日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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メダルの裏にはドラマがある
2009年08月28日 (金) | 編集 |
愛媛県松山市の小学校教頭、福島聖史さん(49)は
『私が投手としてうまく育てられなかったことが
 銅メダルにつながった』と笑った。
同県生名島にあった生名中(現弓削中)の野球部顧問時代、
中学生離れした快速球を投げた教え子の
村上幸史(29)が、
陸上世界選手権の男子やり投げで日本人初の
銅メダルを獲得した。


ボールは速いが、
『性格が真面目すぎて、りきむクセがあり、
 制球が乱れることが多かった』と福島さん。
練習ではセンターの定位置近くから、本塁まで50~60㍍の
距離で投げさせてもストライクが取れた。
制球に自信をつけさせようとしたこの遠投のおかげで、
やり投げ向きの肩になったのかもしれない。


母親・明美さん(54)も中学から実業団まで
ソフトボールの投手。
地肩の強さを譲ってくれた母と同じ今治明徳高に進み、
やり投げで花を開かせた。
日大3年で日本選手権初制覇以来、
10連覇と国内敵なし。
世界選手権では各選手が風に苦しむ中、
2投目に低い軌道で82㍍97を投げた。
確かに野球を続けていたらこの銅はなかった。


とはいえ先月、プロ野球の横浜のイベントに招かれた村上は、
142㌔をマーク。
“ハマの番長”三浦が『オレより速い』と舌を巻いた。
1991年のドラフトで西武が、
高校で野球経験のない国体やり投げ6位の選手を指名して
驚かせたことがあったが、
村上の球速なら野球でも名を成したかもしれない。


生名中時代の体育教諭で、やり投げの高校王者だった
中谷博さんの
『高校でやり投げをやったら』の言葉が別れ道だった。
その恩人は5年前に急逝した。
『やり投げを選んで後悔はない』と村上。
メダルの裏にはいろんなドラマがある。


                 サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                 今村忠氏
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日本文理の根底を築き上げた大井監督 
2009年08月26日 (水) | 編集 |
怒涛の猛反撃の余韻は1日たっても消えない。
甲子園決勝で日本中を沸かせた日本文理。
その歴史に残る準優勝に導いた大井道夫監督(67)も
高校時代はドラマの主役だった。
宇都宮工の左腕投手。
1㍍70の小さな体で広陵、高知商、東北と強豪を撃破し、
肩に痛み止めの注射を打った西条との決勝では
延長15回に6点を取られて力尽きた。   


早大ー社会人で活躍した後、家業を継いだが、
『2,3年でいいからチームの下地を作って』と知人に頼まれ、
1986年に創部3年目の日本文理の監督になった。
部室はなく道具も揃わず部員もたった11人。
逃げ腰になると学校から
『子ども達を見捨てないで』と懇願された。


夏の甲子園で新潟県は都道府県別勝利数が昨年まで16
(48敗)で、全国最下位(現在は山形の17)。
不名誉な『最弱』のレッテルをはがしたのは
日本文理の打力だった。
9回の猛攻は
『打てなければ新潟のチームは勝てない』と、
還暦を過ぎてもマシンを使って自ら打撃の手本を見せるという
監督の気持ちを込めた指導の結晶でもあった。


新潟では『プロ野球のナイターも見られる県立球場』が
長い間の県民の悲願だった。
2002年サッカーW杯開催で後回しにされたが、
ようやく完成し先月はじめ広島ー阪神戦が行われた。
『最近、少年野球など底辺が急速に拡大し
 野球後進県ではなくなった。
 球場も完成し日本文理で爆発した感じだ』と
県関係者はいう。


寮で部員の面倒を見た大井監督の夫人、秀子さんは
ドラマを見ることなく昨秋他界した。
『2,3年・・・』どころか
『23年』とは越後人のお株を奪う粘り強さ。
50年前、ひたすら投げ抜いた4連投こそ、
その原点ではないか。  


                  サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                 今村忠氏
実績を積み重ねて守った智弁和歌山
2009年08月21日 (金) | 編集 |
『監督の甲子園通算勝利10傑』の表を紙面で見て、
懐かしい顔が思い浮かんだ。
中村順司(PL学園)、渡辺元智(横浜)、蔦文也(池田)、
尾藤公(箕島)、馬淵史郎(明徳義塾)・・・。
高校野球の甲子園で春夏合わせて30回も40回も勝てば、
テレビを通じてその顔は
いやおうなしに全国に知れ渡っているだろう。


今大会に出場している監督では、
智弁和歌山・高嶋仁監督が18日の札幌第一戦で勝ち、
PL学園・中村順司元監督の歴代最多勝利『58』に並んだ。
18年間で達成した中村元監督に対し、
高嶋監督は倍の年数がかかった。
『全然実感がない。長いことやっているだけ』と話した。


しかし、それは謙遜というもので
甲子園経験のあるベテラン監督はいう。
『甲子園に、ただ何回も出ただけなら、“地域性ではないか”
 といわれるだろうし、
 うまい子を集めれば監督の能力が3,4割程度で連れていけるが、
 甲子園で勝たせるとなると監督の力が6,7割を占める。
 その中で58回も勝ったのはすごい、というほかない』―。


ふだん柔和だが『野球の時は鬼』と選手はいう。
熱血指導のあまり昨年9月には
いうことを聞かない選手を蹴り、学校から3ヶ月の謹慎処分を受けた。
1ヵ月半、1400㌔を歩いて四国88ヶ所を巡り自分を見つめ直した。
テレビで知られた顔だけに行く先々で親切にされたという。


暴力には敏感に反応する高校野球。
即刻監督を解任されても仕方ないが、
学校は40年近くこつこつと実績を積み重ねた監督を守った。
蹴られた選手は態度を入れ替え主力で活躍中だ。
とにかく毀誉褒貶(きよほうへん)がつきものの
強豪校の監督だが、この『58勝』には
誰もケチはつけられまい。


                 サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                  今村忠氏
目に見えない力を感じながら・・・桑田真澄
2009年08月20日 (木) | 編集 |
2005年にナンバー誌上で発表された特集
「日本野球の25人 ベストゲームを語る/投手編」に登場し、
1983年8月20日の夏の甲子園準決勝・対池田高校戦の想い出を
語った桑田。
初めて甲子園のマウンドに立った15歳のエースの
心境を振り返ってもらった。

 これ、逆だろ。誰もがそう思った。

 1983年8月20日。

夏の甲子園、準決勝は7回を終わって、7-0。
史上初の甲子園3連覇を目指す池田の圧勝かと思いきや、
エースと4番がともに1年生だというPL学園が、
大方の予想に反して大量リードを奪っていた。
マウンドに立っていたのは、15歳の桑田真澄である。

「甲子園では、とにかくいろんな匂いを感じていました。
 黒土の匂い、芝生の匂い、
 マウンドにしたたり落ちる汗が暑さでジュワーッと蒸発するときの匂い、
 それから風が吹いたときの、ソースの匂い(笑)。
 焼きそばですかね、あのソースの匂いは……」

最強の“山びこ打線”に立ち向かう1年生エース。
このとき、時代の主役はまだ“山びこ打線”を誇った池田であり、
“阿波の金太郎”こと水野雄仁だった。
その水野が、公式戦で初めて打たれたホームラン――
打ったのは、PL学園の1年生エースだった。

「あれこそが、僕がいつも言う“目に見えない力”なんです。
 ワンストライクからの2球目、
 インサイドのまっすぐにヤマを張っていたら、その球が来た。
 それを打ち損じて、ファウルにしちゃった。
 それでも、もう一球、同じ球が来るような、
 そんな流れを感じていたら、
 水野さんの手からボールが離れる瞬間、
 あっ、これはホームランだってわかったんです。
 だって、僕が一番好きなインハイだったんですよ。
 そんなこと、考えられないでしょう。
 あれは自分の力で打ったホームランじゃない。
 “目に見えない力”によって打たせてもらった
 ホームランだと思っています」

15歳の、しかも8番バッターだった桑田を打席に迎えて、
水野が相手を見下したとしても当然だろう。
いったいこの1年坊主が何者なのか、
どれほどの素質を秘めた選手なのか、
そしてどんな野球人生を経てこの舞台に立っているのか――
それを日本中の人が知るのは、この試合が終わってからのことだ。

「あの日、試合前のミーティングで
 『絶対に2ケタは取られるなよ』とか
 『恥ずかしくない試合をしよう』なんて言葉が出ていたんです。
 なんか、負けるのが前提だった。
 でも僕は、『なんでみんなこんなに消極的なのかなぁ』って
 思ってました。
 怖いもの知らずだったんでしょうね。
 あのときは何かが起こる雰囲気がありましたから。
 ゲームに入った瞬間、いろんな“目に見えない力”を感じたんです」

“見えない力”に導かれPL打線が火を噴いた。
桑田が最初にその力を感じたのは、1回表の池田の攻撃だった。
ツーアウトを取ってから、3番江上光治、
4番水野に続けざまにセンター前へ運ばれ、一、三塁。
ここで5番の吉田衡も、強烈なピッチャー返しを放つ。

「江上さん、水野さんの打球、見たことのない強烈な当たりだった。
 まっすぐをいきなりコンコーンって打たれて、
 次のバッターにもいい当たりをされたんです。
 もしあれが抜けていたら、
 おそらく初回でガタガタッと崩れていたでしょうね。
 それを胸のところにグローブを持ってきて、うまく捌けた。
 フィールディングは大事だからとそれなりの練習をしてきましたから、
 自信はありました。
 そういう努力を積み重ねてきたからこそ、
 見えない力が味方してくれたんじゃないかと思います」

PLは、桑田のツーランに続いて、
9番の住田弘行にもホームランが飛び出す。
結局、この2回に一挙4点を奪った。
さらに3回に1点、4回にも小島一晃のホームランによる1点を加えて、
6-0とリード。
あの水野に、7、8、9番という下位のバッターが揃って
一発をお見舞いするという目を疑う光景が、
甲子園を舞台に繰り広げられていた。

序盤、中盤、終盤……桑田が池田神話を崩壊させる。
そして、池田神話の崩壊が一挙に現実味を帯びたのは、
6回表の池田の攻撃だった。
2番の金山光男、3番江上が続けてセンター前に運び、
ノーアウト一、二塁。ここで4番の水野。
しかし水野は低めの力ーブを引っ掛けてしまい、
打球は桑田の目の前へ――ボールはサードから
ファーストヘと渡り、ゲッツー。
チャンスの芽は一気に萎み、5番、吉田も力ーブを打たされ、
ショートゴロ。
どうしてもホームを踏めない山びこ打線に、
もはや奇跡を呼び起こす余力は感じられなかった。

「僕は、野球では“3”という数字を大事に考えなくてはいけないと
思っています。
ゲームでも、序盤、中盤、終盤の3度、
ピンチがあると覚悟しているんです。
あの試合でも3度、ピンチがあった。
そのうち2度は、ゲッツーで凌いだんじゃないかなぁ。
おそらく甲子園でゲッツーを一番多く取ったピッチャーって、
僕じゃないですか。だって、送りバントをされても躊躇なく
ゲッツーを狙いにいきましたからね。

当時は金属バットですから、バントの構えをするのが見えたら
アウトコースのサインが出ていてもインハイに行くんです。
そうすれば必ずコーンって跳ね返ってくる。
投げるのと同時に前に出て、振り向きざまに、セカンド。
そうすれば、ほとんどゲッツーが取れましたね。
三振は、取りたいときに取れればいい。
ノーアウト一、二塁で三振なんかいらないじゃないですか。
ゲッツーなら1球でツーアウトになる。
PLの守備は抜群でしたし、セカンド、ショートは特にうまかった。

だから、僕はセカンドゴロ、ショートゴロを打たせるのが大好きでした。
それで軟投派とか言われましたけど、
まっすぐと力ーブだけの軟投派なんて、いますか? 
僕は高校の3年間、まっすぐと力ーブだけでしたよ。
超、本格派じゃないですか(笑)」

わずか1時間25分で池田の甲子園3連覇を阻止したPL。
 PL学園7-0池田。

決勝進出はPL、池田は甲子園3連覇の夢を断たれる。
試合時間は、わずか1時間25分。
時代の主役は、入れ替わった。
桑田は実に14個のアウトを内野ゴロで奪った。
被安打5本、与えたフォアボール3つ、
奪三振は1個ながらも3つの併殺を奪い、
山びこ打線を102球で完封――
翌日の新聞には『池田まさか』『15歳桑田に沈黙』
『横綱のんだ1年坊主』といった見出しが躍っていた。

「1年生で甲子園に出られて、1回戦でいきなり先発、
完投して(所沢商戦)、2回戦では完封、
ホームランも打った(中津工戦)。
その後には苦戦も経験
(準々決勝の高知商戦は、序盤でPLが8-0とリードしながら
桑田が5回に一挙5点を失って降板、
最後はPLが10-9で辛うじて逃げ切った)して 、
しかもノックアウトされたおかげで十分な休養もとれた(苦笑)。
で、準決勝で池田と当たったでしょう。
だからこそ、あの試合が僕の分岐点になったんだと思うんです。

 もし1回戦で当たっていたら、向こうも気合いが入っていたでしょうし、
 こてんぱんにやられていたかもしれない。
 あるいは決勝で当たっていても、多分勝てなかったでしょう。
 向こうは決勝を見据えて準決勝を戦っていたと思います。
 今年のPLなら普通にやれば勝てるはずだ、
 1年生ピッチャーを打てないわけがない、
 という傲りがあった……つまり、
 すべてのことがこちらへの流れに傾いていました。
 それが、“目に見えない力”なんですよ」

「あの試合に負けていれば今の僕は無かった」
プロ20年目のマウンドに立つ37歳になった桑田真澄は、
今につながっている22年前のあの日を、こんなふうに位置づけている。

「もしあの試合で負けていたら、今の僕はなかった。
 たとえば同じボールでも、
 投げたコースが狙われていれば打たれていただろうし、
 そうでなかったから打たれずに済んだ。
 それって雲泥の差ですよね。
 ド真ん中でも、バッターが見逃すだけで最高の一球になる。
 バッターだって、練習でいくらホームランを打っても、
 試合で3球、アウトローにビシッと決められたら打てないですよ。
 人間は、そういう“目に見えない力”に支配されていると感じるからこそ、
 僕はグラウンドに落ちているゴミをポケットにいれるわけです(笑)。

 もちろん、そうしたからといって野球がうまくなるわけじゃないですよ。
 でも、その積み重ねが今の僕を作ってくれた。
 だから、今でも僕は努力することが好きだし、
 努力し続けることができるんだと思っています」-。

『僕の原点 甲子園』 (3)
2009年08月14日 (金) | 編集 |
甲子園っていうのは、何か得体のしれない怪物みたい。  

甲子園というのは、ボクにとって一つ一つが勉強の場なんです。
打てない球に出会い、それをその後の練習によって、
少しずつ克服していくんです。

1年の夏、水野さんに3三振を食った横の変化球。
あれを打つために猛練習をしたんですよ。
やっとタイミングがわかるようになったらば、
秋季大会で京都西の堀井の力ーブに打ちのめされた。
同級生の小林(左投手)に頼んで、
毎日投げてもらったりしました。
2年の春の選抜大会で京都西にあたった時はもう
うまいこと打てるようになってました。

モグラ叩きっていうんかな。
ポクの場合、自分ってけっこうすごいなと思ったりすると、
必ず神様がそんなことではダメだって、
反省をさせるように失敗をさせてくれるんです。
それで練習をやって、
もう一度やり直せって言われているような気持ちになる。
だから、甲子園っていうのは、
何か得体の知れない怪物みたいなとこがあるけれど、
ボクにとってはすごい勉強の場になっていたような気がする。

京都西の堀井の力ーブにやられたのも、甲子園じゃないけど、
ボクにとってはとてもよかったと思う。
あのまま、すんなり、選抜大会に出られたら、
左投手の力ーブに手こずったような気がする。
プロに入って1年目、ボクは左投手から結構打っているんです。
近鉄の村田さんとか小野さんとか、ロッテの水谷さんとか。
29本目のホームラン(長島の記録に並んだ)も
小野さんだったですからね。
あの時の練習が今役に立っているなあと思います。  


昭和59年、PLは春は岩倉に、夏は取手二に、
ともに決勝で敗れた。
しかし清原自身の打撃は爆発。
春夏合わせて38打数18安打、打率.473、6本塁打の成績を残す。

「甲子園ではいつも桑田が上だった」という清原。
1年生の時みたいに下痢はなかったし、内心、
あの池田の水野さんに勝ったのだから
こわいものはないという気持ちの余裕がありましたからね。

でも、甲子園ではいつも桑田の方が上をいっていたような気がする。
ボクがちょっとミスをすると、
“今度ホームランを打ったらば許してやる”とか
“次は力ーブが来るぞ”とか指示する。
それがまたよく当るんですよ。
ずっと年上のような気がした。

だから夏の決勝で8点とられた時、さすがにショックでした。
桑田といえば、
ボクらの中では絶対にナンバーワンの投手じゃないですか。
それが8点もとられるのだから、
上には上がいるんだなあと思いました。

優勝はのがしたけど、あの夏はよかった。
全日本代表に選ばれましたからね。
これでやっと桑田に並んだという気持ちになれた。

だけど、韓国では桑田が結構打ってるのに、ボクは全然ダメ。
その年の春夏で6本もホームランを打っていたし、
ちょっと有頂天になってたんだと思う。
“日本代表の4番がこの程度か”って、PLの中村監督に叱られました。

そんな時だったかな。妙に母親が恋しくなってね。
あっちで先輩の洗濯をするでしょ。
洗剤負けをして手がゴワゴワになり、ひびが入ってしみるんです。
“そういえば、オレもお母さんによくハッサクをむいてくれって
 頼んだりしたな。
 お母さん、あかぎれの手で一生懸命にハッサクをむいてくれた。
 あれ、手にしみて痛かったろうな”なんて。
なんでハッサクが出てくるのかわからへんけど、
そのことが妙に思い出されて仕方がなかった。

遠征から帰ってさっそく、西山先生についてもらって、
バッティングをもう一度チェックし直してもらった。
その時、言われたのが、
“プロで通用するバッティングをしたかったら、
 下半身から作っていけ”だったんです。
ようわからなかったけど、ともかく、走ろうと思って、
御正殿の前を毎日毎日走っていた。
ゴルフ場にランニングに行った桑田が戻ってくるまで、
走っていようと思った。

(続きは NumberPLUS 『清原和博 1983-2009』 で)

『僕の原点 甲子園』 (2)
2009年08月14日 (金) | 編集 |
清原はピッチャー失格なのに、体の小さい桑田が残った。
PL学園に集まって来る選手はほとんどが、
エースで4番だった連中ばかりである。
清原の3年時のレギュラーのうち、
7人までが中学時代は投手をしていた。
そんな連中が、一人、また一人と投手から野手に転向させられていく。
“お引き取り”(清原)という儀式だそうだが、
翌日からピッチングをしなくていいと言い渡されるのは、
ある意味で脱落したようなショックがあったようだ。

だが清原にとって、
投手失格のショックにも増して大きな衝撃だったのは、
桑田がそのサバイバルゲームに勝ち残ったことだった。

ボクより体は小さいし、スピードだってボクより下。
なのに桑田は投手失格の烙印を押されなかった。
野球はただ体が大きくて、
速いボールを投げればいいってもんじゃないって、
なんとなく考えるようになりました。

しかもですよ。
学校の授業中でも、こっちが居眠りしてて、時々目を覚ますと、
いつも桑田が手を挙げて質問してる。
こりゃ、頭ではあいつにかなわないな、と思いましたよ。

1年生の中では確実にチャンスをものにしてた清原にとって、
桑田が6月にレギュラー組に昇格して来た時のショックは大きかった。
素質や体で優る田口がコントロールの悪さからはずされる中、
桑田は確実にチャンスをつかんで来たからだ。
桑田を見ていて、清原ははじめて思ったという、
「野球ってヤツは、頭でやるものだな」と。

初めての甲子園。
清原は変化球が打てなかった。
何しろ、神経性下痢に悩まされたボクが、
いい結果を出せるわけなかった。
だから、1回戦、2回戦のことなんか全く憶えていないよ。
それで3回戦の東海大一との試合で、
止めたバットにボールが当たって、それがライト前ヒットになり、
急に気が楽になった。
それからですよ、ヒットが出るようになったのは。
一方桑田はその時はもうホームランを打っていたし、エースでしょ。
初めての甲子園なのに、
あいつどんな神経してんのかな、と思いましたよ。

準々決勝の高知商戦では二塁打を2本打てたし、
やっといい感じになってきたけど、でもあれ、
津野さん(日ハム)の速い球ばかりだったんです。
本当のことをいうと、ボクはあの時変化球が打てなかった。
それがバレるのがいやで、だから、早いカウントからばかり打ってた。
初球変化球から入ってくる高校生って、少ないですからね。

だけど、水野さん(池田ー巨人。準決勝で対戦)だけは別だったな。
いきなりスライダーで入って来ましたからね。
桑田はその水野さんから本塁打を打っているのですよ。
池田の水野っていえばボクら高校生にとっては、
超スーパースターじゃないですか。
それなのに、平然と打ってしまう。
また、思ったですよ、
なんていう神経をしているのだろうって。

ボクはといえば、スライダーを連投されて、簡単に三振。
春の府大会のことが急に思い出されてね。
2三振したら、すぐにベンチに引っ込められたんです。
だから三振だけはしたくないと思って、
当てにいってしまったわけです。
これが悪かったんです。
水野さんから結局3三振でした。全部スライダーみたいな変化球で。

そのぶんは決勝(対横浜商戦)で、
三浦さん(中日)からフォークをホームランして返しましたけど、
横の変化球だったらついていけなかったんちがうかな。
三浦さんは力ーブ投手っていわれていたんで、
それが来る前に打ちにいこうって思ってたんです。  


甲子園で優勝した清原に再び大きな挫折が訪れる。
PL学園は3対0で横浜商を破って、優勝を飾る。
だが、甲子園で初ホーマーを打って、
ちょっぴり自信を取り戻した清原の鼻をへし折るような知らせが
入って来た。
アメリカ遠征の高校選抜メンバーの中に、
清原の名前がなかったのだ。
PLから4人が選ばれたが、もちろんその中に桑田の名前もあった。
脳天を割られるような思いがしたという。

桑田たちがアメリカ遠征に出かけている時、
PLの室内練習場には、
深夜まで力ーブマシンを打ち込む清原の姿があった。
“あの時ほど死にもの狂いで練習をやった時はなかった”
と本人が言うほどの猛練習。
マシンを打ちながら、清原は考え抜いた。

やがて、力ーブに対して、気持ちの方があせってしまい、
前につっ込んでいく自分がわかりかけて来た。
そして力ーブを待って右方向に打てるようになった時、
“こまった時は打ち込むしかない”という確信を、
清原はつかむに至ったという。

秋、新チームがスタートした。
だが、万全の態勢で秋を迎えたはずの清原は
ここでさらに難問にぶつかる。
左投手の力ーブにどうしてもタイミングがあわなかったのだ。
秋季大会の京都西戦、堀井から2三振を食っている。



『僕の原点 甲子園』 (1)
2009年08月14日 (金) | 編集 |
1989年にナンバー誌上に載った清原和博の
『僕の原点甲子園』。
プロ4年目にして日本一も既に手にしていた清原が、
弟・幸治がプレーする母校PL学園のグラウンドを訪れる。
清原にとって甲子園とはどういうものだったのか?
3年間の想い出を詳細に語った貴重なインタビュー。

 ~「まわり道をしていこうか」~

清原和博は、オールスター第2戦が行なわれる
藤井寺球場に向かう道すがら、
こんなことを言った。
7月26日のことである。

この日弟・幸治が主将をしているPL学園は、
近大附属高と対戦していた。
その結果が気になって仕方がない様子である。
車は環状線から富田林にあるPL学園に向けられた。

「試合前、PL学園に行くなんて、
 今日は何か打てそうな気がするな」

車が学園に近づくにつれ、
ふだんは減多なことで自分から口を開かない男が、
少年のように能弁になって来た。

この雲、この緑、思い出すなあ、
桑田はいつも近くのゴルフ場を走っていたけど、
ボクはいつも御正殿前の広場を走っていた。
そん時、見ていた雲と同じ形の雲なんだ。
同じ緑の匂いなんだ。
高校時代を思いだすなあ。
ところで幸治たちはどうしたろうか。

PL学園の広場では、
7月31日に行なわれるPL教の大花火大会の準備が、
進められていた。

甲子園に出られない年は、花火大会が終わってから、
ゴルフ場のゴミ集めをするんだ。
だけど、予選に勝っている年はそれが免除になる。
打ち上げられる花火を見て、
ああ、甲子園に今年もいけるんだと何度も思ったよ、
たまらない嬉しさだね。

弟の幸治を甲子園に行かせたい。なぜなら……。
清原は3年間、一度もゴミ集めをする経験がなかった。
彼が見た花火は、いつもきれいで華麗な心安まる花火だった。

大会予選が行なわれているため、
人っ子一人いないグラウンドに来た。
彼はネット裏にある水汲み場で立ち止まった。

「ファウルボールを拾いに行って、
 先輩の目を盗んでは、よくここで水を飲んだ」

4年前の青春の一コマ一コマが、
清原を童心に戻していたのかもしれない。
じっとグラウンドを見る眼は、17歳の少年のそれであった。

幸治を甲子園にいかせたかったんだ。
兄貴が出たからとか、
大学にその方が行きやすいとかそんなことではないんだ。
ボクが経験した甲子園というのは、その一回ごとが、
全部新しい経験だった。
出るたびに野球を学ぶことが出来たと思ってる。
その経験というのを弟にも味わってもらいたかったんだ。

甲子園に出られなかった人は、
その侮しさをパネに野球に励むってよく言われるけれど、
ボクはそうじゃないと思う。
あそこに出た時の緊張感というのは、中途半端ではないものね。
ボクは初めて甲子園に出場した1年の夏に、
神経性の下痢にかかった。
バスが甲子園に近づくと、極度の緊張で下痢をしてしまうんです。
だから球場入りして一番に飛び込んだのは、
ベンチに向かう通路のワキにある便所。
それほど怖しかったんです、甲子園でプレーをすることが――。
1年生から4番を任されたという重責もあったと思うんだけれど、
でっかいなあと思うより前に、怖さの方が印象に残っている。
そういう経験っていうのが、今のボクを支えてくれていると思うし、
これは何物にもかえられないものなんだ。

今考えると、甲子園に出るまでのボクは、
チャンスを何度か与えられて、
それを確実にものにして来たんです。
テストされていたんだなあと思いますけど、
春季大会や練習試合で打って、確実に結果を出していましたよ。

ピッチャーとしての挫折が清原の心に傷をつけた。
それはいいんだけれど、
レギュラーになった1年の6月ぐらいだったかな、
ピッチャーの練習はもうしなくていいと言われた時は、
ものすごくショックでした。
体が大きいので早くから、レギュラー組の中に入って
練習をさせてもらっていたのです。
1年生では、ボクと田ロだけだったですかね。
中学時代から4番でエースだったし、それに憧れていた。
なのに、ピッチング練習はいいというのは、
投手としてはダメだっていわれたようなもんでしょ。
ショックですよ。
そりゃ、自分でも打者としての方が素質があるとは思ってましたよ。
でも簡単に失格だって言われるとね。
入学した時は、ポクの方が桑田よりスピードがあったんだもの。

それでも、まだどっかでピッチャーにこだわっていたんだな。
バッティング投手だけは一日も欠かさずやっていた。
三振なんてとると“どうだ、ボクの球は速いだろ”って、
胸張っちゃったりして。
誰も誉めてはくれなかったけれどね。
PLでは投手は、自分達の調整があるから、
余り紅白戦で投げないんです。
PLの紅白戦っていうのは、下手な練習試合をするよりも、
ずっと激しいんですよ。
いつも逆転、逆転だったですからね。
負けたチームの方が、点差によって、
グラウンドを走らされるんだけれど、その紅白戦のエースは、
いつもボクだった。

ダルビッシュ有  まだ見ぬ完璧
2009年08月13日 (木) | 編集 |
3月23日、ドジャースタジアム。WBC決勝。
延長10回の裏、鄭根宇(チョングンウ)を三振に斬って取った
「日本のリリーフエース」ダルビッシュ有は、
右の拳を握り締めて勝利の雄たけびを上げた。

日の丸に特別な思い入れはないと公言した彼は、
いかなる想いを秘め、あの場所で何を得たのか。
日本代表チームの投手コーチを務めた与田剛、
日ハムにおいて指導にあたった佐藤義則、
そしてダルビッシュ本人の言葉を手がかりに、
WBCを経た若き天才の「現在地」を探る。


こらえてはいる。
ただし不機嫌ではない。
顔立ちがあまりにもシャープなので、そう映るだけだ。

簡単には言葉にしたくない事柄について、
取材者から「どうか語ってください」とぶしつけに求められて、
それでも邪険にはせず、眉間に黒い稲妻のシワを寄せながら、
一瞬、ナイフの視線を床に落とし、
なんとか着地点を見つけようとしてくれる。



――WBCの経験で何かが変わりましたか?

「うーん。いい影響もありますし、悪い影響もあったりもしますし。
プラスにもマイナスにもなりうる。
自分を変えるのにはいい経験になりましたよね」

――プラスの影響とは。

「考え方ですよね。
常に完璧を求めるのではなく余裕を持った考え方を
できるようになった。
ゼロに抑える、完璧に投げるばかりでなく、
勝負どころに甘くないところに投げられればいいというような」

――ではマイナスのほうは? 
大会の使用球と日本のボールとの感触の違いというような
ことでしょうか。

「いえ、ボールはほとんど関係ありません。
それよりも帰ってきてからの疲れはありましたよね。はい」

インタビュー時の断固たる拒否の言葉こそ、誠実さの証明。
――すべては経験として蓄積されていく。

「貴重な財産にはなりました。
向こうの選手を見ることもできましたし、
日本のバッターとピッチャーも見られたので。
自分の中では、いろいろと考えることができた」

――財産の中身を具体的に教えてください。

「それは技術的なことなので」

――たとえば。

「それを言ってしまうと……。
これから考えていく上でけっこう重要な材料でもあるから。
自分が答えを出す前に言葉にするのはよくないかなと」

インタビュー時の成績は、7勝1敗、防御率が1.09、
北海道日本ハムファイターズの切り札は説明を避けた。

6月某日、札幌ドーム内のドーピング検査室そばの部屋、
くぐもった語尾で放たれた
「自分が答えを出す前に言葉にするのは」という
紳士的かつ断固たる拒否こそは、
きっと純度100%の本心である。
本来ならここで稿を閉じるべきなのかもしれない。

どうなってるんですか。その肩幅は。

ダルビッシュは声をかけてきた。

端正な口調のテレビ解説者としておなじみ、
地面に平行なショルダーのラインを持つ
元速球投手、与田剛の表情が穏やかになった。

「やはりクールなイメージがあったんですよね。
 それが実際には素朴な、かわいらしいでは失礼かもしれませんが、
 若者らしくはしゃぐ姿をじかに見ることもできたので印象は変わりました」

WBC日本代表投手コーチを務めた。
練習で、試合中のブルペンで、ダルビッシュとは至近距離で接した。

千葉県新浦安のホテルのロビー喫茶室、あらためて優勝コーチに聞く。

――ダルビッシュ、どんな性格ですか。

「最も印象的なのは探究心ですよね。
 何かそこに落ちてるんじゃないか。
 何かがぶら下がってるんじゃないか。
 常に探している。
 キャンプの時もブルペンの後ろからジーッと他の選手の投球を
 見ている。
 ああ野球が好きなんだな、
 ピッチャーというポジションが好きなんだなと思いました」

勉強しなくては。そんな義務的な素振りはまるでなかった。
大きな体をなるだけ目立たぬようにさせて、
顔だけを突き出し、ジーッと見つめていた。

「習慣化しているというのか。
 特別なことではないような感じ。
 そうでないと毎日、毎日、ああいうふうにはならない」

与田でさえも驚かされた、その異常なまでのプロ意識の高さ。
札幌で本人に確かめた。

――いつでも他者を観察していたと。

「無意識に見てるんです。本当、人、見ますから。
 バッターでも、あ、バッティング変わったなあって、
 すぐわかるほうなんで。興味ありますから」

 ダルビッシュはプロフェッショナルだ。

 職業という意味ではなく、職業意識の次元の高さにおいて。

新しい宿舎に着くたび、与田コーチは、
すぐにフィットネス用の施設の場所を把握しておかなくてはならなかった。
背番号11の投手が必ず、
ジムはどこにあるんですか? と聞いてくるからだ。



「WBCの期間も一所懸命トレーニングをしてました。
 小さな筋肉をきっちりと育てていく。
 1年間を戦い抜くプロの自覚ですよね」

 これも本人に確認した。

――まずジムのありかを知っておきたいんですね。

「そこは絶対の基本です。
 僕は野球をやらなくてはならない。
 野球をやるためにはトレーニングが最初にくるわけですから。
 そのことを与田さんがプロ意識と思ってくれていたなら嬉しい」

ダルビッシュの抱くプロフェッショナリズムは、
WBCの栄冠にではなく、
あくまでも自分の属する球団のファンのために
シーズンを投げ抜く覚悟と直結している。

「ことに日の丸を意識しない」という発言は大会前から繰り返された。
今回のインタビューにおいても
「WBCだからといって熱く燃えて
 トレーニングをしたわけではありませんから」と断じた。


それでも与田は言う。

「キャンプの時から、
 すでにダルビッシュはブルペンの土を固くしていた。
 WBC用のボールもロージンもすべて用意されている。
 何カ月もかけてパーフェクトな準備をしてきてくれた。
 大会が終わるまでは日本のボールに触れもしない。
 それだけの気持ちで日の丸のユニフォームを着た。
 すでにそのことが国の代表としての意識の高さを示していると思う。
 案外、ナニワ節でもあるんです」

ジャパンの一員としてWBC連覇にかけた意欲。
北海道日本ハムファイターズの主力としての自覚。
それぞれ打ち消し合う関係にはない。
あちらが伸びれば、こちらは縮むのでなく、こちらもまた伸びる。
ひとりの野球人の倫理観にあっては同じ地平に存在する。


倫理観。おおげさだろうか。

 実際、ダルビッシュはこう言うのだ。

「最近、よく思うんです。野球が好きだって。
 生活の中に野球があってこその私生活でもあるし、
 それがなくなった時、どうなるんだろうかと」

 さらに。

「ことしはマウンドで笑顔が多くなった。
 ひとつ野手がボールをさばいてくれたら、
 そのつど声をかけてますし。
 ありがたみ、本当にわかるんで。
 いま、みんなで楽しく野球ができている。
 北海道のファンは温かい。
 だから明るいチームでいられる。
 感謝してます。
 あれだけ応援してくれるので、僕らも楽しい気持ちを持てて、
 僕らが楽しんでいるから
 ファンのみなさんにも楽しんでもらえるのだと思います」

(続きは Number731号 で)

ダルビッシュ有
1986年8月16日、大阪府生まれ。
東北高校3年の時に北海道日本ハムファイターズから
ドラフト1位指名を受ける。
2005年に入団し、シーズン途中から先発ローテーションに定着。
翌年には12勝を挙げて、チームを44年ぶりの日本一へ導く。
'07年は15勝でリーグ連覇に貢献し、'08年は北京五輪にも参加。
WBCでは抑え役もこなし優勝投手になった。196cm、85kg



ブランコ 爆発の秘密は“利き目”にアリ!
2009年08月12日 (水) | 編集 |
最初にちょっと簡単なテストをします。

親指と人差し指で輪を作り、
その輪を顔の30cmほど先にかざして
少し遠くの目標物を見て下さい。
最初は両目で目標物が輪の中に入るように見て、
次に右目をつぶって左目だけで、
今度は左目をつぶって右目だけで見て下さい。
両目でみたときと同じように指で作った輪の中に
目標物が入って見えた方があなたの利き目です。  


人には右利きと左利きがあるように
目にも利き目があることはよく知られている。
人が物をみるときに目標物の実体を正確に捉らえているのは
片方の目で、
残りの目で捉えた像との誤差によって
三角測量のように遠近感や立体感を脳が判断する。
その実体を正確に捉えている方の目がいわゆる利き目となる。
これは普通の手足などの右利き、左利きとは別に、
個人でそれぞれ違うのだそうだ。  


「実は利き目が右目だったらしいんですよ。
 それでガラっとバッティングが変わった」

中日の球団関係者から聞いたのは、
前半戦でセ・リーグ最多の28本塁打を放った
中日のトニ・ブランコ内野手の爆発の秘密だった。  


迷える大砲に火を付けた落合監督のアドバイス。 

ブランコはメジャーではほとんど実績の無い選手だったが、
昨年、ドミニカのウインターリーグを視察した森繁和投手コーチが
「日本向き」と見出して獲得してきた。
昨年までの主砲、タイロン・ウッズ内野手の代役として
期待されての入団だったが、
開幕直後は打率も2割そこそこに落ちるなど不振にあえいだ。  


「日本の野球に順応するために色々と工夫をした。
 その一つとしてスクエアスタンスを試してみたんだけど……」

 ブランコは言った。

来日してキャンプからオープン戦と日本の打者を観察。
その結果、変化球に対応する手段として
多くの打者がスクエアスタンスで、
やや後ろ足にウエイトを残したスイングをすることに気づいた。
そこで日本の野球に順応する手段として、
本来のオープンスタンスをスクエアにして打席に立つようにした。

しかし、この順応策がむしろ逆効果だった。

そんなときに手を差し伸べてくれたのが
落合博満監督だったという。

「オープンスタンスでも変化球に対応できる」

こういって落合監督は自分の打撃フォームの写真を
何枚もブランコに見せた。

それをきっかけに5月になってブランコはスタンスを本来の
オープンに戻して打席に立つようになった。
そうしたらいきなりバットが火を噴いたわけだ。

落合監督の打撃理論の一つに
「両目でボールを見ろ!」というものがある。

「バッティングの基本はまずボールをきちっと目で捉らえること。
そのためには片目ではなく両目で見たほうが有利だ」

そのために投手に正対するオープンスタンスは理にかなっている。
落合監督自身もやや体を開いてバッターボックスに立ってきたのは
そんな理由があった。

「ただブランコの場合はオープンスタンスにして
もっとボールが良く見えるようになった理由があった。
それは彼の利き目が右だったからなんです」(前出球団関係者)

右打者がスクエアに立つと
投手に対して利き目の右目が遠くなり、
見やすい左目でボールを捉らえようとする。
正確性が落ちるのは当たり前のことだった。
それがスタンスを開いて頭が投手と正対しやすいように立つと、
利き目でしっかりとボールを捉らえられるようになる。
オープンスタンスで打席に立つようになってからのブランコは、
変化球の見極めも良くなりボールに対する
対応能力が大きくアップした。
その後の活躍はもはや細かく書く必要はないだろう。

ブランコの活躍で実証された落合監督の“利き目”の凄さ。
「アイツはウッズより上。必ず打つ」


4月のどん底にも落合監督はこう言って
ブランコを打線から外そうとはしなかった。
その期待に応えた助っ人の年俸は3000万円にも
満たないのだから、中日にとってはいい買い物となった。

そう考えたら選手を見る球団と指導者の目が
いかに大切なことかも思い知らされる。
中日と落合監督はしっかりと“利き目”で
選手を見ていたということなのだろう。

鷲田康氏
大学の特色を活かせ
2009年08月10日 (月) | 編集 |
少子化が進み、学生確保に大学間の競争は年々、
激化するばかりのようだ。
学生が興味津々、面白がって集まってくるユニークな
“仕掛け”を考えないことには生き残れないらしい。
四国は香川県善通寺市にある四国学院大には、
本邦初という野球専門の『ベースボール科学専攻』が
来年度新設されるという。


この大学では入学後、
『本当にこの学部学科でよかったのか』と後悔しないよう、
2年次から19の専攻コースを選べる“メジャー制度”を
来年度導入する。
『ベースボール科学』はその一つで、
野球を学問としてとらえ対戦相手の『情報分析』や、
野球を支える人や社会を学ぶ『マネジメント』など
全般的な知識や技術を学ぶという。


夏の甲子園で香川県勢は戦前、
高松商が2度優勝し野球王国を誇ったが、
最近は泣かず飛ばず。
県では2年前に県営球場の命名権を年間1000万円で売却し、
その一部を高校野球強化に充てている。
野球専攻は、県や県高野連も後押しし
“王国復活”へのプロジェクトの形で新設された。


四国6大学野球の強豪でもある同大野球部長の
漆原光徳副学長(48)はいう。
『毎年30~40の野球部志願者がいるが、
 これからは野球オタクや女子学生も大歓迎。
 プロを目指す選手を育てる一方、
 球団やまわりのスポーツ産業、メディアなど
 野球にかかわる分野で活躍してくれる人材を育てたい』―。


指導は筑波大でスポーツ科学を学んだ漆原副学長が中心になり、
プロOBらの講義も予定している。
『早大大学院で学んでいる桑田(真澄)さんにも、
 日米野球の違いなどを教えてもらえれば・・・』―。
看板だけでなく内容を充実させ、
いい学生を世に送り出してもらいたい。


                     サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                    今村忠氏

野球を色々な角度でサポートし盛り上げていく術を
大学で学べるというのはユニークな試みだと思います。

明豊・今宮健太との野球談議
2009年08月07日 (金) | 編集 |
~地方大会で味わう野球の喜び~
小関順二 = 文  


4月18日から20日まで、
高校野球の九州大会を見るため沖縄に出かけた。
スポーツライターの立場で地方大会がいいと思うのは、
試合後の取材が甲子園大会のように混雑しないことだ。  


甲子園大会は国民的イベントだから、
大小のマスコミ媒体が取材エリアに殺到する。
とくに好投手や強打者には記者やライターが群がる。
彼らが野球好きであればいいのだが、
往々にして修行のためという口実で
甲子園大会には若手が派遣される。
そして、とんでもないやりとりが選手との間で交わされる。

3、4年前のこと、
野球留学のためアパートで独り暮らしをしているという選手に対して、
若い女性記者は
「どんな料理を作っているの」とレシピを根掘り葉掘り聞いていた。
また1年生の有望選手にショートのレギュラーを奪われた3年生
(二塁にコンバートされた)に、
有望1年生の何がいいのか延々と聞いている記者がいた。
野球の知識が不足しているからデリカシーがない、
という記者やライターが甲子園大会には毎年、
大挙して押し寄せてくるのである。
地方大会にはそういう混乱した取材の場がない。  


沖縄の北谷球場でのできごと
4月19日の鹿児島商対明豊戦で注目したのは、
センバツ大会でも注目された
今宮健太(明豊・遊撃手&投手・171cm/69kg)。
この日は打者として4打数2安打、
投手としては最終打者に147キロの快速球で三振を奪う活躍を見せ、
甲子園なら取材者が殺到したことは間違いない。
しかし、沖縄県北谷球場の取材の場には僕を含めて
4、5人のマスコミしかいないから
今宮の口は軽く、僕は心ゆくまでこの逸材と話をすることができた。  


似ている選手を探せば、今年の新人、
上本博紀(阪神・内野手・173cm/70kg)の名前がすぐに出てくる。
上背のない内野手ということ以外に、
何をやっても即座に対応できる天才的な動きが2人には備わっている。
この今宮の口から頻繁に出てきたのが
「センバツでは全然ダメだったですから」という言葉。  


 1回戦(下妻二戦)4打数3安打1打点
 2回戦(花巻東戦)4打数1安打  


打率5割ならほとんどの選手は胸を張って「頑張りました」と言えるが、
向上心の強い今宮には納得できない。

僕が気になったのは結果より今宮の打撃フォームのほう。
一緒に取材の場にいたスポーツライター、
谷上史朗さんに今宮の打球方向が
センバツでは右側(ライト方向)に集中していたことを聞いて、
なるほどと思った。
打撃フォームに引っ張れない原因がはっきり出ているのだ。

今宮健太選手との最高に贅沢な野球談議
「中島裕之(西武)を意識していない?」と聞くと、
即座に「めちゃくちゃ意識してます」と笑顔で答えが返ってきた。
グリップ位置を高くして構え、
これを大きく斜め後ろに引き、
同時に体も沈み込むという形は2、3年前の中島裕之にそっくりだ。

どうせこれから今宮をさまざまなメディアで誉め倒すことになるのだから、
最初くらいは悪いところを指摘してもいいと思い、こんなことを言った。

「今の打ち方で引っ張ろうなんて無理。もっとコンパクトにして」

すると今宮は
「ボールカウントではバッティングを小さくしています」
とソフトに反応してきた。
頑固なのだ。
やりとりは他にもいろいろあった。
左腕(引き手)の使い方とか、
遊撃手としての腕を振れないスローイング…等々。
もちろん、三塁打を放ったときの三塁到達が11.97秒だったことや
球際に強い攻守など、プラスの部分も話題にした。

取材が終わったあとの気分は、爽快だった。
意識の高い選手と野球の話をしたあとは本当に気分がいい。  




高校野球ドリームチーム
2009年08月06日 (木) | 編集 |
甲子園大会は組み合わせが決まったばかりなのに、
高校野球全日本選抜チームのメンバーはもう決まった。
今月25日から韓国で開かれる
『第8回アジアAAA選手権大会』。
隔年に開かれるこの大会は甲子園で活躍したスターを
並べた“ドリームチーム”のはずだが、
甲子園が始まってもいないのにどう決めたのか。


AAAは大体、8月末か9月初めの開催で
甲子園終了後に選手選考できた。
今回は韓国の事情で早くなり、22日に予定されている
決勝終了後では準備期間がほとんどない。
かといって参加しないわけにもいかず、
日本高野連が地区単位で参加希望を募り、
名前は全日本でも関東地区選抜の派遣で落ち着いた。


とはいえ顔ぶれはすごい。
148㌔右腕の白村(慶応)、茨城大会で三振の山を築いた
左腕中川(牛久)、
1㍍87の左腕真下(東海大望洋)の投手陣に
“ハマのゴジラ”こと通算69本塁打の筒香(横浜)ら、
甲子園で見たかったプロ注目の逸材が並ぶ。
『甲子園組から選ぶ全日本より強いのでは』との声も出ている。


2007年の前回大会からルールが変わり木製バット使用になった。
木製対応の練習期間が必要なことも
非甲子園組によるチーム構成の一因という。
金属使用の高野連にとっては好ましいとはいえないようだが、
プロ志望選手にとっては木製に早く慣れることができて
好都合だろう。


野球にはやはり隔年で夏に世界AAA選手権という
一段上の大会があり、
キューバ、韓国、米国が毎回優勝を争っているが、
もったいないことに日本はほとんど出場していない。
時期的に全日本の編成が無理なら、
今回のような形で甲子園とは違った経験の場を
与えて欲しいものだ。


                サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                               今村忠氏

経験を積むには大切な時期が高校時代。
場数を踏んで将来に活かせれば、選手が将来目指す
方向性も広がり、更なる夢を現実に向かわせる
きっかけにもなると思います。
甲子園予選地区大会で惜しくも涙を流した選手にも
まだ可能性があるとなれば、
更にやり甲斐もある、ってもんです。
“秀才型”スラッガー 横浜・筒香が与えたインパクト
2009年08月05日 (水) | 編集 |
夏の甲子園大会の地区予選を振り返ってみると、
横浜高校の主砲・筒香嘉智(三塁手・右投左打)の充実ぶりに
目を奪われた。
神奈川大会では準々決勝で優勝した横浜隼人に
延長の末に惜しくも破れたが、
高校通算69本塁打は立派である。

地区予選前、6月14日の銚子商戦から7月8日の横浜商大戦までの
練習試合で放った本塁打は8本。
みごとなハイペースだった。
さらに目を奪われるのが対戦相手の顔ぶれで、
銚子商、東海大浦安、常葉菊川、東海大甲府、花咲徳栄など
甲子園の常連校が続く。
63号は常葉菊川の萩原大起、
65号は東海大甲府の快速球左腕・渡辺圭、
66号は花咲徳栄の五明大輔という具合に、
高校球界でも名前が知られた本格派から打ってきた。
  


5月30日の花巻東戦では、
高校ナンバーワン左腕の菊池雄星から55号本塁打を放ち、
6月20日の東海大望洋戦ではドラフト上位候補、
真下貴之を本塁打こそ出なかったが4打数3安打と攻略し、
左腕相手でも苦にしない懐の広さ、深さも存分に発揮している。
  


打撃理論を説明できる“言葉を持った”強打者。
筒香の凄さは無駄なことを一切しない、ということに尽きる。
  

例えばバッティングの際にバットを大きく引いたりしない、
“反動”を極力抑えたバッティングは、
これが高校生かと目をみはらされる。
  

いつから反動を使わないで打っているのかと聞くと  
「中学生になって本格的に野手になってからです」と言われた。  
プロでも中島裕之(西武)など多くの一流選手が
反動を使って打っているのに、
  
筒香は中学生で反動を抑え込もうとしていたという。
そのことに、ただただ驚かされた。
  


2年前に甲子園を沸かせた中田翔(日本ハム)が依然、
苦労しているのを見て、
「筒香も同じ轍を踏むのか」と危ぶまれそうだが、
2人の違いは野球を語る言葉を持っているかどうかだ。
  

中田は本能で本塁打を量産した天才だが、
筒香は理詰めで考えながら打つ形を構築してきた
秀才型の選手である。
  
例えば、すり足と一本足打法について聞くと、
「一本足打法だと打ちにいったときに体がドーンと
 前に出てしまいますが、
 すり足だとそっと出せるんです」と答えてくれた。
こういう言葉を持っている選手は、
バッティングの修正に要する時間も短いものである。
  


“ハマのゴジラ”の愛称より、言葉を備え、
理詰めでバッティングを考える習慣ができている筒香には、
“ハマのメカゴジラ”の愛称のほうが似合っている。  


~筆者プロフィール~
小関順二氏  

1952年神奈川県生まれ。
日本大学芸術学部卒。
1988年ドラフト会議倶楽部を創設し、模擬ドラフトで注目を集める。
Numberほか雑誌「週刊現代」にも野球コラムを連載中。
『プロ野球 問題だらけの12球団』(草思社)は
シリーズ10年目を迎えた。
他に『プロ野球のサムライたち』(文春新書)、
『プロ野球スカウティングレポート』(アスペクト)など著書多数。
マニフェスト
2009年08月03日 (月) | 編集 |
『民主党政権になったら高校野球にも地殻変動が起きる』と、
高校野球関係者の間でささやかれ始めたという。
民主党が発表した衆院選のマニフェスト(政権公約)の中に、
公立高校生のいる世帯に授業料相当額を助成する
『公立高校授業料の実質無料化』という一項目がある。
これが“引き金”になるらしい。


千葉では拓大紅陵を破った県立八千代東の甲子園初名乗りに
驚かされたが、
東東京では2003年に甲子園出場経験のある
都立雪谷が準優勝、西東京も敗れたとはいえ準決勝に小平、
日野の都立2校が進出。
地殻変動の予兆を感じさせる。


千葉のある強豪私立校監督は苦笑いする。
『千葉は銚子商や習志野が全国制覇し、公立校がもともと強い。
 入試も、特色化選抜の形で内申書と面接などで入れる
 公立校が増えている。
 その上、授業料が無料になったら生徒は皆公立校に流れてしまう』。
市立は月3~4万円かかる上、入学金が必要で、
まず親が公立を勧めるだろう。


私立には授業料免除の特待生制度があるが、
日本高野連は今年度から
『各学年5人以下が望ましい』と制限した。
今春の調査で6人以上採用が91校あったが、
『多くの学校がガイドラインを守ろうとしている』と
満足げだった。
だが、民主党政権でマニフェスト通りになったら、
公立校の部員は全員授業料無料の“特待生”に変身する。


それでも私立だけは『5人以下』でいいのか。
私立がそれぞれ特色を出そうとしているのが特待制度で、
高野連が学校の教育方針にまで口出しするのは本来、
筋違いのはずだ。
高野連も政権交代に備え、制度を再考する必要がある。


                サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                               今村忠氏