日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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慌しかった1年
2009年12月30日 (水) | 編集 |
明日で2009年も終わりますね。
あっという間の1年でした。
年を重ねる事に、時間が経つのも早く感じます・・・。  

9月から新しい仕事を始め、
自信を持って仕事に取り組めるようになりました。
その仕事帰りに私が自動車事故に巻き込まれ、
大波乱が我が家を襲い、
生活リズムが狂ってしまいました。
息子は4月、中学入学。
新しい生活に慣れようと勉強、野球と両立させ、
楽しく学校生活を送っています。
娘は目標を自ら設定して、
お兄ちゃんを見習い、ストレッチなどをし、
バドミントンや体育教科の課題をこなしていました。
お父さんは、息子の勉強や野球を熱心に指導し、
協力していました。

来年の息子の目標・・・は、
『攻』です。

保守的で引っ込み思案なところがあるのですが、
来年は積極的に前に出て、何に対しても攻撃していく
強いハートを持って欲しいな、と願っています。
チームは来年総体で『県大会優勝』という目標を掲げ、早い時期から
冬季練習メニューを設定し、個人個人の意識向上を図っています。

どこまでできるか分かりませんが、
強い気持ちを持って目標達成してもらいたいです。
チームに貢献出来るといいのですが・・・。

2010年は、息子のことも少し多めに書いてみようと思います。

みなさんが来年、幸多い1年になりますように。
来年も宜しくお願い致します。


                 kuni28
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生え抜きスターが監督に。 野村謙二郎が見せた潔さ。
2009年12月26日 (土) | 編集 |
~来季の広島は“脱ブラウン”~  

               永谷脩 = 文  


12年連続でBクラスに低迷する広島東洋カープ。
再生役として白羽の矢が立ったのは43歳の野村謙二郎である。

12球団最年少監督になる野村の現役時代は
緒方孝市、前田智徳とともに、
「広島三羽ガラス」と呼ばれ、
2005年には2000本安打を達成した名選手だった。

成績だけでなく、若手の頃から後輩に対する面倒見の良さ、
そして年長者に対しても自分の意見をきちんと伝えることで、
チーム内で存在感を発揮。
早くから将来の監督候補に挙げられていたものだ。

~前監督のメジャー流を撤廃し、広島伝統の猛練習で鍛え直す~

'09年、新広島市民球場が完成した時の目玉として
「野村を新監督に」という動きもあったが、広島フロント陣の
「1年目は目新しさでお客さんも集まるが、本当の勝負は2年目から。
 2年目以降は、広島の伝統を守り続けられる監督に任せることが、
 集客につながる」
という思惑で見送られたと聞く。
そしてこのオフ、満を持して広島の新監督に就任したのである。

「自分達が若手の時は優勝を狙えるチームだったのに、
 今ではクライマックスシリーズ狙い。
 これでは寂しい。
 入団したての頃、大下剛史ヘッドコーチから、
 休日でも引っ張り出されて猛練習させられた。
 その伝統を復活させ、チーム強化を図りたい」
と秋季練習から厳しい練習を行ない、改革に取り組んでいる。  


特にがらりと調整法を変えたのは、投手陣である。
「コントロールがロクにない連中が、
 20分の投球練習で切り上げるようではダメ」と、
徹底した投げ込みによる下半身作りを指示したのだ。 


~大野豊ヘッドコーチとの二人三脚で赤ヘル軍団復活なるか~

野村の片腕になるのが、現役時代を共に過ごし、
ヘッドコーチ兼投手コーチとして入閣した大野豊である。
大野も
「球数制限などで登板機会が少ないため、育ちかけた芽もなかなか伸びない」
と広島OBを嘆かせた前監督の投手起用を廃止し、
「猛練習を積み、苦労してこそ成長する」
という野村式起用法をサポートしていくはずだ。 


新指揮官は駒澤大時代の恩師、太田誠が
「アイツはどこに出しても恥ずかしくない」
と太鼓判を押すほどの好人物。
また退路を断って単年契約で臨む野村の潔さも、
OB達から歓迎されている。
持論である
「選手は走攻守、全部揃って一人前」を目標に掲げ、
赤ヘル軍団復活を目指す。

我が家のルール 菊池雄星
2009年12月23日 (水) | 編集 |
夏の甲子園、敗れてもなお観衆を魅了した花巻東のエース。
150kmを超える剛速球の持ち主は、
マウンドを降りても献身的な応援で仲間を鼓舞し続けた。
大勢の報道陣に囲まれても嫌な顔ひとつせず、
丁寧な受け答えに努める。
合後には大泣きし、国内かメジャーかを迫られ、また涙を流す――。


ただひたすらにまっすぐな、純朴を絵に描いたような青年は、
みちのく岩手の地でいかにして育て上げられたのか。

 なんとも間の悪い涙だった。

「いろんな人に迷惑をかけてしまったな、っていうのがあって。
ただ、誤解を与えてしまったことは申し訳ないんですけど……」

 ~日本プロ野球か、メジャーリーグか――。~

「20年にひとりの逸材」と言われた花巻東のエース、
菊池雄星の進路に関する報道合戦が始まったのは、8月24日、
花巻東が夏の甲子園の準決勝で敗退した翌日のことだ。

みちのくの18歳は、その間、ボールを1球も投げなくとも、
何度となくスポーツ紙の1面を飾った。
そんな前代未聞といってもいい騒動に終止符が打たれたのは
2カ月後のことだった。
日米合わせて20球団との面談を終えた菊池は、
ドラフト会議を4日後に控えた10月25日、花巻東で記者会見を開いた。

「日本でプレーさせていただきたいと思います」

それが、菊池が顔中ににきびを作った末に選び出した答えだった。
菊池はたどたどしいながらもいつもの丁寧な言葉遣いで約15分間、
自分の思いを語った。
そして、すべてを語り終えたと思いきや、突然、
菊池の頬を涙が次々とつたい始めた。

 ~相手の心情に同化してしまうがゆえに菊池は涙を流す~

 見慣れた光景といえばそうだった。

春の甲子園のときも、夏の甲子園のときも、試合に敗れたあと、
菊池は堰を切ったように泣き始め、
しゃくり上げながら2リットルの
ペットボトルがいっぱいになるのではないかと思えるほどの
大量の涙を流した。

「なんか、出ちゃうんですよね。
 負けず嫌いって言ったら、それまでなんですけど」


 ~左腕から繰り出されるストレートは最速155kmを誇る~

いや、泣いてしまうのは、自分が負けたときだけではない。
母の加寿子が話す。

「小学生のとき、お兄ちゃんの野球の試合についていって、
 勝っても負けても泣いていました。
 それでお兄ちゃんでも忘れているようなことでも
 覚えてるんです」

相手の気持ちがわかるというよりも、
完全に同化してしまう。
そして、その本人以上に深く感じ入ってしまうのだ。

 父の雄治も、証言する。

「シニアリーグの卒団式のとき、
 キャプテンの雄星が代表して3年生に贈る言葉みたいのを読んだんです。
 そうしたら、読みながら、もう、うううう……ってきてて。
 会場も、みんな、ううううううう……って」

以前も、雄治は同じ話をしていた。
よほど心に留まっているシーンなのだろう。
だがひとつ、注釈が必要だ。
後者の「うううう」のなかには、おそらく雄治も含まれていた。


 ~菊池が父から受け継いだのは恵まれた体格と溢れる涙~  

菊池がやり返す。

「小学校の卒業式のときは泣いたかもしれませんが、
 中学の卒業式のときは泣いてません。
 隣で父が泣いていたときはありましたけど。
 自分の子どもの卒業式でもないのに」

他の人に言われるのならまだしも、
父親に言われるのは納得がいかない、そんな様子だ。

「あの人こそ、すぐ泣きますよ」

身長188cmもある父から菊池が授かったものは、
大きな体だけではなかった。

菊池は会見の席であふれ出してしまった涙の根拠をこう語った。

「(メジャーの関係者に対して)遠くから足を運んでいただいたのに、
 結論が国内となって申し訳ないという思いです」

無念の涙――。
そう解釈したメディアも多かったが、ある意味、
菊池はそんなフクザツな18歳ではない。
恐らくは、メジャーを選んでいたとしても、
菊池は同じように涙したに違いない。
逆に、日本の関係者の期待を裏切ってしまった、と。

「常に、すごいって言われたいんですよね」
菊池は人を喜ばせたり驚かせたりすることが大好きな少年だった。
加寿子が思い起こす。

「私が帰ってくると、リビングとかがきれいに
 片付いていることがよくあった。
 暇だったからやっといたよって。
 ただ、大事なメモとかも捨てられてたりして……。
 でも一生懸命やってくれたのに、そんなことも言えないですしね」

実に微笑ましい。
そんなねつっこい献身ぶりは、その後も変わらなかった。
菊池が言う。

「常に、すごいって言われたいんですよね。
 だから、掃除でもピカピカにしたい。
 何か頼まれごとをしても、約束の日の2日前に終わらせるとか。
 どんなことでも、人よりも完璧にやりたいんです」

責任感とも、ちょっと違う。
ただ単に、相手の気持ちに応えたいのだ。
その思いは、菊池にとって本能と言ってもいいほどに御しがたい
感情だった。

「昔、ゲームカードとかでも、
 これ交換しようって言われたら断れなかった。
 向こうが弱いカードで、こっちが買ったばかりのレアカードであっても。
 あそこ遊びに行こうよって誘われたら、疲れてても行っちゃうし」

そんな菊池が、あの場面で、むしろ泣かないほうが不自然だった。
誠意を尽くしてくれたメジャー関係者の気持ちに応えるどころか、
失望させてしまったのだから。

その後のことまでには考えが至らなかったのはご愛嬌だろう。
会見に同席していた監督の佐々木洋が苦笑する。

「そこでおまえ泣くかと。何してんだよ……って。
 また、僕らが悪者みたいになるじゃないですか。
 仕向けたとか、操作したとか。
 いや、それにしても本当によく泣きますよね。
 しかも余計なときに(笑)」  

 ~人兄弟のなかで、雄星だけに与えられた特権~

菊池がいちばん初めに泣いたのは、1991年6月17日、
岩手県盛岡市にある病院のとある一室だった。
体重は4185gもあった。

北斗七星からとった長男の雄斗、
南十字星からとった長女の美南にならい、
菊池にも宇宙にちなんだ名前がつけられた。
それが雄星という名だった。
ちなみに3歳下の妹は星花だ。
『銀河鉄道の夜』で知られる作家、宮沢賢治の故郷にふさわしい、
透明感と強さを兼ね備えた名前だった。

菊池が生まれもった気質を徐々にのぞかせ始めたのは、
1歳になったばかりのころだった。
母の加寿子が思い出す。

「まだ真っ暗な時間にハイハイをしてきて、
 外に連れてけって髪の毛を引っ張ったりする。
 だから朝の3時とか4時にベビーカーで近くの公園を散歩していたんです。
 あのころは毎日もうへろへろでしたね」

菊池家では、そんな菊池を「野放し」にして育てたのだという。
3番目の子どもで少し大らかになっていたのもある。
無論、男の子だということもあった。
そして何より、菊池に限っては、
それがしてあげられることのうちで最高のことだと思った。
加寿子が語る。

「小さいときからとにかく目立ちたがりで、かわいらしくて、
 見ているだけで楽しかった。
 好奇心が旺盛なので、今日は何をしてくれるのかなって
 ワクワクしているような感じでしたね。
 動物が大好きでしたから小岩井農場なんかへ行くと、
 羊をずーっと眺めていたり。
 4人のなかでも、いちばんおしゃべりでしたし。
 そういったのびのびとした感性をそのままにしてやりたかった。
 だから、細かいことで怒るのはやめようって。
 そもそも腕白な反面、考えはしっかりしていましたから、
 怒る材料もなかったですしね」

(続きは Number743号 で)






【筆者プロフィール 中村計氏】

1973年千葉県出身。
ノンフィクションライター。某スポーツ紙を経て独立。
『Number』(文藝春秋)、『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。
『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で
第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。
他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、
共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。
『雪合戦マガジン』の編集長も務める。
趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。
赤星憲広と高橋吉伸 “ギリギリ”を避けるプロの勇気
2009年12月21日 (月) | 編集 |
 鷲田康 = 文  


野球ではスピードがあって、
守備センスの高い選手ほど余計な失策を犯すことがある。

普通の選手ならば追いつかない打球にギリギリで追いついてしまう。
体勢を崩して、ムリに捕球をするので、
ボールを捕り損ねることもある。
それが追いついてグラブに触れたがために、
失策として記録されることがあるためだった。

 これは選手のケガでも同じだった。

運動能力の高い選手ほど危険なプレーに挑んでしまう傾向はある。
ギリギリのプレーをしてしまう。
してしまうというより、できてしまうという方が正しいのだろう。
捕れそうもない打球にギリギリで体を伸ばし、
ダイブして捕球しようとする。

そのムリな捕球やダイブの衝撃に、体は悲鳴をあげてしまうわけだ。  


~原監督が高橋に命じた“ダイビングキャッチ禁止令”の真意~

2006年に巨人の原辰徳監督が、こんな指令を出したことがある。

「ヨシノブ、もう飛ぶな!」

高橋由伸外野手もそんな、
ギリギリができてしまう選手の一人だった。

入団2年目の1999年には打球を追ってフェンスに激突して鎖骨を折った。
その後も2005年には打球を追って外野フェンスに足を取られて
右足首を捻挫した。
そしてこの年、
シーズン開幕直後にダイビングキャッチを試みて左わき腹を痛めて
1か月近く欠場。
復帰した直後の5月末に再び、打球を追ってダイブして左肩を強打した。

「1つのアウトをとるためにギリギリまでボールを追うのは、
 野球選手にとって本能のようなものだけどね。
 でも、主力選手の務めとは何なのか。
 それを考えたら彼のプレーは軽率といえるかもしれない」

原監督はあえて厳しい言葉を吐いて、
高橋にダイブ禁止を申し渡した。

1つのアウトのために、主力選手が長期欠場という代償を払うことは、
結局はチームにとってマイナスになる。
だから本能のままに飛ぶことは、
決してチームプレーではないということだった。  


~命を危険にさらしてまで全力プレーにこだわり続けた赤星~

「100%の力を毎試合出せなければ、他の選手に勝つことはできない」

阪神・赤星憲広外野手の引退会見の言葉だった。

この男もそんなギリギリのプレーができてしまう選手の一人だった。

9月12日の横浜戦。
打者・内川の放った右中間の飛球を追ってダイブした。
すでにこのときまでに赤星の体は首はムチ打ち、
腰は椎間板ヘルニア……と過酷なプレーの積み重ねでボロボロだった。
そしてダイブして体をグラウンドに打ちつけた瞬間に、
残された1本の糸が切れた。
立ち上がってもヨロヨロと体が揺らぎ、まともに歩くこともできなかった。

「中心性脊髄損傷」と診断されたのは10月の再検査でのことだった。

「今度やってしまったら、最悪、命の危険もある」

担当医の言葉にこのスピードスターは、
ユニフォームを脱ぐ決意をせざるを得なかった。



~観客を沸かせるファインプレーの代償が選手生命とは…~  

野球の醍醐味の一つは、球際のプレーである。
テレビで見る好プレー集の華麗なダイビングキャッチの連続には、
胸のすく爽快感がある。

「目の前に打球が飛んできて、
 捕れると思った瞬間には飛びついてしまう。
 その瞬間の頭は真っ白。ケガのことなんか考えられない」

高橋は飛ぶ瞬間の心の内をこう話していた。

赤星もまた、
その瞬間には自分の傷みきった体のことなど吹き飛び、
目の前のボールを捕る、という本能だけだったはずだ。

ただ、本能に赴くプレーは、
あまりに大きな代償を支払うことになってしまった。

不必要なケガを避けるためには、
“飛ばない勇気”も必要だ。  

選手のグラウンドでの務めは、
勝利のためにできうる限りの
最高のパフォーマンスを繰り広げることにある。
ただ、プロ野球の世界は、シーズン144試合、
毎日のように試合があり、日々違ったファンが観戦にやって来る。
そのファンのためにも、
元気にグラウンドに立つこと、
それこそが選手たちの最初の務めであるはずだ。

ケガをしないプレーをする知恵、
飛びそうになったときに飛ばない勇気―
赤星の悲劇を聞いたとき、
選手にはその知恵と勇気もまた必要だと、改めて痛切に思った。




【筆者プロフィール 鷲田康】

1957年埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。
貫き通したこだわり
2009年12月19日 (土) | 編集 |
サンケイスポーツ連載
『松井秀喜 世界一までの2486日 ~⑲~』より

アレックス・ロドリゲスのフリー打撃は
見る者に強烈な印象を残す。
引っ張った左翼はもちろん、流した右翼にも飛距離十分の
鮮やかなアーチをかける。
どよめくファンの目を意識しているかのように、
大振りをすることもある。
まさにショータイムだ。

松井秀喜はどうか。  

巨人時代は米大リーグの公認球よりも飛ぶと評される日本のボールを
使っていたとあって、
ピンポン球のように打球を飛ばした。
清原と並んだ宮崎キャンプでのフリー打撃は
名物メニューになったほどだったが、
ヤ軍での光景はというと地味なイメージは拭えない。  

練習でサク超えが減った原因―。  
 
使用球とともにバットに理由がある。
巨人時代からフリー打撃では
約1㌔のマスコットバットを使っている。
実際に試合で使用するタイプよりも約100㌘重い。
スイングスピードもおのずと遅くなり、振りは鈍る。
日本の打撃練習の球速の方が速く、球も軽かったため、
当たったときは飛んだ。
  


大リーグではロドリゲスをはじめとして
ほとんどの選手が、試合用と同じ重量のバットを練習で使う。
松井のファンサービスの意識は高い。
時間が許す限りサインや記念撮影に応じる。
試合用のバットを手にして打撃練習をすれば、
ほかのスラッガーと同じように
ファンを喜ばせることもできるのだろうが、
  
7年間かたくなにマスコットバットにこだわった。  

『プロに入ったときからやっていることですからね。
 理由は単純。
 練習で重いバットを振っておけば、試合では軽く感じる。
 速く振っているという感覚が持てる。
 あくまで気持ちの問題だけどね』―。
  

ゴジラ流の重いバットを使った打撃練習に関心を持ち、
『マスコットバットを分けてくれ』と寄って来る若手もいた。
大リーグでの松井の練習を見学して落胆しないでほしい。
派手な本塁打は試合で打ってくれればいい。


                      構成 阿見俊輔氏
弟子をつねに気にかけていた師匠
2009年12月16日 (水) | 編集 |
サンケイスポーツ連載 
『松井秀喜 世界一までの2486日 ~⑮~』より

蒸し暑い夕方だった。
2008年7月2日、私は米ヒューストンの
ミニッツメイドパーク(アストロズの本拠地)にいた。
練習中、三塁ベンチ前から先発予定の
ドジャース・黒田博樹投手の動きを見ていると、
不意に肩をたたかれた。
振り向くとジョー・トーリ監督が立っていた。

『ヒデキは元気にしているか?』

師匠は弟子を気にかけていた。
1998年から2000年にかけて、
ヤンキースを3年連続の世界一に導くなど、
名将と称されたトーリ監督のもと、
松井秀喜は2003年から2007年までの5年間、働いた。


くせ者揃いのスター軍団となれば、指揮官でさえ多少遠慮する部分が
あっても不思議ではない。
だが、松井が見たトーリ監督は一切、妥協しなかった。
どこか懐かしい気分になった。
『トーリ監督は絶対に疑問やミスをそのままにしない。
 ジーターだろうがマイナーから上がってきたばかりの
 若手だろうが、プレーで気にかかる点があれば
 ベンチの中で声をかけて、
 みんなの前で確認するのです』―。

ゴジラも例外ではなかった。
オープン戦の左翼守備中、中堅守と飛球をめぐって“お見合い”を
した後も、ベンチで
『なぜ、ああなった』『声は出ていたのか?』と
事情聴取をされた。
走塁一つ先の塁に行けそうなのに自重した時も、
『なぜ、止まろうと思ったのか』と説明を求められた。
『監督から呼ばれるかな・・・』と心当たりのある時は、
ほぼ呼び出しがあった。


お小言の場合だけではない。
打順や守備位置が変わるときは必ず、事前に理由や意図を説明された。

『監督と選手という関係だったら、
 いちいち言わなくてもいいのでしょうが、ありがたいです』と
意気に感じた。


野球に取り組む姿勢、価値観、ファンサービス、ユーモア好きなところ、
細やかな心遣い・・・。
以前、そんな指揮官と出会っていた。
『懐かしい』と感じたのも当たり前だった。
その人も毛深かった。
松井はトーリ監督に、巨人時代の長嶋監督を見た。


                   構成 阿見俊輔氏
 
お陰様で3周年
2009年12月15日 (火) | 編集 |
3年前の今日、このブログを立ち上げました。
きっかけは、息子の野球記録や教育について語り合う場を
提供することが目的でした。


実際ふたを開けてみると、毎日野球関係の話題に目が移り、
色々な記事を通して野球の奥深さなどを知るきっかけにもなり、
また、日々気になる記事を取り上げ考えさせられ意見を
書かせてもらったりもしました。


本当は息子の野球日記をメインにしたかったのですが、
このブログで取り上げた記事を、
息子が迷ったり悩んだりした時に読んでくれたら・・・と
期待しつつ、書いています。


このブログに惜しみなく来て下さる方々には
感謝の気持ちでいっぱいです。
『一緒に育てよう!』という言葉、
私の強い気持ちが込められています。

また機会があればお話すると思いますが、
これからも末永くよろしくお願い致します。
苦しみから救ってくれたペンギン
2009年12月15日 (火) | 編集 |
サンケイスポーツ連載
『松井秀喜 世界一までの2486日~⑪~』より

~テレビで応援する日々―。孤独なリハビリ中に学んだ忍耐力~

けたたましいサイレンの音を耳にすると、
松井秀喜は今でもあの瞬間を思い出す。

2006年5月11日、レッドソックス戦の守備中に、
左手首を骨折し、
ヤンキースタジアムから救急車で病院に搬送された。
05年6月の右足首ねんざの故障は乗り切り、
なんとかつなげた連続試合出場記録は『1768』で
あまりにも突然に止まってしまった。


野球人生で初めて、長期の戦線離脱を経験した。
しばらくは自宅での安静を言い渡された。
患部の状態が落ち着くと、ヤンキースタジアムにも
姿を現すようになったが、試合開始前には自宅に戻る生活が続いた。


毎日のようにテレビで仲間を応援する。
試合中は一球一打に熱くなり、ときには声をあげて勝利を願った。
ところが、試合終了後は必ずといっていいほど、
申し訳ない気持ちとむなしさ、焦りなどに胸を締めつけられた。

“おれは一体、ここで何をやっているんだ”―。

部屋に閉じこもりがちになり、ため息をつく回数も増えた。
そんな孤独なリハビリを支えてくれたのは意外な生き物だった。


時間があると、父・昌雄さん(67)が送ってきた
ドキュメンタリー映画『皇帝ペンギン』のDVDを
自宅で鑑賞した。
南極周辺に生きるコウテイペンギンの雄は真冬に雌の産んだ卵を預かり、
かえるまでの2,3ヶ月間、温め続ける。
マイナス50~60度に冷え込む南極で雄たちは絶食し、
体を寄せ合ってひたすら卵を守る。
作品中のペンギンに自分の境遇を重ねた。

『この作品を見てコウテイペンギンの雄は本当にすごいと
 感心しました。
 南極で生きるたくましさ、忍耐力。
 今の僕に必要なことばかりで勉強になります。
 自然の風景にも癒されました』―。


約4ヶ月のリハビリ中、“メンタルコーチ”には
お世話になりっぱなしだった。
翌年のキャンプにもDVDを持参するなど、
その後も頼りにする機会があった。
ゴジラはかわいいペンギンに頭が上がらない。


        構成 阿見俊輔氏 
究極の練習法を教えよう
2009年12月15日 (火) | 編集 |
サンケイスポーツ連載
『松井秀喜 世界一までの2486日 ~⑱~』より

~『素振り』を生活の一部に~

部屋の照明を絞ると、窓には鮮やかなマンハッタンの夜景が
浮かび上がった。
エンパイアステートビルやクライスラービルが競い合うように、
光を放っている。
  

試合を終えて帰宅した松井秀喜は、
休む間もなくジャージに着替えると、
窓を大鏡代わりにしてみずからの姿を映した。
  

褐色のマスコットバットを手にして、
球場で投手と相対するときのように慎重に構える。
おざなりではなく、
一振りずつ目的を持って振っているように見えた。
ニューヨークだけではない。
キャンプ地・タンパでも、遠征先でも、
オフに帰国したときの東京でも・・・。
素振りは、世界一までの2486日、いや、
野球を始めた少年時代からの日課だった。
  

『素振りは究極の練習です。
 想像力次第でどんな状況にも身を置ける。
 例えばまず、投手の姿を思い描く。
 球種とコースを考える。
 球の高低、内か外か。
 直球を打ちにいきカーブが来た、などの自由な設定も
 素振りでは可能。
 僕はどの球、コースでもセンターに打ち返すイメージで
 振ります』―。
  


1時間でも2時間でもバットを振っていると、
スランプで逆立つ気持ちも安らいでいった。
好調の時は少しでも長く維持しようと熱が入った。
  

意味がないのは『何も考えずただ振る』ことだと言う。  

必ず、試合での打席をイメージして振る』のが大切だと説く。  


『音も重要です。
 振りが鋭いと空気を切る音が“ビュッ”とする。
 鈍いと“ボワッ”と割れるんです。
 音の違いは(巨人時代に)長嶋監督とやっているうちに、
 分かるようになりました』―。
  

究極の練習法で肝要なのは
『本気度』と『音』だ。
ワールドシリーズMVPは偶然やまぐれではない。
『これまでどれだけ振ったのかなんて分からない』―。
日常となったバットスイングがあったからこそ、
世界の頂点に立てた。


                  構成 阿見俊輔氏
山口鉄也、松本哲也らは成功したが、育成枠にはまだ改善の余地がある!?
2009年12月14日 (月) | 編集 |
氏原英明 = 文


今年のセ・リーグ新人王に育成選手出身の松本哲也(巨人)が輝いた。
昨年の山口鉄也(巨人)に続く、育成枠からの2年連続の受賞である。
そして山口は、プロ入り4年目で1億円プレイヤーになった。

新語・流行語にもノミネートされるなど、
世間ではこの育成枠という制度を称賛する声が続発している。
育成枠出身者が2年連続の新人王受賞となれば、
そう言いたくなるのはもっともな話だし、
選手を育成することの重要性を改めて教えてくれた制度といえる。
育成枠を上手く活用した巨人の若手成長率が急速に伸びているのも、
そうした背景が関係しているのだろう。

ただ、だからと言ってこの制度自体が成功かと決めつけるのは、
まだ早計だと思う。
育成選手制度にもまだまだ改善点があることは
意見していかなければならない。


~社会人野球の衰退を補うような制度を期待したのだが~  

2005年に始まった育成選手制度は、規約によると、

<連盟選手権試合出場可能な支配下選手登録の目的達成を目指して
 野球技能の錬成向上およびマナー養成等の野球活動を行うため>

 と定義づけられている。

つまり、この制度はプロ野球の二軍の力にはまだ及ばない
選手を鍛え上げ、育った時には支配下に登録し一人前の戦力として
契約できるのだ……という解釈ができる。

その設立趣旨に関しては非常に意義のあるものだと思っている。

 
社会人野球が衰退の一途をたどる昨今、
セ・パ各チーム70人という限られた支配下登録枠では、
隠れている才能もそのまま消えてしまいかねない。
アマチュアの若い才能を発掘するという面で、
野球界に一石を投じた素晴らしい制度ではないだろうか。  


~育成選手制度が球団側の都合で変質してきている?~

しかし、山口や松本の成功から、少しずつ、
この制度の本来の趣旨にズレが生じてきているのではないか
と思えてきた。

 あるスポーツ紙記者がこんなことを話していた。
「確かこの制度が始まった当初、
 育成選手というのは二軍の選手に育てるための制度だったはず。
 この設立にかかわった方も最初はそうだといってましたけど、
 今はそうじゃなくなっています。
 確実にハードルが上がっている」



~育成枠から支配下登録された15人中9人がすぐ一軍へ~  

山口がそうだったように、彼らは当初の趣旨にあったように
「じっくり育てて二軍で活躍できるレベルになった」として
支配下登録されたのではない。
一軍の戦力として前から目をつけられていて、
二軍に枠が無かっただけの選手なのだ。

事実山口は1年目のシーズン、
イースタンリーグで防御率1点台を残したが、
支配下登録枠に空きがないという理由で、
支配下登録が翌年4月にまでずれ込んでいる。
そして、同月にいきなり一軍昇格も果たしている。
実はこういうケースでの昇格選手は意外と多く、
育成枠から支配下登録された選手の15人中9人が支配下登録後、
まもなく一軍の試合に出場している。

阪神の野原祐也が典型的な例である。
今年の開幕から育成枠1位の選手として二軍戦で常時試合に出場し
大きな戦力になっていたのだが、
なかなか支配下登録にはならなかった。
ところが、登録リミットの7月末、突如支配下登録される。
そして、9月には一軍に登録され、スタメン出場まで果たした。

本来、二軍レベルにまで育ったら
支配下登録されるというものであったはずが、
いつしか一軍の戦力になるまで
支配下登録されなくなったのである。

ここに育成選手制度の問題点があるような気がしてならない。  


~育成」と言いながら猶予期間が3年しかないのは厳しすぎ?~  

 もうひとつ難しい問題もある。

規約によると育成選手は3年の契約期間内で
支配下登録を締結できなければ、
自由契約選手となることが決められている。

再契約はもちろん可能で、今年、
ソフトバンクの山田大樹が再契約を勝ち取っているのだが、
3年の契約期間内で、と決められているところに疑問を
感じてしまう。

新人の育成選手というのは
ドラフトで支配下選手として選択されなかった選手である。
言い換えれば、支配下のドラフトで選ばれた選手より、
実力が劣ると判断されているわけだ。
新入団の選手が一軍に定着するまで、
大卒では2、3年、高校卒だと4、5年かかるというのが常である。

それにもかかわらず、レベルがそれほど高くないと判断された
育成枠出身の選手に実質的に3年間で一軍の戦力になれ、
というのは酷すぎる話ではないだろうか? 
この3年以内に結果を残さなければいけないという事実は、
まだ10代、もしくは20代前半で人生を歩き出したばかりの
選手にとって過酷な条件であるのは間違いない。
勿論、プロなのだから厳しいのはしょうがない……
という考えも理解しての意見である。  


~育成枠は、夢を追う若い選手と球団のどちらに有利なのか?~  

現時点で育成枠を活用し、成功しているのは巨人だけといっていい。
巨人にしてもその成功裏にあるものは、
来シーズンの育成枠を含む選手登録を84人も抱え
育成していけるだけの資金面・環境面の充実があるからだ。  


~全球団が巨人ほど大量の育成枠選手を抱えることが
 できるとは到底思えない~  


ただ若い世代の選手達は育成枠であれ「プロに入りたい」と、
入団を望んでくる傾向にはある。
だからこそ、たとえ育成枠で多くの選手を抱えるにしても、
彼ら若い選手の一度しかない人生が使い捨てにならないよう、
より慎重に扱ってほしいと切に願っているだけである。

山口や松本の成功の陰で、
育成選手制度に光が当たってきたが、まだまだ課題は山積だ。  



【筆者プロフィール 氏原英明】

1977年ブラジル生まれ。
奈良大学を卒業後、地方新聞社でのアルバイト勤務を経て、
フリー活動を開始。
高校野球を中心に活動を続けるが、
野球を通じた人間性、人生観を伝え続け、
Numberのほかに野球専門誌で活躍。
WEBの世界でも「人間力×高校野球」(高校野球情報.com)
と題したコラムを連載している。
イチロー流新調整術
2009年12月08日 (火) | 編集 |
2009年、米大リーグ、マリナーズ・イチロー(36)には
9年連続シーズン200安打の記録がかかっていた。
ウィリー・キーラー(オリオールズなど)の持つ
8年連続のメジャー記録を108年ぶりに更新できるか―。
日米の注目も集まっていた大事なシーズン。
実は、ひそかな『冒険』をしていた。
そのことを本人が明かしたのは、
10月4日の今季最終戦が終わった後だった。
  

『今年はマッサージを極端に減らしたんですよ』―。  

シーズン中のイチローは、試合前の『準備』に
驚くほど時間をかける。
本拠地シアトルでのナイターの日は、
試合開始の6時間前には球場入りし、ストレッチやマッサージなどで
体をほぐしてからチームの練習に加わる。
渡米後8年間、このルーチンは崩さなかった。
  

それを変えた。  

毎日1時間半かけていたマッサージを
『月に2回くらいしか、しなかった』と振り返る。
マッサージは体のケアのために欠かせなかった。
ただイチローは、ずっと微妙な違和感を感じていた。
『体がむくんで(打撃の)感覚が少しずれる』―。
今シーズン前、森本貴義トレーナーに、
そう相談した。


3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)後に
胃潰瘍を患って開幕8試合を欠場。
  
例年以上のペースで安打を量産するために、
打撃の感覚を優先したい気持ちもあったのだろう。
大記録がかかった年に、あえて新しい調整法に挑んだ。
  

効果は表れた。  


毎年ある先はスロースタートだが、4月から打率3割をキープ。
5月から6月に自己最長となる27試合連続安打もマークし、
球宴前の前半戦はメジャー9年目で自己最高の
3割6分2厘を残した。
  

ただ、心配していたことも起こった。
疲れを抜くため、マッサージの代わりに試合後にサウナに入ってきたが、
8月下旬に左ふくらはぎを故障して8試合欠場。
9月13日のレンジャーズ戦で200安打は達成したものの、
最終的な打率は3割5分2厘となり、
5年ぶりの首位打者を逃した。
  


しかし、イチローは故障も財産だったという。  
『(疲れがたまっていた)あの状態で、
 どうすればああなるかが、見えた』―。
新しい『準備』の仕方について、来季以降への可能性を
見出していた。
  

結果を残していれば、調整法など変えないのが普通だろう。
現状に満足せずに、絶えず『挑戦』する姿勢。
イチローの向上心の強さを改めて知った。


                読売新聞 フィーチャー2009より
                            霜田聖氏


大道の野球人生が急旋回
2009年12月07日 (月) | 編集 |
あの1本の安打がなかったら・・・。
今年の日本シリーズの激闘の陰で、
もうひとつのドラマがあったことはあまり知られていない。

シリーズ第5戦の8回だった。
1点を追う巨人の攻撃。
一死三塁から大道の放った中前適時打を原監督はこう振り返った。
『センター前に打ったヒット、なんてものじゃなかった。
 本当に気持ちで、執念で落とした打球だった』

この執念の適時打で試合は動き、
巨人は9回に劇的な亀井と阿部の本塁打でサヨナラ勝ち。
日本一に大手をかけシリーズの流れを決めた。
そしてこの1本で、大道の野球人生も急旋回した。

今季限りで引退した中日・立浪、阪神の桧山と同期の40歳。
代打屋として1打席勝負で生き残ってきたが、
今季は出場試合も37試合と激減した。
代打の成功率も得点圏では13打数1安打。
しかも出塁しても代走が必要なため、
ベンチにはもう一人、選手が必要になってしまう。


実はシリーズ開幕前、球団は大道と来季の契約を結ばないことを
決めていた。
リストラの波に飲み込まれ、今季限りでユニホームを脱ぐことが
決まっていたのだ。
そんな中で放った安打。
しかし、大道の人生をリロードしたのは、単にこの適時打を
放ったことだけではなかった。
なりふり構わずチームの勝利のためにすべてをかける。
『野球とはそういうものなんです。
 ヒットを打たなければ彼はユニホームを脱いでいたでしょう。
 でも、常にああいう気持ちを前面に出して
 献身的にプレーしてきたから、
 あのヒットで野球人生がまた開けた』

指揮官は感慨深げにこう振り返った。
一度終わった人生。
だから来季の大道は『代打の神様になる』と言う。

先日4日、大道は球団と来季の契約を更新し、
神様としての人生を歩みだした。


             サンケイスポーツ『球界インサイドリポート』より
                           鷲田康氏
私事ですみません・・・
2009年12月06日 (日) | 編集 |
私事で恐縮ですが、先月27日金曜日、
仕事帰りにバイパスの交差点で
事故に巻き込まれ、救急車で医大へ搬送されました。
赤信号で停車中だった私の車に、
居眠り運転の4tトラックが衝突し、
私が乗車している3列シートの2列まで
車体がめり込んできました。
むち打ちと右足肉離れの軽傷で済みましたが、
救急隊員の方は、
『不幸中の幸い』と事故現場で絶句していました。
症状が少しずつ出てきているので、
通院し治療に専念しております。

もちろん10:0です。
自分の生命もですが、
主人と初めて購入し、9年乗った愛車をいっぺんに失い、
ショックで食事も喉を通りませんでした。
子ども達との思い出もたくさん詰まっていました。
主人が先日、破壊された自動車の中の荷物を
取りに整備工場へ足を運びましたが、
見るも無残な愛車に
『いくらなんでも、あれはひどい』と
肩を落として帰ってきました。
と同時に、よく助かったな、と
安堵の表情で私を見ました。

その数日後、墓参りへ主人と向かい、
見守って下さり助かったことに感謝し、
ご先祖様に手を合わせてきました。

これから年末年始、
乱暴な運転をするドライバーが急増すると思います。
私のように、気をつけて・・・というか
信号赤で停車中の車にぶつかってくることもあります。
自分の運転を過信せず、安全運転しましょう。
歩行者への心遣い、ドライバー同士の譲り合い。
気持ちに余裕を持って運転しましょう。
これでいいのか辻本賢人!! 阪神をクビになった20歳は草食系。
2009年12月06日 (日) | 編集 |
                     田口元義 = 文  

 結局、30分以上は待っただろうか。

11月25日のこと。
場所は神宮球場内の関係者通路。
大勢の報道陣が彼を待ち続けていた。
なかには他の参加選手の結果を気にしている記者もいたし、
暇をもてあまして携帯電話をいじっているカメラマンもいた。

今季最後となる第二次合同トライアウトで投球を終えた彼は、
選手控え室に入ったきり出てこない。

15分くらいたった頃、扉越しから声が聞こえてきた。
すべては聞き取れなかったが、断片で判断すれば、多分、こんな内容。

「(取材は)メシ、食べてから」

20歳の若者は、自分よりもはるかに年上の人間たちをやきもきさせていた。
悪気はないのだろうが、やっぱりよくないと思った。
なにせ、置かれている立場が以前とは明らかに違う。
彼は「クビになった人」なのだ。
「メシなんていつでも食えるんだから、早く出てきてくれよぉ」。
これが、その場にいた大人たちの共通認識だったはずだ。

実力が認められれば周囲はある程度の言動は許してくれるだろう。
ただ、多くの人間は、ときには褒められ、
またあるときは厳しい評価を下され、辛い現実に直面する。
その繰り返しなのだ。  


15歳だった辻本賢人は間違いなく前者だった。
そして、阪神から戦力外通告を受けた20歳の辻本賢人は、後者となった。 


~戦力外通告を受けた20歳。プロの思い出は「ないです」。~

トライアウトでの投球の率直な感想としては、
やっぱりダメなのかな? だった。
打者5人に投げ、安打は西谷尚徳(元楽天)に打たれた二塁打のみだったが、
ストレートの最速はたったの134km。変化球は100kmと少し。
カメラマン席で観ていた限りでは、カーブにしては変化が小さすぎるし、
スライダーだとしても球速が遅すぎた。

メシを食べ終え(?)、ようやく報道陣の前に姿を現した辻本は、
具体的な投球内容について、小さな声で淡々と球種を並べる。

「真っ直ぐ、ツーシーム、カーブ。あと、スライダーも投げたかな?」

「今日のピッチングについては?」という質問に対しては、
「今できることはできたと思う」と言った。
それなのに、なぜ自分で投げた球種を把握できていなかったのか?

 
11月11日に甲子園で行われた第一次のトライアウトのときもそうだった。
戦力外を受けてからどのように過ごし、
今後をどう見据えているのかが明確に伝わってこなかった。

そして最も驚いたのが、「プロでの思い出は?」の問いに、
少し間を置いてから「ないです」とポツリと答えたときだった。 


~プロ野球史上最年少の15歳で指名を受けたことは思い出ではなかったのか…~


12歳で単身渡米した辻本は、
15歳になる頃には最速142kmの速球を誇る投手へと成長を遂げ、
日本の球団からも注目されるようになった。
そして'04年、15歳にして阪神からドラフト8巡目で指名された。
「ワンダーボーイ出現」「将来のエース候補」など、
獲得した阪神のみならずプロ野球全体が彼の明るい未来を想像した。   


~「5年後にはものすごいピッチャーになっている」はずが…~

ところが、現実は甘くはなかった。
1年目こそ二軍でプロデビューを飾ったが、
その後は度重なる故障に悩まされ、
5年目の今年にはとうとう育成枠に降格。
背番号も61から121へと変更された。
再起を誓うはずだったが、シーズン前に腰椎の疲労骨折が発覚し、
1度も実戦のマウンドに上がることなくシーズンを終えた。

入団直後、辻本のコンディショニングを担当していたこともある
立花龍司が、ある雑誌で言っていたことを思い出した。

「5年後にはものすごいピッチャーになっていると思いますよ」

5年後とは今年。
辻本はものすごい投手どころか、プロ野球選手という肩書きを失った。
一軍での登板はゼロ。
二軍で25試合、0勝1敗、防御率5.33。
これが今のところプロでの全成績である。

恐らく、阪神以外の球団に入っていても似たような結果になっていただろう。
理由はいくつも考えられる。
年齢相応のトレーニングができなかったことや、
アマチュアでの経験と実績から生まれる自信、などなど。
それでも本人は、
「5年間、お世話をしてくれた阪神には感謝しています」と言った。
それはそうだろう。
彼の野球人生で最も長く在籍した場所なのだから。
前向きに捉えれば、
阪神は初めて高校生以下の選手の面倒を見たことで何かしらの
教訓を得ることができただろうし、
辻本自身、日本一ファンから支持されている球団にいたことで
スポットライトを浴びることができた。
互いにとってプラスの5年間だと思いたい。  


~辻本の世代は今まさに“ゴールデンエイジ”となったのに~

皮肉なことに、現在、辻本と同い年の選手が野球界を席巻している。
プロでは田中将大、坂本勇人、アマチュアでは斎藤佑樹。
1歳下には中田翔や由規、唐川侑己と、
言うなれば彼らは「ゴールデン・エイジ」となった。

一方、その世代の筆頭と目されていたワンダーボーイは今、
岐路に立たされている。
戦力外になったこと、今後の野球人生について、
20歳の若者はどのように考えているのだろう。
一次、二次のトライアウトでの辻本のコメントをまとめればこうなる。

「プロの世界において20歳で戦力外になることは当たり前のことだと思います。
 まだ、どこからもオファーはきていませんが、
 日本の球団で野球を続けたい。
 独立リーグや海外も頭には入っていますけど、
 それはまだ具体的に考えていません」

模範解答を聞いているようだった。
個人的には20歳でクビになることが当たり前なことではないと思っているし、
5年のプロ生活は別として、
2度のトライアウトの投球には「力を出せた」と言ってほしくはなかった。

辻本は物静かな男だ。
性格もあるだろうから語調までは求めないが、
こういうコメント内容を本当は期待していた。

「トライアウトでの投球は全然、納得していません。
 僕の力はこんなものじゃない。
 年齢も20歳だし、まだまだ伸びる自信がある。
 それを証明するために日本で野球を続けたいんです。
 だから、宜しくお願いします」

 やっぱり、これくらいの負けん気はほしい。

 だってまだ、ハタチなんだから。





田口元義
1977年福島県生まれ。
元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じてアスリートの魂(ソウル)を
感じられる瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。