日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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2軍落ち大田 課題の守備改善へ・・・ とにかく『走れ!』
2010年02月28日 (日) | 編集 |
巨人の大田が2軍落ちした。
『できないのが現状。課題を克服しないと・・・』―。
ファーム落ちを通告された大田は唇をかんだという。
抜擢してくれた原監督の期待を裏切る結果に、
一番ガッカリしているのは本人のはずだ。

課題の守備に向上の気配が見られなかった。  
大田の守備練習で顕著なことがある。
捕球後のステップが多いことだ。
  
小笠原と並んでシートノックを受ける。
小笠原が、ほぼツーステップで送球できるのに対し、
大田は4歩から5歩のステップを踏まないと
ボールが投げられない。
  
簡単に言えば、上手い選手は捕球と送球を一つの動作の中で
行うのに、大田は『捕る』と『投げる』という、
違う動作をつなげなければならない。
その接着剤が余分なステップだ。
  

『上半身は器用だから、崩されても対応できる。
 だからこそボールはまず下半身で捕らなければならない。
 ボールを捕りにいく段階で、
 下半身の準備がきちっとできていないと、
 捕球も送球もバラバラになる』―。

こう教えてくれたのはV9時代の名手、故土井正三さんだった。
きちっと下半身の準備ができるように足を運べないから、
捕球も送球の形も悪くなる。
足運びの悪さが、いくら練習しても大田の守備が改善されない
原因だった。
  

課題克服には、何をしたらいいのか?  
『ワシらの時代のファームの選手は毎日、
 死ぬほど走らされた。
 でも、それが打撃でも守備でもすべての土台を作ることに
 つながった』―。
これも土井さんの言葉だ。
  

今の大田に必要なのは、特守や特打ではない。
走って、走って下半身を鍛え直す。
そこから初めてもう一度、1軍にチャレンジする権利を
手にできるはずである。
  


         サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
                          鷲田康氏
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国母“腰パン”騒動で考えた、プロ野球におけるカッコ良さって?
2010年02月24日 (水) | 編集 |
                    田端到 = 文  


バンクーバー五輪の「国母和宏・腰パン&舌打ち騒動」
をながめながら、
プロ野球のことを思い浮かべていた。

「普段チームの試合に出ているときは茶髪でもいいけど、
 WBCや五輪でジャパンに選ばれたら茶髪は許されないぞ。
 国民の代表なんだから個人の自由は通らないぞ」

野球の世界でも、昨年や一昨年、
そんな意見をずいぶん耳にしたからだ。

「公式ユニフォームを着崩すオレって、カッコいい。
 批判されても軽く受け流すオレって、もっとカッコいい!」

二十歳そこそこの男子ならば、そんな価値観を振りまくことは、
ありすぎるくらいよくある話だ。
問題はそれがどこで通用して、どこでは通用しないのか、
その基準は何で決まるのか。
国母はそこを間違えたのかもしれない。

 ならば、これはどうか。

「茶髪にヒゲのプロ野球選手のオレって、カッコいい。
 プロなんだから見た目は関係ないだろ。
 グラウンドで結果を出せば文句はないだろ」

これは正しいのか、正しくないのか。
カッコいいのか、カッコよくないのか。

心情的には、ちょっとだけカッコいい側に入れたい。

 では、こちらはどうか。

「今までは茶髪にヒゲだったんだけど、
 新監督が見た目にうるさい人で茶髪禁止らしいんだ。
 だから、すっぱりやめて黒い髪に戻したよ」

 これは正しいのか? 正しくないのか?

 カッコいいのか? カッコよくないのか?

 どうも……ちょっとカッコよくない側に入れたいところだ。

~実績は一流なのに、毀誉褒貶相半ばする「男・村田」~

などと頭を巡らせていたら、
ひとりのスラッガーの顔が浮かんできた。
横浜ベイスターズの村田修一である。

村田は毀誉褒貶の相半ばする選手だ。
'07年、'08年と二度の本塁打王を獲得。
WBCではジャパンの4番という大役を務めて世界一に貢献した。
打者としての実績は一流である。

それでいて不評も絶えない。
まだら模様の刈り上げモヒカンヘアといった派手な見た目から、
事あるごとに自分を「男・村田」と呼ぶその言動まで、
気に障る人には気に障るようで、
ホームランばかり狙ってチームバッティングをしないなんていう
本業の批判まである。

私にとっては好きな選手のひとりでもあり、
ここでは村田個人を裁判にかけるのが目的ではない。
カッコいい野球と、カッコよくない野球を考える上で、
村田修一という選手はいろんな題材を提供してくれるという、
それだけの話としたい。

~ 鈴木健と佐々岡真司の引退試合でとった行動の是非~

'07年の鈴木健(ヤクルト)の引退試合、最後の打席。

鈴木健の打った平凡なファールフライを、村田は捕球しなかった。
わざとアウトにしなかった。
この後、鈴木健はヒットを打ち、プロ生活最後の打席を飾る。

これは正しかったのか? 正しくなかったのか?

正しくはなかったかもしれないけど、拍手をしたい気持ちになった。
ちょっとだけカッコよかった。

同年、佐々岡真司(広島)の地元引退試合。

村田は佐々岡に花を持たせることはせず、ホームランを打った。
村田には本塁打王のタイトルがかかっていた。
そして試合後、佐々岡に打ったことを謝罪した。

これは正しかったのか? 正しくなかったのか?

謝る必要はなかったようにも思うが、正しかったと思いたい。
投手の最後の登板に対して真剣勝負で礼を尽くすことは、
おきて破りではないはずだし、
打者の最後のファールを捕球しない行為とは意味が違う。

~本塁打王争い大詰めでの故意の三振はダンディズムゆえか~

同年、対ヤクルトのペナント最終戦。
村田はガイエルと本塁打王を争っていた。

横浜はガイエルとの勝負を避け、第1打席から四球にする。
これに対して村田は、打席でまったく打つ気を見せず、わざと三振する
(わざとかどうか、村田は言葉にしていないが、見ればわかる)。
自軍がライバルに勝負しないなら、
自分も打つことはできない……そんな礼儀か、抗議か、
打つ気を見せなかった。

この日、村田は4打席4三振。
ガイエルは4打席2四球。
村田が1本差で本塁打王に輝く。

これは正しかったのか? 正しくなかったのか?

正しくはなかったかもしれないけど、カッコよかったと思う。
この三振のダンディズムに比べれば、
ヘアスタイルなど、たいした問題じゃない。

~野球ファンにはもっと上から物を言う権利がある!~

腰パンの国母和宏を叩く意見に
「税金が使われているんだから」という理由があった。

JOC(日本オリンピック委員会)に費やされている国庫補助金は
年間25~27億円程度である。
国民1人あたりにすれば20円ちょっと。

20円の出資でそれだけ物を言う権利があるならば、
1試合2000~4000円のチケットを買っている野球ファンは、
好きで買ってるとはいえ、その百倍、
上から物を言っても許されるはずだ。
あくまで金額上の話だが……。

プロ野球における正しさ、カッコよさとは何か。
それを個々があらためて定義してみるのも悪くない。  



【筆者プロフィール 田端到氏】

1962年、新潟県生まれ。コラムニスト。
競馬、野球の分野を中心に活躍し、
著書に監督采配をデータから論じた「図解プロ野球 新・勝利の方程式」、
「パーフェクト種牡馬辞典」など多数。
ヤクルトスワローズ愛好家でもある。
オレ流“自主キャンプ” 落合監督には辛い1ヶ月
2010年02月22日 (月) | 編集 |
キャンプでの監督の仕事とはいったい何なのか?
陣頭指揮を執りグラウンドを走り回る。
これも一つのあり方だ。
チームを各担当コーチに預けて泰然自若と仕上がりを見守る。
これもチームを預かる身として一つの考え方となる。

『オレは何もしないよ』―。

中日・落合監督は、2月1日のキャンプ初日にこう宣言したという。
言葉通りキャンプが始まってから、
ほとんど報道陣の前には姿を見せない。
ブルペンでピッチングを見守る姿はあるが、
それ以外はほとんどグラウンドには姿を見せることもないのだという。

動かないだけではない。
キャンプ始動方針も大きく変えた。
右腕の森バッテリーチーフコーチをヘッドコーチに、
辻2軍監督を1軍総合コーチに指名。
キャンプでは前線の指揮はすべてこの2人に委ね、
監督はネット裏に“引きこもり”状態となっている。

『いろんな意味でチームが変わらなければならない』―。
落合監督の言葉だ。

理由はマンネリの打破だった。
荒木と井端のニ遊間入れ替えコンバートは、
チームに風を吹き込むことが狙いだという話は以前に書いた。
と、同時にキャンプそのものの考え方をもガラッと変えてしまった。

昨年までの練習は野球枝主体。
基礎体力を作るのも打撃練習やノックなど
野球の動きで作らせてきた。
そのため日が暮れるまでの居残りの特打、特守が北谷キャンプ名物
だったが、
今年はノックの量もグッと減っている。
ここ数年の長い練習に慣れた選手が、
午前中は力を抜いて午後に余力を残すようになってしまった。
成熟したチームが陥りがちな落とし穴。
そこから抜け出すために、あえて指揮官は何もしないことを
選んだわけである。

『練習中も宿舎に帰っても、ずっと大好きなガンダムを
 いじっているかDVDを見ているらしい』―。

こんなうわさも飛び交っているが、実は監督にとって
何もしないことほど辛いことはないはずだ。
自主性キャンプ。
言うは易く、行うは難し。
落合監督にとっては就任以来、実は今年が一番、
キツイ1ヶ月となっているはずである。


          サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
                          鷲田康氏


この記事を読んで、うちも次元は違えど
『何もしないことほど辛いこと』という体験を今まさに
進行中(?)であります・・・。

息子の反抗期にここ数日直面してしまい、
どうしたらいいのか、とても困惑していました。
でも、答えは簡単。
“何もしない”。
落合監督と同じ結論でした。

今、むちうちで毎日、接骨院通いしています。
そして、先生の思春期の頃の話をしてもらいながら、
色々とヒントを頂きました。
『お父さんと兄弟になってしまっているんだよ。
 あまり構わないで、勇汰君が言う言葉にいちいち反応しないで
 放っておいたらいいと思うよ』―。
私より主人の方が勇汰に対して感情剥き出しで、
ケンカになったりもします。

思春期の男の子は独りになりたがるようで、
そっとしておけば、向こうから話しかけてくるし、
とにかく見守ることにしました。

初めてのことで、息子も大人の階段を
着実に昇っているんだな、と
母親としてちょっぴり寂しい思いも感じつつ、
成長過程を目の当たりに出来て
勉強させられました。

男の子の生理は私にとってまだ、未知の世界です・・・


再び手術に挑む“ガラスのエース” 斉藤和巳の止まってしまった時間―
2010年02月18日 (木) | 編集 |
                 田口元義 = 文  


 見たい選手が見られないのは残念だ。

アリゾナでの自主トレの模様がテレビに映し出された際の彼の表情は明るく、
「今年こそは」と安心させるものがあった。

春季キャンプでは、二軍選手中心のB組でのスタート予定とはいえ、
久々にユニフォーム姿が見られると期待を募らせた。

復活を誓っていたソフトバンクの斉藤和巳が
右肩腱板修復手術に踏み切ることが報道されたのは、
キャンプ直前の1月31日のことだった。

右肩の状態はまだ深刻だったのだ。

~エースなのに2年以上も実戦登板が無いという屈辱~

「いくらトレーニングに励んでも(右肩の)
 状態が上向かないもどかしさは想像を絶するものでした」―。

これは球団広報を通じての斉藤のコメントだが、
他者を介したものでも、十分すぎるほど言葉に重みが感じられた。
'08年1月に右肩関節唇修復手術を受けて以来、
2年以上も実戦登板から遠ざかっているどころか、
まともに投球ができずにいる。
チームの大黒柱、絶対的なエースと呼ばれる斉藤にとって、
これほど苦しいことはないだろう。

 その心情は、同じく31日のブログに切々と綴られている。

<「投げたい」という気持ちが、少しも変わってない事を再確認し、
  可能性が高くない事は自分でも分かっていますが、先を考えると、
  凄く険しい事もわかった中で、
  もう一度そこに立ち向かおうと、決心しました>

投手にとって利き腕の故障は致命的だが、
なかでも肩は選手生命をも左右する重大な箇所。
多くの時間を費やし丹念にリハビリを続けても、
全盛期のボールが投げられる保証はどこにもない。

これまで、そんな選手を何人も見てきた。
特にあのふたりは……
現在の斉藤のように実績と怪我がクローズアップされた選手だった。


~今中慎二、川崎憲次郎はついに完治することなく消えた~

 ひとりは元中日の今中慎二。

17勝を挙げた'93年から4年連続で2ケタ勝利をマーク。
150キロ近くの速球と100キロ前後のスローカーブを武器とした
天才投手だったが、
'97年の自主トレ中に左肩に違和感を訴え手術を決断。
以後、故障と戦い続けたが完治することなく'01年に引退。

 もうひとりは川崎憲次郎。

ヤクルトでエースだった男も、
'01年に中日へ移籍してからは右肩の痛みに苦しんだ。
チームではエースを意味する背番号20を与えられながらも、
3年間で一軍登板はゼロ。
04年に開幕投手を務めたが往年の球威を取り戻せず、
同年に現役を退いた。


~ 不安や苛立ち焦燥感……プロとしての地獄の苦しみが続く~

ふたりは投手の最高の栄誉である沢村賞に輝くなど
チームの柱的存在でありながら、
故障期間が長かったため通算勝利が100勝に達していない。
これらは悲しいことに、今の斉藤と共通する部分でもある。

 つまり、「ガラスのエース」ということ。

言葉の響きはいい。
「滅びの美学」にも似た儚さがある。
何より他者は、これを「伝説」とし美化することを好む。
すでに引退している今中や川崎なら、
今となってはそれを過去のものとして受け入れるかもしれない。
ただ、未だ現役に強いこだわりを持つ斉藤からすれば、
嬉しくも何ともない称号であることは間違いない。

完治する、往年のボールが投げられる確証が持てないまま
生活をする苦しみは本人にしか分からないものだ。
不安や苛立ち焦燥感。
もしかしたら、諦めそうになる日だってあるかもしれない。
だが、それでも、と自分を奮い立たせるのもプロの仕事である。

<可能性が無くなった訳でないのに背をむける事は、
 自分の中では出来ません>

1月31日のブログで本人もファンに強く訴えかけている通り、
可能性はゼロではないのだ。

~斉藤和巳という選手を信じ、そして最後まで見届けたい~

だからこそ、斉藤和巳という投手を信じてみたくなる。
というより我々は、
斉藤和巳という投手を最後まで見届けなければならない。

まだ、斉藤和巳の時間は止まったままだ。
止まっているのだから焦る必要はない。
再び時計の針が動き出す、
一軍のマウンドに上がる日が来るまで、
じっくりと右肩と会話をすればいいのだと思う。


【筆者プロフィール 田口元義氏】

1977年福島県生まれ。
元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じてアスリートの魂(ソウル)を
感じられる瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。
ヤクルト浮沈の鍵を握る、「田中世代」のエース候補
2010年02月17日 (水) | 編集 |
~プロ4年目の増渕竜義~

                氏原英明 = 文  


 プロ野球キャンプの取材で、沖縄に来ている。

第3クールにさしかかった今は、
ほとんどのチームが紅白戦など実戦的な練習に入り、
チームの骨格作りを始めている。
首脳陣はここから選手をふるいにかけるわけだが、
巨人以外のすべてのチームに共通するのは、
昨シーズンと比べて何らかの上積みがなければ、
当然優勝もあり得ないということだ。
たとえ、先発ローテや打順などの布陣が昨シーズンと同じであっても、
そこに至るまでの過程に「競争」があるかどうかで
開幕後のチームの伸びが変わってくる。
そういう非常に重要な時期に、キャンプは差し掛かっていた。

前回のコラムで、キャンプ序盤の見どころは「新戦力」であり、
さらに「エース」争い、あるいはポジションに「空き」が出れば、
その争奪戦が繰り広げられるのも見ものであると書いた。
もちろん他にも見どころはあると思うが、
そういう意味で今回のキャンプで注目しているチームの一つが、
ヤクルトスワローズである。
あるポジションに「空き」が出たのだ。

~「ポスト五十嵐」どころか投手陣全体の再建が急務~

昨季3位でシーズンを終えたヤクルトは
初のクライマックス・シリーズ進出を果たしたものの、
絶好調の前半戦に対して後半戦は一気に落ち込んでいくという
落差の激しい成績で、大きな課題を残した。

さらにはセットアッパーを務めた五十嵐亮太がFAで
メジャーリーグへ移籍。
つまり、ポジションに「空き」が出たのだ。
そうすると、注目すべきは五十嵐の穴を埋めるための人材探しとなるわけだが、
ヤクルトの課題は「ポスト五十嵐」の発掘だけでは収まらない様子なのだ。

昨季、前半に快走したヤクルトが後半に入って大失速したのは
ピッチングスタッフが薄かったから。
序盤の快進撃を支えた五十嵐、松岡、林という3人の勝ちパターンが崩れると
実に脆いことが判明し、
前半戦と後半戦の防御率の比較で実に1.0近くも数字を悪化させているのだ。
3人の体力不足というよりも、彼らをサポートする他の投手が現れず、
さらにシーズンを通して長期間戦える充実した戦力がなかった。
その上に五十嵐が抜けたのだから事態は深刻である。

~抜擢した若手が一人前に育たないヤクルトの投手陣~

ヤクルト投手陣のデータを改めて掘り起こしてみると、
若手を入団早々から抜擢・起用する傾向があるにもかかわらず、
そうした選手たちが安定するまで、
つまり、チームの信頼を得るまでに成長しきっていないことが分かる。
選手が一人前になった目安として
「3年間」の安定した活躍とはよく言われる数字だが、先発であれ、
中継ぎや抑えであれ、
3年連続して活躍した選手がヤクルトには極めて少ないのだ。

3年以上、続けて活躍しているのは石川、館山の両輪だけで、
2004年新人王の川島亮に至っては1年目がベストキャリアという始末。
現実的には、ヤクルトの投手陣では押本らトレード組が活躍しているのが実情だ。
編成方針としてはチームの弱点を補うという点で正しいものだが、
逆にいえば、育成は成功していないということが言えるのではないだろうか。


~「田中世代」のドラ1入団投手はいまだ戦力にならず~

ドラフト1位で入団した選手たちもまだ満足できるような結果を
残せていない。

2月11日の紅白戦では、
4年目の高校ドラフト1位・増渕竜義と2年目のドラフト1位赤川克紀が
それぞれ先発。
中継ぎで'07年大学・社会人ドラフト1位の加藤幹典、
'06年・自由枠で入団の高市俊が登板した。
実戦初日から彼らが登板したことは、
首脳陣たちがいかに若手の彼らに期待しているかがうかがえる。

だが、結局全員が失点してしまった。
それだけが大きな問題とは言わないが、
投球内容も満足できるものでは無かったので、今後に不安を抱かせた。
なかでも増渕は4回を投げて6安打3失点。
若手世代の象徴「田中世代」でもある彼の伸び悩みは、
ヤクルトの若手そのものの苦境を表しているように思える。

~1年目152km→4年目140km。不調に喘ぐ増渕のストレート~

高田監督は
「(増渕は)ブルペンではいい球を投げられるようになっている。
  だから、紅白戦1試合だけの結果ですぐに判断するということはない」
と寛容な態度でコメントしていたが、
試合後の当の本人はやりきれない表情をしていたので、
自らの不振は自覚していたようだった。

「ブルペンで投げているフォームで投げられなかった。
 全然、力が出せなかった。
 キャンプに入って、以前のようなボールが戻ってきたと思っていましたけど、
 去年と同じです。自分の球が投げられていない」

~増渕のストレートの威力は高校時代から評判だった~


甲子園出場はないものの、高校3年夏、
埼玉県予選5回戦でノーヒットノーランを達成、準優勝に輝いている。
'06年高校ドラフトで1位指名。
豊作と言われた「田中世代」で無名校出身にもかかわらず、
重複指名を受けたことは、
増渕の評判がいかに高かったかを物語っている。

プロに入団してから1年目に開幕ローテを任され、
MAX152kmまでその数字は伸びた。
しかし、3戦目の中日戦で打ち込まれ、2軍に落ちると、
それ以降は1軍に昇格しても、本来の力は発揮できなかった。
今ではストレートで最速140kmに届くかどうかというくらいだから、
彼がいかに苦しんでいるかがよく分かる。


~速球派の若手投手陣には無難にまとめる傾向が~

増渕のピッチングで気になるのは「かわそう」という姿勢だ。

大胆で迫力ある投球スタイルが彼の持ち味のはずだが
「コントロールでうまくまとめようとする」(増渕)今のスタイルは、
 その本来の良さを消している。
 11日の紅白戦でも無難なピッチングに終始する
 その姿勢がやけに気になった。

 ただ、そうした傾向は彼だけではない。

13日に先発し、3回6安打4失点と打ち込まれた3年目の由規は
「四球を出さないことをテーマにして臨んだ」と前置きしながら
「キャッチャーのミットに合わせるような腕の振りになっている。
 勢いが足りない。
 そこは見直していきたい」と、
増渕と同じような悩みを吐露していた。

ヤクルトの投手陣、特にストレートが魅力の若手投手陣の間では、
速球と制球力との間に挟まれるジレンマが、
共通の問題になっているのかもしれない。

~「今年は大胆さを1番のテーマにしていきたい」と増渕~

増渕もそのへんのことは自覚しており、
今後は積極的に取り組んでいくと発言している。

「(紅白戦では)初の実戦と言うこともあり、
 いいところを見せようと思いすぎて、力んだりとか、
 そういう部分が出たのだと思います。
 プロに入って、これまではコントロールを気にしすぎて、
 腕が振れなくて駄目でした。
 今年は大胆さを1番のテーマにしていきたい。
 自分がプロに入れたのはストレートの球威だと思うので。
 大胆に投げることで、球のスピードも出てくるし、
 その中でフォームを安定させていきたいです」

今の野球界を引っ張っている若手と言えば、
「田中世代」なのは間違いないだろう。

 だからこそ、増渕には期待したい。

「田中世代」に属する活気ある投手がヤクルトから出てくれば、
チーム全体においても良い起爆剤になるのではないか。そう思えてならない。  



【者プロフィール 氏原英明氏】

1977年ブラジル生まれ。奈良大学を卒業後、
地方新聞社でのアルバイト勤務を経て、フリー活動を開始。
高校野球を中心に活動を続けるが、
野球を通じた人間性、人生観を伝え続け、
Numberのほかに野球専門誌で活躍。
WEBの世界でも「人間力×高校野球」(高校野球情報.com)と題した
コラムを連載している。
ただのデブと見くびるべからず。中日・中田亮二の「きらめく才能」
2010年02月16日 (火) | 編集 |
                  中村計 = 文  


身長171cm、体重115kg。愛称は「ブーちゃん」。
そのシルエットは、野球選手というよりは、まるで力士だ。

昨秋のドラフト会議直前、中田亮二の元には、
パ・リーグの1球団からしか進路希望調査書の依頼が届いていなかった。
そこも、さほど高い評価ではなかったため、
指名されるかどうか、中田亮は心配顔だった。

だから、中日が3位という上位で指名したことは意外だったが、
中田亮の実績からいって、その評価が決して不当だとは思わない。

なぜなら、彼は、東都で通算103安打をマークした選手だからである。

~東都で通算100安打以上を記録したのは79年間でわずか14人~

東都で通算100安打以上をマークした選手は、79年の歴史で、
わずか14人しかいない。
85年の歴史を持つ東京六大学にはちょうど倍となる28人もいることからも、
その記録達成がいかに難しいかが窺える。

 参考までに東都で100安打以上した打者を列挙してみよう。

 1位 133本 藤波行雄(元中日)
 2位 115本 高木豊(元日本ハム)
 3位 112本 大下剛史(元広島)
 4位 107本 佐々木正詞(日本生命)
 5位 105本 尾上旭(元近鉄)
 6位 103本 野村謙二郎(元広島)
 6位 103本 井口資仁(千葉ロッテ)
 6位 103本 村田修一(横浜)
 6位 103本 中田亮二(中日)
10位 102本 南渕時高(元オリックス)
11位 101本 亀井義行(巨人)
12位 100本 広瀬哲朗(元日本ハム)
12位 100本 今岡誠(千葉ロッテ)
12位 100本 大崎雄太朗(西武)

そうそうたる顔ぶれだ。
この内、中田亮を含む13名がプロ入りしており、唯一、
アマチュア球界に残った
佐々木正詞も社会人の名門・日本生命の主力として活躍し、
全日本メンバーにも何度となく選ばれている。

~ 実力伯仲の東都リーグで打ち立てた中田亮の記録は本物だ~  

東京六大学の方が100安打した選手が多いのは、
まず何より入れ替え戦がないからだ。
そのため期待のルーキーであれば我慢して使い続けることができる。
また東大や一時期の立教大など、
極端に力が落ちるチームがいることも有利だ。

一方、実力が伯仲しており、さらに入れ替え戦がある東都の場合は、
1敗が命取りとなるため、
主力であっても調子が悪ければ簡単にスタメンを落とされる。

つまり、東京六大学の場合はどこかに
「つくられた感」があるのに対し、
東都は「正真正銘の記録」だと言っていい。

それだけの選手が、あわや指名漏れしそうだったのだから、
そちらの方が不思議といえば不思議なのだ。

~「きらめく才能」がなければデブはプロで生き残れない!?~

2001年のドラフト会議で中村剛也が
西武から2位指名を受けたときのことを思い出す。
あのときも意外な思いがしたものだ。

中村は大阪桐蔭時代、実に83本もの本塁打をマークしていた。
これは、対戦相手の問題等、多少の「保留事項」があったとしても、
半端ではない数字だ。
監督の西谷浩一も、当時、
歴代の大阪桐蔭のスラッガーの中でも柔らかさは随一だと太鼓判を押していた。

だから、どこかが1巡目指名してもおかしくないと思っていたのだが、
フタを開けてみると2巡目だったのだ。

西谷は、
「三塁手を任せられるほど動ける選手だとはどの球団も
 思っていなかったようだ」と振り返るが、
高校時代から中村は一塁手としても、かなりいい動きをしていた。

中田亮も同じだ。
もし、動けないと思われて評価が落ちたのなら、
その点は心配ないだろう。
50m走は6秒4だし、高校時代はバク転もできた。
中田亮も普通以上に動けるのだ。

~デーブこと、西武の二軍打撃コーチ、
 大久保博元がこんな話をしていたことがある~

「よくデブはバッティングが天才的だとか言うじゃない。
 俺も、インコースだけは、なんの苦労もなく打てた。
 でも、それはいろんな話を総合するとね、
 デブだからうまいわけでもなんでもない。
 デブという見た目のハンディを背負った人たちは、
 それぐらい何かきらめく才能がないと
 上ではやっていけなかったってことなんだよ」  

~涌井を打ち砕いた怪力と技術は「きらめく才能」そのものだ~

明徳義塾高校時代のことだ。
'04年夏の甲子園で、2年生ながら出場していた中田亮は、
横浜の涌井秀章(西武)の真っ直ぐを詰まりながらも
反対方向のレフトスタンドへ放り込んだ。

「あれは打ち損じでしたね。まさか入るとは思わなかった」

つまり、高校生の段階で、芯を外しながらも、
オーバーフェンスさせるだけの怪力と技術を中田亮は持っていたのだ。

中田亮にも大久保が言うような「きらめく才能」がきっとある。

ブーちゃんがブレイクする日が今から待ち遠しい。




【筆者プロフィール 中村計氏】

1973年千葉県出身。ノンフィクションライター。
某スポーツ紙を経て独立。
『Number』(文藝春秋)、『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。
『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で
第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。
他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、
共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。
『雪合戦マガジン』の編集長も務める。
趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。
あったかいチョコ
2010年02月16日 (火) | 編集 |
今日は日記風に書きますね。
(時間のある方は暇つぶしに読んで下さい・・・)

先週は娘の“友チョコ”作りの為に、
材料などを買い集め、トータル4日間生チョコ、ケーキ作りに
精を出しました。
“友チョコ”デコレーションを娘と一緒に楽しく作ったり、
ケーキ作りものんびり作りました。
生チョコはとても好評良く、
野球部のみんな、父兄、コーチに差し入れをし、
昼食後のデザートで食べてくれたみたいなのですが、
『お母さん!!みんなすごく喜んでくれて
 僕、本当に嬉しかった!!
 僕が褒められているように感じて、
 先輩からもすっごく喜ばれたんだ!!
 お母さん、ありがとう!!』と、
はしゃぎながら部活動から帰ってきました。

数日前から勇汰は少し私に対して
チョッピリ冷たくて、私も反抗期に入ったのかな・・・
と、成長過程だと自分に思い込ませて、
なるべくそっとしていました。
そして生チョコを毎年楽しみにしている勇汰に、
『今年も生チョコ?』
と聞くと
『うん!絶対そうして!!』
とリクエストがあったので、早速作りました。

料理本レシピ通りに作っているだけなのに、
勇汰にとって、この時ばかりはママの株が上がるようで、
キッチンカウンターでチョコを作る私の横で、
来週の学年末試験に向けて勉強を必死で頑張っていました。

毎年、お世話になっている親族、友人家族、お客様、勇汰の友達に
手作りで準備しプレゼントすることが、
私のできる精一杯の気持ちで、
勇汰にとっても自慢のママであっていて欲しい、なんて思ってしまい
張り切ってしまいます。

私にとってバレンタインデーは、
感謝の気持ちを、溢れる思いと優しい気持ちで手作りできる、
幸せなひとときです。

いつもお世話になっている方々へ、
このブログを通して
“ありがとうございます”。


特攻で散った石丸進一を想いつつ、オリックス・小瀬浩之の死を悼む
2010年02月10日 (水) | 編集 |
                 小関順二 = 文  


2月2日から6日までキャンプ取材で宮崎まで行ったが、
5日は巨人、ソフトバンク、西武とも休養日なので行くところがなかった。
(広島の主力は12日まで沖縄でキャンプを張っている)
こういうときでないと行けないと思い、
以前から興味があった鹿児島県鹿屋特攻隊基地があった
鹿屋航空基地まで、
特急電車→バス→フェリー→バスを乗り継いで、
4時間半かけて行ってみた。

基地内に「鹿屋航空基地史料館」があり、
屋外には現役を引退した二式大型飛行艇など
本物15機が展示され、
屋内には明治から現在まで連綿と続く
航空機の歴史が順路に従って理解できるように写真や資料などの
展示物が配置されている。
特攻隊の展示物があるのは2階で、
名古屋軍(現中日)の投手として昭和18年に20勝を挙げ、
ノーヒットノーランも記録している石丸進一の写真や
経歴も展示されていた。

~山岡荘八が描いた、石丸投手の最後の投球~

この石丸の出撃前の様子を鮮やかに描いた人物がいる。
全26巻に及ぶ大作『徳川家康』の著者として知られる山岡荘八である。
山岡は海軍報道班員として鹿屋に派遣され、
石丸が戦友とともに最後のキャッチボールをする様子を
次のように書き記している。


石丸進一少尉は兄と共に職業野球の名古屋軍に
はいっていたことがあるとかで、
本田耕一少尉と共によくキャッチ・ボールをしていたが、
いよいよ出撃の命が下り、司令の訓示が済むと同時に、
二人で校庭へ飛び出して最後の投球をはじめた。
「ストライク!」
今もハッキリとその声は私の耳に残っている。
彼等は十本ストライクを通すと、
ミットとグローブを勢いよく投げ出し、
「これで思い残すことはない。報道班員さようならッ」
 大きく手を振りながら戦友のあとを追った。
(昭和37年8月8日付け朝日新聞、『最後の従軍』より)


野球がやりたくてもできない時代があった。
それから65年経ち、
今では年間2000万人以上の観客がプロ野球を見に球場に押し寄せ、
その中で選手は思い思いのプレーができるようになった。
特攻で死んだ石丸進一がこの様子を見たら何を思うだろう。
国防の使命を担って特攻で死んだ俺たちのほうが幸せだった、
とは思わないだろう。
悔しくも妬ましくもあるが、
プロとして3シーズンしかできなかった俺の分まで精一杯プレーしてくれ、
と思ったに違いない。
そんなことを考えているとき、
小瀬浩之(オリックス)の転落死を知った。   


~俊足巧打でレギュラー奪取間近だった小瀬選手~

2年前、連載していた雑誌に「俊足率.810の新人」と紹介したことがある。
近畿大時代の小瀬を見て、
俊足の目安となる打者走者の一塁到達タイム4.29秒未満
(二塁到達8.29秒未満、三塁到達12.29秒未満)が
21打数中17回あったという内容で、
鈍足球団を活気づけるためにもレギュラーで起用したほうがいいと書いた。
成績は順調に右肩上がりで伸び、
昨年は打率.303(60安打)を記録し、
今年のレギュラー奪取を十分に予感させた。

自殺の可能性が大きいらしいが、
自殺しなければならないような要因は少なくともプレーからは
感じられなかった。
誰に遠慮することなく精一杯のパフォーマンスを演じられる時代に生きながら、
それでも死ななければならない原因があるのだとしたら、
現代は鹿屋基地で考えたほど生きやすい時代ではないのかもしれない。
しかし、特攻で死ぬという不条理を上回るほどの悪条件が
現代にあるとはどうしても思えない。

小瀬がもし特攻隊史料館に行き、
隊員たちの遺品や遺言を見たらその心境に少しは変化があっただろうか。
僕はあったと思う。
数年前、ロッテの西岡剛が高橋慶彦コーチに連れられ、
やはり鹿児島県知覧にある特攻平和会館に行き、
「自分も明日、死ぬかもしれないと、その時初めて考えた。
 人生は一度きり。
 そう思うと遊んでばかりいられません」と感想を残している。
小瀬にはこういうことを考えてほしかった。  


合掌  


【筆者プロフィール 小関順二氏】 

1952年神奈川県生まれ。日本大学芸術学部卒。
1988年ドラフト会議倶楽部を創設し、
模擬ドラフトで注目を集める。
Numberほか雑誌「週刊現代」にも野球コラムを連載中。
『プロ野球 問題だらけの12球団』(草思社)はシリーズ10年目を迎えた。
他に『プロ野球のサムライたち』(文春新書)、
『プロ野球スカウティングレポート』(アスペクト)など著書多数。
能見、岩田と阪神エースの座を競う、大黒柱・安藤雄也の存在感
2010年02月08日 (月) | 編集 |
                 氏原英明 = 文  


2月1日、プロ野球12球団の春季キャンプが一斉にスタートした。

キャンプ序盤の見どころは新戦力の動向である。
新入団選手、特に新人選手の力量がどれほどのレベルにあるのか、
メディアやファンはこぞって注目する。

今年は埼玉西武ライオンズの高卒新人・雄星が注目の的となっている。
2年前の中田翔、3年前の田中将大など、
その年の目玉に注目するのが今のスポーツメディアの風潮である。
個人的には雄星は焦らずじっくり育ててほしいと願っているが、
渡辺久信監督が
「(南郷に)連れて行かなかったら、みなさんが大変じゃないですか?」
とコメントしたように、
目玉選手にとってこの時期の報道過多はどうしても避けられない。


~新人のキャンプ不参加となった楽天と横浜のチーム事情~

今年のキャンプの一軍参加メンバーの顔ぶれを見ていると、
新人選手の数が多いように思えた。
これも、「雄星効果」と結び付けて考えていたが、実際、
トータルで見ると昨年とさほど変わりはない。
ただ、各チーム間での増減が激しく、
チーム事情が反映されているのがみて取れる。

たとえば、昨年の楽天は井坂、藤原、井上の新人3選手が
一軍キャンプに参加していたのに対し、今年はひとりもいない。
これは野村前監督とブラウン監督の違いと読み取っていい。

育成を重視するブラウン監督は広島時代、
戦力になってもおかしくなかった1年目の前田健太を、
1年間一軍マウンドに上げなかった指揮官である。
それが2年目以降の前田健の活躍を促したし、
今や彼は立派なローテーションピッチャーに成長した。

 このほかで目につくのは横浜。

昨年の5人から今年は一軍にひとりも抜擢していない。
昨シーズン後に、FAやトレードを2度実践したチーム事情から、
方針が「育成」よりレギュラー陣による「強化」を重視したものに
なっていることがうかがえる。
キャンプではチームの基盤を固めたいのだ。
去年のキャンプで一軍だった2年目の5人のうち4人は
今年も一軍キャンプに選ばれているし、
このほかにも、4年目の梶谷隆幸や高森勇気ら伸び盛りの若手も
メンバー入り。
生え抜きの中堅やベテラン、移籍組、若手と入り混じって
チーム強化に動いている。
いかに横浜が変貌できるのか、このキャンプでの注目の一つだ。


~昨季不振の安藤に代わる阪神の新エースは現れるか~  

しかし、新人選手の動向だけがキャンプの楽しみではない。
チームの骨格を指し示す、「エース」や
昨年まで固定されていたポジションに「空き」が出れば、
その争奪戦もキャンプの面白みとして存在してくる。

そこで、注目しているのが昨シーズン4位に沈んだ
阪神の「エース」争いだ。

昨年までは安藤優也がエースといわれ続けてきたが、
結局8勝12敗と低迷し、
勝負どころの終盤でもヤクルトのエース・石川雅規に投げ負けた。
一方で、能見篤史、岩田稔といった中堅の二人が台頭。
能見はチーム最多の13勝を挙げたし、岩田は数字こそ
残せなかったものの、
安定したピッチングと勝負強さはエースに推したいくらいの
活躍ぶりだった。

安藤は昨年の秋季キャンプで罰則として頭を丸めてみせている。

金本との約束だったとはいえ、
その姿はエースとしての存在感の失墜を周囲に
感じさせるに十分だった。
本人はシーズン反省の意味を込めたかったのだろうが、
見ている方は一抹の寂しさを覚えた。

その光景は、阪神のエースが誰なのか、
白紙に戻したようなものだった。


~能見、岩田の活躍は安藤という大黒柱があってこそ~

だが、そこで安藤の存在を簡単に否定して良いのだろうか、
とも思うのだ。
去年の活躍だけで考えればエースは能見でいいと判断できるが……。


~「エース」という看板の交替時期は、
 果たしてどうあるべきなのだろうか?~


野球評論家で元阪神の湯舟敏郎氏が、以前、
こんな話をしていた。

「確かに安藤は自分のボールが思うように投げられない中、
 不本意なシーズンを送ったと思います。
 しかし、その安藤を除外して考えてよいのかというと、そうでない。
 昨年に限っていえば、安藤あっての
 能見・岩田の活躍だったと思いますよ」

昨年の安藤の結果と能見の成長だけで、
「エース交替」と簡単にはいかないという。
チームの大黒柱という重荷は、
まだ活躍し始めたばかりのふたりにとって大きいということなのだ。
安藤の存在なくして能見や岩田の活躍はありえなかった、
という微妙な指摘といえる。

「藪がFA宣言してメジャーに行った時の井川がそうでした。
 結果的には勝ち星を重ねられたのですが、内容は苦しいものでした。
 見ていても、精神的にはつらそうにみえましたからね」

当時は藪が抜けても、下柳は安定していたし、
安藤も若さを武器に勢いがあった。
JFKも順序は違っていたが、計算が立ちつつある状況だった。 
 

~ 新エース候補の若いふたりも安藤の存在感は無視できない~

今の阪神はそこまで投手陣が厚くない。
新人の二神一人や2年目の蕭一傑をはじめ、
イキのいい若手はたくさん控えているが、経験は不足している。
救援陣も、昨季最多登板のアッチソンが抜け、
藤川球児だけでは心許ない。

このような状況下では、あっさり
「能見がエース」というわけにはいかない。
「能見や岩田がエースになることはあり得ますけど、たとえ、
 そうであっても、ローテーションの中に、
 安藤はいてないとね」とは湯舟氏の言葉である。

世代交代が急務の阪神であるとはいえ、
ことエースに限っては答えを急いではいけない。
優勝するためには安藤の復調が必要不可欠であるし、
安藤を軸に争ってこそ、真のエースが生まれる。
阪神キャンプでは、競った末のエース誕生を求めたい。



【筆者プロフィール 氏原英明氏】

1977年ブラジル生まれ。
奈良大学を卒業後、地方新聞社でのアルバイト勤務を経て、
フリー活動を開始。
高校野球を中心に活動を続けるが、
野球を通じた人間性、人生観を伝え続け、
Numberのほかに野球専門誌で活躍。
WEBの世界でも「人間力×高校野球」(高校野球情報.com)と題した
コラムを連載している。
『“勇気”これだけです』 赤星憲広、走り続けた9年間の矜持
2010年02月05日 (金) | 編集 |
                田口元義 = 文  


「阪神・赤星引退」の速報が届いた直後、
ファンは様々な思いを寄せていた。

「本当に引退するの?」、「誤報であってくれ!」。
平面のモニターから映し出される
無機質なインターネット掲示板に載せられたコメントですら、
人の心が感じられた。

残念なことにそれは誤報ではなく、
赤星憲広は昨年12月9日の夕方に引退会見を行った。

理由は'07年から悩まされ続けていた頚椎椎間板ヘルニアからくる
怪我の悪化だった。
脊髄の損傷は身体の自由が利かなくなる恐れがあることはおろか、
最悪の場合、命を落とす危険性もある。
そのことが、赤星に苦渋の決断をさせた。


~「今までの人生で一番辛かった」勇気ある決断~

アスリートのなかには、
グラウンドやリングといった主戦場で死ねたら本望だ、
と意気込む選手がいる。
去年引退した格闘家の武田幸三は、
試合前には必ず遺書を書いていたし、
「本当に死ぬ決意で走る人間なんていないけど、
 僕にはその気持ちがある」と、
陸上選手の為末大は自らが抱く武士道を熱く語るなど、
表現の手法はそれぞれだ。

 
アスリートが持つ闘争心の最終地点が「死」だとすれば、
それに勝る美学はない。
しかし、本当に死を宣告、
もしくはその危険性が高いと断言された人間が、
死を公言しながら競技を続けることができるだろうか?
  

「プロとして100%のプレーができず、
 恐怖感を持ったまま試合に出ることを考えると身を引くべきだと感じた。
 よくグラウンドで死ねたら本望というけど、
 本望とは思えない自分がいた」
  

 
赤星は命の重みを自分に言い聞かせるように、事実を説明した。

レギュラーにこだわらなければ、
代走要員としてでもあと2、3年はプレーできたかもしれないが、
死という壁がそれを拒んだ。
「今までの人生で一番辛かった」と本人が言うように、
シーズン終了後から悩みに悩んだ末、
辿り着いた答えが「引退」だった。
彼は、勇気ある決断を下したのだ。  

~野村克也監督に見出された“勝つため”のスペシャリスト~

赤星は勇気あるプレーヤーだった。

プロ入り前は、言うなれば足だけの選手だった。
大府高校、亜細亜大学、JR東日本と野球の名門チームで
レギュラーとなれたのは、
それなりに打撃や守備も評価されてのこと。
ただ、今も赤星に「引退撤回」を促す野村克也氏の言葉を借りれば、
「全てそつなくこなせて通用するのはアマチュアまで」である。

プロ野球選手になるため、
プロ野球選手として生きていくためには、
己の立ち位置を見極めなければならない。
それを理解し意識改革をしたにせよ、
一流の選手になれる可能性などどこにもない。

'00年、シドニー五輪の強化選手として阪神のキャンプに招かれた際、
赤星の足が野村の目に留まった。

「当時の阪神で足が速かったのは高波(文一)くらいでしたが、
 赤星のほうが格段に速かった。
 それに驚かされましてね。
 平均的になんでもこなせる選手はいくらでもいる。
 チームを勝たせるためにはどうしても
 スペシャリストが必要になってくるわけですよ」

身長170cmと小柄な俊足選手に残された道は“足”しかない。
加えて24歳という年齢にドラフト4位の下位指名である。
高校、大学卒ならまだしも、
社会人出身に与えられるチャンスはそう長くはない。
プロへは行かず会社に残れば将来は安泰だったかもしれないが、
赤星は平凡な人生よりも野球人として刺激を求めた。
これも勇気ある決断だった。
  

~「盗塁」ではなく「出塁」にこだわり続けた9年間~

新人から5年連続で盗塁王になるなど、
プロ入り後の赤星の活躍は語るまでもないが、
彼がプロで一流になれたのは確固たる理念があったからだ。
もっと具体的にいえば、「盗塁」よりも「出塁」への意識の高さにある。
  

「数にこだわりは全くないです。
 僕の理念は、盗塁を得点に結びつけること。
 毎年目標にしているのは出塁率4割。
 そのためには3割以上は打たないといけないし、
 達成できればチームの結果もついてくる」
  

赤星のことを「勇気のある選手だ」と認識したのは、
盗塁について話していたときだった。
「足にスランプはありますか?」という問いに対して、
彼は即答する。

「そりゃあ、ありますよ。僕のようなタイプは、
 調子が悪くても出塁して得点に結びつける走塁が求められます。
 盗塁も積極的にするわけですけど、例えばその試合で2回、
 失敗したとしますよね。
 そうすると、次に出塁したときに
 『次もアウトになったらどうしよう』と不安になる。
 そう思った時点でスランプですよね。
 じゃあ、盗塁に何が必要か? 
 『勇気』。これだけです」―。  


~身を削りながら、周りに勇気と感動と夢を与えてきた男~

スランプとは弱さ。

弱さを認めなければ強さを求めることはできない。

根底に、「内角球を逃げず、三遊間にゴロを打て。出塁率を上げろ」
という「野村の教え」がある。
だから出塁率を高めるために'05年には打撃フォーム改造にまで着手した。

外野守備でも縦横無尽に、
そして勇猛果敢に打球に食らいついていった。
引退を大きく引き寄せてしまった9月12日のプレーにしても、
自らのセールスポイントを信じて疑わなかったからこそできたものだった。

 9年間、全力で走り続けた。

 走り続けた分、周りに大きな勇気を与えた。

盗塁をするたびに福祉施設や病院に車椅子を、
7年間で301台も贈呈したこと然り。

なにより、身体が小さく、力はなくとも一流になれるということを、
プロを目指す野球少年たちに教えてくれた。
文字通り、身を削りながら。

そんな赤星に、月並みだけどやっぱり
「ありがとうございました」と言いたい。
そして、「お疲れ様でした」とも。



【筆者プロフィール 田口元義氏】

1977年福島県生まれ。元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じてアスリートの魂(ソウル)を感じられる
瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。
引退試合『辞退』・・・最後までみせた赤星らしさ
2010年02月03日 (水) | 編集 |
昨年12月に突然の引退表明をした前阪神・赤星憲広さんが、
球団の用意した引退試合を辞退した。
『本当にありがたいお話で、私自身もぜひもう一度、
 最後にファンの前でプレーしたいと思いました。
 でもオープン戦とはいえ、開幕直前の大事な調整の場です。
 (中略)ものすごく悩みましたが、
 球団とも何度も話し合った結果、
 このような結論を出さなくてはなりませんでした』―。

赤星さんは沼沢球団本部長に託したコメントで、
辞退に至る気持ちをこう伝えた。
その引退表明も衝撃的だったが、
終始一貫してチームを起点に、自らの出処進退を考える。
赤星さんらしい決断には、ファンも納得して改めて拍手を送っている
ことだろう。

過去には、公式戦の真っ最中に引退試合もどきの
“茶番対決”が演出され、それが“美談”として報じられた
こともあった。
『チームとチームメイトを犠牲にしてまで自分の最後を飾り
 立てたいものなのか・・・』と、
不快な気持ちでその“引退試合”を見たのを覚えている。

また、球団を転々として、最後はメジャーに挑戦したが夢破れて
ユニホームを脱いだ江夏豊さんの引退試合は、
所属したどの球団からも企画されず、
有志を中心に東京・多摩にあった草野球の球場で開催された。


赤星さんは度重なる全力プレーの末に、満身創痍となり、
『このままプレーを続ければ、命の保証はできない』と
医師から勧告されてユニホームを脱ぐことを決意した。
あまりに突然の引退に、もう一度だけその姿をグラウンドで見たい、
というファンの声が球団にも多く寄せられていたという。
そうしたファンの願いを承知した上での、辞退の決断。
これが赤星さんの選手としてのけじめのつけ方だった。


『引退のときに選手の本当の姿が見える』―。
こう言ったのは巨人の長嶋茂雄終身名誉監督だった。

やんちゃでときにはファンのやり合うこともあった。
この数年は故障もあり、思うような結果を残せないシーズンも続いた。
しかし、赤星さんがいかにチームを第一に考えて
プレーを続けてきたか。
その本当の姿を見せた決断だった。


        サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
                      鷲田康氏
菊池雄星の大学進学への疑問 ~思い起こされる落合の言葉~
2010年02月02日 (火) | 編集 |
        鷲田康 = 文  

1993年12月のことだった。

その年、フリーエージェントで巨人移籍が決まった
落合博満内野手(現中日監督)と入団2年目を迎えようとしていた
松井秀喜外野手(現ロサンゼルス・エンゼルス)の対談に
立ち会ったことがある。

球界の大先輩との対談というのに、
約束の時間になっても松井が現れずに遅刻。
そんなハプニングもありハラハラしたことばかりが
記憶に残っているのだが、
その中で落合が最後に話した言葉を今でも鮮明に覚えている。

「女遊びをしてもいいし、酒を飲んでもいい。
 でも、まずすべてに優先して野球を考えろ! 
 まず野球、それだけだな……
 そうすれば他のことをやる暇はなくなる」

遅刻したことを怒るでもなく、
飄々と対談をこなした最後に残した言葉には、
落合らしい迫力が込められていた。
そしてその落合の言葉があったからかどうかは別として、
その後、数年間の松井は野球をまず第1に考え、
死に物狂いでバットを振り続けた。

~通信課程とはいえ大学に進学する余裕が今の雄星にあるのか?~

「本当にそんな余裕があるんでしょうかねえ……」

知り合いのスポーツ紙記者がいぶかっていた。

西武・菊池雄星投手(登録名・雄星)の“大学進学”問題だった。

プロ1年目のキャンプを目前にして菊池が、
東北福祉大の総合福祉学部通信教育部に
入学願書を提出しているそうだ。
書類選考に合格すれば、
4月からはプロ野球選手で大学生という二足のわらじをはくことになる。

もともと読書が趣味という雄星にとり、
今回の大学進学は引退後に「教師になりたい」という
夢へのスタートだという。

同学部はリポートの提出を中心に、単位を取得。
カリキュラムには老人福祉施設などへの2週間の実習も含まれ、
最終的には10年以内に124単位を取得すれば卒業して教員免許も取得できる。

もちろん雄星が夢に向かって踏み出すことにケチをつけるつもりはない。
むしろ野球だけではなく、自分の将来をしっかりと見つめて、
そこに向かって努力をしようという姿には、共感するところも多い。

だが、それが今なのかと考えたときに、
フッと思い出したのが落合の言葉だった。

プロの世界は、いうまでもなく厳しい。

たとえ“10年に一人”といわれる天才左腕であろうと、
これからは乗り越えなければならない壁がいくつもある。

今はまだ、そのことだけ、野球のことだけに専念して、
まず選手として一人前になってからでも、
第二の人生への準備は十分ではないのだろうか。 


~松井秀喜とイチローが挙げる一人前になるための条件とは~

そして野球選手が一人前になるにはどれぐらいかかるのかという
ヒントとして、
松井とイチロー(シアトル・マリナーズ)の2人が
同じ年数をあげていることを紹介したい。


~「3年間、きちっとした成績を残して初めて自信が持てる」~

日本を代表する2人のプレーヤーが、
軌を一にして「3年」という数字を口にしている。
1年、2年、結果を残してもそれが本当に自分のものなのかはわからない。
3年続けてある程度の数字を残したときに、
初めて自分のやってきたことに自信を持てる。
そしてそこが頂ではなく、
そこからがプレーヤーとしての本当のスタートになると
2人が口にしていることも、非常に示唆的だ。

それぐらいにプロの世界を生きていくということは厳しく、
全身全霊で打ち込まなければ“一人前”にはなれないということだ。


~“夢”を実現するためには野球に専念する勇気も必要だ~

おそらく今回、雄星が大学に合格しても、
しばらくは勉強に割く時間も体力も残らないような日々が続くだろう。
ただ、根がまじめな雄星だけに、
そうして思うように大学の勉強に取り組めないことが、
逆にストレスになってしまうのでは、という危惧もある。
だからやはりいま、
野球以外のことに取り組みだすことは、
決してプラスにはならないのではないだろうか。

「すべてに優先して野球を考えろ」

そのために今は“夢”をしまっておく勇気も、必要だということだ。





【筆者プロフィール 鷲田康氏】

1957年埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。
日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。