日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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ライバル物語の続きはプロで
2009年09月29日 (火) | 編集 |
明豊・今宮と常葉橘・庄司が決闘!  

                     氏原英明 = 文
 ライバル――。

その存在だけで、己を高められる相手、好敵手。

日々の練習の力となり、また、
対峙するとなれば負けじ魂を燃やし、
その心が自らを未知なる領域へといざない、
スーパープレーを生みだしてくれる存在。

甲子園という大舞台はスター候補生が大勢集まる場所である。
優れたアスリートであればあるほど、
ハイレベルなライバルたちを目の当たりにして
その心に火がつくことになる。

 反骨心という言葉に置き換えてもいい。

~強大なライバルの存在で成長してきた男、明豊・今宮健太~

今大会でそんな気持ちを糧に戦っている選手とは誰か?
そこで最初に浮かんだのが、
明豊の投手兼遊撃手・今宮健太である。

「自分は特にマスコミから注目されているような選手に
 ライバル心を燃やすタイプなので、
 負けたくないという気持ちは(甲子園にくると)
 どんどん強くなりますね」

今宮は、一人の野球人として、
最高の舞台・甲子園で最高のライバルを相手に
自分を試してみたいという高いプライドを持って大会に臨んでいた。

2回戦の西条との試合では、
相手の剛球投手・秋山拓巳を強く意識し
「相手は注目されている投手。
 彼の得意球ストレートを狙っていきたい」と
試合前から宣言していたほどだ。

そしてもう一人。
その今宮健太にライバル心をむき出しにしていたのが、
常葉橘の投手・庄司隼人であった。

この2人が20日の第1試合で激突。
試合前、
傍から見てもあからさまに分かるほど互いのライバル心は
燃えたぎっていた。

「試合になったらヤバイくらい燃える」男、常葉橘・庄司。
 まずは今宮の言葉。

「新聞や雑誌でも、庄司は凄い球を投げると書いてあった。
 やりたかった選手の一人です。
 ライバル心を持つと力が出る方なので、
 1回戦は島袋(興南)、2回戦は秋山と対戦できて、
 本当に自分は運がいいと思っています。
 この2試合の反省もあるんで、それをいかしたい。  
 チーム全員で……常葉橘を叩きたい」

 一方の庄司。

「地方大会のときから、今宮と対戦したいと思っていた。
 今宮はプロ注目で、僕よりも小さい体なのに、
 149kmを投げて62本のホームランを打っている。
 ライバル心はあります。
 今はそうでもありませんが、試合になったらヤバイくらい燃えると思う」



最初の対決は庄司の四球から始まったのだが……。
 最初の対決は1回表にいきなり訪れる。

投手・庄司が打者・今宮に挑んだが、
四球を与えてしまう。
庄司に力みが先行している。
3回表の第2打席もストレートの四球だった。

試合は1回表に明豊が2点を先制する展開も、
常葉橘は3回裏に5本の長短打を集めて逆転。
4-2とするとともに、
先発した明豊の先発左腕・野口をマウンドから引きずり下ろした。

そして、3回裏途中、今宮がマウンドに上がった。
アップもしていない状態での緊急登板だが、
今宮は3球連続ストレートを投じて7番・稲角を3球三振。
2球目は147㎞、3球目は150kmを計測する圧巻の投球だった。
次打者には151kmも記録した。

4回裏、投手・今宮―打者・庄司の直接対決。
その2球目、今宮のストレートは153kmを計測。
しかし、庄司は打ち返した。左翼前への2点適時打。庄司に軍配。

 6-2で常葉橘がリード。



庄司の心が燃え上がった瞬間――速球が唸りを上げた!
5、7回。投手・庄司―打者・今宮の対決では
今宮が2安打を放ち猛追をかける。
そして9回表。
常葉橘1点リードで無死三塁。今宮が打席に立った。

 庄司に戦う姿勢がありありと出る。初球から140km台後半を連発。

 ストレート、ストレート、ストレート、ストレート、ストレート、ストレート。

 145km、146km、147km、146km、146km、146km。

 小細工なしのストレート一本勝負。

 2-1からファール2球の後、今宮が軽打。右翼前へと運んだ。

 同点タイムリー。



延長12回まで続いた2人の死闘。
9回裏、今度は投手・今宮―打者・庄司の対決。

真っ向勝負を期待した庄司に対し、
今宮は初球フォークから入り、コントロール重視のストレート,
フォークを投げ分け、
最後も抑え気味のストレートでセカンドゴロに打ち取った。
技で今宮が勝った。

11回表2死2塁から投手・庄司―打者・今宮の対決を迎えたが、
この時は庄司の制球が定まらずストレートの四球。

 2人の勝負はここで終わった。

 試合は延長12回表に2点を奪った明豊が、接戦を制した。   


「今までで一番楽しかった」今宮。
「最高の甲子園」庄司。
 試合あとの、2人のコメント。

 今宮は……
「この勝負にチームで勝ったことは先につながる。
 庄司との力勝負には負けたくなかった。
 ライバル心が強いので、打てて良かったと。
 好投手から打てたことはこれから先にもつながるので」
と胸を張った。

153kmを出せたのは庄司によって力を引き出されたから?
という質問にも「それはある」と答え、
「野球をやっていて、今までで一番楽しかった」
と素直に言葉にした。

庄司は……
「ライバル心があったので、
 力勝負したい気持ちがあった。
 たとえそれでホームランを打たれてもいい、と。
 試合には負けてしまったけど、最高のマウンド、
 最高の甲子園……本当にいい勝負ができた。
 今宮は僕のことを知っていたかは分かりませんが、
 これからも今宮にライバル心を抱きながら、
 上のレベルに行って、もう一度勝負したい」


2人のライバル・ストーリーは、プロ野球で再開される!
強烈なライバル心を抱きながら激突した2人の物語。
'98年夏、松坂大輔と杉内俊哉が投げ合って
今日の活躍があるように、彼らもまた、
ここでの対決を境に大きく成長を遂げてくれるものと期待したい。

今日の対戦は彼らの野球人生にとって、序章に過ぎない。
野球を続ける限り、彼らのライバル・ストーリーは永遠に続いていく――。




≪筆者プロフィール 氏原英明≫

1977年ブラジル生まれ。
奈良大学を卒業後、地方新聞社でのアルバイト勤務を経て、
フリー活動を開始。
高校野球を中心に活動を続けるが、
野球を通じた人間性、人生観を伝え続け、
Numberのほかに野球専門誌で活躍。
WEBの世界でも「人間力×高校野球」(高校野球情報.com)
と題したコラムを連載している。


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巨人の若手が育つ理由
2009年09月29日 (火) | 編集 |
~米国流・岡崎二軍監督の功績~  

                       鷲田康 = 文   


2004年に西武の松井稼頭央内野手がフリーエージェントで
ニューヨーク・メッツに移籍した直後、
ゴロの捕球を巡ってこんな指摘を受けたことがあった。
  

「カズオは捕球の基礎ができていない」  

ご承知のとおり松井は高校野球の名門・PL学園高出身で、
送球に少し難はあったが、
日本では守備範囲の広さや肩の強さなど
当時の遊撃手としては指折りの存在だった。
  

だが、メッツの関係者からは
「カズオは捕球するときに他の野手からボールが見えなくなる。
 それは次の失策の元になる」という指摘だった。
  

日本球界屈指の名手の守備が批判された理由とは。
 理由は簡単だった。
  

日本ではゴロの処理を一連の流れで素早く行なうために、
体の右寄りで捕球して、
ボールを捕る動きの流れの中で送球動作に入る。
そのために右肩を引いて捕球するため、
左サイドにいる二塁手や一塁手からは一瞬、
ボールが死角に入ってしまうのだ。
  

メジャーでは常に
「他の野手に見せながら体の正面で捕れ」と
プロの世界に入った途端に、徹底的に教えこまれる。
  
ルーキー・リーグ、1A
(中南米の選手の場合はメジャーの各球団が
運営する野球学校も含めて)には、
それぞれのチームの選手育成用の指導マニュアルがあり、
コーチが入れ替わっても
まったく同じ方法で同じ基本を教育できる
システムが確立されている。
だから普段はチャランポランのプレーをする
中南米出身の選手でも、
ゴロへの入り方は徹底して正面なのである。
  

メジャー流の育成・指導術を学んだ岡崎二軍監督。
「あの経験がどこにどう生きているかはまだ分からないよ」
  

 巨人で今季から2軍を指揮する岡崎郁監督の言葉だった。  

岡崎監督は2005年、
巨人が提携関係にあるニューヨーク・ヤンキースの1Aと3Aに
コーチ留学をした。
  

「こういう世界があるということを知れたことが大きかった。
 個々の様々な指導方法や選手の育成の仕方、
 またチームとしてのファームという組織への考え方を
 実際に見て、学べたのはもちろん意義があったけど、
 まだ僕の場合は途上ですから。
 良かったのか悪かったのかは分からない」
  


~二軍での選手起用法には勝敗以上に大切なことがある~  

ただ、岡崎監督がアメリカで経験したことは、
間違いなく今の巨人の育成方針にマッチしている。
  

コーチ留学で得たことで意識的に実践しているのが、
ファームでの選手の起用法だった。
  

「アメリカでは1Aや3Aで先発で起用したらほとんど
 途中で交替させないんですよ。
 これは僕が監督になったら
 必ずやろうと思っていたことなんです」
  

日本の場合はファームも勝敗にこだわり、
試合の終盤になると代打を多用するさい配が主流だ。
勝つことではなく選手を育てることが目的といっても
「ファームも弱いということは
 若手の育成もできていないということ」
とみる球団幹部が多い。
そうしないと2軍監督も実績として評価されない。
そこでどうしても勝負にこだわったさい配が
生まれてしまいがちなのだ。
  

「やっぱり1試合を通じて選手を評価するという考えですよ。
 アメリカの場合だと途中で交替させられることは、
 選手にとって非常に屈辱的なことでもあるんです。
 ですから最後まで1試合を任せて、その結果で選手をみていく。
 そうやってやらなければ逆に選手の評価も
 見誤ることが出てくると思います」
  

坂本や松本に続く若手を育てるために……。
もちろんファームには一軍選手の調整という役割もある。
  

「あとは投手の場合は左のワンポイントとして
 育てなければならないとか、役割分担がはっきりしている。
 野手の場合は将来的には役割分担もしなければならないが、
 まずファームではその選手の総合力を伸ばしていくこと。
 その力を見定めていくこと。
 だから1試合を通して選手をみることが必要になってくる」
  

昨年のドラフト1位の大田泰示や中井大介、田中大二郎、
身長172cmの小兵外野手・橋本到や、
チームNO.1の快足を誇る藤村大介などファームの選手は、
この方針の下に先発で出場すれば1試合を任される。

 その先に第二の坂本勇人や松本哲也を生みだそうというわけだ。




≪筆者プロフィール 鷲田康≫

1957年埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。
日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。
鉄平は“控え目なイチロー”!?
2009年09月28日 (月) | 編集 |
~楽天のCS進出を支える安打製造機~

                           田口元義 = 文  

これまでの東北楽天であれば、
2死後、簡単に三者凡退となっていただろう。
だが今年は、3番に鉄平が固定されていることで
そんな展開になりにくい。
しかも次の山崎には抜群の得点能力がある。
他チームにとって東北楽天は、実に厄介な相手になったわけだ。


高校時代“九州のイチロー”だった男が首位打者を目指す。 

特に今シーズンの鉄平は、
「鉄平様様」と指揮官を唸らせるほどの信頼を得るなど、
チームの躍進に貢献。
8月には打率4割2厘をマークし、
プロ9年目にして初の月間MVPにも輝いた。


津久見高校時代は「九州のイチロー」と呼ばれ、
通算打率は5割5分1厘とずば抜けた数字を残したものの、
2000年に入団した中日では守備・代走要員に終始した。
東北楽天に移籍した'06年こそ3割をマークしたが、
以後2年間は満足のいく結果は出せなかった。
それだけに今年の数字は自身にとっても大きな飛躍となっているはずだ。

だから、例えば自分が鉄平の立場だったら
月間MVPでの受賞コメントは、
自分の気持ちを前面に出してこんな具合にしていたと思う。

「一度は獲りたいと思っていたので、本当に嬉しいです。
 もっと上を目指して頑張ります」

 でも、実際の彼のコメントはこうだった。

「ホームランも打点も打率も全部、上出来です。
 9月もチームに貢献できるように頑張らないといけませんね」

 感慨深いに違いないはずなのに、
自分の気持ちを出した喜びと分かるフレーズがどこにもない。
それどころか、あまりにも客観的でルーキー並に謙虚だ。

いつも極端に淡白なコメントしか残さない鉄平。
思えば、8月5日に21試合連続安打の球団記録に並んだときも、
その日の3安打についてはそれ相応のコメントを残しているが、
連続試合安打については「はぁ」とだけしか答えていなかった。

翌日に記録を更新した際も、
「抜くことができてよかった……」と控えめにポツリ。

8月9日に記録が24試合でストップすると、
「今日で(連続試合安打が)止まったのは、
 想定内といえば想定内」とシラッと答えた。
なにせこの試合の相手投手は、
鉄平本人が「本当に苦手」と語るほどの難敵、
北海道日本ハムの武田勝だった。
この試合も含めて通算25打数2安打と
ほぼ完璧に封じられているのだから、
公然と白旗を揚げるのも仕方がないといえば仕方がないのだが。    


ただ、鉄平は確実に安打製造機への道を歩んでいる。

滅多に更新されない彼のオフィシャルホームページ内にある
ブログを覗いてみると、
なんと連続試合安打がストップしたことについて
克明に記されているではないか! 
現場や新聞、その他の報道での控えめな鉄平しか
知らなかっただけに、ちょっと感動した。

 なかにはこう書かれていた。

<最終打席では武田久さんに二ゴロに抑えられましたが、
 この二ゴロは自分の中では非常に大きかったです>

その打席は見ていた。
だが、外角のシュートを引っ掛けた、というくらいしか憶えていない。
イチローはあえて打球を詰まらせたり空振りをすることがあるという。
観ている側には到底理解できない、
打撃を究めたプロフェッショナルにしか辿り着けない
「聖域」に、鉄平は踏み込もうとしている。


「九州のイチロー」と呼ばれながら、
当時の高校野球雑誌で大きく取り上げられていたのは
同県の大分工・内川聖一(現横浜)だった。
しかもその雑誌のメンバー表には、
土谷“鉄兵”と間違えて表記されていた。

 その男が、自らの領域を作り出し、本当のイチローに近づきつつある。

 かなり控えめなイチローだが……。



≪ 筆者プロフィール:田口元義氏≫  

1977年福島県生まれ。
元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じてアスリートの魂(ソウル)を
感じられる瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。
中日戦に照準 選手にカツ
2009年09月25日 (金) | 編集 |
~維新 原辰徳~  原監督手記より

一昨年、昨年は、ひたすら勝つことだけに一生懸命になって、
連覇を果たした。
  
日本一にはなれなかったが、巨人の野球、原の野球というものを
落ち着いて出せる時期になったと思った。
  
だから、チームの指針として「維新」を掲げた。
新たな勝負、新しい巨人の元年。
2連覇は忘れ、今年から5連覇すると決めた。
  

チームを強くするには、外国人選手、FA、トレードによる補強、
全てが必要だ。
  
しかし、よみうりランド(ジャイアンツ球場)で
泥んこになって鍛えられた選手が、東京ドームのスポットライトの
下で大歓声を受ける姿がどれほどチームに影響を与えることか。
  


昨年、我慢をしながら使った坂本勇人が何とか一人前になって、
今年は更に大きく飛躍し、ランド組の選手の力まで
引き上げてくれた。
たくさんの若い選手が力になって、昨年のメンバーとは
ガラッと変わった状態で栄冠を勝ち取った。
自分も「維新」をやり抜いたという実感がある。
  

4月17日、ナゴヤドーム。
ミーティングで少し時間をもらった。選手を前に
『2009年の巨人は、中日戦でどれだけ戦えるかが最も重要だ。
 中日戦で活躍できない選手は、巨人のレギュラーとして認めない』
と言った。
過去4年、中日に勝ち越せなかった。
今年は中日に勝ち越せない限り、ペナントレースで優位に立てない
と思った。
  

WBCに中日の選手は一人も出場しなかった。
どんなチーム事情があったかは分からないが、
日本代表監督の立場としては『侍ジャパン』として戦えるメンバーが
中日にはいなかったものとして、
自分の中で消化せざるを得なかった。
野球の本質を理解した選手が多く、いつもスキのない野球を
仕掛けてくる中日の強さには敬服するが、
スポーツの原点から外れた閉塞感の様なものに
違和感を覚えることがある。
今年最初の3連戦、しかも敵地で中日に3連勝出来たことは、
格別の感があった。
  


思えば大きな補強もなく、WBCで宮崎キャンプ途中から
チームを離れたこともあり、開幕前は不安もあった。
ただ、2月1日のキャンプ初日、
投手のほぼ全員がブルペンに入り、野手も全力で打って、
投げて、走れる状態で勢ぞろいした。
  

2006年、一時の貯金14が最終的に借金14まで失速した
あの弱い巨人軍で、
『うまい選手は要らない。強い選手を望む』と言った私の思いが、
3年かけて選手にもコーチにも浸透したと強く感じた。
だからこそ、先発に東野を抜擢し、若い坂本と松本に、
1,2番を任せ、亀井が一塁を守るという新しい用兵にも
怖さは感じなかった。   
  


優勝に向け、最後にムチを入れたのは8月23日、
1勝1敗で迎えたヤクルト3連戦の3戦目だった。
2.5ゲーム差に迫っていた2位中日との3連戦を直後に
控えていただけに、何としても勝って、名古屋に行きたかった。
神宮のクラブハウスで、
『今日は絶対に負けられない一戦。
 何としても勝とう』と声を上げた。
そして1点を追う9回、抑えの林昌勇から2点を奪って逆転勝ち。
勢いに乗って、名古屋では中日戦今年3度目の同一カード
3連勝を飾り、優勝マジック26を点灯させた。
チェン、川井に、3戦目は吉見を中5日でぶつけて
こざるを得なかった中日に対し、私は3戦目にローテーション
通り1週間前に今季初先発したばかりの久保を先発させた。
負けてもいいとは思わなかったが、
ここが天王山だというつもりは全くなかった。
もう手綱を絞る必要さえなかった。
  


去年までは1人か2人の強力な船頭に支えられていたチームを
今年は10人、15人が束になって引っ張ってくれた。
バネが伸びきった状態ではなく、
少し余力を残してチームを前に進めることが出来た。
選手が自分で自分にムチを入れた。
最後は『馬なり』のゴールインだった。


                          読売新聞より
職業 野球人 (7)
2009年09月24日 (木) | 編集 |
速くて簡単なことが求められる時代である。
何かにじっくり取り組むことが、
時代に取り残されてしまうような感覚にさえなる。
だからなのか、人にしてもモノにしても、
ブームにしてもどれも旬の時期が驚くほど短期間で終わってしまう。

人を育てること、は今も昔も“速くて簡単”にはいかない。
何の世界でもそれなりの人材を育てるのは、
一部の例外を除いて時間がかかるものだ。
須藤豊さんは野球選手という人材をたくさん育ててきた。
河埜和正、川相昌弘両遊撃手…もしかしたら芽も出ないままで、
ユニホームを脱がなければならなかったかもしれない
レベルで入団した選手を、自分のペースではなく、
相手のペースに合わせてとことん付き合った。
まず畑を耕し、水をやり、芽が出るまで何年、
花が咲くまで何年というスパンで見て1軍で長く通用する選手にした。

「僕は選手にも恵まれた。
指導者としていい思いをさせてもらった」と言うが、
手間と時間をかけても、
ものにならない可能性がある選手を相手に熱心に指導するのは、
並大抵のものではない。相当な根気がいる。

そんな須藤さんもコーチ就任当初は
“速くて簡単”に1軍に上がれるためのエキスのみを
ファームの選手に与えようとした。
そして失敗した。
このロングインタビューのタイトルを
「すべては失敗から始まる」にしたのは、
手間のかかること、失敗することを
極端に嫌って挑戦しない傾向にある現代人に、
1軍で活躍するには程遠かった選手を一流に育て上げた
須藤さんの回り道の教訓が少しでも伝わればとの
思いがあったからだった。

ファームから1軍監督へ。
メジャー式で大洋の将となった須藤さんだが、
結果だけみれば7年ぶりのAクラスを勝ち取った1年目以降は
失敗だったかもしれない。
しかし、人材育成の職人にあと3年任せたら、
大洋から横浜ベイスターズに名前が代わったチームは
98年の優勝まで6年という歳月を待たずに、
もう少し早くチャンピオンフラッグを手にしていたかもしれない。
そして、大地に根を張った選手たちによって、
常勝球団になっていたかもしれない。
もはや空想にしか過ぎない話だが、
途中で退団したことは今でも残念でならない。

「プロ野球のフロントはファンになってはいけない」。
須藤さんは断言する。
結果という「花」の部分ばかり目が行き、
即戦力の3文字を追い求めているフロントは少なくない。
ファームでしっかり育てることを二の次にしている
“速くて簡単”主義のチームに、
やすやすとチャンピオンフラッグを握らせてはいけない。(多摩川グラウンド)


≪白球が待っている≫

来る日も来る日もノックバットを振り続け、
金の卵を厳しく、そして大切に育て上げた“鬼軍曹”の下半身には、
10センチを超える手術あとがある。

「僕らのときはファームでやってくれるコーチがいなかったでしょ。
全部やらないかんのですよ。
30人いたら30人ノックせないかん。
終わったら終わったで特守。日が暮れてもやってましたから」。
守備コーチ就任当時の猛練習を振り返った須藤さんは
生々しい手術あとを見せてくれた。

ノックを打ちすぎたことにより日々悪化していった股関節。
この猛ノックによって数多くの名選手が輩出されたのだが、
体にかかる負担は大きかった。
大好きなゴルフさえできないほど痛みは激しかったという。

「腹7分目、8分目まではやらせてもらいましたからね」と
痛みの残る股関節をさすった。
手術するほど体は痛んでも、まだ心は“満腹”になっていない。

もしかして「須藤、現場復帰!」というニュースが
今オフ報じられるかも…。
グラウンドでは白球が須藤さんを待っている。



                             スポニチより
合言葉は 『AFT』 (6)
2009年09月22日 (火) | 編集 |
指揮官自ら闘志をむき出しにして、選手を引っ張っていった須藤。
審判への抗議も帽子を叩きつけて、鬼の形相で迫ることもよくあった。

1990年(平2)2月1日。
大洋のキャンプ地、沖縄・宜野湾は気温15度で曇り空。
同じ沖縄・読谷でキャンプインした、
ダイエーが田淵幸一新監督の人気で平日にもかかわらず、
500人が見に来たのに対し、
その10分の1の観客の中で須藤大洋も始動した。
新監督は何を考えているのか?
選手が手探りの中、
須藤がナインに示した姿勢は英単語の頭文字3つ、
「AFT」に凝縮されていた。
  

Aは「アグレッシブ=気迫」、
Fは「ファンダメンタル=基本」、
Tは「テクニック=技術」。
  
須藤は「AFT」という言葉をマスコミを通じて
ファンにも浸透させ、90年の大洋は積極果敢な
攻めの野球を、基本という土台に技術を上乗せして
展開していくことをアピールした。
  
  
それまで首脳陣の作った練習メニューを
“こなしているだけだった”大洋のキャンプは、
須藤がノックバットを片手に一日中歩き回って移動すると、
緊張が走った。
どんな細かなプレーも見逃さず、
気がついたらその場で独特のダミ声を張り上げたからだ。
かつて巨人の“鬼軍曹”と呼ばれた頃のような、
鉄拳制裁の嵐にはならなかったが、ゲンコツに蹴り、
バットの柄でコツンといった光景はいたるところでみられ、
緊張感ととともに笑いも時折出た。
  

「声はよく出て明るいが、まるで高校野球」。
キャンプ巡りをする評論家は相変わらず
大洋の評価は高くなかった。中には
「今年の大洋は雰囲気がある。台風の目になるぞ」
と予言した解説者もいるにはいたが、
新監督が就任しても総じて“ノーマーク”状態だった。
  

オープン戦は7勝9敗5引き分けで12球団中10位。
セ・リーグでは、またもや“最下位”。
今年もやっぱり…とファンや関係者の頭に不安がよぎった。
しかし、須藤はこの21試合を通じて
  
「ゲームの中における選手の能力をつかむことができた」と、
ある種の手応えを感じ、
選手が日に日に気迫を前面に出して
プレーしている実感を得ていた。
  

須藤の手応えは現実のものとなった。
4月7日、中日との開幕戦。
初回に期待の中山裕章が3点を失ったものの、
3回に4安打を集めて逆転。
その後も一進一退の攻防を繰り広げ、
延長11回降雨コールドで5-5の引き分け。
続く8日も延長戦に突入。
ベテラン市川和正捕手の犠飛で勝ち越すと、
復活した新ストッパー、遠藤一彦が
無得点に抑え8-7で逃げ切り。
前日から通算して22イニング、
計8時間27分かけての須藤大洋の初勝利だった。
  

試合終了後、宿舎へ移動するバスに最後に乗り込んだ須藤は
遠藤からもらったウイニングボールを掲げて選手全員に言った。
「みんな、ありがとう!」。
帽子を取って深々と一礼すると、車内は拍手と歓声。
粘ってもぎ取った勝利。
大洋ナインにとっては、
自信を深めた雨中でのナゴヤでの2試合だった。
  

そして大洋はペナントレースの前半戦を大いにかき回した。
中日に勝った後、3戦連続逆転勝ち。4月にも首位に立ったが、
5月5日にも横浜で阪神に勝ち再び“奪首”。
ここまで13勝6敗1引き分け。
前年の同時期は7勝14敗で最下位。
  
まったく逆の成績に新聞には連日
“今年の大洋はひと味違う”“須藤マジック”の言葉が踊った。
  

前年13試合しか出場していない3年目の横谷彰将外野手を
1番・中堅で開幕スタメンに使い、
三塁にも思い切りの良さが売りの清水義之を抜てき。
21歳の野村弘樹投手を先発の柱として起用し、
期待に応えて初のふたケタ11勝を挙げた。
捕手はまだ2年目、20歳の谷繁元信を、
失敗しても失敗してもスタメンで多用。
  
思い切った若返り、若手の可能性にかけた須藤の用兵。
それは須藤がプロ入りした
当時の毎日オリオンズの監督で恩師と仰ぐ、
別当薫の用兵と重なるものだった。
  

オールスター前を7年ぶりとなる3位で折り返し、
最終的にも3位でシーズンAクラスを確保。
前年より勝ち星を17増やした。
対巨人は11勝15敗と負け越したものの、
89年の5勝21敗の屈辱から比べれば雲泥の差だった。
  

その須藤へセ・リーグはご褒美を贈った。
「特別功労賞」。
リーグに活気を与え、
プロ野球ファンを魅了したというのが授賞理由だった。
現役時代、これといって表彰歴がなかった須藤にとって、
輝かしい勲章となった――  
  


須藤 「AFTは僕の一つの人生哲学なんだ。
    “意欲をもって基本を大事にしてテクニックを磨いていく”
     という考え方。
     プロの選手は一番上にテクニックがきてしまう傾向に
     あるんだけど、それはダメなの。
     まず、意欲が大事で、
     それが備わっている者が
     基本を土台にして技術を身につけるというのが
     正しいプロセスだね」
  

    「実はAFTは巨人のファームで監督やっていた最後の年
     あたりから、選手に言うようになったの。
     アメリカのメサで短くて分かりやすいキャッチフレーズは
     ないかなと考えてたの。
     最初は“明るく、厳しく、夢を持て”だった。
     それをもっと短く、分かりやすく表そうと思って、
     これを英語にしたらどうなるかって、
     アメリカ駐在で巨人の渉外担当だった
     リチャード背古に聞いたの。
     “気迫は英語で何て言うんだ”
     “アグレッシブだ”みたいなやり取りして。
     それでAFTとなったんだ」
  

     「僕の監督1年目の90年は前年最下位だし、
      失うものがなかった。
      だから選手が新監督が掲げる方針でやってみようという
      気になったんだと思う。
      それである程度勝っていったから、選手が乗ってきた。
      90年は逆転勝ちも多かったよ。
      お客さんも結構来てくれて、選手をノセていった。
      だから僕はフランチャイズ、
      横浜でいい投手を使うように考えていた。
      横浜でぶざまな負け方はしたくないから、
      極端な話ビジターはいいと割り切った。
      いずれ優勝争いを本当にできるようになったら、
      しっかりローテーション組んで勝ちに行けばいいと」
  

     「だって、ローテーション組めないんだもの。
      投手がいなくて(笑)。欠端、大門、野村…
      時々ベテランの斎藤明夫。アキオくらいのベテランが
      先発で行くと、降ろすのに苦労するのよ。
      どうしても0点ていうわけにはいかない、
      3点や5点取られるのよ。
      それでマウンド行って、ギリギリになってね。
     “悪いけど…”なんて言いながら気を遣ったりね。
      遠藤がアキレス腱のケガからの故障上がりで
      長いイニングいけないから、抑えやってもらってね。
      アイツには感謝している。
      身体もキツイのに文句も言わずに
      黙々と放ってくれましたよ」
  

      「それと巨人相手の時は特別だったね。
       僕は巨人戦での査定を他球団の1・5倍にしたの。
       力の差は歴然としていたけど、11も勝ったでしょ。
       翌年は13勝13敗で五分だもの。
       選手は巨人戦の時は張り切ってたね。
  
       気迫を出すと、巨人コンプレックスは薄くなっていったね」  

      「打撃陣は非力だったね。
       セ・リーグでチーム本塁打が100本いかなかったの
       ウチだけだもん(90本)。
       パチョレックもアベレージは高いんだけど、
       外野フェンスの前で失速するし、
       マイヤーは場外まで飛ばす代わりに、
       一塁守ってても1メートル横の打球も捕れないし…。
       面白い男だったけどね、マイヤーは。
       クビになって礼を言いに来たのは、
       マイヤーと(巨人の)呂明賜だけだったね。
       マイヤーは“アメリカに帰るのは残念だけど、
       ボスを尊敬している”って。
       それはともかく、まあ非力な分、足でかき回したりして、
       プレッシャーかけるしかなかった。
       それで足のある若い選手使ったの。
       最後はシーズン乗り切るだけの体力がなくて
       失速したけど、
       何かやってくれるんじゃないかという期待を
       ファンには持ってもらうことができたシーズン
       だったんじゃないかな」
勝負と育成(5)
2009年09月18日 (金) | 編集 |
89年9月18日、巨人のファームチームはオリックスを倒し、
ジュニア日本選手権3連覇達成。
メンバーが足りない中でのやりくり優勝だった-。   


育成と勝負。
この両立が須藤のファームでのテーマだった。
  
長嶋茂雄監督の後を受けた、
藤田元司監督は2軍から上がってきた選手を即起用し、
駒田徳広、槙原寛己、吉村禎章の「50番トリオ」を誕生させたが、
王監督になるとファームで鍛え上げられた
選手が活躍する機会が少なくなっていた。
  
須藤は1軍に定着し、しかも戦力になる選手の育成を、
ファームの試合で使いながら作っていった。
  

1986年(昭61)、須藤が巨人2軍監督に就任すると、
よどんでいたファームの雰囲気は一変した。
イースタン・リーグでは勝敗にこだわり、
「勝敗は二の次」といったファームにはびこる悪癖を一掃。
  
どん欲に勝ちに行った巨人は同年、
8年ぶりにイースタンを制覇。
以後、須藤在任中に4連覇を果たし、
その後も勝ち続けて95年には1軍の記録を追い抜き、
10連覇を達成した。
  

87年から始まったウエスタン・リーグの覇者との
ジュニア日本選手権でも須藤はV3。
  
89年9月18日、
神奈川・平塚球場でウエスタン優勝のオリックスを3-0で倒して
3連覇を成し遂げると、須藤は6度宙に舞った。
1軍の2年ぶりV奪回のために、選手を次々と供給。
加えてケガ人続出の中で、
控え投手が内野を守らなければならない中での優勝に、
須藤の目からこぼれるふた筋の線は、なかなか消えなかった。 
 


勝つことの喜び、
勝利への執念を身に付けた選手は1軍でも結果を残した。
  
ファーム生活の長かった村田真一捕手を試合経験を積ませて
味のある女房役に育て、
非力でも守備とバントで1軍で通用するようにと、
川相昌弘には河埜和正を鍛えたようにマンツーマン指導。
盗塁王・緒方耕一は須藤から積極的に次の塁を奪う姿勢を学び、
ファームの試合で三振の山を築きながらも、
我慢して使い続けた井上真二は1軍昇格後、
ココ一番の場面では遺憾なく実力を発揮した。
  

投手では斎藤雅樹、宮本和知、木田優夫、香田勲らが
須藤学校の卒業生。
  
「選手の欠点を直そうとするより、
 選手の持ち味、長所、キャラクターを生かした
 指導をしていかなければならない」。
須藤は育成の方針を尋ねられると、
自分に言い聞かせるように何度も繰り返した――
  

須藤  「ファームで思う存分腕が振るえたのも、
     幸いなことに球団の理解があったからだと思う。
     当時2軍といえば、1軍のお古の用具を使わされたり、
     三男坊みたいな扱いをされていたけど、
     球団は設備を整えてくれたし、
     アメリカの教育リーグにも参加させてくれた。
     アリゾナとフロリダの2つの教育リーグを視察して、
     立地条件などアリゾナの方がいいと
     判断して決めたんだけど、
     まあそんな贅沢な選択をよくさせてくれたなあと、
     今になって思うね」
  

    「ファームの4連覇は、僕ではなく、
     球団のファームに対する理解で勝ち取ったものだったと
     言えるんじゃないかな。それに選手が応えた。
     80年代の巨人は
     自前の選手を育てていこうという姿勢が
     チーム内にあったことが、
     毎年優勝争いに加われた理由だろうね。
     1軍にもいいタイミングで選手を送り出して、
     それに上がっていった選手が結果を残したのが
     2軍に対する評価を高めたのは間違いないね」
  

    「どの選手も印象深いけれど、例えば井上。
    当たれば場外に飛ばすし、
    ずっとファームで4番打たせてたの。
    でも3打席3三振とか、4打席4三振ばっかり。
    性格は気短だけど、選手起用は気長な僕でも
    “明日は外す”と決めたことが何回あったか、
    数え切れない。
    ところが、次の朝、僕がグラウンド行くと
    何時間も早く出てきてマシン相手に打ち込んでいる。
    その姿勢に“もう1回使ってみるか”となって、
    また試合ではダメの繰り返し。
    それでも努力している姿を知っているから、
    チャンスを与える。
    それで最後には1軍行って結果出したからね。
    初めて1軍でヒット打った日に電話がきたのよ。
    “やりました!”って。忘れられないね。何年経っても」
鬼軍曹、復帰(4)
2009年09月17日 (木) | 編集 |

85年、須藤は王監督2年目に1軍の守備走塁コーチに就任。
王と須藤はサシで酒を酌み交わす仲で、互いによき理解者だ

1981年(昭56)11月、
幻の“大洋・長嶋監督就任”騒動に巻き込まれる形で、
ホエールズを去らなければならなくなった須藤。
82年はネット裏からもう一度野球を勉強することになった。  
日本テレビでの解説、夕刊紙での評論家活動と、  
ユニホームを着ている以上に多忙な日々を過ごすことになったが、
一方で古巣・巨人は水面下で“鬼軍曹”の
いち早い復帰のタイミングを探っていた。
  

巨人は81年に藤田元司監督、王貞治助監督、
牧野茂ヘッドコーチの「トロイカ体制」で、
日本ハムを倒して8年ぶりに日本一を奪取。
翌82年も中日に最後の最後でペナントをさらわれたものの、
2位でシーズンを終了。
投手では江川卓、西本聖、定岡正二、
打者では原辰徳、中畑清、篠塚利夫らが中心となり、
戦力は充実していた。

ただ、気がかりなこともあった。  
1軍のレベルに高さに、ファームの選手が気後れし、
活気がなかったことに、正力亨オーナーらは危機感を感じていた。
  

2軍のレベルアップを優先事項として掲げた
正力オーナーの頭の中で、
真っ先に名前が挙がったのが須藤だった。
かつて河埜和正らを一人前にした実績だけでなく、
大洋で残した遺産にも注目した。
  
工場勤務から大洋2軍監督として球界復帰後、
須藤は大洋を2年で退団したが、その間に教え込んだのは、
徹底したプロ意識、積極的な姿勢、加えて状況判断…。
  
その教え子たちは須藤退団の翌82年、
7年ぶりイースタン・リーグ優勝。
2年目の高木豊は1軍に定着、
屋鋪要もレギュラー獲得に近づいていた。
  

83年、須津は1年で評論家を卒業。
2軍内野守備コーチとして、8年ぶりに巨人に復帰。
同年と翌84年をファームで過ごした。
  

84年、巨人軍は創立50周年を迎え、
1軍は藤田監督から王監督にバトンが渡った。
メモリアルイヤーに優勝は至上命令だったが、
王ジャイアンツは一度も優勝争いをできずに
開幕当初からBクラスに低迷。
オールスター直前の7月19日に後楽園の大洋17回戦に
8-2と大勝して3位に浮上したのが精一杯。
優勝した広島に8ゲーム差をつけられた。

50周年にV逸したジャイアンツは
コーチ陣のてこ入れを図った。
その目玉が川上巨人時代の厳しさをコーチとして
体験している須藤の王体制入りだった。
  
しかし、須藤が10年ぶりに戻った巨人の1軍は
選手とコーチが“仲良し集団”となり果てていた。
王監督一人がムキになって試合に臨んでいるという状態で、
チーム内の溝は想像以上に深かった。
  
85年4月は5位。
8月24日の広島15回戦を3-1で取り、
首位に立ったがこれも3日天下。
ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の
クリーンアップを中心に打線が爆発した阪神に奪回され、
最後まで虎の尾を捕まえることはできなかった。
優勝の望みが絶たれてからは無気力な試合が続き、
残り15試合で3勝11敗1引き分け。
2位も陥落し、阪神と12ゲーム差をつけられ惨敗。
貯金わずか1でAクラスを確保するのがやっと。
  
戦力の問題というより、接戦になると勝てない、
淡白なジャイアンツにファンはいら立った――  
  


須藤  「いきなり大洋をクビになって1年解説の仕事を
     やっていたら、巨人の監督だった藤田(元司)さんが
     “スーやん、もういい加減帰ってこいよ”って声をかけてくれたの。
     実は長嶋さんが(昭和)55年に解任されて、
     巨人の監督が藤田さんになった時にも声をかけられてたの。
     守備コーチで巨人に戻ってこいと。
     でも、大洋の2軍監督の1年目が終わったばかりで、
     契約もあったし
     “球界復帰の手助けをしてくれたチームに恩義がある”って
     断った。それで守備コーチになったのが、
     藤田さんの慶応の後輩の江藤省三なの。おもしろいよね、
     その1年後に大洋から出て行くことになるんだから。
     本当にタイミングですよ」

     「58年に巨人に復帰して、また2軍の守備コーチになった。
     復帰した年に1軍は日本シリーズで広岡(達朗)さんの
     西武に負けて、藤田さんが辞めて、ワンちゃんに譲った。
     だけど、王監督の1年目は3位で
     優勝争いに全然絡めなかった。
     それでコーチ陣の入れ替えをしようとして、
     僕が2軍から呼ばれたんだ。
     久しぶりの1軍コーチだったんだけど、
     まず感じたのは
     コーチと選手が馴れ合い過ぎていたということ。
     末次(利光)、柴田(勲)、堀内(恒夫)なんか
     現役の選手とそれほど年齢が違わないことも
     あったんでしょう。厳しさがなかったね。
     だから、僕が60年に入っても、もう出来上がった雰囲気
     というのがあったから、それをなんとかできなかった」
  

     「それで60年に阪神に優勝されてから球団に言ったの。
      “オレも退くから(コーチを)
      みんな一新したほうがいい”って。
  

      そしたら、周りはいろいろなことを言ってきたよ。
      須藤はわがままだとか、何様のつもりだとか。
  
      でも、やらないと巨人はダメになると思ったから。  
      それで2軍監督のクニさん(国松彰)を1軍のヘッドにして、
      僕が2軍監督になると提案した。
      ワンちゃんには話し相手が必要だし、
      クニさんなら適任だと思ったからね。
      自分から2軍監督になると言った僕も珍しいけど、
      本当は2軍でやってみたいという気持ちが強かった。
      過去に2軍でコーチやったり、
      大洋で2軍監督も経験して、
      失敗を積み重ねながら得た
      僕なりの理想があったからね。
      それを実現したいという思いがあった。
      だから1年で1軍のコーチは終わって、
      61年から2軍監督になったのよ」

水のような生き方
2009年09月16日 (水) | 編集 |
中国古代の哲学者 老子が説いた一説です。

  水は先を争うこともなく
  あるがままに流れて
  人が好まない低いところにとどまり
  万物を潤す。
  
  水は柔らかく突っ張らず
  実に弱々しいけれど
  硬い岩をゆっくり砕き
  長い間に大きな役割を
  目立たずに果たす


新聞で目にしました。
今の自分に励みとなる言葉でした。
子ども達のために少しずつではありますが仕事を
頑張っています。
自営での仕事の他に内職、そして昨日面接で受かり
明日から午前中のみの仕事が入りました。

内職の仕事は単価0.3~6円、1000個単位で
毎日5~6時間かけてコツコツと作業をこなしています。
私は修行時代、お給料が4万円でした。
その中で講習代や道具代などを支払っていたので、
住み込みではありましたが、とても大変でした。
時はバブル時代。
私の双子の兄は大学卒業後、大手建設会社に就職し、
破格のボーナスを頂いていました。
そんな時代でも頑張れた自分を内職をしながら思い出し、
原点に押し戻され、コツコツと作業しています。

私は大きなことは望まない主義なので、
地道にコツコツと目標に向けてそして、結果を残せている
イチロー選手を尊敬しています。
土俵は違えど、コツコツ積み重ねる背中を
息子、娘が後押しし応援してくれています。


問題の“大洋新監督”(3)
2009年09月14日 (月) | 編集 |
ヤクルトのヘッドコーチにと須藤を誘った武上四郎監督。
球団期待の生え抜き監督だったが、
84年シーズン途中で休養し、思うような成績は残せなかった。

2年にわたり須藤が手塩にかけた大洋の若手選手は
一段とたくましくなり、
1軍にいつでも行けるレベルの選手も徐々に増えていった。
須藤は5年計画でチームを強化、
1軍で通用する選手の育成に取り組もうとしていた。
大洋球団も須藤にファームをあと3年任せる方針だった。

ところが1981年(昭56)、
一部フロントが80年に巨人軍監督を解任された、
長嶋茂雄前監督の招へいに動き、
最下位から抜け出せない土井監督をシーズン中の9月に更迭。
復帰の意欲十分の長嶋を大洋は獲得寸前までこぎ着けた。

須藤と長嶋。
あれから6年の歳月が流れていたとはいえ、
長嶋巨人1年目の野球に疑問を感じ、
球団を後にした過去が須藤にはあった。
結局、81年は長嶋大洋にはならず、
その懐刀だった関根潤三が
「いつでもミスターに監督の座を明け渡す用意がある」
と前代未聞の就任あいさつをして、
大洋1軍監督に。
須藤の運命は決まった――  


須藤  「56年秋、まだ大洋の2軍の面倒を見ていた時に、
     ヤクルトの武上四郎監督から
     “1軍のヘッドコーチで僕を助けてください”って、
     話があった。かなりいい条件だったよ。
     ヤクルトはあの頃、アリゾナで海外キャンプやったりと、
     羽振りが良かった。    
     女房が初めて“お金で動いていいんじゃないの”って
     言いましたから。
     それくらい良かった。
     ところが、その前に大洋の柴山二郎代表から
     “もう3年面倒見てくれ”と2軍監督の続投をお願いされた。
     いいですよって承諾してたのよ。
     だから、ヤクルトの話を条件がいいからって、
     そう簡単に受けるわけにはいかなかったの。
     結局、断ってしまった」

     「そしたら、その直後ですよ。
      忘れもしない昭和56年11月8日に大洋をクビになった。
      なぜなら、大洋はその時、
      浪人中の長嶋さんを監督にしようと一生懸命だった。
      それで僕がいたら邪魔でしょ。
      50年のときに巨人から出て行ったんだから。
      結果的に監督は関根潤三さんになったけど、
      ミスターはやる気満々だったんだ。
      ある大物に相談したら、
      ――まだ生きているから名前は言えないけれどね――、
      やめろって止められて断念してしまった。
      大洋・長嶋監督が誕生していた可能性は十分あったねえ」

      「でも、大洋では最後に最高の思い出を作れた。     
       というのは、退団が決まった翌日の11月9日に、
       グラウンドで選手にあいさつしたの。     
       そしたら、選手が僕を胴上げしてくれてね。
       嬉しくて、嬉しくて。本当に自主的に選手がやってくれたの。
       報道陣はいないし、写真も残っていない。
       新聞もベタ記事扱いだったけど、
       あの胴上げは最高だった。
       巨人のファームで優勝監督になって胴上げを何回かされたけど、
       一番印象に残っている胴上げはあの大洋球場での胴上げだね」

オレは野球を辞めたんだ(2)
2009年09月11日 (金) | 編集 |

サラリーマン時代の須藤。
月給は3分の1になっても、
野球界だけでは学ぶことのできない貴重な体験をした 。

1976年(昭51)1月5日。仕事始め。
「復興と前進を合言葉に栄光を取り戻そう」。
東京・大手町の巨人軍球団事務所で、
正力亨オーナーが悲壮な面持ちで最下位脱出の誓いを述べた。

同じころ、須藤は埼玉県川口市の鉄建用の丸棒メーカー
「向山工場」で、作業着に黄色いヘルメット、
安全靴を履いて汗まみれになっていた。
グラウンドでボールを追っていたころの苦しさなど比較にならない。
暑い。ものすごい騒音に何度も耳をふさぎたくなった。
鉄の製造、スクラップをしている工場では全員、
塩を舐めながら作業をしていた。

起床は午前5時。
東京・恵比寿の自宅から1時間以上かけて勤務地へ。
帰宅は時計の針が午後8時半を回るころ。
テレビではプロ野球中継、
とりわけ巨人戦が連日のように放映されていたが、
須藤は見向きもしなかった。
「オレは野球を辞めたんだ」。 


一方、巨人の体質改善は急ピッチで進んだ。
日本ハムから張本勲外野手、
太平洋(現、西武)から加藤初投手が入団。
開幕から“5点打線”が火を噴き、
淡口憲治、高田繁の新1、2番が機能し、
小林繁、新浦寿夫など期待された投手がフルに力を発揮した。   


5月4日に後楽園で中日に10-3で圧勝すると、
同13日には7連勝で待望の首位に浮上。
阪神の猛追がありながらも、1度も陥落することなく、
ついに10月16日、広島市民球場でのシーズン最終戦、
5-3で逆転勝ちを収め優勝。
前年、後楽園で見せ付けられた
屈辱の胴上げを広島でやり返すことになった――  


須藤 「野球とは全く関係のない世界に行きたいと、
    オイルショックの後で不景気だったけど、
    鉄を扱う工場に入社したんだ。
    工場の社長は一代で築き上げた人なんだけど、    
    最初は“今は不景気で時期が悪い。
    それに、プロ野球でスポットライトを浴びた人が勤まらない”
    って反対したの。
    朝5時半ごろ恵比寿の家を女房が作った弁当持って出て、
    帰りは夜の8時半ごろ。
    1年間は全く野球を見なかった。
    もう、野球から足を洗ったというけじめのつもりがあったからね」  


    「初任給は忘れもしない19万5000円。
     巨人の最後の年は、60万円もらってた。
     銀座で50万円飲んで、
     門限破りで川上さんに10万円の罰金取られた男が
     20万円に満たない給料になった。
     最初の給料日の時、
     同僚が僕の周りをウロウロして何かうかがっているんだ。
     僕の初任給の額を知りたかったのさ。
     元プロ野球選手で社長の知り合いの40(歳)男が、
     いくらもらうか気になったんだろうね。
     あまり俺たちと変わらないじゃないかということになって、
     それから工場の人間が僕と打ち解けるようになったなあ。
     社会って、そういうものかと。
     勉強になったねぇ。
     野球界だけじゃ分からない世界だったね」  


     「てっきり営業だと思ってたけど、
      最初は基本が大切と、社長は僕に現場を経験させた。
      初日にいったら、いきなり安全靴と作業着渡されて、
      鉄のスクラップから始めた。
      2年目からは営業に移ったけど、商社相手の輸出部門。
      英語の契約書とか読まなきゃならないし、
      鉄の知識は大したことないし商談にならない。
      一生懸命勉強しましたよ。
      相手にされなくても商社回りしてね。
      経理のことも知っとかなくちゃいけないから、
      バランスシートの見方も覚えた。
      そんなこんなでしばらく頑張っていると、
      契約が取れたり道が少しずつ開けてきた。
      めげずにやれば通じるものだ。
      これもサラリーマンやってあらためて教えられた」

     「仕事で目一杯だったのと野球と決別したという気持ちから、
      長嶋巨人のV1達成もロクに見ていなかった。
      選手が優勝して、
      広島から帰ってきてから河埜とか若い連中が
      みんな電話くれたりして、
      祝勝会やったことは覚えているけれど、
      本当に51年はあんなに好きだった野球と
      点は全くなかったね」
守備コーチ就任、始まりは失敗(1)
2009年09月10日 (木) | 編集 |
二軍の守備コーチに就任した当時の須藤。
全体練習が終わってから若手の有望株をしごき、
練習はいつまでたっても終わらなかった 。

ジャイアンツのV9がスタートした、1965年(昭40)。
立教大学から即戦力の新人、土井正三内野手が入団した。
1メートル72、62キロと小柄ながら、
しぶとく右方向に打てるバッティングと堅実なグラブさばきで、
たちまちレギュラークラスの活躍をみせた。
須藤と同じ二塁を守り、背番号は須藤が憧れ続けていた「6」。
プロ10年生として負けるわけにはいかなかった須藤だが、
そのころ川上監督はプレーヤー・須藤豊としてよりも、
指導者としての適性を見出していた――

須藤 「(昭和)40年のシーズンが終わった後に川上さんから
     “ファームのコーチをやってくれ”って言われたんだ。
     当時はファームという考え方が日本の野球にあまりなくて、
     2軍にコーチなんていなかった。
     川上さんはベロビーチに行って、
     球団の組織も学んできたから、
     早く巨人の中でもファームを整備して、
     自前でいい選手を育てたいという思いが
     強かったんだろうね。
     今の巨人ではそんな考えは、流行らないかも
     しれないけれど、
     ファーム強化に一番最初に取り組んだのは、
     実はV9時代のジャイアンツだったのよ」

    「でも、オレもまだ30歳。やっと野球が面白くなってきた
     ころだったから、“冗談じゃないです”って断ったの。
     そしたら、次の年もまた次の年も“コーチやらんか”って
     2度も打診してくる。で、43年になって
     “スーやん、もう3度目やぞ。
     ええとこやないか”と言われた。
     そのころ土井(正三)が使えるメドがたったからね。
     1年は選手兼任でやって44年から
     守備コーチ専任になったんだ」

2軍コーチとなった須藤の姿はまさに“鬼軍曹”そのものだった。
独特のダミ声をはり上げ、
選手がぶっ倒れるまで
ノックバットを握りしめて情け容赦なくしごいた。
プレーイング・コーチに就任した68年(昭43)には
ファームでくすぶっていた上田武司内野手らを
1軍へ上げる実績を残す一方、選手兼任コーチ、
プロ13年目のベテランとしてイースタン・リーグの試合に出場し
若手に見本をみせることもあった。

しかし、須藤はコーチという仕事ですぐにカベにぶつかった。
何を教えても、選手が須藤の言葉や動きを吸収していかない。
むしろ混乱しているようにさえ見える。
ノックバットを強く振れば振るほど、
むなしさを感じることさえあった。
カベをぶち破るヒント、それは意外な言葉にあった――
  


須藤   「若手をどんどん鍛えて、1軍に送り込むぞ!って
       張り切って多摩川に行ったけど、最初は失敗だったね。
       というのは、43年に兼任コーチになった時に、
       1軍から来たでしょ。どうやったら1軍に行けるか、
       1軍はどういう選手を必要としているかを分かるわけよ。
       だから、1軍へ行くためのエキスを
       若い選手に吹き込んだ。
       ところが、全然聞いてくれない、分かってくれない。
       コンクリートに水を撒いているような感じで、
       相手に染み込んでいかない。
       なんでだろう、オレの間違っているのかと悩みましたよ。
       頭の毛、薄くなったもの」
  

       「いろんな人に相談もしました。
        そしたらある人に
       “お前はファームのレベルを分かっているのか”
        と問われた。
        なるほど、
        難しい技術論や応用的なことばかり
        言っていたことに気が付いた。
        自分のレベルでしゃべっていたんだなと。
        捕球もスローイングも
        プロレベルとは言えないような選手に、
        いきなり1軍の技術を教えてもそれは難しすぎる。
        当たり前だ、と言われるかもしれないけど、
        当時は気が付かなかった。
        それで44年に専任コーチになってから
        やり方を変えたんだ」
  

       「まず、畑を耕すことから始めた。
        相手とよく話し、知ることから始めた。
        ●●っていう選手はどこの出身で、兄弟は何人いて、
        好きな食べ物はとか…。
        そこから野球の指導に入っていった。
        ゴロの捕り方とか基本中の基本から入っていった。
        正面に誰でも捕れるような緩いゴロをころがしてね。
        最初は何でこんな練習するのかって顔してたけど、
        いろいろ話をして、一緒にメシ食って、
        相手の懐に入っていったら、
        練習の意味もわかってくれた。
        そうすると、水が畑に染み込むように理解が早くなる。
  
        その最初が河埜和正。
        長嶋ジャイアンツでショートのレギュラーになって、
        80年代の巨人を代表する内野手になった
        あの河埜だよ」


~すべては失敗から始まる~

「すべては失敗から始まる」という教訓は
どのようにして得たのだろうか。
波乱万丈の「スーやん」の球歴に迫る

先輩・同僚らからは「スーやん」の愛称で親しまれ、
後輩、若手選手らからは「鬼軍曹」と恐れられた、
“土佐のいごっそう”須藤豊。
選手、コーチ、監督として歩んできた
40年近い球歴から得た教訓は
「すべては失敗から始まる」だった。
須藤自身とさまざまな
男の失敗、挫折、苦闘から生まれたドラマは、
屈辱を乗り越えてきらびやかな栄光として後に光を放った。


 ◆須藤 豊(すどう・ゆたか)
1937年(昭12)4月21日生まれ。
高知県安芸町(現安芸市)出身。
内野手、右投右打、1m73、65kg(62年当時)。
高知商高-毎日・大毎-巨人-巨人コーチ-大洋2軍監督
-巨人コーチ、2軍監督-大洋監督の後、
巨人ヘッドコーチを2度、西武ヘッドコーチを歴任。
高校時代は遊撃手として春夏各1回甲子園出場。
現役13年で通算495安打、8本塁打、打率.230。
守備コーチとして、
巨人のファームから数多くの名選手を1軍へ送った。
巨人2軍監督時代の86~89年にイースタンリーグで4連覇。
ファーム選手権でも87~89年までV3を達成した。
巨人2軍監督から、
異例の大洋の1軍監督となり
1年目の90年に7年ぶりのAクラスに押し上げた。
現在は野球解説者。

人生は他動的
2009年09月09日 (水) | 編集 |
中西太と母・小浪さん。
中西は母の支えがあればこそ、
野球が存分にできたと感謝の気持ちを今でも忘れていない 。
  


早稲田進学の決意を固くした中西は、
高校での最後の試合となる島根県出雲市での親善試合に
出場することになっていた。
国体で野球部の活動は引退し、
練習にも出ていなかったが、招待した側の
「どうしても怪童をみたい」というリクエストに応える形で、
新チームに混じって出場することになった。

そのころ郷里高松では、
中西の早稲田への憧れを知ってか知らずか、別の動きがあった。
「中西プロ入り」に向けて、
西鉄と同じパ・リーグの雄、毎日オリオンズ
(現千葉ロッテマリーンズ)が
本人不在の中、家族を切り崩しにかかっていた--。
  

中西 「東京には1週間くらいいたんやけど、
     高松一高が出雲で新人チームの招待試合をやるから、
     中西は甲子園で活躍して、
     人気者だから特別に出なさいということになったんよ。
     そしたら、三原さんも生で僕のプレーを見たことがないから
     行くということになった」-。

    「出雲まで肩並べて座って、夜行列車や。
     これにはまいったな。
     三原さんはグーグー寝ているけど、僕は寝られるわけがない。
     神様と同席しているようなものだからね。
     ほとんど徹夜状態で、岡山でチームメイトと
     合流したのを覚えとるよ。
     でも、出雲の試合で僕は確か4の4だったんだ。
     ホームラン2本で。
     それで三原さんも“おっ、この兄ちゃんなかなかやるな”
     ってことになったんだな」-。

    「ところが、久しぶりに会った舛形監督から、
     とんでもないことを聞かされたんよ。
    “毎日の若林(忠志)監督が高松に来て、
     毎日新聞の高松支局長と一緒に兄さんを口説いとるぞ”って。
     急いで高松に戻ると、ウチの兄貴が窓口になって、
     毎日と契約の調印直前という状況だった。
     慌てたのは三原さんさ。
     出雲から一緒に高松入りして、
     とにかく調印だけは先延ばしにした」-。


三原はスカウトを伴い、中西の母・小浪さんを
説得することに努めた。
西鉄も毎日に獲得されるのがシャクだから、
急に動いたわけではなかった。
中西の力を早くからマーク。
三原は早大進学を考えている中西に接し、
チャンスがあれば進学させずに入団させたいという希望を
密かにもっていた。
  

水面下で動いていた毎日の行動が表面化すると、
中西を取り巻く人々も深くかかわっていった。
郷里の英雄、三原の背後には
高松一高の野球部後援会や市会議員らも後押しし、
毎日に取られるくらいなら、西鉄に、という動きが
加速していった。
  
早大進学を熱望する中西少年の気持ちより、
大人の世界の駆け引きに怪童の運命は
巻き込まれた形となった。
  


小浪さんは息子の大学進学の意思を知っていた。
しかし、事が思いのほか大きくなり、
西鉄か毎日か決断しなければならない状況に
追い込まれていった。

小浪さんが決断するに至った経緯を三原は
こう代弁している。
  

 「九州というところは遠い。
  子供をそういうところへやるということについては、
  非常に大きな不安がある。
  
  しかし、(略)人間どういうことが幸福になるか、
  またどういうことが不幸になるか、それは分からない。
  郷里の先輩の貴方を信じ、
  貴方を頼って行かせることが今の私どもの状態とすれば、
  一番いいと思うし、それ以外にはない。
  だから、そう決心しましょう」-。
  
(週刊ベースボール1959年2月4日号、
 三原脩「中西太を獲得するまで」)

中西 「お袋は、“フトシ、勘弁してくれ”って泣いてたなあ。
    周囲の状況で息子を希望する道に進ませて
    あげられなかったことがつらかったんだな。
    ワシも泣いたよ。
    早稲田に行けなくなったことも悲しかったけど、
    プロ野球でやっていく自信が全くなかったから、
    怖かったんだ。
    高校の2年先輩の山下健捕手が阪急に入ったけど、
    僕はプロなんて到底無理と思っていたからね」-。
  

    「まあ、その後の人生もそうだけど、
     まさに“人生他動的”やね。
     人生は思い通りに進まんものよ。
     世の中や関係する人に左右されて、
     自分がこうしたいという方向と逆になって
     しまうことが多い。
     でも、その流れに乗ってみて、
     そこから自分の力で道を開拓していく、
     この気持ちがないと男はだめやね。
     ドラフトで自分の意中の球団に指名されないと、
     ゴネるやつもおるけど、
     希望球団に入ったからっていいとは限らん。
     プロは入ってからが勝負や。
     最初は嫌でも、そこで道が開けることも多い。
     好きな球団に入っておしまいという選手は
     かなりみてきた」-。
  

     「実はね、ジャイアンツからも誘いがあったって
      後で聞いたんよ。
      監督の水原(茂)さんは高松商の出身。
      高校2年生のときに“中西を高松商に引き抜いてくれ”
      なんて話もあったんだ。
      川上さんやら、千葉さんのいた黄金時代の
      ジャイアンツに入ってたら、どうなってたかな。
      まあ、同郷のよしみで水原さんも1度は
      試して使ってくれたかもしれないが、
      まだ子供やったし、多摩川でやってこいって言われて
      ずっと2軍暮らしだったかもしれんなぁ。
      毎日やったら、どうやろ?
      大学だって慶応からも声がかかった。
      西鉄で野球やるなんて、夢にも思わんかったけど、
  
      それがかえって良かった。
      人生他動的も悪くないんや」 -。
  
  


◆中西 太(なかにし・ふとし)
1933(昭8)4月11日生。
高松市出身。内野手、右投右打。1メートル73、90キロ(58年当時)。
高松一高から52年に西鉄入団。
ニックネームは「怪童」。
打撃部門二冠王は4回を数えた。
62年に28歳の若さで選手兼任監督となり、
63年パ・リーグ優勝。69年に引退。
現役通算は1262安打、244本塁打、打率3割7厘。
引退後、義父の三原脩ヤクルト監督の下で71年から
3年間ヘッドコーチを務め、
三原が球団社長となった日本ハムでは74年に初代監督となった。
阪神ではコーチ、監督を歴任。
仰木彬監督の参謀役として近鉄、オリックスでは打撃、
ヘッドコーチとなり名コンビを組んだ。
巨人、ロッテでもコーチとして活躍。
パMVP(56年)本塁打王5回(53~56・58)
打点王3回(53・56~57)
首位打者2回(55、58)
新人王(52)
ベストナイン7回(53~58、61)
オールスター出場7回、
野球殿堂入り(99年)。
何事も苦しんだことがすべての基礎となる
「何苦礎(なにくそ)」が指導の原点。

田中将大の恐るべき「胆力」
2009年09月08日 (火) | 編集 |
 中村計 = 文  


なんとも贅沢な時間だった。

8月の25、26、27日、9月1、2、3日と、至極の投手戦が続いた。
前者は西武ドームでの西武対楽天戦。
後者はKスタ宮城での楽天対西武戦だ。

両チームは現在、クライマックス・シリーズ進出に向け、
し烈な3位争いを繰り広げている。
その上、西武には涌井秀章、楽天には岩隈久志、田中将大という
日本を代表する投手がいる。
おもしろくないはずがない。

そんな中でも注目したいのは、やはり田中の勝負強さだ。
8月27日は8回を無失点で抑え、4-0で勝利。
さすがと思わせたが、
9月3日は逆に7回で4失点しKO。
0-4で敗れている。

絶対絶命のピンチで、捕手を逆に励ましていた田中。
なんという胆力なのだろう――。  


最初にそう思ったのは、高校3年生のときだった。

'06年、夏の甲子園。
田中を擁する駒大苫小牧は、3年連続で決勝戦まで駒を進めていた。
相手は「ハンカチ王子」こと、斎藤佑樹がいる早実だった。

1-1の同点で迎えた延長13回裏。
2死二塁から、
田中のショートバウンドしたスライダーを捕手が後逸し
(記録はワイルドピッチ)、三進を許してしまう。

そんなときだった。
動揺した様子を見せる捕手に対し、田中は顔色ひとつ変えずに
「大丈夫、大丈夫」と声をかけたのだ。
あの場面、あんな表情で、あんな風に声をかけられたら、
本当に大丈夫なんだろうな、そう思わせるような力があった。

2死三塁となった後、駒大苫小牧は満塁策を選択。
そしてその言葉通り、
田中は絶体絶命のピンチを二塁ゴロで切り抜けて見せた。

あの場面、捕手が投手を励ますというのならわかる。
だが、逆というのは初めて見た気がしたものだ。

プロ入りした田中は、その「胆力」でチームを引っ張る。
そんな頼もしさは、プロに入ってからも同じだった。

プロ入り一年目、
バッテリーを組む嶋基宏がこんなことを話していたことがある。
ちなみに二人は同期入団ではあるが、
大学出の嶋は田中より4つ年上になる。

「明らかに向こうの方が(立場は)上ですね。
 もう、完璧に。
 ピンチになったら、勝手にカーッとなって集中してくれる。
 いい方のカーッですよ。僕の方が年上ですけど、
 正直、自分が引っ張っているとは言えませんね」ー。  

  
~不安要素を頭から100%排除できる究極の集中力~  

それにしても、本当に田中が不安げな顔をするシーンというのを
見たことがない。
だから、想像さえつかない。
どんなときでも、追い込まれれば追い込まれるほど、気持ちが入り、
力を発揮した。
ピンチの場面を2者連続三振や3者連続三振で抑え込むシーンを
何度見たことか。
田中はそんなときの心理状況をこんな風に語っていた。

「自分の中で変わりますね、モードが」

――何とかしなきゃいけない、と?

「いや、なんとかしなきゃいけないじゃない。
 絶対、抑えてやるになりますね。
 (そういう場面は)自信があるとかないとか……
 別に、そんな余計なこと考えないですもん。
 もう、ほんと、絶対抑えてやるだけです。ほんと」

この言葉の中に田中の思考回路を垣間見ることが出来る。
つまり、不安要素を100%排除できるのだ。
というよりは、まさに「モードを変える」ように、
不安要素が入り込む余地がない回路につなぎ変えるという
感覚なのかもしれない。

後半戦、CS進出をかけた至高のピッチングが見られるはず。
シーズン終盤になって、田中にとっては
持ってこいの展開になってきた。
ローテーション通りにいけば、
次回の登板は10日のオリックス戦だ。
前回は4失点でKOされているだけに、
いつも以上に心中深く期するものがあるに違いない。

クライマックス進出。
前回のリベンジ。
次の登板も、最高の投球が生まれる条件が2つも整っている。

目覚ましい躍進を遂げている3年目。
あと残り数試合の中で、
プロ入り後、最高の投球が見られることは間違いない。


  ~筆者プロフィール~中村計氏  

1973年千葉県出身。
ノンフィクションライター。
某スポーツ紙を経て独立。
『Number』(文藝春秋)、『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。
『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で
第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。
他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、
共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。
『雪合戦マガジン』の編集長も務める。
趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。
運命を変えるドラフト
2009年09月07日 (月) | 編集 |
阪神で藤田平、江夏豊、近鉄で大石大二郎、野茂英雄・・・。
数々の名選手をプロ野球に導いた名スカウト、
故河西俊雄さんから生前、
聞かされたドラフトの思い出話がある。
『各球団平等でないとアカン。
 だからクジ引きは仕方ない。
 ただ、あまりに演出が過ぎるとなあ・・・』


競合による抽選を何度も目の当たりにした河西さん。
忘れられない1人が阿波野秀幸(現野球解説者)だった。
1986年秋、在京セ・リーグ希望の亜大・阿波野に対して、
名乗りを上げたのは希望する巨人、大洋、
そして希望外の近鉄。
運命のイタズラか、引き当てたのは近鉄・・・。


傷心のアマ球界ナンバーワン左腕を説得したときのことを
老スカウトは振り返った。
『自分の運命を見せ物のような形で決められて、
 と言われると辛かった』―。
生涯、胸に突き刺さった言葉だったようだ。
見ている側にすれば、盛り上がる“ショー”だが、
クジで人生が決められる側、特に希望が外れた選手達にとっては、
辛い光景となる。


今年のドラフトは、史上初めて1000人を招待して、
ナマで目撃できる、という新たな趣向を導入する。
抽選箱も“ガラス張り”にして、
クジを引く瞬間の手の動きまで見えるとか。
花巻東・菊池雄星の運命のシーンにファンも立ち会える。
歓迎する声が聞かれるが、河西さんが心配した
方向に向かっているのは事実だ。


89年のドラフトは、中継テレビ局の都合が優先され、
日曜夕方のスタートになり、
学校が休みの大学、高校生が大迷惑を被った。
あくまでも主役は候補選手であり、球団。
演出で盛り上げることを否定はしないが、
選手の気持ちを忘れた“ショー”にだけは
してもらいたくない。


                      サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                   上田雅昭氏
情報を活用できる球団か否か?~中日は“企業努力”で打率アップ~
2009年09月04日 (金) | 編集 |
鷲田康 = 文


V9時代の巨人打線が苦手にしていた投手に
広島のエース・外木場義郎がいた。

外木場は完全試合を含む3度のノーヒットノーランを達成。
3度のノーヒッターはプロ野球史上、
元巨人・沢村栄治と外木場のたった2人だけの持つ記録となる。
通算の勝ち星こそ131勝(138敗)と200勝には遠く及ばなかったが、
当時の広島は万年最下位の弱小チーム。
「巨人にいれば楽に200勝は越えていた」といわれる
実力の持ち主だった。

そんな外木場が巨人戦で挙げた勝ち星は26勝。
ONをはじめ、当時の巨人打線が最も嫌がった投手の一人でもあった。
しかしただ一人だけ、この外木場をカモにしていた打者がいた。

V9打線では5番を打つことが多かった末次利光外野手だった。
ONや高田、柴田らが軒並み苦しんだ外木場を
なぜ末次だけが得意にしていたのか?

~巨人キラー・外木場のクセを見抜いた末次の職人芸~

末次は外木場のフォームのクセを知っていたのだ。
ストレートと外木場の武器だったカーブを投げるときの
フォームの違いを見抜いて、狙い打ちしていた。
ただ、これは末次だけの秘密だった。

「だってみんなが(外木場を)打ち出したらオレの価値がなくなる」

相手のクセを見抜くのも職人の芸。
チームメートといえどもむやみやたらに教えるわけには
いかないということだった。

打者が投手に対するとき、
「来た球を打つ」以前に様々な駆け引きがある。

その一つが配球を読むこと。
統計をとっていくとカウントや状況別で、
その投手が最も投げる球種の傾向は明らかになってくる。
苦しいカウントでは最も自信をもっている球種となる可能性が高く、
また捕手のリードでも傾向は少なからず出てくる。

だが、打者が投手を攻略するのに、
実はもっと手っ取り早い方法がある。
それこそ、相手投手のクセを盗むことだった。
昔は末次が職人の芸として外木場のクセを見抜いたように、
選手個々が自分の眼力で投手のクセを探した。
しかし、今は球団が組織的に相手投手のフォームを解析する。
投手は丸裸、受難の時代に突入している。


~中日の強力打線を支援する解析スタッフの情報力~

 クセを巡っては、昨年こんな話があった。

阪神のアッチソンはスライダーを投げるときにクセが出ていた。
セ・リーグのほとんどの球団はそのクセを解析していたが
当の阪神だけは気づかず、
シーズン終盤の大事な場面でこれでもかと
アッチソンを中継ぎで投入。
手痛い場面で打たれて何度も黒星を喫して、
あの屈辱の逆転劇につながったというのだ。

そしてこの解析技術が最も進んでいるのは中日だといわれている。

いまはコンピューター画像を使った動作解析はかなり進歩している。
これまでは単純に投手がストレートを投げるときと
変化球を投げるときの映像を見比べて、違いを探していたが、
中日ではこの2つの映像を二重に重ねて
見ることもできるようになっている。
そうなると球種によってのフォームの違いは一目瞭然。
今まで気づかなかった微妙な違いも
次々と明らかになっているという。

こうした裏方の技術も中日の強力打線を支える
一つの要素となっている。
その事実は見逃すことのできないものだった。

情報分析は近代野球に不可欠だが……。
「クセ盗みは選手の技術的な進歩を阻害する」――
最近の高度な情報戦に対して、
一部のOBの間ではこんな声があるのも事実だ。

ただ、スパイ行為とは違い、
公にさらされている情報をいかに利用して活用するかは、
近代野球では勝利への不可欠な要素だといえるだろう。
そういう点ではクセを利用することも
勝つことへの一つの必要手段であり、
球団としての“企業努力”となるはずだ。

もちろんクセを知ることがプラスばかりに作用するとは限らない。
中にはクセを知るとそればかりが気になって
打てなくなると嫌う選手もいる。
クセを瞬時に見分けてうまく結果に結び付けられること――
すなわちこれもまたプロの技術ということになるのだ。


< 筆者プロフィール>鷲田康氏

1957年埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。
日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。
工藤公康の起用法に物申す!
2009年09月03日 (木) | 編集 |
田端到氏=文

先日、NHKで放送された
『球団が消える? プロ野球選手会103日間の闘い』。

'04年、オリックスと近鉄の球団合併騒動をめぐり、
日本プロ野球選手会が史上初のストライキを敢行。
当時の古田敦也選手会会長と、
松原徹事務局長のふたりを主人公に、
選手会とNPB(日本野球機構)との息詰まる交渉の模様を、
ドラマ仕立てで再現したドキュメンタリーだ。

古田敦也が、オーナーたちとの交渉の席で
「おまえは労働基準法を知ってるのか?」などと
意地の悪い攻められ方をされる対策として、
試合の合間を縫ってカラオケボックスで弁護士と
法律を勉強していた、といったエピソードも初めて知ったが、
いちばん目頭が熱くなったのは、
工藤公康投手(当時巨人)が発言する場面だ。

巨人の選手に松原事務局長が交渉の内容を報告に行ったとき、
工藤がみんなの前でこう話す。

「自分たちは何もしてないので、申し訳ないと思っている。
 でも、現実に話し合いに出向いている古田や、
 礒部(当時の近鉄選手会長)や、
 三輪(当時のオリックス選手会長)に、
 球団から圧力が掛かるようなことがあったら、
 ぼくたちは立ち上がる。
 今度はぼくたちが彼らを守ると、そう伝えてください」

あくまでも再現ドラマの中の工藤が発言したものだから、
脚色もあるかも知れないが、
普段は敵同士としてグラウンドの中で戦っている選手たちの団結と、
前線に立つ者を支える彼の力強い決意表明。
球界最年長の大投手の言葉に、涙腺が緩んだ。

224勝の名左腕に対して横浜は礼を失していないか?
その工藤公康が、今、苦悩している。  


 32試合登板、2勝2敗、防御率7.27(8月26日現在)。

実働28年目のシーズンとなる今季は、
初先発となった4月8日の巨人戦で8失点KOされ、二軍降格。
その後は中継ぎに回り、
5月25日の楽天戦で607日ぶりの白星をあげるなど健在を示してもいるが、
打ち込まれる場面も多く、防御率は7点台。

直近の登板は、8月21日の中日戦、
5点リードされた7回にマウンドに上がる敗戦処理だった。
その前は8月18日の巨人戦、
やはり5点リードされた7回に登板する敗戦処理。
その前は8月12日のヤクルト戦、ワンポイントで2球投げただけである。

私が問題にしたいのは、工藤の数字上の不振ではない。

横浜ベンチの、現在の工藤の起用法はあまりにも酷くないだろうか。

通算224勝の名左腕に対して、礼を失していないだろうか。

奮闘する工藤に不意に訪れる全盛期のようなピッチング。  

忘れられないのは、8月4日のヤクルト戦だ。
この日、同点の10回表にマウンドに上がった工藤は絶好調で、
素晴らしい投球を見せた。
145km前後の伸びのある快速球で、
武内を三振、ガイエルを一ゴロに仕留め、
「おお、なんだ、この球は!
 工藤はもう終わりなんて誰が言ったんだよ!」と、
私はテレビの前で驚愕したものである。
一時の不振を脱し、
全盛期にも劣らない球威とキレを取り戻しているように見えた。

もっと工藤の球が見たい。
どん底から這い上がってきた46歳の不屈のピッチングを
じっくり見せて欲しい。
そう思って身を乗り出したら、工藤の交代が告げられた。
左打者をふたり打ち取ったところでお役ごめん。
工藤が投げたのは、わずか8球だった。
絶好調は本人も自覚していたのだろう、マウンドを降りるとき、
珍しく悔しそうな仕草で降板に未練を見せた。

私は工藤の投球に興奮させられたのと同時に、
たとえ予定通りだったとしても
ここで降板させる横浜ベンチの“センス”に落胆した。

46歳の大投手が、泥にまみれ、敗戦処理もいとわず、
毎日登板の準備を重ねる中で、
ふいに現れる全盛期のようなピッチング。
その価値をもっと尊重する気持ちがあれば、
あの場面で機械的な交代は告げられないはずだ。
工藤に代わった木塚はたちまち打ち込まれ、
決勝点を奪われただけに、なおさら残念でならなかった。


それ以来、私は工藤ウォッチャーとなり、
横浜の試合の途中経過を気にしながら、
工藤の登板を見逃さないように気をつけてきた。
そして横浜ベンチの、
この球界の宝に対する扱いがあまりにも非礼ではないかという
結論に達した。

工藤の現在の登板機会は2パターンしかない。
点差が離れた試合での敗戦処理か、
他の投手がピンチを招いた末の左打者へのワンポイント・リリーフ。

それでも起用に一貫性があればいいが、
前回は敗戦処理、
今回は外野フライさえ許されないような状況でマウンドに上げられ、
前進守備の内野を抜けるゴロを打たれてサヨナラ負けでは、
気の毒としか言いようがない。
勝ちゲームで使うのか、負けゲームで使うのかすら、
決まっていないのだ。

今、工藤の登板を告げるアナウンスが流れたときの
スタジアムの盛り上がり、
どーっと沸き上がる声援の大きさは、それだけで胸が熱くなる。
工藤が投げるという、
ただそれだけで多くの人の心を動かす力があることを、
横浜ベンチはどう受け止めているのだろうか。

ちなみに同じ種類の声援は、中日の試合でも聞くことが出来る。
代打・立浪和義が告げられたときだ。
しかし、立浪が代打に送られるのは基本的にいい場面だけであり、
それがミスター・ドラゴンズに対する落合監督の礼儀なのだと思う。
そういえば落合監督は、リリーフに回った工藤に
「そんな姿は見たくないぞ」と声をかけたと聞いている。

偉大な投手として引退する時に、引き際をどう飾るのか?
この原稿を書き終えた8月26日の夜、
阪神戦で工藤が久しぶりに鬼気迫るピッチングを披露した。
2イニングを投げて被安打1、奪三振3。
最後の打者・金本知憲に投げ込んだストレートは
全球が140kmを超え、
最後は146kmのシュートで空振り三振。これでこそ工藤公康だ。 

昇った太陽は、いつか必ず沈む。
その太陽が沈みゆくときに見せる夕焼けの美しさは、
理屈抜きに私たちを感動させる。
しかし、夕焼けの赤い空はいつでも拝めるものではなく、
いくつかの条件が揃った時にだけ現れる貴重な風景だ。

私は工藤公康という、球界を照らし続けた太陽の夕焼けを見逃したくない。



~筆者プロフィール~ 田端到氏
1962年、新潟県生まれ。コラムニスト。
競馬、野球の分野を中心に活躍し、
著書に監督采配をデータから論じた「図解プロ野球 新・勝利の方程式」、
「パーフェクト種牡馬辞典」など多数。
ヤクルトスワローズ愛好家でもある
夏に目覚めた虎の5番・荒井貴浩
2009年09月02日 (水) | 編集 |
熱狂的な虎ファンは、このコメントを今でも憶えているだろうか。

「今年の新井さんは3割5分、40本、140打点はいけるよ」

「今年」とは'08年。
この年から阪神へ移籍した新井貴浩について、
広島時代の先輩でもある金本知憲が報道陣に言ったものだ。

「金本さんの言葉は関西で影響がありますから……。 
 阪神ファンは信じるんですよ、絶対に!」

新井は金本の“評価”を完全否定する。
そのことを金本本人に告げると、さらりとこう返す。

「じゃあ、訂正しようか。4割、60本に」

ここまでくれば漫才に近いが、
ともあれ、阪神ファンは新井の打撃に期待している。

日本代表の4番を務めたことで、新井の意識が変わる。
昨年は、3番という仕事を全うした。
4番の金本に絶好の場面を作るべく、
進塁打など右方向への打球を心がけた。
それは、打率3割6厘、8本塁打という数字でも窺い知れるだろう。

打順が5番となった今シーズンこそ、
ファンは「3割、40本、140打点」を大いに期待する。
しかし、新井は開幕から絶不調。
7月の時点で打率2割1分4厘と不振を極めた。

「3番だと、『4番の金本さんが何とかしてくれる』と
 後ろ盾があるから安心して打席に立てる。
 でも、5番だと金本がチャンスで凡打したり四球で歩かされたりすると、
 彼は真面目な性格だから誰よりも
 『なんとかしなきゃ』と思ってしまう」

阪神OBの八木裕(現野球解説者)はこう語る。
確かに…数字を見れば結果的にその通りになってしまったと
思わざるを得ない。

今年の新井は、打順が変わろうともチーム打撃が目立つ。
少なくとも、広島時代は4番だったこともあり、
豪快にレフト方向へ引っ張ることが多かった。
とはいえ、阪神に入ったからといって
ガラリとスタイルを変えたわけではない。
一昨年の北京五輪予選、そして昨年の本戦で、
日本代表の4番を務めたことも大きく影響しているはずだ。

「(日本代表の4番になって)最初のうちは本当にヤバかった。
 『もし、勝敗を分ける場面で自分が打てなくて負けたら』としか
 考えられなくて」

五輪では見事に4番の重責を果たした新井だったが、
この経験が良くも悪くも沁みついているのだろう。

阪神移籍後は個人成績ではなく優勝争いを求めた新井。
阪神は日本代表に似ている。
常に大観衆の前で試合し、打てば賞賛され、
大事な場面で凡打すれば容赦なく叩かれる。
ましてや、今の阪神は以前のような“ダメ虎”ではない。
優勝候補に挙げられる強豪チームだ。

「個人成績だけがモチベーションならどのチームにいても変わらない。
 優勝争いをするなかで自分の力を試したい」

その想いで移籍を決意した新井は、
確かに阪神という特殊なチームに入ったことで苦しんだし、
今でも苦悩しているかもしれない。

ただ、8月に入り変化が生まれた。
そう感じた試合が2つある。

ひとつは18日のヤクルト戦。
2回の第1打席で、
石川雅規の外角へ逃げるシュートを豪快にレフトスタンドへ叩き込んだ。
それは、長距離砲として4番に君臨していた
広島時代の新井を彷彿とさせるものだった。

そしてもうひとつは、22日の広島戦。
8回、勝ち越しの場面で併殺となった金本が、
ヘルメットと手袋を投げ、珍しく自らへの怒りを爆発させた。
その姿を目の当たりにした新井は9回、
外角の速球を丁寧にセンター前へ打ち返し、サヨナラの口火を切った。

広島時代に見せた豪快さと、
阪神や日本代表で培った繋ぎの打撃が、この8月、
実に噛み合っている。
それは、23日時点で
74打数25安打の打率3割3分7厘、12打点、3本塁打という
数字にも表れている。

「自分を曲げるな、挫けるな」ボン・ジョヴィの言う通り。
阪神は現在4位。
3位のヤクルトとのゲーム差は8.5と、
クライマックスシリーズ出場は非常に厳しい。

そんな状況だからこそ、そう、
自らのテーマ曲である「IT’S MY LIFE」を思い出して欲しい。
ジョン・ボン・ジョヴィがこう叫んでいるじゃないか。

<Don't bend, don't break, baby, don't back down
(自分を曲げるな、挫けるな。ベイビー、引き下がるなよ)>と。

なんだか、このフレーズ、今の新井によく似合っている。



~筆者プロフィール・田口元義~
1977年福島県生まれ。元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じてアスリートの魂(ソウル)を
感じられる瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。
中島裕之の“飛ばさない技術” ~天才的打撃の真髄~
2009年09月01日 (火) | 編集 |
「それはムリやろ……」

ヤクルト・宮本慎也内野手が思わずクビをひねった。

「いや、ホンマですよ」

こう周囲を見回したのは、西武の中島裕之内野手だった。

昨年の北京五輪の直前合宿中のある夜だった。
練習が終わって壮行会と称した内輪の食事会での話だ。
焼肉をつつきながら話題は自然と打撃論へと発展していった。

宮本を絶句させた中島の天才的打撃術とは。
そのときだ。
中島がこんなことを言い出した。

「ボクは崩されたときに自分のスイングを変えるんじゃなくて、
 体を合わせていって最後に“あそこに落とそう”って
 右手の押しで調整しています」
  

その言葉に即座に宮本が返したのが
「ムリやろ」というひとことだった。
  

宮本いわく、
崩されてもバットの角度で打つ方向は決められる。
しかし、打球を落とす場所まで調整するのは
いくらなんでも不可能ではないかということだった。
  

だが、中島は
「(信じてくださいという顔で)最後は右手の押し込み方で落とせます」
と言い切った。
  
宮本は
「やっぱりナカジ(中島)は天才なんですよ」と
呆れた顔で絶句した。

バッティングにおける両手の働きは、
車に例えて前の手(右打者なら投手よりの左手)がハンドル、
後ろの手(同捕手よりの右手)がエンジンといわれる。
  

投手の投げたボールに引き手の前腕でバットをコントロールして
正確にコンタクトする―
ハンドルをどう切るか、
そしてバットがボールとコンタクトした瞬間に後ろの腕で
押し込んでパワーを伝える―
エンジンをどう吹かすかということだ。
もちろん最大のエンジンは下半身にあるが、
最後の最後にパワーを伝えるのが、
実はこの後ろの手の押し込みとなるわけだ。
  


「右利きの左打者」の弱点を克服した松井秀喜。  
「最大の問題はボクが右利きの左打者だということです」  

ヤンキースの松井秀喜外野手がこう言い出したことがあった。
2003年のオフのことだ。
メジャー挑戦1年目のシーズンを終えた松井が、
メジャーで感じた最初の壁だったかもしれない。
  

右利きの左打者の後ろの手は利き腕ではない左手になる。
器用さ、パワーに欠けるその左手をいかに力強く、
巧みに操れるか。
  

「メジャーでホームランを打つためには
 外角の球を逆方向に打てる技術とパワーが必要。
 そのためには左手の押し込みがきちっとできないとダメなんです」
  

メジャーでホームラン打者として成功できるかどうかは
後ろの手の押し込みにかかる。
松井の結論だった。
  

不自由な後ろの手を鍛えるために、
松井はそのオフ、左手で箸を持ち、ボールを投げて
ウエートトレーニングでも重点的に左手を鍛えた。
翌年、本塁打は31本へと増えた。 
  


~右手の押し込みで飛距離を加減する中島の才能~  

中島の話に戻ろう。
中島の打撃の最大の特徴は広角に強い打球が打てる点にある。  

昨年は21本塁打を放って、
そのうちの約半分となる11本が中堅から右方向の打球だった。
今季も右方向への長打が多く見られるのは、
この右手の押し込みの強さの表れだった。
  

そして宮本をして「天才」と言わしめる最大の特徴は、  
そのエンジンの出力を自由自在に操れる点にあるようだ。  

「ゴルフのピッチングウエッジを打つ感覚ですね。
 フルショットもあるし、点で置いていくショットもある。
 そんな感覚で打席に立っています」
  

右手の押し込みは飛ばすときだけに使うのではない。
時には外野の守備位置までボールを飛ばさないように、
その押し込みを加減する。

このボールを飛ばさない技術こそ、
中島が天才である所以なのかもしれない。  



≪筆者プロフィール≫
   鷲田康
1957年埼玉県生まれ。慶應義塾大学卒業後、
報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。
日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。