日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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斉藤和巳の来季契約は残酷か否か?最近のプロ野球界はリスク減少傾向
2010年09月27日 (月) | 編集 |
               中村計 = 文 

先日、ある男子プロゴルファーの取材をし、
3000円ちょっとの昼食をごちそうしようとしたら
「こんなに高級なところでいいんですか?」と驚かれた。

いや、驚いたのは、むしろこっちの方だった。
その選手は、かつて賞金王争いも演じ、
優に1億円を超える賞金を稼いでいた選手だったのだ。
こちらとて取材の続きとお礼を兼ねるつもりで、
せめて昼食だけでもと奮発しただけだったのだが……。

 そのときふと思い出したのが斉藤和巳だった。

言わずと知れたかつてのソフトバンクの大黒柱で、
2003年、2006年と二度も沢村賞を獲得している。

プロ野球の世界は、他のプロスポーツ界同様
「実力の世界」だという。
だが、それはある面正しく、ある面正しくない。

団体スポーツは大抵そういうものだが、
過去の実績で未来の報酬が決まる。
つまり、極端な話、前年活躍すれば、
その年1試合も出なくとも相応の給料がもらえるのだ。
その翌年も、よっぽどのことがない限りガクンと落ちることはない。

 斉藤がまさにそうだった。

右肩を故障している斉藤は2007年のクライマックスシリーズ以降、
1試合も登板がない。
つまり2008年はまったく登板がなかったのだが、
それでも翌2009年は2億、今季も1億2000万円もらっているという。

~プロ野球からリスクと緊張感がどんどん失われつつある?~

その点、個人スポーツであるゴルフはもっと明快だ。
デビュー1年目であろうとも勝てば1億円稼げるし、
前年いくら稼ごうとも、翌年、普通はそこまで極端なことはないものの、
全試合予選落ちしてしまえば無報酬ということもありえる。

冒頭の選手も、そこまで極端ではないにせよ
「今はもっぱらファミレスですよ」と苦笑していた。

どんなプロスポーツも、その魅力の土台となっているものはリスクだ。
リスクがあるからこそ緊張感が生まれ、プレーの輝きが増すのだ。
またそれゆえ、
一般人には到底考えられないような報酬を得ることもできる。

2004年、近鉄とオリックスが合併し、
球団数が削減されそうになったとき、当時、
選手会の会長という立場もあったのだろう、
それに猛反対していた古田敦也が
「選手の雇用の場が減ってしまう」という主旨の発言をしていた。
全部を否定するわけではないが、
どこか白けた気分になったことも事実だった。
プロ野球選手の割にサラリーマンみたいなことを言うのだな、と。

理由はどうであれ、いつなんどき雇用の場を失いかねない、
つまりは報酬が0円になりかねないというリスクのないプロスポーツなど、
見ていてもおもしろくもなんともないではないか。

~斉藤は丸4年間投げないことになるのだが…~

ひと昔前までは、プロ野球選手といえば単年契約が普通だった。

だが今はベテランの主力ともなれば複数年契約が主流だ。
それがプロ野球の魅力を削いでしまったのだと言ってしまったら
あまりに短絡的だが、
そうした保守的な思想があらゆるところで当然のように持ち出され、
プロ野球界全体が以前よりも野性味を失ってしまったという気は
しないでもない。

今年2月に右肩の再手術に踏み切った斉藤の復帰は、順調に回復しても、
2012年になるという。
したがって2008年から2011年まで、
丸4年間、まったく投げていないことになるのだ。

球団も功労者だけに最初は優しかった。
だが来季は斉藤に対し育成選手として契約するつもりであることを通達した。
そうなると年俸は一気に1000万円台までダウンする見込みだ。
それでも個人スポーツに比べれば恵まれていると言っていいだろう。

~「プロ野球選手として生きる」という内容が問われる時~

これを冷酷と見るか、当然と見るかは意見の分かれるところだ。

ただ、どんな親でも、不慮の事故で働けなくなってしまった息子に対し、
最初は優しいものだ。
慰めの言葉をかけ、経済的援助も厭わない。
でも、その状態が何年も続いたとしたら、扱いは粗雑となり、
何かしら言いたくなるものだ。
もちろん息子が立ち直ることを期待して。

斉藤は球団のこの提案に対して、どう答えるのだろう。
単純な金銭だけの問題ではない。
斉藤にとっては、プロ選手としての生き方が問われているといってもいい。
もっといえば、斉藤だけでなく、
今のプロ野球選手のプロとしての矜持が試されている。


【筆者プロフィール 中村計氏】

1973年千葉県出身。ノンフィクションライター。
某スポーツ紙を経て独立。
『Number』(文藝春秋)、『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。
『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で
第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。
他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、
共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。
『雪合戦マガジン』の編集長も務める。
趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。

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偉業祝福 ノムさんあえて言う!イチになれとは絶対に言わない
2010年09月25日 (土) | 編集 |
今日付けのサンケイスポーツ 『ノムラの考え~特別編~』より

~多くの高校生がフォーム参考に スターの証「時代を映す鏡」~

スターは時代を映す鏡」である。
大リーグで10年連続200安打を達成したイチローを
見ていると、そう感じる。
この夏、甲子園で高校野球を久しぶりに生で見た。
高校生も左打者が増えた、と実感した。
スイングしながら、すでに右足が一塁方向に流れる、
いわゆる「走り打ち」の選手が多い。
彼らの多くが、イチローの打撃フォームをイメージしているのは
想像に難くない。
「真似る」と「学ぶ」の語源は同じと言うが、
いくら高校生が真似たとしても、
イチローに肩を並べる選手にはなれない。
だから私は「イチローになれ」とは絶対に言わない。


私は素人同然でプロに入り、球の握り方もカーブの打ち方も
プロで学んだ。
苦手な変化球を打つために、捕手の経験による「配球の読み」を
加えて数字を積み重ねてきた。
つまり天性でも天才でもなく、「目の前にあるもの」を
利用してきただけだ。
だれでも努力すれば『野村克也』にはなれる。
だがイチローにはなれない。
けっして謙遜ではない。
イチローの打撃の出発点は三遊間に打球を転がして走る、
俊足選手そのものだ。
そこから「イチローオリジナル」を生み出した。
重心を投手方向に移動させながら、優れたバットコントロールで
打球方向を自在に操る。
努力で身につけた技術だが、他の選手が真似だけで
到達できないレベルのものだ。
だから私は「天才」というのである。
  

一つだけ、イチローが語った全打者に共通する真理がある。
あるテレビのインタビューで
「打撃でいちばん注意することはなんですか?」
と聞かれた。すると
  
「バットのグリップを、いかに捕手に近づけたまま
 我慢できるかです」と答えた。
  

グリップを、できるだけ捕手に近づけたまま我慢する―。  

すなわちバットが動くのは最後、ということだ。  
バッティングは「足→腰→腕」の順に動くのが理想。
だが最近の選手は上半身の筋力が強すぎるからか、
上体頼みで「腕→腰→足」のスイングになりがちだ。
天才的なバットコントロールを持つイチローも、
「バットは最後」という。
これだけは高校生も見習うべきだ。
  


~個人記録ではなくチームのため「妥協」「限界」「満足」禁じよ~

私にはもう一つ「イチローになれ」と言えない理由がある。
それこそが、今後のイチローに私が望むものである。
200安打を10年続けても、マリナーズは勝てない。
この現実をイチローはどのように認識しているのか?
  

イチローは自主的に球を待たない。
初球からどんどん打って出る。
1番打者の仕事は何より「出塁」だが、同時に相手投手の情報を
後続の打者により多く提供しなければいけない。
時にボールカウントを不利にしてでも球数をかけさせ、
四球を選んでチャンスメークする。
しかし、イチローは出塁率よりも安打数を意識している
ようにしか見えないのだ。
弱いマリナーズだからこうした打撃が許されるのか。
それとも消化試合で自らの個人記録を動機付けにするしかないのか。
イチローにも言い分があるかもしれないが、
彼が白星から離れて安打を積み重ねる姿を見ると、
「野球も団体競技から離れていってしまうのか」と
強い違和感を覚える。
  

9つの打順と9つのポジションには、それぞれ意味があり、
選手を適材適所で配置すべき、というのが
私の考えである。
イチローのスタイルは、私の考えでは1番打者に適していない。
私が監督なら「1番打者が4番のバッティングをするな!!」と
しかるかもしれない。
っそれ以前に“クリーンアップタイプ”のイチローを
1番には置かないだろう。
  

プロフェッショナルにとって
「妥協」「限界」「満足」の3語は禁句である。
イチローも3語を口にしなかったから、
ここまで技術を高めることができたはずである。
今後はチームの勝利を目指す上での
「妥協」「限界」「満足」を禁じてもらいたい。
  

スターは時代を映す鏡である。
イチローには、団体競技という「野球の本質」を
見失わせる鏡になってほしくない。
もう一度自らのプレーでチームを勝利に導いて、
野球の原点を示す―。
  
高校生はその姿を真似してほしい。
私が望むのは、これだけである。


            サンケイスポーツ専属評論家 野村克也氏

ダルビッシュとの“お見合い”が破談。大野に求められる理想の女房役とは?
2010年09月23日 (木) | 編集 |
                中村計 = 文 


スポーツ紙風に言えば、またしても「お見合い」が破談に終わった。

8月28日、北海道日本ハム対オリックスで、
ダルビッシュ有は前週に引き続き2年目の捕手、
大野奨太とバッテリーを組んだ。
今季3度目のことだった。

だが、ダルビッシュは2失点で完投しながらも、
打線の援護がなく1-2で7敗目。

結局、次戦の9月4日の千葉ロッテ戦は、従来通り、
鶴岡慎也とのコンビに戻し、勝ち星はつかなかったものの、
8回を無失点に抑えた。
このぶんだと今後しばらくは、
また鶴岡とのコンビでいきそうな気配だ。

ダルビッシュと大野が初めて組んだのは7月17日の楽天戦だった。
この日も7回3失点でダルビッシュは負け投手になっている。
2度目となった8月20日の西武戦は4失点を喫し降板。
黒星こそつかなかったものの、スッキリとしないものが残った。

監督の梨田昌孝の、
ゆくゆくは大野を正捕手にしたいという意図ははっきりしている。
だが、最後の扉が、なかなかに重いのだ。

3度目の「お見合い」となったオリックス戦も、
ダルビッシュは大野のサインに何度も首を振るなど、
明らかに苛立っていた。
だが、そうしたシーンは慣れているはずの鶴岡のときでさえ、
いまだによく見られる。

ただ、捕手サイドのその受け止め方によって、
わずかながらダルビッシュのリズムに狂いが生じているのかもしれない。

~「夫をたてる」鶴岡と「カカア天下」の大野~

鶴岡と大野の「女房役」としての違いを
投手コーチの厚澤和幸がこんな風に評していたことがある。

「大野は言ってみれば、カカア天下。
 鶴岡は、三歩でも四歩でも下がってついていくというタイプ」

 確かに、この言葉に尽きる。

鶴岡は樟南高校、三菱重工横浜を経て、
入団テストをパスしてドラフト8巡目で'03年にプロ入り。
'06年の終盤からダルビッシュとの相性のよさをかわれ、
少しずつ試合に出られるようになった苦労人だ。
しかも、他投手とバッテリーを組むこともあるが、今なお
「ダルビッシュ専属捕手」という印象が強く、言ってみれば、
ダルビッシュは自分を引き立ててくれた大恩人でもある。

それに対し大野は、大学球界最強と言っていいだろう、
東都リーグの名門、東洋大出身で、
3、4年時には戦後初となるリーグ4連覇を達成。主将も務めた。
学生時代の実績は十分。
'09年にドラフト1位で入団し、即戦力として期待されていたほどの捕手だ。

それぞれの経歴からも、2人のメンタリティの差は十分に理解できる。

ある意味、鶴岡は「夫をたてる」タイプの捕手でなければ
生き残れなかっただろうし、逆に、大野はこれまで
「カカア天下」でなければチームを引っ張ることはできなかったに違いない。
それは2人の話し方、話す内容にもはっきりと表れている。

~大野は本当に度量の大きな「母ちゃん」になれるのか?~
鶴岡は、いかにも人のよさそうな口振りでこう言う。

「首を振られるのはぜんぜん気にならない。
 ピッチャーに気持ち良く投げてもらうことがいちばん大事なんで」

一方の大野は、ダルビッシュに対してということではないが、
自分の存在感を示すかのようにこう話していたことがある。

「たとえ首を振られても、その球種で押し通すことがある」

 まさに両極端だ。

どちらも一長一短だが、ことダルビッシュに関しては、
鶴岡の方がフィットするというのもわかる。

楽天の投手コーチで、
かつて日本ハムの投手コーチを務めていた佐藤義則は
ダルビッシュの特徴についてこう説明する。

「ダルビッシュの中に、
 普通のピッチャーがいうような配球という感覚はないよ。
 そのとき、そのときで、自分が投げたいボールを投げているだけ。
 でも、それで抑えちゃうんだから。それでいいんじゃないの」

ある意味、捕手を無力化させる投手だといえなくもない。
要は、大野がそれを許容できるかどうかだ。

本当に度量の大きな「母ちゃん」というものは、
夫を尻に敷く振りをしつつ、
三歩下がって夫についていくこともできるものだ。
その逆もしかり。

大野に本当の意味での自信がついてくれば、
その両極を演じられるようになるはずだ。
だが、それにはまだ少し時間がかかりそうだ。



【筆者プロフィール 中村計氏】

1973年千葉県出身。ノンフィクションライター。
某スポーツ紙を経て独立。
『Number』(文藝春秋)、『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。
『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で
第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。
他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、
共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。
『雪合戦マガジン』の編集長も務める。
趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。

田中将大、斎藤佑樹、ストラスバーグ。投球回数に現れる若手育成法の違い
2010年09月22日 (水) | 編集 |
              生島淳 = 文 

今年の秋はドラフトの「豊作年」と言われている。
特に高校のときから「斎藤・田中世代」と言われた1988年、
1989年生まれの選手たちには
日本のプロ野球を背負って立っていって欲しい。

実はこのコラムを書くにあたって調べ物をしていたら、
今季メジャーリーグに昇格し、
話題をさらっている超大物ルーキー、
スティーブン・ストラスバーグ(ワシントン・ナショナルズ)も
「斎藤・田中世代」と同級生なのだということが分かった。

偶然の一致を発見したわけだが、
そこでストラスバーグ、斎藤、田中の高校を卒業してからの
育ち方を投球回数をもとに調べてみた。

投球回数は指導者の投手の育て方の発想が如実に表れるスタッツだ。

 2007年   2008年   2009年   2010年 
 ストラスバーグ   37   109.1   109   98.2 
 斎藤佑樹   116.2   143.1   98.1   41 
 田中将大   186.1   172.2   189.2   124 

参考  1999年   2000年   2001年   2002年 
 松坂大輔   180   167.2   240.1   73.1 
※ ストラスバーグは北京五輪含む
※ 斎藤佑樹は六大学リーグ戦に加え、全国大会、日米大学野球を含む


ストラスバーグはサンディエゴ州立大で3年間プレーしたが、
1年生のときの投球回数は37回にしか過ぎない。
これは大学の監督が1年生にはあまり無理をさせず、
リリーフで使っていくという方針を立てていたためである
(アメリカの大学ではプロと同じように先発とリリーフは分業制だ)。

ストラスバーグもブルペンから1回のみの登板が多く、
2年生になって先発に転向するが、
北京五輪での2度の登板を含めてようやく100イニングを超えてくる。
そして3年生になってもほぼ同じような投球回数だが、
このころからストラスバーグはメジャークラスの実力を
持っていることを証明し始め、
109イニングの登板で195個の三振を奪い、
ドラフト1位指名は間違いなしと言われるようになっていた。

アメリカの大学の監督は、
優秀な選手を預かるとプロに送り出すまでに大事に育てる。
体をプロに向けて準備し、消耗しないように気を配る。
それが監督の評価にもつながる。

~早稲田大学のエースとして多投する斎藤の肩の負担は?~

 では早稲田大学に進んだ斎藤はどうだったか? 

日本は春・秋の2シーズン制、
しかも練習での投球数も違うから単純な比較はできないが、
斎藤は1年の春から先発を任されたため、
1、2年時の投球回数がストラスバーグに比べると多い。
斎藤の場合は人気が先行した面があり、
それが投球回数の増加につながってしまった。

さらに肩の保護の観点から言えば、
東京六大学野球は第3戦に決着がもつれ込んだ場合、
斎藤のようなエースは土曜に投げ、
中1日で月曜に投げるパターンが多い。

かつて法政大学で通算47勝をマークした江川卓氏は、
土曜日に投げて負けると日曜、そして月曜と3連投していたことがあった。
プロで息の長い活躍ができなかったのは、
大学時代の連投の影響もあったのではないか……といまも思う。
大学に進んだ場合、
こういった連投が後々になって影響を及ぼしていることが十分考えられるのだ。

~投球回数の多さで群を抜く田中は投げすぎかも?~

そして高校から直接プロに進んだ田中の場合、
プロ1年目から期待され、
しかも実績を残してきただけにストラスバーグ、斎藤と比べると
圧倒的に投球回数が多い。
もちろん、日本はアメリカと違って先発投手の登板間隔が長く、
一概には比較できないのは承知している。

アメリカでは近年になって、
「若手投手の投球回数は前年比およそ2割増まで」という線引きが
常識になりつつある。
その観点から見ると、田中はプロ1年目にしてはあまりにも
投げすぎたのではないか……という不安を持たざるを得ない。

今年の7月には太ももの裏を痛めて登録抹消されたが、
ひょっとするとプロに入ってからの疲労の蓄積も
あったのではないかと勘繰りたくもなる。

参考までに松坂大輔が高校を卒業してからどれくらい
西武で投げたかを調べてみた。
1、2年目は田中とほぼ同じ投球回数だが、
3年目に240イニングを投げているのを見ると、
大車輪の活躍をしたことがうかがえる。
その反動からか4年目には故障で73.1イニングしか投げられなかった。
メジャーに移ってから、
信頼できる先発投手の目安とも言われる年間200イニングを超えたのは
2007年の一度だけである。

田中にはぜひとも長く活躍してもらいたいだけに、
10代での投球回数が今後、キャリアに響かないことを祈りたい。

~“財産”と“選手寿命”のためにも投球回数制限は必要。~

アメリカで投球回数制限が叫ばれるようになったのは、
若いときに酷使された投手が早々に引退へ追い込まれるケースが
過去多くあったからだともいえる。
財産である選手を長持ちさせたいという球団側の思いと、
長く現役を続けたいという選手側の思いが一致したということでもある。

しかし日本では、まだまだ投球回数制限や連投に対する意識が
アメリカに比べると低い。
そうした「評価基準」がないからだろう。

アメリカでは、酷使傾向を持つ監督は批判の対象だ。
批評があって、現場が動いたのである。

日本でもそうした視点があってもいいのではないか――
それが一流選手を長い間楽しめることにつながると思い、
このコラムに気持ちを託してみた。

いつか、斎藤や田中がワールド・ベースボール・クラシックなどの大会で
ストラスバーグと対戦する日が来るかもしれない。
その時、3人が健やかな状態で投げ合うことを祈ってやまない。


【筆者プロフィール 生島淳氏】

1967年気仙沼生まれ。早大卒。
NBAやMLBなど海外ものから、国内のラグビー、駅伝、野球など、
全ジャンルでスポーツを追うジャーナリスト。
小林信彦とD・ハルバースタムを愛する米国大統領マニアにして、
カーリングが趣味(最近は歌舞伎に夢中)。

著書に『慶応ラグビー「百年の歓喜」』(文藝春秋)、
『大国アメリカはスポーツで動く』(新潮社)、
『監督と大学駅伝』(日刊スポーツ出版社)など。
『BSベストスポーツ』(NHK・BS1毎週日曜21:10~)、
『生島淳のアクティブスタイル』(TBSラジオ毎週日曜正午~)
にも出演中。

足を上げるか、上げないか?松井秀喜とTー岡田、うんめいの分かれ道
2010年09月20日 (月) | 編集 |
               鷲田康 = 文 


「背番号55」――巨人に入団した松井秀喜外野手
(現ロサンゼルス・エンゼルス)が活躍したことで、
このナンバーは日本球界で一つの意味を付与された。

大型スラッガーが背負う背番号。
プロ野球の世界に身を投じる若者にとっては、この「背番号55」は、
本塁打という野球最大の魅力に身を捧げる選手のシンボルとなった。

独特のノーステップ打法で、
今季ブレークしたオリックスのT-岡田内野手も、そんな思いで
「背番号55」を背負った選手の一人だった。
そしてこのT-岡田と松井の成長の軌跡をたどると、
実は不思議な双曲線で交わることになる。

松井が巨人に入団した1年目、1993年のキャンプでのことだった。
訪れたOBや評論家が松井のフリー打撃を絶賛する中で、ただ一人、
その将来性に“否定的”な人物がいた。
通算3085安打の日本記録を持つ張本勲さんだった。

「松井は素晴らしい才能の持ち主だ」

 張本さんは言った。

「だが、今のフォームでは通用しない」

そうして松井に教えたのが、右足を上げずに、
地面をするようにステップする打ち方――
いわゆる「すり足打法」だった。

~「すり足打法」で迷っていた松井を救った長嶋監督~

「すり足打法」はスイングの際の上下動が少なく
ボールを正確に捕らえるという点では有利だが、
松井のようなパワーヒッターには、ねじれの反動が使いにくく、
スイングパワーがボールに伝わりにくいと感じる部分もある。

結局、張本さんの指導を“拒否”する形で、
松井は右足を上げる今の打法に突き進むことになる。
そのとき迷える松井を救ったのが、
生涯の師弟関係を築くことになる長嶋茂雄監督(現終身名誉監督)だった。

「オマエにはオマエのタイミングの取り方、スイングの軌道がある。
 それを二人で探して、最高のフォームを見つけ出そう」

そうしてミスターとの二人三脚が始まり、
松井は日本を代表するスラッガーへと成長していくわけだ。

 この逆の道を歩んだのが、T-岡田だった。

プロ入り当初は一本足打法だったが、
入団2年目には「すり足」打法に挑戦。
それでも長いトンネルを抜け出すことができなかった。

「もっと反動を使った方がいい」

今季も開幕直後には、
打撃コーチからは再び足を使った打法に戻すことを勧められ、
悩みに悩んだ時期もあった。

「開幕直後にはちょっとノイローゼ気味になっていた時期がある」

こう教えてくれたのはあるスポーツ紙のオリックスの担当記者だった。

「性格が穏やかで、どちらかというと気が優しい。
 今季は“T-岡田”と岡田監督に命名されて、
 大きな期待がかかっていることも判っていただけに、
 結果がでないこと、コーチに徹底的に指導を受けたことなどで、
 ちょっと精神的に追い込まれていた時期もあった」

 それを救ったのがチームメートと岡田彰布監督だった。

~チーム一丸となってT-岡田を支えたエピソードとは?~

ある日の練習後、選手サロンでのことだった。
落ち込んでいるT-岡田を見て、
数人の選手がT-岡田の特注Tシャツを着て食事をしだした。
次の日にはまた数人が、そして次の日も……。
そうしていつの間にか選手サロンが、T-岡田Tシャツで一杯になったのだ。

「“悩んで、落ち込んでいるけどガンバレや!”
 という無言の励ましでしたね」(前出・担当記者)

 そして、もう一人、手を差し伸べたのが岡田監督だった。

5月に二人だけの打撃練習が始まった。
室内練習場を閉め切って、延々と続くマンツーマンの打撃指導。
そのとき指揮官が教えたのが、いまのノーステップ打法だった。

両足を大きく開く。
重心を落として低く構えてノーステップでスイングする。

「下半身の動きを抑えることで、
 低めのボール球を振ることが少なくなった。
 甘く来たのをしっかりとらえられている」

 本人はこの打法の利点をこう解説する。

あとやるべきことは、バットの軌道に集中することだけだった。
そうすることによって、
来た球に逆らわずにセンターから逆方向へも
強い打球が打てるようになった。


~足を上げるのか、それとも上げないのか~

松井とT-岡田はまったく逆方向に進むことで
それぞれの道を見つけ出した。
しかしその過程で生涯の恩師と出会い、
本塁打を打つという特別な才能を開花させた。

そして松井は「背番号55」を特別な意味を持つナンバーに育て上げ、
T-岡田はその継承者としての道をいま、歩みだしたわけである。


【筆者プロフィール 鷲田康氏】

1957年埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。
日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。

聞く耳持つのは親より他人
2010年09月11日 (土) | 編集 |
昨日の部活動は、近所の医療大学の生徒の方々が
実習ということで、
それぞれの部活動への訪問がありました。
先週の運動会の際にも、ケガのケアやサポートに
お手伝いで来て下さっていたようで、
今回はそれぞれの部活動中でのケガの様子や
活動していく中でのトレーニング方法、
ケガしない為の教えなど、
盛り沢山の内容で生徒たちと交流を図ったそうです。

勇汰は今、肩をケガしている最中で、
練習もほとんどは、半身強化程度のことしかできないでいました。
昨日の指導では、チューブを使ってのトレーニング方法や、
(自宅でもしていましたが、
 更に幅広く指導してもらったそうです)
胸の筋肉を付ける方法、あと、
姿勢を正しくする体幹の訓練など・・・
同じトレーニング方法を以前から親が教えていたことに
プラスアルファーした感じの方法と指導を受けて
帰って来ました。

勇汰『こんなことを指導してもらったんだ!』

お父さん『お父さんが同じこと前から言ってて、やらなかっただろう!』

勇汰『・・・でも、これからやる!』

・・・親の言うことはスルー。
自分と歳の近いお兄さんに指導してもらった方が
理解しやすかったのかもしれませんが。
(特に専門的な勉強をしているので説得力があったようで)


本当は自分で練習方法を探して取り組むぐらいの前向きさがあれば
いいのですが、
まだまだ甘っちょろいというか、危機感が無いというか・・・。

早速、教えて頂いたことを忘れないように紙に書いて、
リビングの一番目立つ
パソコンの置いてある場所に張り出しました。


早ければ来週から本格的に野球ができそうです。





1、2年生の野手に逸材が目立った夏。~甲子園に見た筒香世代の影響~
2010年09月10日 (金) | 編集 |
           小関順二 = 文 


初回に先頭打者がヒットを放てば、チームは一気に活気づく。
今夏の甲子園大会でそうしたケースは27回あり、
その勝敗は17勝10敗。実に勝率.630という高さだった。

最も多く初回にヒットで出塁したのは、
優勝した興南の1番打者・国吉大陸の4回で、
続いて東海大相模・渡辺勝、成田・大木涼太、
関東一・山下幸輝の各3回(2勝1敗)と続く。
いずれもベスト8以上に進んでいるので、
今大会の“勝利の法則”であったと言えるだろう。

この中で国吉とともに目立ったのが準優勝チーム、
東海大相模の2年生の核弾頭・渡辺である。
準々決勝、準決勝、決勝の終盤3試合で先頭打者ヒットを放ち、
九州学院、成田戦では先制のホームを踏んでいる。
エースの一二三慎太が脚光を浴びていたが、
相手チームからは渡辺の強打と俊足もかなり警戒されていた。

~投手は3年生、野手は下級生に逸材が集まった理由~

この渡辺と同様、今大会は下級生の野手に注目が多く集まった。
主な選手の名前を挙げると、2年生では村井昇汰(北大津)、
海部大斗(履正社)、丸子達也(広陵)、北川倫太郎(明徳義塾)、
浜田晃成(延岡学園)、浜田竜之祐(鹿児島実)。
1年生では谷口一平(遊学館)、萩原英之、溝脇隼人(ともに九州学院)
などである。

投手は有原航平(広陵)、島袋洋奨(興南)といった
注目選手のほとんどが3年生なのに、
野手は下級生に逸材が集まっていた。
なぜだろうか。

昨年、野手は筒香嘉智(横浜)、今宮健太(明豊)、
堂林翔太(中京大中京)など、大豊作だった。
これは全国的な傾向であり、その分、
下級生だった現在の3年生は出場機会が限られていた。

これは、投手と違って試合経験がモノをいう野手にとっては
不利な状況である。
近年の高校野球の監督は、実力が同等ならば、
プレーが成熟していない3年生より、
来年を見込んで下級生を抜擢しようとする傾向がある。
そういう3学年のせめぎ合いが、
今夏の甲子園大会には濃厚に見て取れた。

下級生組の中でも、特に大物感が際立ったのが九州学院の萩原である。
準々決勝の東海大相模戦で敗退した後、
報道陣に向かって
「(一二三慎太は)そこまで凄い投手だとは思いませんでした」
と言い放った。
あと2年の間で、萩原はどんな成長曲線を描いていくのだろうか。


【筆者プロフィール 小関順二】

1952年神奈川県生まれ。日本大学芸術学部卒。
1988年ドラフト会議倶楽部を創設し、
模擬ドラフトで注目を集める。
Numberほか雑誌「週刊現代」にも野球コラムを連載中。
『プロ野球 問題だらけの12球団』(草思社)は
シリーズ10年目を迎えた。
他に『プロ野球のサムライたち』(文春新書)、
『プロ野球スカウティングレポート』(アスペクト)など著書多数。

“ホームラン・アーチスト”中田翔。劇的に進化した新打法を検証する!
2010年09月03日 (金) | 編集 |
                田口元義 = 文 

「覚醒」と見るべきか。「進化」と捉えるべきか。

8月8日時点で4戦連発、11試合で8本塁打とアーチを量産する
日本ハムの中田翔に対して、「覚醒」という言葉は的確なのか。
いや、高校時代に当時の通算本塁打記録を塗り替え、
昨年はファームの本塁打記録を更新していることから、
すでに長距離打者の資質が備わっていることは周知の事実。
“ホームラン・アーチスト”中田翔を語るのであれば、
やはり「進化」が正しい表現になるだろう。

中田の大きな進化として、真っ先に打撃フォームが挙げられる。
昨年から今年の開幕直後まではグリップを下げ、
全身を使って力に任せたスイングをするイメージがあったが、
7月に一軍復帰を果たしてからは、
以前よりもグリップの位置を高くし、
軸足となる右足に体重を乗せるという新たな形にたどり着いた。

~その新打法は、中田にしかできない卓越した技術だった~

このフォームがもたらした効果は絶大だった。
軸足に意識を集中することで、ボールを十分に引きつけられ、
どんな球種にも幅広く対応できるようになった。
それは、本塁打についての中田のコメントからも窺える。

「(3打席目は)変化球が2球続いたので、
 速いボールが来るという考えはあった」(7月27日、オリックス戦)

「(凡退だった2打席目までは)真っ直ぐを見せ球にして
 変化球で打ち取られていたので、変化球を待っていた」
(8月4日、ソフトバンク戦)

「(3打席目は)打ち方は崩れていたけど、
 (下半身で)粘りながら打てたというのは大きい」
(8月7日、楽天戦)

とはいえ、オリックス・T-岡田の「ノーステップ打法」が
十分なパワーが備わっていないと効力を発揮しないのと同じように、
中田の“新打法”も彼だからこそ成り立つものなのだ。

「中田のスイングスピードは、
 今のプロの打者のなかでも3本の指に入るくらい速い。
 もう少し、タイミングの取り方を覚えれば
 ホームランは増えていくと思う」

これは、シーズン開幕前に立浪和義氏が解説してくれたものだが、
その「もう少し」が、今のフォームになって改善され、
卓越したスイングスピードによって、多少、
タイミングを外されてもボールをミートすることができるようになった。

~田中将大との名勝負で出た凡打に見る成長の証とは?~

今、中田の打撃への関心は本塁打に集まっているが、
実は凡打にも進化が現れている。

例を挙げると、スポーツ新聞紙上で「平成の名勝負」と
大きく取り上げられた、8月8日の楽天・田中将大との対戦。
その2打席目がそうだった。

初球の高めに浮いたスライダーを強振したが、
つまらされてファーストフライ。
打ち上げた直後の中田の悔しがりようを見ても、
明らかなミスショットだったであろう。

しかし、つまるまでボールをよく引きつけて見たことが、
むしろ、中田が成長した証なのだ。

 なぜ、打球がつまることが成長なのか? 


~内川聖一も鉄平も、つまった打球を認めて成長した!~ 

球界を代表するふたりの打者が、
そのことについて説明してくれたことがある。

「首位打者になる前年までは、
 泳がされてもバットに当てることが長所だと思っていたんですが、
 それをコーチから『一番脆い形だ』と言われてから、
 つまらされてもボールを呼び込んで打つ意識に切り替わりました」

そう話す横浜の内川聖一は、つまることと向き合ったことで、
'08年に右打者最高打率をマークし、首位打者に輝いた。

 楽天の鉄平も、つまる打球を認めた打者のひとりだった。

「バッターって、
 できることなら打球がつまることを避けたいものなんです。
 でも、どうしてもそうなってしまう打席はあるわけで。
 ならば、それを受け入れることでバッティングに
 幅が生まれるんじゃないかと」

彼もまた、不利な打撃を逆に利用したことで、
'09年に首位打者となった。

手元までボールを引き付けて打つ今のフォームは、
体が泳がされて打つことが多かった以前よりも、
つまることが多くなるかもしれない。
しかし、それを受け入れた上でバットをしっかりと振り抜きさえすれば、
天性のパワーとスイングスピードを兼ね備える中田だけに、
内野の頭など軽々と越えられる。

実際、その形ができているからこそ、
故障で戦線を離脱するまでの打率が1割9分5厘(41打数8安打)に対し、
復帰後の打率が3割7分2厘(43打数16安打。8月8日現在)と、
数字にも成果が表れているわけだ。

~エース級をことごとく打ち崩し、新人王奪取なるか!?~

オリックス・金子千尋、西武・涌井秀章、ソフトバンク・和田毅、
そして田中と、相手チームのエース格を
ことごとく打ち崩していることから、周囲は「中田は本物だ」と、
ようやく実力を認めた節がある。

今のところパ・リーグには、絶対的な新人王の有力候補がいない。
だからこそ、同タイトルの資格を持つ中田だけに、
もしかしたら……と期待をしてみたくもなる。

世代を代表するアーチストだけに、
せめてそれくらいの実績は残してほしいものだ。
プロ野球の未来のためにも。


【筆者プロフィール 田口元義氏】

1977年福島県生まれ。元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じてアスリートの魂(ソウル)を
感じられる瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。

久々の更新で、すみません・・・。
2010年09月01日 (水) | 編集 |
いよいよちまたでは新学期。
息子の学校は昨日から、娘は今日からでした。
今年の夏休みは、目まぐるしく慌しく・・・
あっという間の夏休みでした。

県南選抜では3位(実質準優勝)、
県選抜出場、
勇汰の先輩は全国中学軟式大会で優勝・・・、
(県南選抜選手として選出され出場)と結果を残しました。

これから10月の新人戦に向けて日々練習に明け暮れています・・・
と、言いたい所でしたが、
みんな夏の疲れが出て、故障者続出
勇汰もまた、春に痛めた肩をまた痛め、
2週間安静。
新人戦には万全の体勢で臨みたいので、
ここ数日は体を休めることに。
体育祭が今週土曜日に控えていて、
応援団の勇汰は、肩を使う応援には参加出来ず、
やれることをして、団が優勝できるよう協力するそうです。
夏休み中も午前中は応援団の練習、午後は部活動と
とにかく忙しくしていた息子。
中学生は忙しいんですね

合宿では2年親が全面バックアップ。
顧問の先生、外部コーチの方々の配慮もあり、
けが人も出ず、熱中症の生徒も出ず、
無事に終わることが出来ました。
うちも店を閉めてお手伝いさせて頂きました。
勇汰も伸び伸びと野球を楽しみ、
合宿とは思えないくらい、辛かったけど楽しく
いい思い出ができた・・・と喜んでいました。

高校野球も良かったですね。
時間を見つけて見れる時は見ていました。
勇汰も高校入学まであと2年に迫っているせいか、
ゲームの流れを自分なりに分析して、
プレーひとつひとつを、注意深く観察していました。

いつも足を運んで下さる方々、
また復活致します。
ぷらりとまた寄ってみて下さい