日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
楽しみを奪いかねない“暴挙”
2009年07月31日 (金) | 編集 |
試合よりも試合前の練習の方が、
プロ野球選手の偉大さが分かる事もある。
子供の頃、甲子園で見た巨人・高田繁外野手
(現ヤクルト監督)の練習中のバックホーム。
遙か彼方に軽く投げてしまう姿に、
憧れのまなざしを注いだ。
今もすべてのプロ野球選手たちを尊敬する原点だ。


早くに球場に到着すると、凄い光景に出会える―。
そんな野球観戦の楽しみ方の一つを奪いかねない“暴挙”を
オリックスがした。
開門時間を繰り下げたのだ。
午後6時開催のナイターの場合、
大半の球場は2時間前にファンを球場に招き入れる。
なのに、オリックスは今季途中から本拠地での開門を
30分程度遅くした。


理由は人件費などの経費削減というから寂しい話。
実施直後、何も知らされていないオリックスナインは
客が誰も現れないスタンドを見て、
『これは大変なことになった』と騒然となったそうだ。
そのころ、早めに到着した猛牛党は球場の外で待ちぼうけ。
決して多くはないだろうが、野球が大好きな、
最も大事にしたいファンたちだ。


幸いなことに逆の流れもある。
新装になった広島の本拠地、マツダスタジアムは
開門を1時間前倒し。
松田オーナーの発案で3時(ナイターの場合)から練習を
公開している。
打者が2ヶ所で打撃練習するから、
危険防止の為、スタンドの一部限定だが、
ファンには好評らしい。


中日も粋なサービスを計画中だ。
驚弾を連発している主砲ブランコの練習を見たい、
という要望に応えて、
8月から日を定めて“公開”することが決まった。
驚異的な飛距離は一見の価値あり。
天井直撃を目撃できるかもしれない。


練習を見て楽しむファンが結構いることを、
どうかお忘れなく。


                  サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                   上田雅昭氏

確かにうちの息子も、野球観戦で一番の楽しみは、
選手の打撃練習を見て、
外野にボールが打ち込まれるスピードを間近で感じることが
メインみたいです。
このご時勢、人件費削減での短縮する球団の意図も分かるけど、
ファンに球場へ早く足を運んでもらえるような
球団ならではの楽しい企画を考えて、
その延長で利益に結びつけられるような
球団運営をしていってほしいな、と思います。
スポンサーサイト
高校に進学できない・・・。天才を襲ったピンチ(3)
2009年07月30日 (木) | 編集 |
中学に進学し、伊丹シニアに入った坂本はどう変わったのか。
坂本の在籍当時はコーチだった田中力監督に聞いた。

「素質はずば抜けてました。
 右方向に大きな打球をバンバン打っていたし、
 守備も今と同じように深い位置で守っていた。
 ただ、練習で手を抜くんです」

 やっぱり!

「凡打しても全力疾走するのが基本なんですが、
 彼は絶対にやらない(笑)。
 ベースランニングの練習でも、軽く走る。
 それでも、他の子よりできてしまう。
 キツイ練習をさせようとすると、すっと逃げるんです」

ただ、打撃練習だけは大好きで、毎日、30分は早く来て、
黙々とティー打撃をしていた。
さらに、少年野球のときと同様、ケガや病気で練習を休んだことは
一度もないという。

「ホンマに野球が大好きやったな」

長年、チームを見ている松本悦男事務局長も
感心するほどだった。
だから、3年生の夏、進路を決めるに当たって
一つの問題が持ち上がったとき、首脳陣は驚いた。
2年生で関西選抜にも選ばれていた坂本には、
地元兵庫の複数の強豪校から誘いの声が掛かっていた。
ところが、中学校側が推薦状を出せないというのである。
この頃、坂本は友人に
「俺は勉強は無理やから野球だけやっていく」と漏らしている。
だが、それにしても……。

「学校ではヤンチャしてたんでしょう。
 ただグラウンドでは、仲間思いのええ子やったからねぇ…」

天才に訪れたピンチであった。
しかし、運命は、本人の与(あずか)り知らぬところで、
勝手に動いていく。

                       (続きは Number733号 で)

坂本勇人
1988年12月14日、兵庫県生まれ。
光星学院から、'07年にドラフト1巡目で入団。
'08年開幕スタメンを勝ち取ると、全155試合に先発出場し、
リーグ優勝に貢献。
今季安打数は両リーグ最速で100本に到達し、
サヨナラ本塁打も2本。
2年連続で球宴に選出された。
愛車は黒のGT‐R

坂本が右打ちにした訳(2)
2009年07月29日 (水) | 編集 |
~田中将大の存在が「左利きの右投げ右打ち」を生んだ~ 


校庭の片隅には、赤、青、黄の鬼の絵が描かれた
巨大なブロック壁が聳(そび)え立っている。
兵庫県伊丹市山田、閑静な住宅街の一角に
昆陽里(こやのさと)小学校のグラウンドはある。
坂本は4歳のときから、
少年野球チーム「昆陽里タイガース」に所属していた
6歳上の兄にくっついてここに来ていた。
まだ幼く、練習に参加できない少年の相手は、
この鬼の壁だった。
  


「毎日飽きもせず壁当てをしていましたね。
 最初は左投げだったんです。
 5歳になった頃ですね、急に右で投げ始めて…」。

 山崎三孝監督は、笑って振り返る。  

当初は同じ左利きの父のグラブを使っていたが、
大人用はあまりにも大きい。
兄がグラブを新調したとき、母が兄のお古を弟に与えた。
「チームに入ったら新しいのを買うてやるから」。
兄は右利きだったが、母は気にもかけなかった。
数日後、
「そや、勇人は左やった!」と母が気づいても後の祭り。
大好きな兄のお下がりを貰えたことが嬉しくて仕方ない坂本は、
嬉々として壁当てに夢中になり、
兄と同様の右投げ右打ちになった。
  


小学校入学と同時にチームに入った坂本は、
逆手とは思えないほど肩も強く、
ボールをミートする技術も抜群だった。
ポジションは遊撃、3番を任されるようになる。
だが、左利きの右打ちは、山崎にはもったいなく映った。
  

「もし、強い高校で野球をやりたいのなら
 左でも打てる方が得やで。
 その代わり、人の倍バット振らなアカンぞ」
  

4年生のとき、スイッチへの転向を勧めたのは
指導者として当然のことだろう。
坂本も左打ちを器用にこなした。
ところが、6年生になった頃である。

「右打ち一本でやらせてください」
坂本は必死の形相で山崎に申し出た。  

「諦めたんか?」
そう言うと首を横に振る。
訳を聞くと、全く坂本らしい理由。
山崎も折れるしかなかった。
  

「田中に負けたくない……」
その頃、彼らは打撃練習でホームラン競争を
するようになっていた。
レフト側にある校舎の2階にまで打球をブチ当てていたのが、
同級生で4番を打っていた田中将大(現楽天)だった。
左で流し打っても、なかなか校舎までは届かない。
打撃練習は10本と決まっている。
ならば、右一本で打ちたい、となったのだ。
  

「坂本はとにかく負けず嫌いで、目立ちたがり屋。
 何でも自分が一番にならないと気が済まないから、
 面白くなかったんでしょう」
  

「寡黙な努力家」田中と、「ヤンチャな天才肌」坂本。
「ヤンチャな天才肌」の坂本に対して、
半年遅れで入部した田中は「寡黙な努力家」だった。
対照的な二人は、6年時に、投手・坂本、捕手・田中で
バッテリーを組んだこともある。
  

「飛距離では田中に分がありましたが、
 野球センスは遥かに坂本のほうが上でした。
 野球が大好きで練習を休んだことはない。
  
 ただ、能力が高いだけに、手を抜くんです。
 雑な送球をしたり、三遊間の深い当たりを追わなかったり……。
 言えばできるんですけど、それが続かない。
 6年生では自ら主将もやっていたので、よう怒りました。
 すると、もうやめる! と泣いて帰ってしまうことも
 何度かありましたね。
 自分が上手いのがわかってるから、やめると言えば、
 監督が困ると思ってる(笑)。
 でも、そこに胡座(あぐら)をかかれたら天狗になるので、
 だいぶ厳しく接しましたね」
  

いずれにしろ、負けず嫌いで目立ちたがり屋の少年は
こうして右打ち一本になった。
  

                         (続く)
20歳生え抜き遊撃手の魅力 (1)
2009年07月28日 (火) | 編集 |
待望の超新星が現れた。
シュアで勝負強いバッティング、
華麗な守備とアグレッシブな走塁、
そして笑顔が似合う清新なルックス――。

幾つもの天賦の才を併せ持つ弱冠20歳の生え抜き遊撃手は、
いまや新生ジャイアンツの象徴的存在だ。
彼は一体いかなる道のりを歩み、
ここまで辿りついたのか。
多数の関係者の証言をもとに、
若き冒険者の隠された素顔と、その運命的軌跡を活写する。


細身の背番号6が打席に向かう。
場内には昨年放映されたドラマ「ルーキーズ」の主題歌、
GReeeeNの「キセキ」が鳴り響く。
打席の坂本勇人がグリップをぐっと高く掲げる。
音楽が鳴り止む。すると、ライトスタンドでは、
自然発生的にアカペラの大合唱が沸きおこり、
独特の期待感が充満する。


東京ドームでそんな光景が見られるのは、
清原和博の「とんぼ」以来のことである。

一本足打法の生みの親も認めた、坂本の才気。
巨人に久しぶりに現れた生え抜きスターは、まだ、弱冠20歳。
昨年、松井秀喜以来の10代開幕スタメンを勝ち取ると、
故障した二岡から遊撃の定位置を奪い、
プロ野球史上3人目となる高卒2年目での全試合先発出場を果たした。
今季は春先から快調にヒットを積み重ね、
首位打者争いを演じている。
1番に定着してからも勢いは衰えず、
イチローが3年目にマークした210安打も射程圏にある。
また数字だけではなく、
「ここ」という場面での勝負強い一打も際立っている。

「タイミングの取り方が抜群に上手いね」

そう評するのは、王貞治に一本足打法を伝授した打撃の師、
荒川博である。

「打撃の真髄は間なんです。
相手に合わせているうちはヘボ。
自分の間に相手を引き込めれば、
自由自在になれる。坂本は天性ですよ。
前捌きも上手い。飛ぶポイントで打っている。
体が細いから飛ばないわけじゃない。
飛ばすのは技です。20歳の打撃じゃないね」ー。

入団当初の王は、
タイミングの取り方が下手だったから思い切って足を上げ、
血の滲むような努力で磨き上げた。
その打撃の真髄を、坂本はすでに会得しているという……。

 彼は一体、何者なのか。

右投げ右打ちの坂本は、本来、左利きである。
独特の柔らかい前捌きは、
バットをリードする左手が利き手だからということもあるだろう。
なぜ、坂本は右投げ右打ちになったのか、
その辺りから物語を始めてみたい。

                               (続く)
気配り上手の女房役
2009年07月27日 (月) | 編集 |
相川亮二の密かな狙い。
~好調ヤクルトを牽引する名捕手~
  永谷脩 = 文  


今季から活躍の場を横浜ベイスターズから
東京ヤクルトに移した相川亮二。
FA宣言をした横浜の捕手が、
同じリーグに移籍するのは、谷繁元信に次いでふたりめである。  


横浜が相川を慰留しなかったのは、
昨年のドラフトで大学ナンバーワン捕手の呼び声が高い
細山田武史(早大)を獲得したため、と聞いている。
しかし一人前の捕手というものはなかなか育たないものだ。
「正捕手ひとり育てれば10年はお家が安泰」と言われる
重要なポジションなのに、
横浜が簡単に相川を放出した姿勢には、首を傾げざるを得ない。
  
実際、相川の評価は横浜より他球団のほうが高く、
特に王貞治氏は
「投手に対して目配り、気配りの出来る女房役」と評している。  



もちろんチーム外だけではなく、ヤクルト投手陣からの信望も厚い。
エースの石川雅規と、
昨年から今年にかけて球団記録となる
14連勝を達成した館山昌平は
「粘り強くリードしてくれるので安心感がある」と言い、
相川に全幅の信頼を置いている。



由規の才能を引き出した大胆なリード。
「若手の力を引き出すのが楽しくて仕方がない」と
捕手冥利を語る相川が、その中でも特に気にかけている投手がいる。

プロ入り2年目を迎えた由規である。

将来性を感じさせるものの、荒削りな由規に
「お前の真っ直ぐなら打たれない。思い切って投げて来い」
と伝えたことが由規の開き直りを生み、
今シーズン、早くも5勝という好結果につながっている。
  

由規をスケールの大きな投手に育てることが目標と聞いて、
かつて中嶋聡(日本ハム)が
松坂大輔(レッドソックス)をリードする時
「小手先で『かわす』ピッチングはやめさせようと思った」
と言っていたことを思い出した。
  
スケールの大きな投手を育てるためには、
思い切った大胆なリードが必要なのだろう。



相川の強気な姿勢がヤクルト投手陣の目を覚ました。  
「よそからきた人間は、どんどんアピールしないと」
と語るが横浜時代は陰からチームを支えるタイプだった。
相川の内面の変化が、
おとなしいヤクルト投手陣を強気にさせているのかもしれない。
  

その投手陣に支えられチームは好調だが、
古巣相手に1勝6敗(7月6日現在)と大きく負け越していることが
唯一の悩みだと言う。
  
「お人よしと言われたくない」と、
頼れる女房役は後半戦に向け反撃の機会を狙っている――。

オールスターゲームの耐えられない軽さ
2009年07月24日 (金) | 編集 |
~プロ意識はどこへ?~
鷲田康 = 文  


「打席で背中をつったことがある」

中日・落合博満監督の思い出だ。

1981年のオールスターゲーム。
この年、落合はロッテの二塁手として初めて球宴に出場した。
パ・リーグのベンチには同じロッテの張本勲をはじめ
日本ハム・江夏豊、阪急・山田久志に福本豊など
名選手が顔を揃えていた。
その中で初打席に立ったときに、
異変に襲われたのだという。
  

「スイングしたら背中をつったんだよ。 
 緊張して体が硬くなっていたんだな。
 オールスターっていうのは、昔はそれぐらい価値があったし、
 メンバーに選ばれることが大変なことだった。
 でも、今はなあ…どれぐらいの価値がある?」―。  


オールスターゲームがピンチだという。  
今年は7月24日に札幌ドームで、
翌25日には広島のマツダスタジアムで
合わせて2試合が行なわれる。
  
しかし、昔は引く手あまただったテレビの中継権が
なかなか売れず、
特に札幌の第1戦は放映権料を大幅にダンピングして、
何とか地上波での放送を“確保”したという話が流れるほどだ。

そんな球宴に、落合監督が言うように
「どれぐらいの価値がある」のだろうか?
  


オールスターの値打ちを下げたのは誰だ!?
実はオールスターゲームの価値を決めるのは、
選手たち自身ではないか、と思われてならないのだ。
  

「シーズン中ではオールスターゲームのベンチの中だけは
 特別だった。
 いつもの敵が味方になる。
 他チームの超一流選手から普段は聞けない話が聞けた。
 翌日になれば目も合わせてくれないような怖い人でも、 
 いつもは想像できない優しい顔で話をしてくれた。  
 若い頃はそれがオールスターの楽しみだったんよ」―。  



こう振り返ったのはミスター赤ヘルとして
球宴出場14回を誇る山本浩二元広島監督だった。
こうして昔の選手は球宴出場を楽しみにして、
そこに出られる栄誉を欲した。
落合監督が背中をつるほど緊張したのも、
球宴には同じような価値がまだ残っていた時代だったのだろう。
  

「たいしたお金にもならないし、その間休みたいですよ」―。

最近は選手の口からこんなセリフを聞くことが多い。
携帯電話やメールが発達、
国際大会も増えてチーム間の選手の交流が容易になった。
オールスターでなくても他チームの選手と会話ができることも、
そんな風潮に拍車をかけているのかもしれない。  


しかし、選手が出たいと思わない、
真剣に取り組む姿勢が見えないゲームを、
ファンがどれだけ見たいと思うだろうか?
  
テレビ局だって1億円を超える放映権料を、
そんなゲームに支払うのか? 
球宴の価値がこうして下がってきた背景には、
実は選手たちの姿勢にも責任の一端があったはずだ。  


意欲的な選手が集まれば球宴人気は復活する。
昨年、高卒2年目ながらファン投票で出場した
巨人・坂本勇人内野手は、
オールスターの間、
同じショートで守備の名手のヤクルト・宮本慎也内野手を
徹底マークしたという。
最後は直接、
遊撃手としての守備のコツやグラブさばきを伝授してもらった。

「宮本さんに直接、色々なことを教わったり、
 去年はムチャ緊張したけど凄く勉強になった。
 今年も絶対に出場したい」―。

本人のやる気さえあれば、
まだまだ選手にとって球宴は価値が高くもなる。
その姿が伝わればファンも、
このイベントをもう一度、見直してくれるのではないだろうか。

坂本勇人に漂う清原和博の “匂い”
2009年07月23日 (木) | 編集 |
~高卒選手がプロで活躍する条件~
文:鷲田康 氏  


高卒1、2年目で頭角を現わす打者の特長は何なのか?  

「変化球が打てるかどうかやな」―。

楽天・野村克也監督の論だ。

高校野球からプロの世界に足を踏み入れた打者は、
同じ野球でも隔絶した世界を痛感する。
その最大の壁が実は、
よく言われるスピードの違いではなく変化球だという。  
  


「変化球の打ち方は選手の持って生まれた感覚。
 変化球打ちのための方法論は教えられても、
 最後に打てるかどうかは本人のセンスや。
 教えて教えられるものではない。
 だからセンスのない選手は、
 プロの変化球に慣れるのに数年は苦労するもんや」―。

野村監督の論の根拠だった。
  

カーブを弾き返し、プロの壁を突き破った清原。
高卒の選手が初めて一流のプロの変化球を見ると
「ボールが消える」という。
いつまでたっても変化球にバットがクルクル回る選手も多い。
  

だが、その中である特別な選手だけは、
その壁をいともあっさりと乗り越えてしまう。
ほんの一握り、いやもっとレアな選手だけが持つ特別なセンス。
その変化球を打つ特別なセンスこそ、
高卒でいきなり活躍できるバッターの必要条件となるわけだ。
  

近年、ずば抜けた変化球打ちの才能を持っていたのは、
PL学園から西武に入団した清原和博内野手(現評論家)だった。
  

清原というと、真っ向勝負のストレートを並外れたパワーで
打ち返すというイメージが強い。
変化球でかわされるとモロさをみせるように思われがちだが、
  
実はカーブ打ちの名手だった。  

「入ってきたときから、肩が開かずに一呼吸ためてボールをしばく。
 そのタイミングは天性のものだった」―。


恩師でもある元西武打撃コーチの土井正博(現評論家)は
こう語っている。
その結果、1年目から打率3割4厘、31本塁打という
並外れた数字に結びついたわけだった。  
  


原監督も認めた坂本の「実戦力」。
そしてもう一人、変化球打ちのセンスに「なるほど」と思わせたのが
光星学院から入団し、
プロ2年目だった去年の巨人・坂本勇人内野手だ。

真っ直ぐには少し詰まったが、
変化球に崩されずについていく。
原辰徳監督をして
「実戦力のあるバッティング」と言わしめたセンスが、
そこにあった。
  

だが、去年の坂本の打撃には大きな欠点もあった。
ボールを引きつけるポイントが後ろにあるが、
スイングがついてこなかった点だ。
独特のタイミングでボールを捕らえるセンスはあるが、
まだスイングスピードがついてきていなかった。
最初は手探りの敵バッテリーは、
普通の若い選手と同じように変化球を中心にして坂本を攻めた。
  
しかし、実は速い球こそ坂本封じの決め手だったのだ。
その点を分析された8月以降はがっくり成績も落ちていった。



その坂本が昨年までは詰まっていた内角のストレートを
きっちり打ち返せる技術を身につけている。
グリップの位置をあげてトップをコンパクトに作れるようになって、
内角のさばきが抜群に良くなった。

去年のデータを基にストレートを軸にした相手バッテリーの攻めを、
これで完璧に粉砕した。
今季のハイアベレージの秘密だった。
  

だが、坂本という選手を根本的に支えているのは、
やはりもって生まれた変化球打ちのセンスであることは
忘れてはならない。
  

「投手が打者を抑えるのには2種類の方法がある。
一つは力でネジふせること。
でも、これは相当な力の差がないと難しい。
だからピッチャーは常に相手を崩して、
自分のバッティングをさせないことを考える。
その一番の武器は前と後ろ、
内角と外角とバッターを変化球で揺さぶることになる。
ただ、そうやっていくら崩そうとしても、
ビクともしなかったのがONだった」―。

中日のエースとしてONと幾多の名勝負を演じた
阪神・星野仙一SDの言葉だった。  


変化球にもビクともしないで自分のタイミングでボールをさばける。
坂本に本物の匂いがするのは、まさにそこだった。




“伝説”にもなった 下半身主義
2009年07月22日 (水) | 編集 |
「バッティングの要諦は下半身にあり」とする豪快なスイング。

現役時代の晩年から第一次監督時代にかけてのこと。
長嶋さんは独特の「打者観察法」というか、
打撃技術論をしていた。
「バッティングの要諦は下半身にあり」というものである。  


これは、大量に所有している大リーグ名選手の
打撃フォームの映画フィルムコレクションを
繰り返し見るうちに会得した。
大リーガーの打撃フォームは千差万別。
日本のように武術、芸事にある“型”と言う
伝統を持たない大リーグでは、
選手それぞれが個性あるフォームで打っている。
その中から長嶋さんは、ある共通したものを見つけたのだった。 

「腰から下、下半身の動きの大切さだね。
 腰の回転が鋭く切れているかどうか。
 右打者ならば右足、左打者ならば左足の蹴りこみが
 スイングのときに十分働いているかどうか。
 これがポイントだ」  


現役時代の長嶋さんは、
フォームで打つタイプの打者ではなかった。
従ってスランプになっても、
他の選手がよくやる自分の調子がよかったときの
連続写真で打撃フォームの再点検をすることは
あまりやらなかった。
気をつけていたのは、腰が切れているか、
右足のけりが十分かの2つだけだったそうだ。

「上半身のフォームが少しぐらい崩れても、
 下半身さえしっかりしていれば、強い打球が生まれるものだ。
 打撃練習で選手の下半身の動きを見ていれば、
 だいたい試合で打てそうかどうかは分かる。
 腰から下の動きだけで、
 打球音を聞かなくてもいい当たりかどうかは判断できるし、
 打球の方向も当てられる…」

そして、
「選手時代は自分の下半身、
 監督になってからは選手の下半身の動きばかりを
 気にしていたのだから、妙なもの」と、長嶋流になってくる。  


さらに長嶋流打撃術には“伝説”がある。
選手にバットの素振りをやらせ、
長嶋さんは目をつぶってバットが空気を切る音を聞いて、
正しいスイングかどうかを判断するそうな。
居合いで刀を振る剣士たちは、
正しい刀の操作を太刀風の音で判断するから、納得だが、
ある選手が電話をかけたところ、
長嶋さんは
「バットを振ってみろ」と言って、
電話でスイングの音を聞いてアドバイスしたという。
いかにも長嶋さんらしいが、
ちょっとすごすぎる伝説ではなかろうか。

長嶋と王 深い信頼関係も対照的な2人
2009年07月17日 (金) | 編集 |
≪最高のパートナーだったOとN≫

長島さんはON砲について一言がある。

「やはりワンちゃんが3番でボクが4番のO⇒Nの打順のほうが
 いいでしょうね。
 ゴルフでもそうだけれど、先にいいのを打たれると、
 後で打つのはプレッシャーがかかって打ちにくいものだが、
 ボクはそんなプレッシャーを闘志に変えちゃう。
 この"長島のキャラクター"を考えれば、O⇒Nの順がベスト」と、
感覚的だ。
「中距離バッターのボクが400本以上(通算444本)の
 ホームランを打てたのはワンちゃんのおかげでしょう。
 一発でも負けてたまるか、と言う気持ちが打たせた。
 ワンちゃんがいなかったら、
 1割の40本ぐらいは減っていたと思うな」―。  


しかし、王さんのほうは打順にこだわりはなかったようだ。
「3番でも4番でも構わないね。
 監督として考えたら3番O、4番N。
 確実性があって出塁率が高いボクが出て
 投手にプレッシャーを掛け、その後のNで打って
 得点力が高まるはずだから」と、論理的に分析する。
結論は同じでも、考え方の道筋が
違うのが、そのまま二人の性格の違いだろう。  


王さんは
「長嶋さんに対して無意識の対抗意識があったと思う。
 それで頑張れた」と言うのだが、
長島さんは
「どのチームでもONみたいな関係になると、
 その関係が周囲で色々取りざたされて難しくなるのが普通らしいが、
 ボクたちにはありませんね。
 これは野球界では珍しいことかもしれないね」と、
ケロリとしている。

長男坊扱いされた長島さんと次男坊の役割に擬せられた王さんでは、
当然その思いは違っていただろう。  


長島さんは、ON砲への考え方に表れているように、
王さんを自分の仕事を向上させてくれたパートナーとして
見ていたのだ。


ケンカで生まれた一本足打法
2009年07月16日 (木) | 編集 |
宮崎キャンプの宿舎で一本足打法のフォームチェックを行う王。
真夜中の特訓は本塁打が量産するようになってからも続いた 。
  


【7月1日】1962年(昭37)
巨人10-0大洋―。
あの日、雨が降らなかったら
巨人・王貞治一塁手の本塁打世界記録は
生まれなかったかもしれない。
  


川崎球場での大洋-巨人15回戦は、
前日夜半からの雨の影響で試合時間が30分遅れた。
この間を利用して行われた巨人1軍首脳陣による
ミーティングは始まりから殺気立っていた。
大洋、阪神に遅れをとり3位の巨人。
6月30日の大洋14回戦では藤田元司投手が1失点ながら、
打線はわずか1安打で鈴木隆投手に完封負け。
苛立つヘッドコーチの別所毅彦と打撃コーチの荒川博は
つかみ合い寸前の口げんかを繰り広げた。  


「荒川!王だよ、王、何とかしろよあのバッティング。
 3番のアイツが打てないから、ピッチャーが頑張っても
 勝てねぇんだ!」―。
  
「僕は王に三冠王をとらせようと思ってやってるんだ!
 ホームランだけでいいならわけないですよ!
 今日から打たせますよ!」―。
  
「よーし、じゃあそうしてくれよ。ホームラン打ってくれよ
 今日から!」―。
  
「分かりました!今日からホームランだけ行きますよ! 
 しっかり見ててくださいよ!」―。  
  


やぶれかぶれもいいところだった。
61年オフから半年以上。
荒川による王の打撃フォーム改造は、
まだ道半ばもいいところだった。
鈴木に完封された試合で王は2三振。
その夜、王は荒川に
「打席に立つのが怖い」と泣きついた。
だが、別所に“約束”した以上、
荒川は何かをしなければならなくなった。
  


「王、王はどこにいる!」。
荒川が血相を変えて王を探した。
三塁側ベンチの隅っこでぼんやりと座っていた王に荒川は
「とても怖い目つき」(王)で切り出した。
「王、アレで行け。アレで。今日の試合は右足上げて打ってみろ」―。  


左足に重心が乗らず、
上体が突っ込んだままの形で打つクセのあった王。
その矯正にと、荒川と2人で一本足打法に真剣に取り組んでいたが、
一本足にすべてをかけていたわけではなかった。
こんな打ち方もあるかなあ、正直その程度、選択肢の中の1つだった。 
 


王にも確信は全くなかった。  
この年の3月11日、
大阪球場での南海とのオープン戦で意識的に
右足を上げて試してみたが、
それ以来実戦では構えたことすらない。
  
しかし、王もわらをもつかむ心境だった。
打率は2割5分9厘、本塁打はもう1カ月近くなかった。
かなり不安だったが、荒川に言われるまま、
一本足で打席に立つことを決めた。  
  


王は「1番・一塁」で1回表の第1打席に臨んだ。
大洋先発はルーキーながらここまで3勝の右腕・稲川誠投手。
モーションと同時に、左打席の王の右足が
地面から離れ高く上がった。
「何じゃあ。バカにしてんのか」。
稲川は一瞬頭に血が上りながらも、
外角へカーブを放った。
王が反応し、打球は一、二塁間を真っ二つ割って右前へ飛んだ。  
  


2打席目は3回表。また右足が上がった。
「さっきはたまたま。これでどうだ」と稲川が投げたのは
インコースの速球。
王がバットを出すと、打球は満員の右翼席へ一直線の
シーズン10号本塁打。
歴史的な一本足打法による初本塁打。
6回には苦手の左腕・権藤正利投手から中前適時打を放ち、
これで3安打3打点の猛打賞。
  
未完成の打法で結果を出した王は、
目の前から霧が晴れて行くような心境になった。  



今なら「一本足打法登場」とマスコミも大騒ぎしたはずだが、
翌7月2日のスポニチには、
巨人が前夜と打って変わって爆勝したことや王の3安打には触れても、
その打ち方に関しての記事は皆無。
  
一本足打法はこれといって注目もされずに誕生したのだった。  


開幕から3カ月で9本塁打の王は7月だけで10本塁打。
7月29日、甲子園での阪神13回戦で18、19号を
小山正明から放ち、初めて単独で本塁打王争いトップに躍り出た。
ようやくマスコミが騒ぎ出したころ、
  
自信なさげに打席に入っていた王の姿はなく、
シーズン終了までに38本塁打を放ち、
この年初のタイトルとなる本塁打王と打点王(85打点)を獲得した。

“おかわり君” 脅威の変化球打ちでHR量産中
2009年07月15日 (水) | 編集 |
やっぱり、今でもそうなのだ…。

遠い記憶が突然、鮮やかに蘇った。
7月3日、中村剛也が、楽天の田中将大から
ホームランを打った瞬間のことだ。

田中の伝家の宝刀、スライダーをものの見事にとらえたのだ。
136kmの、やや外よりの低めのスライダーだった。
それを両膝を折りながら掬い上げ、
バックスクリーンに放り込んだ。
田中の失投というには酷だ。
中村の技術が勝っていたのだ。

真っ直ぐは投げてこない…それこそが中村の思う壺。
「変化球が打てることです」―。
  


8年前の夏、
大阪桐蔭の3年生だった頃の中村に話を聞いたことがある。
何を聞いても要領を得なかった中村が
  
「ここだけは人に負けないと思うところは」と尋ねたときだけ、
そうはっきりと答えたのだ。  


「変化球の方が多いので、いちおう、7対3ぐらいの感覚で
 変化球を待っています。
 変化球の方が飛ぶんです。
 抜いた変化球がいちばん打ちやすい」―。
  


そのとき中村は高校通算で71本もの本塁打をマークしていた。
相手も警戒し、おいそれとは真っ直ぐは投げてこなかった。
だが、それこそが中村の思う壺だったのだ。  
  


それにしても驚いた。
高校生レベルで、変化球をそれだけの確率で待っている打者は
そうはいない。
打者という生き物は、速い球に詰まらされることを怖れ、
本能的に真っ直ぐを待ちたくなるものなのだ。

イチローなど限られた打者だけがたどり着く究極の境地へ。

遅いボールを意識しながら、速いボールに対応していく。
それはプロの世界でもイチローなど
限られた打者しかたどり着くことのできない、
いわば究極の境地だ。
投手のレベルが違うとはいえ、
中村はまだ坊主頭だった頃にその第一歩を踏み出していたのだ。  
  


田中からホームランを打った5日後、
日本ハムのダルビッシュから打った左翼席へのホームランも
変化球だった。
高めに浮いたスライダー。しかも初球。
変化球にねらいを定めていた証拠だ。
  


同じく大阪桐蔭出身のスラッガーである平田良介(中日)や
中田翔(日本ハム)がなかなか芽が出ない理由は、
中村と比べたとき、よりはっきりと浮かび上がってくる。
  
変化球に弱点があるからだ。
無論、それは2人に限ったことではない。
プロの世界に入り、
ほとんどの打者がまずはその壁の前で四苦八苦するのだ。
  


大阪桐蔭の監督である西谷浩一は、
中村の魅力をごく短い言葉で語っていた。


「柔らかい。うちの歴代のバッターの中でも、
 いちばんじゃないかな」―。  


シーズン55本の日本記録ペースでHR量産中!
これまで自分よりもすごいと思った打者はいるか、そう聞くと、
まだ高校3年生だった中村は困惑したようにこう語っていたものだ。

「自分がどんだけすごいかわからないんで……」―。

中村はすでに30本塁打をマーク。
シーズン本塁打の日本記録、55本ペースだという。

「こんだけ」すごかったのだ。
いや、本当の意味で「どんだけ」かがわかるのは、まだまだこれからだ。  




~筆者プロフィール~

   ◇中村計◇
1973年千葉県出身。
ノンフィクションライター。
某スポーツ紙を経て独立。
『Number』(文藝春秋)、『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。
『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で
第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。
他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、
共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。
『雪合戦マガジン』の編集長も務める。
趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。


データーに基づいた野球理論
2009年07月14日 (火) | 編集 |
長嶋茂雄という男は
意外に知られていないのが、野球理論にうるさいことだ。
「天才チョーさん」のイメージが強烈過ぎ、
理論を無視と思われたせいだろう。
第一次長嶋監督2年目の1976年シーズン前のこと。
「これを訳して、エッセンスをまとめてくれ」と、
ある担当記者に英文の本を渡した。 


『パーセンテージ・ベースボール』。
科学者の著書で1964年にマサチューセッツ工科大学から出版され、
コンピュータ分析野球の原点になった本だ。
そのシーズン、巨人は勝ち進み、
前年の最下位から一転して優勝した。
それで翻訳はうやむやになったが、数式がいっぱいで、
野球記者の英語で歯が立つ代物ではなかったそうだ。  


長嶋さんは「思いつき采配」などと言われるが、
データや采配の基本をきちんと押さえた上での奇襲作戦をやっている。
これもそのための“資料”にしたかったのである。  


『ドジャースの戦法』や『チームプレーと個人プレー』など、
大リーグの名GMや名監督が著した野球理論書は
徹底して読み込んでいたが、
ファンを喜ばせるための「セオリー外の作戦をしたかった」と考える。  


たとえば、これらの教科書は、打順の編成で、
1番打者はストライク、ボールの見極めが出来て、
足が速くバントがうまければ最適、とある。
これに対して
「打率の高い順に打者を並べた方が得点の確率は高くなる、
 と数学者は言っている。
 ならば一番に長打力のある打者を置いてもいいはず。
 ファンも目をむくよ」と長嶋さん。
こんな打順は、今でこそ珍しくないが、
70年代では口にするのも常識外だった。  


『パーセンテージ~』が大リーグで再評価されたのは
90年代のコンピュータ時代に入ってから。
時代に進みすぎていた。  


長嶋さんの本は1966年の第2版、
今では古書店でそうとうな値段になっている。
野球情報に貪欲なのは承知していたが、それにしても早い。
一体どうして入手したのか、
と翻訳できなかったその記者はいまだに不思議がっている。
新庄を越える男 日ハム・糸井嘉男
2009年07月13日 (月) | 編集 |
その異常なパワーとセンスの原点。

自らの眼力を嘆きたくなった…。
あの話を聞いたとき、
彼の底知れぬポテンシャルがいかされる日が来るとは
想像もしていなかったからだ。
現在、15試合連続安打を継続中にして、6月の月間MVPに輝いた
日本ハム・糸井嘉男のことだ。

投手から転向するしかなかった男が「新庄クラスの逸材」?  

最速152㎞を誇る本格派右腕として日本ハムに
2003年に入団した糸井が、
度重なる怪我と故障で打者に転向したのは'06年のこと。
その当時の日本ハム担当スカウトから
「新庄クラスになれる逸材」と聞いた時には
大きな疑問を抱いたものだ。―
そんな上手くいくはずがあるんか―と。
 
それが、である。
  

左右に打ち分けるバッティングセンス、
守っては、それこそ新庄を彷彿とさせる守備範囲の広さと強肩。
打ち損ないのセカンドゴロを内野安打にしてしまう俊足は、
イチローがメジャーの舞台で見せているそれに引けをとらない。
底知れぬポテンシャルで、
規格外のパフォーマンスを見せているのだ。
  


類まれな俊足、異常な速さのバットスイングを持つ“投手”。
「送りバントが送りバントじゃなかったね」―。
  

そう話すのは近畿大学時代の恩師で、
現在は大学日本代表監督を兼務する榎本保氏である。
  
投手だった当時、糸井に送りバントのサインを出したが、
50mを5.6秒で走る糸井の送りバントは
セーフティーバントに等しい成功率だったという。
また、バットスイングにしても
「(当時のチームメイトで現阪神の)林威助のスイングスピードを
 計ったら168km、これもすごく速いことは速いのですが…
 当時、糸井にスパイクも履いていない状態でバットを振らせたら
 160kmもあったんですわ」
というのだから、当時から打者の素質もあったということか。
  


ただ、それでも糸井の投手起用にこだわったのは
本人の希望があったからだし、
大学2年時には長らく気にしていた故障が癒えて
150kmを投げ込むまでになっていたしで、
打者転向の話はほとんど選択肢から消えていったという。
大学4年春にはリーグ優勝をかけた立命館大との決戦で
2試合連続完投勝利(うち1完封)を収めている。
野球選手としての才能が満ちあふれていた糸井は、
投手として順調に育っていた。
  
いや、投手以外の能力も含めて、
才能があり過ぎだったといった方がいいかもしれない。
  

当時の日ハムのスカウトが
糸井を指して「新庄クラス」といったのも、
そのポテンシャルを知っていたからこそだったのである。


そして、さらに驚いたのが'08年の春季キャンプ。
「新庄クラス」という言葉を胸に秘めながら、
彼の成長を確かめに行ったのだ。
そこでは、さらなる驚きと出会うこととなったのだが…。
  

打席での立ち姿はまさに新庄さながらだが、
ど肝を抜いたのはそのパワー。
紅白戦ではあったが、期待の右腕・糸数敬作の
アウトローのストレートをバックスクリーンにライナーで
突き刺す強烈な本塁打を放ったのだ。

これは、新庄じゃない。
新庄のセンスに金本のパワーが合わさったかのような
怪物が誕生しようとしているんじゃないか?
と、その時思った。

イチロータイプか? パワーをいかした長距離砲なのか?
改めて、榎本氏の証言である。
   

「外国人に対抗できるだけのパワーも持っていると思います。
それくらい飛ばせる。
でも、糸井はシャイなところがあって、
一生懸命やっているのを人に見られるのが嫌なタイプなんです。
そういう内気なものがなくなって、
爆発すればとんでもない力を発揮するかもしれませんね」―。  

 
打者になって4年目。
眠っていた才能はようやく花開き始めたばかり。
足をいかしたイチローのような打者になるのか、
それとも外国人選手ばりの怪力でパワーヒッターを目指すのか?
いまだ計り知れぬその才能がどこまで伸びるのか、
想像がつかない。
  



~筆者プロフィール~

 <氏原英明氏>
1977年ブラジル生まれ。
奈良大学を卒業後、地方新聞社でのアルバイト勤務を経て、
フリー活動を開始。
高校野球を中心に活動を続けるが、
野球を通じた人間性、人生観を伝え続け、
Numberのほかに野球専門誌で活躍。
WEBの世界でも「人間力×高校野球」(高校野球情報.com)と題した
コラムを連載している。


長嶋茂雄の『理想の野球』
2009年07月11日 (土) | 編集 |
1958年4月5日。
デビュー戦となった国鉄戦で、
長嶋茂雄は金田正一から4打席連続三振を喫した。
4打席すべて空振り。
7年連続20勝という大エースと対した計19球で、
バットに当てることができたのはわずか1球だけだった。
  

その試合で長嶋は  
『どうせ打てないのなら、思い切りの良さをアピールしたい』
と考えたのだという。
それが高じて『ファンが喜び、納得してくれる三振』と、
長嶋は少し緩めのヘルメットを着け、
空振りすると吹っ飛ぶように工夫した。
  


三塁手としての最大の見せ場はキャンバス寄りのゴロを、
横っ飛びして捕球することだ。
  
長嶋は周囲に気付かせないようにベース寄りに守り、
常に神経を三塁線に置いた。
三遊間の緩めのゴロも猛ダッシュでいただいた。
ショートの広岡達朗は『いいとこだけ持っていかれた』
と何度も苦笑したものだ。

もちろんそのために人一倍ノックを受け、バットを振った。  

彼の頭の中にあったのは
『いかに魅せるか』という一点だった。
  
スタンドを燃えさせ、それが熱気になって選手の背中を押し、
それをパワーに変えて勝つ。
それこそが『理想の野球』だった。  
  


だが、監督1年目の1975年は
『魅せる』よりも『耐える』年となった。
来る日も来る日も負け試合の終盤、新浦寿夫を投げさせた。
スタンドはブーイング続きで、失笑が沸いた。
将来のエースと期待されながらも新浦はどこか投げやりで、
すぐ楽な方に逃げる。
  
長嶋はプロの厳しさを教え込むには、
徹底的に恥をかかせ、それでダメなら諦めると決めた。
『オレも一緒に恥をかき、泣いているんだ』―。
新浦は翌年11勝、
次からの2年間は防御率、勝率のタイトルを取った。
長身の左腕が登場するとスタンドは期待で沸き返るようになった。  
  


興奮のあまりバントの構えで代打を告げたり、
現役時代にはホームランを打ってスキップもした。
いつも言っていた話を思い出す。
  

『球場は毎日5万人で埋まるが、
 大半が1年に1度見にきてくれるファンでしょ。
 負けても、満足して帰ってもらうのが、
 われわれの務めですから』―。
  



【75年の巨人投手陣】
球団史上初の最下位も、チーム防御率は3・53で5位。
実は優勝した翌76年の3・58よりも良かった。
それでも76敗も喫したのはチーム打率2割3分6厘が示すように、
打線の援護がなかったケースが多かったからだ。
エース堀内は10勝こそしたものの18敗。
10試合以上登板した投手で勝ち越せたのは、
横山忠夫投手の8勝7敗のみ。
横山は防御率ランキングで18位、堀内は22位。
10位以内に巨人の投手陣が入らなかったことは、
2リーグ分裂後3回あるが、
15位以内にも入らなかったのはこの年だけだった。

まさに『野球の虫』~人に倍する圧倒的な努力
2009年07月10日 (金) | 編集 |
~「命と男」をかけたスイング~

バットを手に顔をしかめる長嶋茂雄。

長嶋茂雄の選手時代にドーム球場はなかった。
雨が降れば中止。
多摩川の雨天練習場か、相手の練習場を借りて練習した。

長嶋も参加はするが、たいていは適当に汗を流して
『ハイ、お疲れさん』と、早めに引き上げた。
王貞治らは『ミスター、雨、嫌いだから』と笑っていたが、
実は長嶋の“本番”はその後だった。

東京・田園調布の自宅地下には
賞状やトロフィーを飾る部屋が造られており、
バットスイングができるようになっている。
家に戻ると、ここへ直行し、
満足できるまで1時間でも2時間でもバットを振り続けた。

遠征先では宿舎の部屋が練習場になる。
それは試合後も同じだった。
“部屋っ子”の土井正三にアドバイスを求めながら振るから、
そのスイングは“コーチの目”で見なくてはいけない。
土井によると深夜、真っ暗な中でのバットスイングもたびたびで、
そのまま起きるとバットが直撃する。
土井は目を慣らしてから声をかけて起き上がった。
『練習の大切さを命がけで教わった』と話している。  


壮絶だったのは引退の年となった1974年のキャンプ。
毎日、暗くなるまで1人グラウンドに残って走り、
宿舎ではバットを振った。
それは『最後を全力で』という気持ちと、
8歳になった一茂への思いからであった。
『打てなくなった親父を、学校で責められていると思うんだが、
 何も言わない。
 親父の苦しみが分かる、男になったんだなと思う。
 ボウズのために今年は打たなきゃ!』―。

そんな感動的な話をした直後に
『足首の肉をあと100グラム落とせばバッチリ』と続ける。
そうすれば、俊敏に動けるようになるということなのだろうが…。
このあたりの“感覚”は、常人には到底理解できない。 


叱られ慣れてない 今時の高校球児
2009年07月09日 (木) | 編集 |
甲子園を目指す高校野球の地方大会が
今週末あたりから本格化する。
関東では埼玉、千葉が明日から、
東西の東京、茨城、群馬などが11日から始まる。
関西でも大阪、兵庫、京都などの激戦区がやはり
11日開幕だ。
7日のサンケイスポーツ紙面には、
日本高野連が発表した今年度の全国の加盟校数と
野球部員数(5月末現在)が載っていた。


硬式は校数こそ昨年を31校下回り4132校と
4年連続で減少したが、部員数は16万9449人で
過去最高だった昨年を151人上回り、12年連続増加だった。
1年生が進級して3年生になった時、どれだけ残っているかを示す
『継続率』が過去最高の83.1%(昨年82.2%)だったことも
部員増の一因とか。


この数字について高野連は
『教育の一環として現場の指導者が頑張っているのではないか』
と分析したが、
甲子園にも出ている関東のある強豪校の監督に聞いた話が
分かりやすい。
『ちょっとでも叩いたり、怒鳴ったりの厳しい指導が
 できなくなった。
 どこの監督さんも一人ひとりに気を使っているから、
 辞める子は減るはず』―。


ヘマをした部員を
『2度と使わんぞ!!』などと叱ろうものなら、早速親に
『言葉の暴力だ!』とクレームをつけられる。
中には
『どうせ監督は手は出せない。出したら大変なことになるからな』
と監督の足下を見透かしたような態度をとる、
かわいげのない部員もいるというから辛いところだ。


『気遣いという点で、いまの監督は“サービス業”みたいなもの』
と監督は苦笑した。
継続率が高いのはいいとしても、
そういう指導が正しいのか、
部員が社会に出たとき大丈夫なのか。
季節の到来は楽しみな半面、先行きが心配にもなる。


                    サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                今村忠氏
ダル育ての親 新天地で挑む
2009年07月08日 (水) | 編集 |
『何やってんだ。遊びじゃねえんだぞ』―。

練習試合中の九国大付(福岡)ベンチに
若生正広監督(58)の雷が落ちた。
2年前、脊髄の病気にかかり、杖と介助なしでは歩けないが、
独特のしわがれ声は健在だ。


東北(宮城)で、選手として1度、コーチで3度、
監督として7度も甲子園(選抜大会を含む)に行った名監督。
九州に移って、4年目の夏を迎える。


東北時代の2003年夏、
ダルビッシュ(現日本ハム)を擁して準優勝。
04年夏の甲子園を最後に野球部顧問に退いたが、
選手と距離を置いた毎日は退屈すぎたという。
翌年の8月に請われて、
故郷の仙台からはるか西に単身赴任した。
『東北から外に出て成功した指導者って、あまりおらんからね。
 やってやろうと思ったわけよ』―。


就任当初、県内に約130校がひしめく激戦区で、
頂点に立つ難しさを痛感した。
『仙台育英のことだけを考えればよかった宮城とは違う』―。
春夏3度、甲子園に出場した九国大付も、
1982年夏を最後に縁がなく、
現在ソフトバンク育成枠のニ保旭らが好素材が揃った昨夏も
県大会8強どまり。
やっと今春の九州大会で選抜優勝の清峰(長崎)などを破って
優勝し、甲子園を視界に捉えた。


『ケガをすれば伸びない』と体作りを重視する。
1日1000回ずつの腹筋、背筋で体幹を鍛え、
股割りなどで柔軟性を高める。
昨秋から制球、球威とも進境著しいエース納富秀平(3年)は
『股関節が柔らかくなると体重移動がスムーズになり、
 力を最大限に引き出せるようになった』と、
指導に厚い信頼を寄せる。


『ダルビッシュの恩師』にあこがれて関東、関西の中学からも
選手が集まり、個々が素質を花開かせようとしている今夏。
『体が悪くても、家族と離れても、必死に僕たちを鍛えてくれた。
 絶対に甲子園に連れて行きます』と、
1番・遊撃手の小林知弘主将(3年)が語るように、
ナインの士気は高い。


『男だから勝つまで(仙台に)帰れんからねぇ』という
頑固オヤジへの恩返しを誓う福岡大会は、
4日幕を開けた。


               読売新聞 『輝け夏に』より
                          前田剛氏 
石の上にも3年
2009年07月06日 (月) | 編集 |
マリナーズのイチローとヤンキースの松井とで、
珍しく(?)意見が一致していることがある。
  

『3年続けて結果を残して、初めて本物といえる』―。  

3年間はとにかくがむしゃらに野球に打ち込む。
そうして初めて自分の数字を信じてプレーできるということだ。


巨人の若手が着実に伸びてきているのを見て、
『なるほどな』と思うことがある。
  
チームとしての選手の管理だ。  

今をときめく坂本は、遠征先での外食は許可制だという。  
実は若い選手がダメになる一つの原因に、
遠征先での私生活がある。
寮生がほとんどだけに、本拠地ではある程度の管理ができる。
しかし、遠征先では門限はあるものの、ある意味、
選手の自主任せ。
ひどいケースは、先輩選手が自分の“タニマチ”と
引き回すことさえもある。
  
巨人ではそこをきちっと管理している。
それが若手台頭の、一つの外的要因ともなっている。
  


もちろん外食は気分転換にもなるし、悪いことばかりではない。  
それでも度が過ぎればコンディション面だけでなく、
マイナス要素も多い。
坂本は外食に誘われたら、伊原ヘッドコーチの了解をもらって
出掛けるのだという。
こうして管理すれば、度が過ぎればストップもかけられる。
  
昨年から今季の好成績の裏には、
こんな首脳陣の配慮もあった。
  


『なんで若手が育たへんのやろ・・・』―。
そんな坂本の活躍を横目に、某球団OBの嘆きだった。
実はこの球団こそ、若手選手がちょっと出てくると
タニマチが引き回して歩くので有名な球団でもある。
  


高校を卒業して右も左も分からないまま、
野球だけをしてきた選手も多い。
そんな選手が芽を出したら、最低でも3年間は野球に集中させる。
そのためには遠征先の夜の管理も、
球団にとっての大事な仕事なのかもしれない。
  


            サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
                スポーツジャーナリスト・鷲田康氏        
青木の復調
2009年07月05日 (日) | 編集 |
ついにペナントレースが再開した。

交流戦から復調の兆しが見られた、東京ヤクルトの青木宣親。

大きなスランプを経験したことが無かった青木。
今シーズンの青木は開幕から絶不調だ。
「WBC組」が相次ぎ故障や不調を訴えるなか、
彼もご多分に漏れず不振に喘ぎ、
5月中旬まで打率は2割3分を前後する毎日だった。

まだ、本来の青木には戻っていないのだろうか?

200本安打を達成した05年以降、毎年3割を記録し、
これといって大きなスランプを経験していなかった青木が、
プロ6年目にして初めて味わう苦悩。

イチローにしても、
今季こそDLから復帰後はハイペースで安打を量産しているが、
例年、4月は打率2割台が多いことから、
シーズン序盤の低迷はこの種の打者のお定まりと言ってもいいだろう。
だから、青木の現在もそれと照らし合わせれば、
さして大きな問題でもないように思える。

プロ6年目にして初めて不調を招いた遠因。
WBC直前、青木に話を聞いたとき、こんなことを言っていた。

「今年はWBCがあるんで、
 去年のシーズンが終わってからずっとトレーニングを続けていて…
 できれば開幕を1カ月遅らせてほしいくらいですよ。
 やっぱり国際大会でのプレッシャーはハンパじゃないですから」―。

そう、冗談を交えながら笑顔を見せた。
昨年のオフから、プロ入り後、
初めて本格的なウエイトトレーニングを導入するなど
休むことなく身体を動かし、
3月からは約1カ月にも及ぶプレッシャーと戦ってきた。
そういったツケが、現れてきているのかもしれない。

本人もテレビや新聞などを通じて、

「(不振は)何が原因か分からない」

と言っているくらいだ。  

打撃コーチ・淡口は、青木の下半身主導の打撃に復調を見る。
だが、打撃コーチの淡口憲治は
青木について強気にこう語っている。

「彼は調子が悪いときでも計画的なトレーニングができる選手。
 自分のなかでのゲーム感さえ掴めれば、
 結果はおのずとついてきますから」―。

実際、感覚を取り戻し始めたな、と感じさせるゲームもあった。
5月31日の千葉ロッテ戦、青木は64打席ぶりとなる
タイムリーを含む2安打4打点。
この日は彼の特徴である下半身主導の打撃が冴えていた。
淡口も
「バッティングで重要なのはお尻に力を入れること。
 それができれば内転筋や腰にもうまく力が伝わる。
 青木はそれがもともとできているんだから」と言う。

この試合がきっかけで、青木は交流戦での打率3割5分4厘と、
いつも通りの数字を残すことができた。
直近の巨人戦3試合だけで評価するとまだまだ本調子には程遠いが、 
淡口の言うゲーム感覚は次第に戻ってきていたのである。

青木の打撃に対する求道的精神が、スランプをもねじ伏せる。
青木は復調する、という確信には実は他の理由もある。

今年の春季キャンプでのこと。
フリー打撃で右方向への打球ばかりだったことが少し気になり、
そのことについて軽く振ってみた。
すると彼は「引っ張りを意識していましたので」とアッサリと答えた。

「それだけならいい、ただ」とこちらが逡巡したかしないか……。

何かを察したかのように急に青木が尋ねてきた。

「いま何か気になることでもありましたか?」

いや、と答える。でも彼は頑として納得しない。

「なんですか? 言ってみてください」

正直な感想を述べてみた。

「少し内角の捌き方が窮屈だったかな、と」

すると、その意見で納得したようにこう答えてきた。

「でしょ。なんかバットの出が悪くて。
 いつもとなにか…感覚が違うんですよね」―。

フリーバッティングの直後、
室内練習場でセンターへのライナーを意識しながらの打撃修正に
黙々と取り組む青木の姿があった。

彼は「いつもと同じ感覚がほしいんです」と常々言っていた。

 “いつも”の好調時の感覚を取り戻すためには、
一介のライターにでもどんどん意見を求めるし、
誰も見ていなかったとしても求道的なまでの鍛練を怠ることがない。
その姿勢は今も昔もまったく変わりはないのだ。

「打率が3割台にいかない青木は青木じゃない」

そう思っているファンも多いだろう。

今はスランプだとしても、シーズン終了後、
指定席であるリーグ打率部門の上位に青木宣親の名は
必ずあるはずだ。
そう信じられるだけの、
“いつも”の兆しはすでに現われているのだから。



筆者プロフィール

田口元義
1977年福島県生まれ。
元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じてアスリートの魂(ソウル)を
感じられる瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。

バイクに頼らざるを得なくなった下半身強化トレ・・・
2009年07月04日 (土) | 編集 |
右ひじの違和感で故障者リスト入りした
オリオーズ・上原が、
腱の部分断裂という重症だったことが分かった。


メジャー1年目。
ただでさえ慣れない環境で、シーズン序盤に左太ももの
裏側を傷めた。
『下(半身)がすべてでしょう』―。
本人が語ったように下半身をかばって投げた結果、
ひじに負担がかかった。
それが復帰は早くても8月の終わりという大きな故障に
つながった。


ずっと気になっていたことがある。
ここ数年、上原の下半身強化のトレーニングで
バイクを頼ることがおおくなっていた。
もともと、上原はよく走る選手だった。
しかし、最近は下半身の故障に悩まされた。
それでも鍛えなければならない。
テーマの折衷案がバイクでの強化だった。


同じように下半身のケガと戦うヤンキースの松井秀喜は
こう話す。
『ランニングとバイクは全く違うトレーニング。
 バイクでは自分の体重という負荷がかからないし、
 本当の意味で下半身の強化にはならない』―。


一方、横浜の工藤にはランニングの持論があるという。
走るという行為は、単に下半身の筋肉を鍛えるだけではない。
走っている間に体が宙に浮き、
バランスを保つために体幹の筋肉を使う。
この動きが下半身はもちろん、
体全体を鍛えることにつながるわけだ。


上原もそのあたりは十分に分かっていたはずだ。
それでも下半身に爆弾を抱えながらマウンドに立たなければ
ならないとなると、
折衷案でもバイクに頼らざるを得なくなっていた。


野球選手にとって『走る』ことは、
食事をするのと同じぐらいに当たり前のことでもある。
その食事がまともにとれず、
栄養剤で何とか生き延びようとしても・・・。

下半身強化をバイクに頼るようになった選手は、
選手生命のピンチである。


            サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
                   スポーツジャーナリスト・鷲田康氏
歴代の名スラッガーにあって大田にないものとは?
2009年07月03日 (金) | 編集 |
『いいバッターはみんな内股なんだよ』  

原監督は言う。  

言われてみて最初に頭に浮かんだのはイチローの姿だった。
確かにちょっと女性的な感じがするぐらいの内股である。
そして次々と昔のスラッガーたちの姿が頭をよぎった。

長嶋茂雄、王貞治に中西太、田淵幸一も確かに内股だった。
そう言う原監督も微妙につま先は内側を向いている。
  


『ガニ股は力が逃げる。
 体の軸でしっかりとパワーをためて、
 回転のときにそれを受け止める。
 そのためには、必ず内股になるものなんだ。
 だからいいバッターはみんな内股なのに、大田はね…』―。

ひざが外を向いている。
  

大田の前に巨人軍の55番を背負っていた男も…。
大田のようにもともとはひざが外を向いていた強打者を
一人だけ思い出した。

ヤンキースの松井秀喜外野手である。

ただ、その松井もプロで様々なことを学ぶ中で、
歩き方を修正してきている。

それまでは足の外側に重心がかかるような
歩き方だったのを、母子臼(親指の付け根)にかかるように
意識して変えてきた。
そうすることで足の指でしっかりと土をつかめるようになり、
体が安定するようになった。

だから今はスクエアか、
意識しているときはやや内股になっている。
  

『地に足をつけるという言葉がある』―。
原監督は続けた。  

『それがどういうことかといえば
 地面を味方につけるということなんだ。
 野球選手で言えばグラウンドも
 自分のプレーの味方にするということ。
 そのためにはきっちり地面を踏みしめられなければならない。
 ガニ股じゃあ、地に足はつかないんだ』―。
  

骨格の問題や体のバランスなど様々な要因で
内股やガニ股は生まれるという。
  
ただ、松井がそうであったように、
意識することで修正はきくものなのである。

地に足をつけるためにはまず、
母子臼にしっかりと重心を乗せた歩き方ができるようになることだ。
  

7月1日に1軍登録を抹消されたが、
大田の怪物伝説は地に足をつけることから始まるのかもしれない。
   

 

~筆者プロフィール~

【鷲田康】

1957年埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。
日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。
原監督に導かれた大田泰示の野球人生
2009年07月02日 (木) | 編集 |
新入団選手に対する球団の期待度の高さを示すのが、
背番号と合宿所の部屋番号である。
ドラフト1位で巨人に入団した東海大相模高の大田泰示も、
大きな期待を背負って入団したひとりだろう。
松井秀喜(現・ヤンキース)の背番号55と、
彼が入団後2年間を過ごした合宿所の部屋を与えられたのだ。  



広島県福山市の城南中時代、
評論家をしていた原辰徳の野球教室に参加したことが、
プロ野球選手を目指すきっかけになった。
  
『辰徳さんにいいスイングをしていると褒められ、
 母校である東海大相模に入学を決めた』と言う。



東海大相模に進学後、
1年生の秋から4番・サードでスタメンに定着。
  
東海大系列野球部総監督の原貢(原辰徳巨人監督の実父)は
4番という重責に悩み、結果を残せない大田に
『高校生にスランプはない。打てないのは実力がないからだ』と
徹底して素振りをさせたこともあったと言う。
その結果が高校通算65本塁打となって表れたのである。  


高校3年時の夏の甲子園予選では、
大会記録となる5本塁打を放つなど活躍を見せた。
決勝戦では慶應高と4時間20分の死闘を繰り広げたが、
惜しくも敗退し、結局一度も甲子園出場を果すことはできなかった。
  
それだけにプロ生活にかける思いは誰よりも強いのである。  


原貢も  
『息子とはタイプが違うが、
 ボールを飛ばす力は大田のほうがずっと上。
 体が丈夫で、大きな故障をしたことがないのもいい』と
伸びシロがあることを強調している。
『時間をかけてじっくりと鍛え上げ、
 生え抜きの三塁手として育てる。
 松井よりもバランスのとれた体型だし楽しみな素材だね』と
岡崎郁二軍監督も話している。  
  


新人合同自主トレに参加した大田は、
『ここで始まって、ここで終わると思う』と
生涯巨人軍を貫くことを宣言している。
原辰徳に憧れて野球に打ち込むようになった大田が、
原辰徳によって意中の球団に入る。
『ちょっとできすぎかな、という気もするけれど、これも縁だから』
と笑う原辰徳。
ソフトバンクと競合の末獲得した新人に、目を細めていた。  
  


巨人にとって、久しぶりに抽選で獲得した大物新人。
坂本勇人との生え抜き三遊間コンビが一人前になった時、
巨人の黄金時代が再び到来するのだろう。



『右投左打』の打者に偏重することの弊害とは
2009年07月01日 (水) | 編集 |
3月のWBCを見てもわかるように、
日本代表チームには左打者が異様に思えるほど多かった。
15人の野手のうち阿部慎之助、小笠原道大、亀井義行(巨人)、
岩村明憲(レイズ)、川宗則(ソフトバンク)、
イチロー(マリナーズ)、福留孝介(カブス)、
青木宣親(ヤクルト)、稲葉篤紀(日本ハム)の9人が左打者で、
このうち稲葉を除く8人が「右投左打」、
つまり作られた左打者だった。
それが相手チームにスキを作る原因になり、
とくに韓国戦では奉重根、柳賢振の左腕に再三抑え込まれ、
北京五輪では左腕・金広鉉に
『日本チームキラー』の異名まで与えてしまった。  


その韓国には日本のプロ、アマが最も育成に手間取る
右のスラッガーが金泰均を筆頭にズラリと揃い、
日本の投手を打ち込んできた。
左打者は左投手(とくに変則)を苦手にするが、
右打者には左右投手に対する得手・不得手があまりない。
つまり、相手チームの継投策をやりにくくさせる。
しかし、日本チームにはポイントになる場面で
左投手を登板させる継投策が常識になりつつある。
左打者がこれほど多ければ、そうしないほうがおかしいのだ。

どうして『作られた左打者』は多くなるのか。
5年前、雑誌で対談してもらった
高嶋仁(智弁和歌山監督)、中村順司(元PL学園監督)両氏に
『右投左打』はなぜ増えるのか聞くと、
『右投左打を作ったことはほとんどない』と両名将は答えた。
入学したとき既に右投左打になっている、と口を揃えた。  


右投左打は打者走者の一塁到達に有利、という
勝利至上主義を背景に作られる。
それが高校野球より以前の中学野球、あるいは少年野球の現場で
行なわれているというのだ。
大らかにバットを振ってホームランを狙う“楽しい野球”が
小・中学の現場で駆逐されている現実を知ることは、
ストップウオッチによる各塁到達タイムを
各媒体で発表し続けてきた身には辛い。
スタメン9人のうちチャンスメーカーは上位、下位で2、3人いればいい。
つまりチーム全体で4、5人が一塁到達4.29秒未満
(全力疾走の基準タイム)を実践し、
あとの4、5人は塁上の走者を還す役割を実践する。
そういう役割分担を明確にしないとこれからも
『右投左打』が増殖して、
日本野球はますますいびつになっていくだろう。

<筆者プロフィール>

小関順二氏  

1952年神奈川県生まれ。
日本大学芸術学部卒。
1988年ドラフト会議倶楽部を創設し、
模擬ドラフトで注目を集める。
Numberほか雑誌「週刊現代」にも野球コラムを連載中。
『プロ野球 問題だらけの12球団』(草思社)
シリーズ10年目を迎えた。
他に『プロ野球のサムライたち』(文春新書)、
プロ野球スカウティングレポート』(アスペクト)など著書多数。