマをした。
それが逆に予想外の展開を生んで、
試合を盛り上げることにつながったのだ。
バントを失敗したり、さまざまなミスが起こることで、
試合がどんどん面白くなっていくという皮肉な結果となったわけだった。

そして批判されるのは、堅実な監督の采配を、実行できなかった
選手たちということになる。

でも、実は両監督がバントのサインを出した瞬間に、
本当は何も起こらない、実につまらない野球になるはずだったのだ。
そしてこれが球界の常識としては「勝つ野球」だと言われ、
長嶋野球は球界ではいまだに異端扱いされ続けている。

「勝つことが最大のファンサービスだ」

落合監督の常套句だ。

もちろんスポーツとして、勝負として、勝たなければ意味はない。
ファンもそれを求めている。
ただ、プロ野球をあえてお金をとって
お客さんに見せる興行と考えるならば、
その勝ち方にもプロの技というものがあってもいい。
奇しくも選手のミスによって、野球の本来持っているドラマ性が爆発した。
それが今年の日本シリーズだった。

~ファンを魅了し、試合にも勝つのが「プロ」の監督だ~

だから夜中の11時過ぎまで完全中継された第6戦の平均視聴率は
18.9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)で、
瞬間最高視聴率は27.9%を記録した。
優勝の決まった第7戦も平均20.6%で、
瞬間最高は34.1%まで跳ね上がった。

テレビにとって野球中継も捨てたものではない。

“面白い”試合ならば、日本シリーズというコンテンツは、
まだまだ魅力的だし、ファンを引きつけるのに十二分の力があることを、
結果的に証明したシリーズとなった。

プロ野球とは勝つことだけがファンサービスではない。

ファンを魅了して勝つことこそがファンサービスであり、
そういう条件の下でも勝てる采配をすることが、
「プロ」の監督の仕事なのである。


【筆者プロフィール 鷲田康氏】

1957年埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。

チームまとめる大切さ学ぶ~楽天ヘッドコーチ・田淵幸一氏~
2010年11月10日 (水) | 編集 |
読売新聞 『私の先生』より

幼い頃、引っ込み思案だった私に、人と交流し、
集団で物事を成し遂げることの大切さを教えてくれたのが、
豊島区立目白小学校で4年生から卒業するまで担任だった
竹内宏先生(故人)です。

当時20歳代後半で、気さくな親しみのある先生でした。
普段は優しいのですが、
掃除をさぼったりして集団行動を乱す者がいると怖かったですね。
自分たちの目線に降りてきてくれて、
心から尊敬できました。

放課後になると、よく男子を近くの原っぱに集めて、
野球をさせてくれました。
所属していた少年野球チームよりも、
野球の面白さを実感できたように思います。

地元中学を経て進学した法政一高(現・法政大学高校)の
野球部で、1年生は球拾いが日課。
嫌気がさしそうになった時、
『自分のやるべき事は自分でつくるんだ』
という先生の言葉を思い出し、
バッティングキャッチャーを買って出ました。
それがポジションを決定づけた訳です。

最後に会ったのは、亡くなる半年前。
阪神の打撃コーチ時代で、先生が定年退職後に暮らしていた
高松市で行われたオープン戦でした。
『頑張れよ』と言ってくれた先生の温かい眼差しが、
今でも忘れられません。

様々な性格や技量の選手たちの気持ちを思いやりながら、
どうチームをまとめ上げていくのか。
野球の指導者としての土台を築けたのは、
先生の教えがあったお陰です。

先生との出会いがなかったら、今の自分はなかったでしょう。


          (聞き手 奥田祥子)
“炎のタックルマン”再び!!
2010年11月09日 (火) | 編集 |
“タックルマン”と異名をとった故石塚武生さんの顔が
脳裏に浮かんだ。
キャップ数28を誇る元ラグビー日本代表の名フランカー。
その石塚さんが昨年8月、57歳で突然死するまで
監督を務めていた常総学院が、7日の全国高校大会
茨城県決勝で宿敵茗渓学園を20-19で下し、
20年ぶり2度目の花園行きを決めた。

17-19とリードされた後半ロスタイムに逆転PGを決め、
そのままノーサイド。
昨年も茗渓と決勝で対戦(13-19)し、
試合前選手は『勝って恩返しをする』と
遺影の前で泣いて出陣した。
今年は『勝つまでは泣くな』と誓い合い、
石塚さんが後押ししたような劇的勝利に涙がせきを切って流れた。

1㍍70㌢、75㌔と小さかったが、
筋トレで鍛え上げた鎧の体で外国の巨漢を一発で倒す
石塚さんのタックルにファンは留飲を下げた。
06年から指導した常総学院では『低く刺され』と
極意を伝える一方で、
『こんな走ってばかりで強くなれるのか』と
部員が不満をもらすほど走らせた。
そんな、きつい練習が没後1年たって花を開かせた。

タックルの代わりに腰のヒモを引っ張る、安全なタグラグビー。
その普及のため石塚さんは全国の小学校を回った。
昨夏、生前最後の自身のブログでは、
『これからも時間が許す限り日本全国へ行って指導し、
 日本代表としてW杯にチャレンジする生徒を育てたい』と
つづっている。

まさにラグビーに捧げた一生。
社会人の伊勢丹や母校早大、U-19日本代表などの監督を務め、
『あの子たちを何とか花園に連れて行ってあげたい』と
常総の花園出場も残る大きな目標でもあったという。
息のかかった選手達が“炎のタックル”を
花園で見せてくれそうだ。

        サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                    今村忠氏
オリックスの指名に天才打者イチローは戸惑った
2010年11月08日 (月) | 編集 |
あの時、当たりクジが別の封筒に入っていたら、
プロ野球の歴史は変わっていたかもしれない。
1991年のドラフト当時、愛工大名電高監督として
鈴木一朗を指導していた中村豪氏が、入団を希望しながら
中日に指名されなかった失意の天才の姿を回想する。
「ブレーブス」から「ブルーウェーブ」へ。
1991年、オリックスが愛称を変更し、再出発をはかった年のドラフト会議。
オリックスが4位で指名したのが、
愛工大名電高の無名の投手兼外野手、鈴木一朗だった。
そう、現在のイチローである。


愛工大名電高では、春夏合計5回、甲子園に導く。
中村豪氏は、豊田大谷高を経て、現在は吉良高野球部アドバイザー。

「指名を受けたとき、彼は授業を受けてました。
それでコーチがオリックスから指名されたと伝えると、
ずいぶんがっかりしてたみたい。
彼の中ではプロ野球イコール、ドラゴンズだったからね。
後になっていろんな人に
『何でドラゴンズに行かせなかったんや』って言われたけど、
ドラゴンズのスカウトは獲る気なかったな。
『内野ができれば……』って言ってたし。
こっちは、『篠塚二世』になります、
この子の打撃はねちっこくて、柔らかいですよ、
ってアピールしたんだけども。
そのスカウトは、イチローが活躍し始めたあと、
中国担当に配置換えになってしまった。

それで、イチローは順位は気にしてなかったけど、
オリックスということで、嫌だ、大学へ行くって言い出した。
私が当時の日大の監督と仲がよかったから、
獲ってくれるって言ってたんだよな。
でも、それはいかんぞ、って。私も工藤のとき
(公康=名電高在校時、社会人行きを明言するも、
'81年のドラフトで西武から6位指名を受けると一転してプロ入り)に
ゴタゴタして嫌な思いもしたからね。
サッカーのチーム行くわけじゃないんだから行け、って。
必要としてくれてるんやから行くべきだ、と。
で、納得してオリックスに行くわけです」


~「あの時点では、4位という評価は妥当だったと思うよ」~

「ただ、オリックスのスカウトの三輪田(勝利)さんも、
 あそこまでの選手になるとは思ってなかったみたい。
 私も正直、2、3年ファームでやって、
 3割ぐらい打てるバッターになればいいと思っていた程度で、
 あの時点では、4位という評価は妥当だったと思うよ。
 そうそう、あと契約の場で、
 1年目の年俸の提示額が420万だったんだけど、イチローの父親が、
 『シニ』で語呂が悪いと言って、金額を変えてもらったそうだよ」

そもそも、イチローは甲子園を目指してではなく、
プロ野球選手になるために愛工大名電を選んだのだという。

「普通の中学生だったら甲子園だよな。
 でも、彼ら親子は最初から目的が違った。
 その頃、うちは『プロ野球選手養成所』とか言われていて、
 すでに11人のプロ野球選手を輩出していた。
 だからこそ、うちを選んだ。
 私もハッタリで『任せとけ!』って言ったけど、
 入ってきた頃の身長は170センチだよ。
 140キロぐらいのボールを投げて、脚力もあって、
 ミートも抜群だったけど、どうなるかはわからんかった」

~「『センター前ならいつでも打てる』って豪語してた」~

 2年夏に3番打者として甲子園に出て、
 その頃から少しずつ注目されるようになったんかな。
 3年春も甲子園に出たんやけど、そのときは投手も兼ねていた。
 ピッチャーやっとった方がドラフトで指名される確率が高いからな。
 最後の夏は甲子園には出れんかったけど、
 決勝までいって7割近く打った(.643)。
 『センター前ならいつでも打てる』って豪語してた。
 その言葉通り、振りゃ、ヒット。
 三振なんか見たことない。見逃し三振をしたことはある。
 でもそのときも『審判の判定ミスだ』って最後まで認めなかった。
 決勝は東邦高校に負けたんやけど、試合後は、ケロッとしてた。
 やるだけのことはやったんやからと。
 県大会でしっかり成績を残して、
 あとはドラフトにかかればいい、って感じだったな」   
 


Number764号「プロ野球ドラフト秘話。」では、
 「運命の日を巡る6人の証言 その時、球史が動いた」として、
 イチロー選手の他、松井秀喜、小池秀郎、福留孝介、松坂大輔、
 田中将大の各氏・選手の話題を呼んだドラフトを
 6人の当事者が証言しています。  


プロ野球ドラフト秘話。
1965-2010
【ドキュメント】 KKドラフト 運命の一日
【当事者たちの証言】 野茂英雄/元木大介/小池秀郎/イチロー/
          松井秀喜/福留孝介/松坂大輔/田中将大/志村亮 ほか
          ドラフト変遷史&歴代1位指名選手一覧
【今季ドラフト予想】 斎藤佑樹&1位指名有力候補たち
【緊急レポート】 F1日本GP&ザッケローニ・ジャパン始動
【別冊付録】 Vリーグ開幕
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【筆者プロフィール 中村計氏】

1973年千葉県出身。ノンフィクションライター。
某スポーツ紙を経て独立。
『Number』(文藝春秋)、『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。
『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で
第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。
他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、
共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。
『雪合戦マガジン』の編集長も務める。
趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。

偉大な先輩に学ぶ心
2010年11月01日 (月) | 編集 |
みごと優勝!!
先輩がオール県南チームに続き、オール県でも全国優勝を
成し遂げました!!

偉大な先輩と小学校1年生から一緒に野球ができて、
学びの多い模範になる先輩でした。
足下にも及びませんが、勇汰なりにこの結果を聞き、
先月の県大会1回戦敗退後の悔しさを
バネにして、そして先輩の活躍を励みに、
ひたすらバットを振りトレーニングに励んでいます。

県南選抜のセレクションも落ちてしまい(10月20日付けブログに記載)
格の違いを思い知らされ、
まだまだ発展途上ではありますが、
ようやく“何苦楚魂”が芽生えてきたようです。

今月は学校の試験や塾の統一テストなど、
4つの試験が立て続けにありますが、
両立させながら上を志してもらいたいです。
その為に私にもできることを精一杯協力して
家族みんなで一山一山超えて行きたいと思っています。

私のできることは・・・好きな料理、体にいい料理を
作ってあげることくらいですね