日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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セーフティーバント体得
2009年02月27日 (金) | 編集 |
読売新聞『時代の証言者』~最多安打 張本勲(14)より

近鉄のジャック・ブルームという左打者に、
かなわない時期がありました。
昔は打率3割3分と言えば、大変な数字です。
いい投手がたくさんいて、
『投手有利』と言われていましたから。
ブルームは、そんな時代の1962年(昭和37年)に
3割7分4厘で、63年には3割3分5厘を打って、
2年連続首位打者に輝きました。
  

彼は調子が悪いとすぐ、一、ニ塁間にセーフティーバントを
決めるんです。
外野で見ていると、2打数無安打の後、3回目の打席でよく
決めていました。
一塁に向かって、笑いながら走っていましたね。
これで、3打数1安打。
4打席目、気楽にコーンとセンター前に打って、
4打数2安打にしてしまうような打者でした。
こっちは必死に打って、3の1か、4の1でした。
  


~ブルームは60年に近鉄に入団。
 65年に南海に移籍し、翌年、日本球界を去った。
 7年間で757安打を放ち、通算打率は3割1分5厘。
 62年と63年には二塁手としてベストナインに選ばれている~  


あのバントの技を教えてもらおうと思い、
ある対戦の時、片言の英語で『教えてくれ』と聞きました。
すると、ブルームは
『オーケー。その代わり、おいしいビフテキをごちそうしろ』
と言いました。
私は『お安い御用だ』と、東京・赤坂のステーキ屋に連れて行き、
教えてもらいました。
  

コツはこういうことでした。  
左打者の場合、バントの構えをした時、
普通は右足を開いてしまいます。
でも、開いてはダメ。
開いたら、内野手が感づいて、すぐに前進してきます。
ですから、しっかりとスイングの形を取って、
『打つ』と思わせてから、
左足を投手方向に踏み出して、バントをする。
こうすれば、アウトコースの球にもバットが届いて、
一塁側に転がすことができる。
さらに、スタートも1歩半くらい早く切れるんです。
いろいろ利点がありました。
  

早速、試合で使ってみると、やはり、よく決まるんです。
一、二塁間にうまく転がると、
ブルームと同じように笑いも出ましたね。
それくらい、面白いように決まりました。
  
イチロー(マリナーズ)も、私から見ると、あまりうまくない。
足が速く、スタートがいいから、成功していますが、
この方法を取り入れれば、もっとバント安打が増えるでしょう。
  

67年からは、プロ野球史上初の4年連続首位打者に
輝きましたが、足の速い私にとって、
セーフティーバントは大きな武器になりました。
特に私の野球人生にとって、忘れられない70年のシーズンは、
この技に助けられることになります。


                      ~荒井秀一氏~


自分の持ち味を活かせば、持ってるもの以上の成果が
現れるのですね。
自分の本質を見抜いて活かす能力が優れていた張本さんに
共感した記事でした。 
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不振のルーキーにアドバイス
2009年02月26日 (木) | 編集 |
サンケイスポーツ評論家の若松勉氏(61)が、
巨人のスーパールーキー、大田泰示内野手(18)の
打撃をチェック。
実戦10打席無安打と悩む大田に、
  
最も必要な練習方法は、
『外角球をライトオーバーにすることだ』とアドバイスした。


大田に提案したいのは、  
『外角球を右方向へ強く打つこと』の徹底だ。  
19日のNTT西日本戦では、
打った瞬間に左ひざが伸びきっていた。
バットを構えた時点では、左足はベタ足にならず、
つま先立ちにして『いつでも来い』と向かっていく、
いい姿勢だった。
  
しかし打つ瞬間には左足が伸びきってしまい、
つっかえ棒のようになる。
  
下半身を使えていない証拠だ。  
右打者は『右足首→右ひざ→腰→腕→バット』の順で
体が回転するのが理想だが、
左ひざがつっかえ棒になると、ひざ、腰がうまく回転しない。
その結果、上体だけで振るから腕が伸びてしまい、
バットが最短距離で出てこない。
  

大田にいま必要な指導は、  
外角球を『ライトオーバー』する強い打球を打たせる練習の徹底だ。  
実際に岩村(現レイズ)を指導したときに感じたのだが、
プロ入りまで引っ張り中心だった高校出のスラッガーには、
打撃の意識転換が必要なのだ。
  
『ライトオーバーの打球』には、
下半身の回転により、バットを最短距離に出す『プロの基本』が
詰まっている。
これをマスターすることが、プロの打者としての第一歩である。


                  サンケイスポーツ専属評論家
                                  若松勉氏 
『野球』で戦後最大金融危機を救え!!
2009年02月23日 (月) | 編集 |
やはり、日本の国民的スポーツは野球だった、と
改めて感じた。
宮崎で行われていたWBCの日本代表合宿は22日に
終わったが、
連日4万人を超えるファンが詰めかける大盛況だった。
南国とはいえまだ2月。
徹夜や早朝からの行列は体にこたえたと思うが、
老いも若きも心から楽しんでいる様子が
テレビのニュースでも伝わってきた。
  


同じ日本代表合宿でもサッカーではこうはいかない。
ファンどころか、マスコミにも練習を非公開にすることも多い。
FIFA世界ランキング37位でW杯はアジア予選を
突破できるかどうかだが、
こちら野球あ連続世界一をかけてのスタート。
ファンサービスもしっかりしていて、足が向くのも当然だろう。
  


先日、与謝野財務・経済財政担当相は
GDPの大幅落ち込みについて
  
『戦後最悪。戦後最大の危機』と表現した。  
3月決算期を迎え経済危機はより深刻化し、リストラは拡大して
明日はどうやって生きようか、迷える人々がますます増えることが
懸念される。
  
まるで終戦直後のような時代背景。
当時も国民を熱狂させたのは野球だった。


赤バットの川上、青バットの大下・・・。
希望を失った時代に人々は野球に復興への光明を見出した。
今はイチローや松坂をはじめとするスター軍団に、閉塞感打破の
期待を託したのだろう。
  
さらに長嶋茂雄氏というかつてのシンボルまでが激励にきた
グラウンドで輝きを見せ、輪をかけた。
  


男性なら、誰もが一度はボールやバットを手にした事があるはずだ。
そんな野球の国ニッポンの“先祖返り”のような現象。
一歩下がってみれば空しさもあるが、たとえ、
いっときでも心の中を温めてくれたことは間違いないようだ。


                    サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                     今村忠氏
サムライジャパンリーダー・イチロー
2009年02月22日 (日) | 編集 |
宮崎で行われているWBC日本代表合宿。
その合宿でいきなり『リーダー・イチロー』を物語る
出来事があった。
  

合宿初日(16日)は1人10分待ち時間制だった打撃練習が、
翌2日目から数人の選手が組を作って交代でケージに入る、
  
いわゆる“回し打ち”方式に変更された。  
この変更を提案したのがイチローだった。  
日本では打撃練習は1人の選手がケージを独占して、
じっくり打ち込むのが基本だが、
メジャーでは“回し打ち”が当たり前。
  
『長い時間、同じ打撃練習を相手に打つより、
 回して打った方が1球1球への集中力が高まる』と
イチローが進言。
それが採用された。

『練習の時間配分のイメージを変えないといけませんね。
 時間配分というのは大事。
 後半は見ているファンもダレてきたし、
 僕も初日からネタを出し過ぎました』―。


合宿初日の練習後には冗談まじりで練習メニューの再考を望む
発言もした。
  
その中でまず着手したのが、
打撃練習のやり方の変更だった。
1人の選手としては言いにくいことだが、
メジャーを含めてさまざまな練習方法を体験している自負と、
今回のサムライジャパンではリーダー格として
チームを牽引する―という自覚を表す行動ととれる。

原監督もイチローの積極提案は大歓迎。
『いいと思うことは、どんどん発言していってもらいたいね。
 こちらもそれを受け入れる準備はある』―。

第1クールの守備練習では右に左に打球を追って
華麗なグラブさばきを披露。
シート打撃でも鋭い当たりを連発して仕上がりの良さも証明した。



有言実行。
口も手も出す『リーダー・イチロー』の下、
サムライジャパンが連覇へ動き出した。


              サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
                                  鷲田康氏
ミスなくし確実に勝つ
2009年02月20日 (金) | 編集 |
今シーズンから指揮を執ることになった
住友金属鹿島硬式野球部を率いる平野和男監督。
『いつか監督をやりたいと思っていた。
 不安もあるが、チームのことはわかっている』―。
監督就任前の2年間、統括コーチとして
チームを見守ってきた。


千葉県銚子市出身の野球少年は地元の名門、
銚子商業高校にあこがれた。
だが中学時代、目立った実績は残せず、銚子商関係者に
『レギュラーになれない』と言われた。
『屈辱だった。絶対にレギュラーになってやると思った』―。
固い決意を胸に同校に進んだ。


1年生の秋にレギュラーの座をつかみ、3年夏、
甲子園出場を果たした。
中央大を経て、住金鹿島へ。
当時、創部7年目で、『自分の力で強くしたい』と選んだ
チームだった。

中軸の5番打者として活躍し、入部3年目の1983年、
チームは初めて都市対抗に出場した。
28歳で6年間の現役生活をいったん終え、
コーチなどを務めた後は18年間、野球と離れていた。


2年前、再びコーチの就任の打診を受けた。
『サラリーマンとしての経験が自分を成長させてくれた。
 また野球に携われることに感謝し、 
 会社に恩返しできたら・・・』と快諾した。
監督となった今も、薄板工程室に籍を置く。


目指すのは『粘り強く負けない野球』―。

社会人野球はトーナメント方式の試合が多く、コーチ時代、
小さなミスから敗れるのを何度も敬遠したからだ。
『走塁ミスなど自滅的なムスをなくし、」
 確実に勝つ野球を目指す』と明快だ。


多くのプロ野球選手を輩出してきた名門も、
日本一のタイトルは獲得したことがない。
今年のスローガンは『全ては勝利に為、に~限りなき挑戦』~。
その先に、『日本選手権優勝』という大きな目標がある。


                           読売新聞より
                               河西大智氏


打撃の必須3条件
2009年02月19日 (木) | 編集 |
読売新聞 『時代の証言者』
最多安打 張本勲氏のコラム第18回より。


今回は、打撃の話をしましょう。
大切なことは3つあります。
  

まず『形』です。
人には体が硬い、柔らかい、大きい、小さいなどタイプがあります。
自分の体に合ったフォームを身につける、形を作る、
ということが重要です。
  
自分で探してもいいし、指導者に教えてもらってもいいでしょう。  
私の場合、元々、ホームランバッターでスタートしたので、
両足のスタンスは少し狭かった。
遠くへ飛ばしたいから、勢いをつけて打っていたんですね。
しかし、1959年(昭和34年)に東映に入団し、
松本謙次郎コーチから、
『中距離打者を目指せ』と言われたことで、
スタンスを少し広げて、ステップを小さくし、安定性を持たせました。
そのほかの形は、中学時代からほとんど変わっていません。
バットを捕手寄りに少し寝かせていたのは、
持って生まれた自分の形でした。


二つめは『タイミング』です。
投手の投げる球には速い、遅いがありますから、
ステップしてからバットを振り出すタイミングを一呼吸遅らせるとか、
その取り方を考えなければいけません。


三つめは『応用』です。
例えば、アウトコースの球は、右打者なら軸足となる
右足まで引き付けて右方向に打つとか、打撃の応用です。


強く正確に打つためには、この三つの条件が必要なんです。  
高校時代の強打者がプロで打てなくなるケースがあります。
高校の時は、投手の球威がないので、
腕力で打球を遠くへ飛ばすことができますが、
プロの球は速く、強い。
打てない人は、三つのどれかが欠けているのです。
自分に合ったフォームなのか、タイミングは、応用は―。
コーチと自分自身で原因を探さないといけません。


あとは練習量です。  
私は毎日、300回の素振りを自分に課していました。
一度に300回振ったこともありますが、
試合に行く前に150本振って、帰ってまた、150本振る
という感じです。
とにかく、試合と練習以外の時間に、300は振っていました。

素振りも、単に振るのではなく、
真っ直ぐやカーブを想定して振った方がいいでしょう。
真っ直ぐを想定して10本、という感じです。
工夫して、振った方が効果はあります。
ハシを使うのと同じように、バットも自在にコントロールできる
ぐらいまで振ってほしいですね。
  
数を振った人には、やはり、かないませんよ。

                             (荒井秀一氏)


kiyoさんのブログに素振りの極意が書かれていました。
『無駄な力を入れないで、足や腰、
 上体の理想の形を覚えるには適している』―。
  
素振りは必要なトレーニングです。
特に小中学生は体がまだ出来上がる前の段階なので、
必要以上の筋トレは必要ないと私も思います。
素振りで足腰を鍛え振り込んだ体はとてもしなやかです。
勇汰の下半身は、3年続けたランニング、毎日の素振りで
かなり鍛え上げられました。
中学へ行く為の準備段階としては、この1年、
無駄が無かったと思います。

素振りは基本です。
毎日300回、地道に今日も振り続けることでしょう。

野球『職人』国境なし
2009年02月18日 (水) | 編集 |
元阪神の吉田義男さん(75)は、
今月亡くなった山内一弘さん(享年76)と親交が深かった。
その吉田さんには、今でも忘れられない光景がある。
  

1994年。吉田さんはフランス代表の監督を務め、
山内さんを臨時コーチに招いていた。
イタリア遠征からパリに戻る列車の中。
吉田さんが車窓から見える美しい山並みや湖に見入っていると、
別の席にいた山内さんが、選手2人を前に打撃指導を始めた。
吉田さんは振り返る。
『ボクは3時間、景色を見ながら帰りました。
 でも、山さん(山内さん)は通訳を入れず、手振りや、
 日本語と英語で教えているんです。
 フランス人もバッティング談議を熱心に聞いていて、
 そのままパリに着いたのを覚えています』―。
山内さんはこの1年で帰国したが、その後、吉田さんは、
フランスの選手から『ヤマさんは今、どうしている』
と何度も聞かれたという。


生前の山内さんは熱心な指導ぶりで知られたが、
技術では日本よりはるかに劣るフランスの選手を相手にしても
姿勢は同じだった。
そして、日本語がわからないはずの異国の選手にも、
山内さんの熱い教えは、心に刻まれていた。


『人に教える』という行為は、自分の中にしっかりした理論がないと
できないものだ。
『シュート打ち名人』と呼ばれた山内さんは、それだけ、
打撃に確かな自信があったのだと思う。
現役時代に会得した大切な技巧を、
何とか後進に伝えたいという気持ちに溢れていたのかもしれない。
 


吉田さんは言う。
『山さんにとって、野球を志す人は皆、同じに見えたんでしょう。
 “野球に国境はない”というのは、まさにこの人の為にあるのでは
 ないでしょうか』―。
  

山内さんはフランスの他、98年には、台湾でも指導した。
『職人』の理論は、国境を越えて、
教え子達の心の中で生き続ける―。


                 読売新聞 『熱視線』より
                               荒井秀一氏
かっぱえびせん
2009年02月17日 (火) | 編集 |
『シュート撃ちの名人』は見たことがない。
『オールスター男』の雄姿も記憶にない。
でも、『かっぱえびせん』は今もこの目に焼き付いている。
プロ野球界の往年の名プレーヤーであり、指導者として
何人もの好打者を育てた山内一弘さんが
ひっそりとこの世を去った。


1994年10月、コーチとして再び阪神のユニホーム着た
山内さんはその初日、いきなり野手全員にバットを振りながら
グラウンドを何周もさせる奇妙な練習を開始。
数人を選んで居残り練習にまで付き合った。
ところが翌日、そのうち何人かが球団から戦力外通告
されてしまう。
『俺の力が足りんかったな』―。
山内さんの責任でも何でもないのに、
大真面目に落ち込んでしまう優しい人だった。


真骨頂は“宇宙人”新庄剛志との対決。
内角球をさばく『山内理論』を懸命に伝授しようとするが、
相手は自由きままな22歳。全く波長がかみ合わない。
『わが野球人生で最大の難関にぶつかった』と苦笑い。
それでも、指導は『辞められない、止まらない』―。
そっぽを向かれようが、練習に付き合い続けた。


ある日、少年野球教室に呼ばれて、
ちびっ子たちを指導する新庄の記事が山内さんの目に留まった。
教えている内容を読み、スイングする写真を凝視。
『オォ、あいつは俺の理論が分かってるやないか。
 分かっていなければ、教えられない』―。
そんなことでハシャぐかわいい指導者だった。
新庄はただ、受け売りしただけ、なんて思わないところが山内さん。


選手名鑑用の取材で、
『趣味、何にしましょう?釣りでいいですか?』
と尋ねたら
『コーチ、にしておいてくれ』と頼まれた。
根っからの指導者だった。
ご冥福をお祈りします。


                   サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                  上田雅昭氏
『野球漬け』熱血指導~身ぶり手ぶり職人肌
2009年02月14日 (土) | 編集 |
今月2日に亡くなった山内一弘さんが中日を指導した
1984年から途中休養するまでの2年半、
担当記者としてお付き合いして頂いた。

放任主義の野武士野球で優勝した近藤貞雄前監督とは
正反対で、キャンプは長時間練習を実施、
選手は『野球漬け』の毎日だった。
フォロースルーを大きく取る『山内打法』の指導が始まると、
身ぶり手ぶりを交えて際限なく続く。
バットを振らせた選手が『マメだらけになった』と手を見せて嘆くと、
口の悪い関係者は
『耳にはタコが出来ただろう』と笑った。


忘れられないのは、ナゴヤ球場の広島戦で起こった出来事だ。
『山内打法』の信奉者だった広島の高橋慶彦内野手が
中日ベンチを訪れ、監督の山内さんにあいさつをする。
師弟のほほえましい風景だが、そのうち熱っぽく会話を交わし、
ついにバットを振らせて指導を始めた。
『試合前に敵の選手を教えるなんて』―。
だれもがびっくりしたが、山内さんは
『悩んだら敵の監督であってもすがる。
 そんな熱心さが、うちの選手にも欲しいもんだ』と、
平然としていた。
技術を伝える野球職人には、敵も味方もなかったのだ。


宮崎・串間キャンプの夜間練習では、
熱心さのあまり選手に、
『正面打ち』をさせようとしたこともあった。
ホームベースをまたいでマシンに正対して立ち、
剣道の上段のようにバットを構え、
飛んでくる球を袈裟懸けする要領で打ち払う。
失敗すると球が体を直撃するため、選手は尻込みをした。
すると、現役を引退して久しい山内さんが、
『球をしっかり見ろ。落合(現中日監督、当時ロッテ)なんて
 平気でやるぞ!』と実践。
見事に成功させたシーンは、今も目に焼きついている。

                  読売新聞 西山栄一氏
『必死』と『おもちゃ』がキーワード
2009年02月13日 (金) | 編集 |
サンケイスポーツ専属評論家の江本孟紀氏(61)が、
沖縄・久米島キャンプで楽天・野村克也監督(73)を直撃。
野村監督は、深刻な雇用問題から野球人生の集大成となる
今季について、
そして田中将大投手(20)の起用法まで、
南海からの愛弟子に4時間の時事放談。
  
『必死』と『おもちゃ』がそのキーワードだった―。  


≪プロの喜び実感≫  
いまや球界のご意見番でもある野村監督。
久米島を訪れた江本氏は、
『最近の日本、どう思います?』と切り出した。
  

野村監督)大変な世の中になったなぁ。
      プロ野球に入って54年目、まだこの世界で仕事ができる
      幸せを、痛感するよ。
  

江本氏)失業する人が増えてますしね。  

野村監督)派遣切りか。ただ仕事探しのニュースを見ていて不思議
      なのは、あれはやりたい、これはやりたくない、と
      仕事を選ぶ人がいることや。
      働きたいのは当然。
      本当に困っている人もいるのも分かるよ。
      でも、生活のためには、仕事選んでいる場合と違うやろ。
      少なくとも俺には選ぶ余裕はなかった。
  

江本氏)お父上が戦死されて、監督も小学生から新聞配達をして
     働いたんでしたね。
  
 
野村監督)母親も病気だったし、プロに入ったのも子供心に
      “早く金を稼ぎたい”と思ったからや。
      でもテスト生とは名ばかりのブルペン捕手扱い。
      他人が遊んでいる時に練習したんや。
  

江本氏)いまの選手もクビになったら・・・  

野村監督)キャンプのミーティングで選手にも話したよ。
      “引退しても再就職は大変や。野球中継も減って、
      簡単に解説者にもなれん。
      だから現役に1年でも2年でもしがみつけ。
      そのために必死にやれ!”ってな。
  

江本氏)働ける幸せを感じて努力しろ、と。  

野村監督)アインシュタインは、成功には仕事と遊びと沈黙が必要
      と言ってるやろ。
      必死で仕事をする中で遊び、工夫が生まれるんや。
  

≪再生工場の極意≫  
江本氏)それが野村再生工場の極意?

野村監督)子どもがオモチャで色々遊ぶのと同じや。
      こう動かしてみよう、この長所を伸ばそう、この球種を
      覚えれば・・・とかな。

≪工夫して勝利を≫  

江本氏)今季はダルビッシュを育てた佐藤投手コーチが入団した。  

野村監督)ウチの今季最大の補強や。  
      いま佐藤のおもちゃは一場や。
      5年目だし、ダメモトでやってみてくれ、と。
      下半身で投げるようにフォームを作らせて、
      色々工夫してやっとるよ。
      ベテランコーチだから、引き出しが多いわなぁ。
  

江本氏)その投手陣ですけれど、岩隈は最低15勝は期待できる。  

野村監督)あとヤンキースから来た、外国人のラズナーも
      制球がいいし、先発でいける。
  

江本氏)となると、田中の成長があれば・・・  

野村監督)オレには“名選手は3年以内にタイトルを獲る”という
      持論があるけど、マー君も3年目、大事な年や。
  

江本氏)田中の使い方は、ひょっとして色々考えているんじゃ
     ないですか?楽天は抑えが固定できないから。
  

野村監督)チーム事情からいけば、理想はマー君をストッパーに
      したいよ。
      マー君は痛いのかゆいの言わないし。
      WBCでもそれがメンバーに入った理由だと思う。
      ただな、まだ20歳で将来もある。
      完投できる投手を抑えに回すのもな。
      マー君も先発で15勝してくれれば、悩む必要もない。
  

江本氏)となると田中ストッパーは最後の手段?
     先発で結果を残して最後の大事な場面で・・・


野村監督)フフフ・・・。とにかく、今年はマー君にかかってるよ。
      オレにとっては楽天が最後のオモチャ。
  
      繰り返すけど、必死に仕事して、遊びで選手の長所を
      見つけて。
      工夫して勝ちたいな。


こう締めた野村監督に、江本氏は
『監督もサッチーのオモチャですからね』とブラッシュボール。
『バカモン!』と笑う野村監督には
静かな自信がみなぎっていた。


                         サンケイスポーツより
                                  加藤俊一郎氏        
『4年目でやっと・・・』
2009年02月12日 (木) | 編集 |
キャンプインして間もない頃、野村監督(楽天)はつぶやいた。
『(就任)4年目でやっといい投手コーチが来てくれた。
 悩みの1つが解決したよ』―。

今季から就任した佐藤投手コーチのことだ。
あの野村監督が、そこまでの信頼を置く人物こそ、
楽天で一番の注目株だろう。


関係者の評判としては『厳しいコーチ』という声が多かった。
確かに練習メニューは厳しいが、それだけではない。
肩のアイシング中に携帯電話をいじっていた田中を、
『まだ仕事中だろ!
 普通の会社でそんなことをしていたら、
 すぐクビになるぞ!』と注意するなど、
練習中の姿勢や態度も厳しく指導する。


だが、厳しさの半面、投手への思いやりも本物だ。
キャンプ初日にハードな強化メニューが組まれ、
その後のブルペンでまともな投球ができない投手が相次いだ。
すると佐藤投手コーチは、
『投手は投げるのが仕事。これでは困る』と
投球練習後に強化メニューを行うようトレーニングコーチに直談判。
投手陣は心から感謝していた。


第2クールに入り、ブルペンの熱気は増すばかり。
『いろいろな球団を見てきたけど、
 ここには楽しみな素材がたくさんいる』と、
佐藤投手コーチが特に目をかけているのが一場、青山だ。
ともに投げる球は一級品なのに、シーズンではなかなか
結果が出ない。
これらの原石を、どう磨き上げるか注目していきたい。
  


           サンケイスポーツ 『今年のここに注目』より
                                越智健一氏
生き字引は自然体
2009年02月10日 (火) | 編集 |
ヤクルト時代に慣れ親しんだ神宮外苑の施設で、
15日の代表集合まで自主トレを続ける
レイズ・岩村明憲内野手。
最高気温が10度を切る日もある2月の東京だが、
フリー打撃では小一時間、約200球を休みなく、
守備練習ではノッカーの打球に頭から突っ込む。
『例年にないぐらいの量はやっていると思う』―。


1月に暖かい沖縄で代表候補の中島(西武)らと
体を作っており、寒さの中でも動きはいい。
『僕のプロでの守備の原点』という大橋穣(おおはしゆたか)氏
=元ヤクルト守備走塁コーチ=と二人三脚で取り組む
自主トレ現場には、『打撃の師匠』という中西太氏も顔を見せ、
練習を見守る。


自身2度目のWBCには、
ワールドシリーズにも出場したレイズでの2年間の自信を持って臨む。
短期決戦では情報の少ない投手への適応力も必要だが、
メジャーで多くの投手と対戦してきただけに、
代表にあってはイチローと並ぶ『生き字引』として頼りの存在だ。
  

もっとも岩村本人はいたってシンプル。
『日本と同じで投手は18㍍先から投げ込んできて、
 時速120マイル(192㌔)投げるやつはいないから、
 ある程度の見極めはできる。
 あとはリラックスして打席に立てるかどうか。
 データーの詰め込み過ぎは好きじゃない』と自然体だ。


3年前は2次ラウンドで足を痛め、準決勝以降を欠場した。
その悔しさは忘れてはいない。
だがWBCからメジャー開幕へと続く今季は長い。
  
『WBCで燃え尽きるのではなく、出るからには
 何かを得てチームに持ち帰りたい』―。

昨日で30歳になったが、
『20代と同じ、挑戦者であり続けたい』―。
  


WBC連覇、そしてワールドシリーズでも頂点をつかむため、
黙々とバットを振り、ボールを追う。
  


             読売新聞 『集結 SAMURI JAPAN⑧』より
                                千葉直樹氏

今回のWBCでのキーマンは岩村選手になると予想しています。
適応能力は天下一品。
このブログを通して何度か岩村選手の記事を書きましたが、
動向を追うごとにその魅力に駆られます。
昨日で30歳。
益々チームをけん引していく存在になっていくと思います。
まずはWBC世界一目指して応援しています!!
小さな幸せ
2009年02月09日 (月) | 編集 |
娘のバドミントン練習から帰って来ました。
今日もハードな練習メニューでしたが、
毎晩、お兄ちゃんが素振りをしている横で
フットワークの練習やトレーニングをしていた甲斐あって、
すごぶる快調でした。
私も、コーチや監督に任せて見ているだけでいたかったのですが、
先週の娘のレベルが低すぎることに気付いてからは、
先週の練習後からフットワークの本格的なフォームや、
素振りの仕方など、
基本動作を中心に教えてみました。

だいぶモノになってきています。
来週はもっと上達して、コーチや監督に
娘が褒められる姿を見てみたいです。
(練習中は黙って見学しています。もちろん、教えていることもナイショ)


一生懸命な姿が目に焼きつき、微笑ましく思えて、
娘に帰りの車中で
『よく頑張ったね、
 頑張っている姿が見れて幸せです、ママは』
と言うと、
『こちらこそ、寒い中ズッと見てくれていてありがとう』
ニッコリスマイルで答えてくれました。

今日の小さな幸せでした。
真のプロフェッショナルとは
2009年02月06日 (金) | 編集 |
仕事とはいいながら最近、
サッカーを見るのが苦痛になってきた。
その最大の理由は、試合後の爽快感がないからだ。
イライラが募り、ストレスが体内に蓄積していくのがはっきりと分かる。
とにかく岡田ジャパンの現況はひどい。


かつて日本代表戦はプラチナチケット。
ところが、現在はただの切符になった。
ひどいのは4日、東京・国立競技場で行われるフィンランド戦だ。
強化試合だけに、ファンも反応が鈍い。
日本協会関係者が
『ある程度の予想はしていたけど、チケットが売れない。
 おかげで、初めて職員が手売りをした』と
ため息をついている。


先月30日、
『つまらない』と評判の岡田監督の会見を聞きに行く。
なるほど、聞きしに勝るものだった。
無表情で戦術などをボソボソと語る。
報道陣が食指がわかないのだから、
選手がついていけるのだろうか―と心配になった。


プロフェッショナルというのは、
常に自身を取り巻く環境にも配慮が必要だ。
  
石川遼のマスターズ出場が決定した際、
所属するパナソニック・常勤役員の鍛冶舎巧さんが、
『まわりを全てあたたかい幸せのスパイラルに巻き込みながら、
 世界のゴルフの神聖になるかもしれない』と語っている。


いつも質問者の目を見ながら17歳の石川は、自分の言葉で話す。
加えて、ファンやスポンサーなど、
自身を取り巻く人たちに気配りを忘れない。
  
『アマの時は自分のためにゴルフをやっていた。
 でも、プロになってからは、
 他の人に与える影響力を自覚しなければならないと思いました』―。

対照的に52歳の指揮官はパス&ゴーを繰り返すが、
感謝の言葉などはなし。
これでは、周囲の空気が冷え冷えとしてくるのも無理はない。


              2月1日付け サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                                 青木政司氏
                

松木コーチと出会う
2009年02月05日 (木) | 編集 |
読売新聞 『時代の証言者』より ~最多安打 張本勲~

私のプロ野球人生で大きかったのが、
東映(現日本ハム)入団1年目に、コーチの松木謙治さんに
教わったことです。
  


1959年(昭和34年)春のキャンプで、
高卒新人の私の打撃を見るなり、
  
『お前のバッティングは右手が弱い。ダメだ!』と指摘されました。  
松本さんは、左打者は右手が心臓であり、
エンジンであると力説しました。
私が左手だけで打っていると言うのです。
そして、
『右手が強くないと、打球が途中から失速する。
 右手を伸ばしてパーンと叩くと、途中からボールが伸びる』
  
と言われました。  


右手の強化が始まりました。
松木さんがひざをついた姿勢でボールをトスし、
私がネットに向かって右手だけで打つ。
毎日500本くらいは打っていました。
最初はわきの下が痛くて、歯も磨けない状態でした。
  
すると、『弱いから痛いんだ!』と怒られました。
今の選手は少しの痛みでも休みますが、当時は違います。
やっているうちに、確かに痛くなくなりました。
  
ホームランバッターではなく、中距離打者として歩むことに
なったのも、松木さんの教えが大きかった。
  


松木さんは、
『お前はホームランを狙ったら、本塁打王を1,2回は取れるかも
 しれない。
 でも、打率が低い、粗い打者になってしまう』
と言いました。
さらに、
『お前は左打者で、足も速い。
 完璧な、しかも、怖がられる打者になれ!』
と理想の打者像を説くのです。

松木さんの言う通りの打者を目指そうと思いました。
『安打製造機』『スプレー打法』『広角打法』とも呼ばれた
私のプロ野球人生は、そういう松木理論からスタートしたのです。
  


≪松木さんは、張本さんと同じ左打者で、
  戦前は、大阪タイガース(現阪神)の主力として活躍。
  37年春に首位打者と本塁打王を獲得した。
  指導者としても、阪神、大映、東映の監督を務め、
  田宮謙次郎ら多くの選手を育て上げた。
  78年に野球殿堂入りを果たし、
  86年に77歳で亡くなった≫
  


プロ野球選手がうまくなるには、
1に『努力』、2に『自己管理』、3に『良い指導者に出会うかどうか』
だと思います。
努力と自己管理は、自分がしっかりしていれば何とかなりますが、
最後の一つだけは、どうしても運、不運があります。
例えば、長嶋(茂雄)さんにしても、ワンちゃん(王貞治)にしても、
川上哲治さんという偉大な選手が監督としていたからこそ、
ああいう素晴らしい打者になれたんだろうし、
オリックス時代のイチロー(現マリナーズ)には、
河村健一郎という打撃コーチがいました。


松木さんに教わったのは幸運でした。
あの人に出会ったから、曲がりなりにも記録を残せるような
選手になれたんだと思っています。

タガの緩み
2009年02月04日 (水) | 編集 |
黒いTシャツ、黒いスエットパンツに黒いニット帽・・・。
若麒麟の大麻取締法違反により現行犯逮捕時のいでたちだ。
ニット帽はまげを隠すためか。
日本相撲協会は、
『外出時はジャージーではなく着物を着ること』と
昨年の研修会で注意したはず。
  
大麻は論外だが、この“変装”もタガの緩みそのものだろう。  


2月。
プロ野球は12球団が一斉にキャンプインした。
  
1軍の枠を目指して約1ヶ月間、死に物狂いの競争が始まった。  
進歩がなければお払い箱の世界である。  
一般社会も100年に1度の不況で、突然のリストラに遭って
どう生活していくか、厳しい現実の前に
あえいでいる人たちも大勢いる。
  


そんな時代に、ファンは理解しがたい大バカ者を生む相撲界とは
一体何なのか、改めて考えてしまう。
  
高額入場料と莫大な放送料に支えられ『公益法人』に守られて、
この社会にいる限り何の心配もない。
力士はよほど悪いことをしない限り出場は保証され、
給料や場所手当てももらえる。
ケガして番付が下がっても出場できるまで待ってくれる。
  


かと思えば朝青龍がえばり散らしても誰も注意できない。
『師匠がしっかり指導して・・・』『1人1人が自覚を』と
呼びかけたところで若い力士が素直に聞くだろうか。
“浮世離れ”した体質。
金と暇があれば、人間ろくでもないことを考えるものだ。
こういう環境がある限り、不祥事は絶えないのではないか。
  


今回の問題で師匠はもちろん、協会トップの武蔵川理事長が
何らかの責任を問われるのは仕方ない。
しかし“黒装束”に象徴されるひどいタガの緩みには、
それだけで済むはずもなく、
全ての親方衆の責任でもあることを肝に銘じてほしい。
  


            サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                              今村忠氏
娘の成長
2009年02月03日 (火) | 編集 |
娘は毎週月曜日の夜7時~9時まで、
近所のバドミントンクラブに通っています。
私が住んでいる地域は、バドミントンがとても盛んで、
地域のバドミントン大会がいくつもあるくらい、
(社会人~学生までの)
地域としては活気のあるスポーツのひとつになっています。

娘も小学生の地区対抗戦に出場し、
それがきっかけでクラブチームに入部しました。
今回は3度目の入部・・・。
というのは、
『友達がいないし、つまらない』という理由で
いつも1~2ヶ月で辞めてしまうのです。
友達がいれば楽しいようですが、練習も厳しく、
同レベルの友達がいないので、休憩時間もひとりでポツンといることが
多いらしく、私も本人が行きたくない、というなら
無理には・・・という思いが強かったので、
辞めることも仕方ない、と思っていました。


そして3度目のクラブ入部。
またしても『友達がいないから・・・』という理由で
『辞めたい!』宣言が出ました。
練習日に頭が痛い・・・と言うので休ませると、
しばらくして元気になっているので、おかしいな?とは思ったのですが。
友人のお父さん(Kさん)がクラブの代表なので、
無理を言って入部させて頂いているのですが、
さすがの私も主人も、
『そんなにいい加減な気持ちで3回目も簡単に辞めるの?
 シューズだってKさんから買って本格的に始めよう!って言って
 始めたんでしょう?』―。
しばらく沈黙が続きました。


私は中学の頃、やはりバドミントンをしていて
それなりの成績を残しました。
バドミントンで県立の高校推薦の話も来ましたが父が、
高校まで好きなスポーツをしなさい、と
スポーツに力を入れている私立の高校に入学させてくれました。
結局、私がスポーツ特待で行くはずだった県立高校のメンバーが
私の入学した高校に全員編入してきて、
当時テニス部だった私は、もちろんバドミントン部に仮入部しましたが、
テニス部顧問の監督に猛反対され、
結局バドミントンはできませんでした。


バドミントンの運動量は半端ではありません。
私が中学の頃練習していた内容も、
専門の方が顧問の先生だったので、毎日かなりハードな練習でした。
娘のクラブチームの練習も、小学生がこなす練習内容ではないくらい、
とてもハードで辛いものです。

娘は休みの日は、遅くまで寝ていて、
お兄ちゃんが野球から帰って来ると決まって
『お兄ちゃん、おはよう!お帰りなさい!』と言います。
のんびりした性格で、争い事が嫌い。
とてもマイペースで運動や動くことは苦手。

そんな娘がハードな練習に着いていけるはずもなく、
私も練習内容を理解した上で、それでも続けてもらいたくて、
Kさんのママ(陣内さんとバドミントンをしていた方)に相談して
三者面談をしました。
『監督が“綾乃ちゃんは見込みある、って言ってたよ。
 今を乗り越えてみよう!頑張れるよ、きっと!』
と励ましてくれて、
私も今までは預けて帰っていたのを、
一緒にずっと見学して娘を見守っている約束をしました。


そして昨日、
始めから最後まで初めて見学していましたが、
ネットには届かないけど、シャトルに喰い付いて返す姿に、
胸を打たれました。
周りのみんなは上級組ですが、足を引っ張らないように
気を遣う姿などをみていると、
やっぱり今まで一人は辛かったんだろうな、と
思う半面、本当に好きなら一人ででも頑張れ!とエールを送っていた
自分でもいました。


Kさんママも心配して下さって後半、息子さんを送りがてら
一緒に見学して、
『お母さんが見てくれているだけでも安心して出来るでしょう。
 ここを越えれば、技術も心も強くなれるよ、きっと』
と励ましてくれました。


帰りの車中、
『もう大丈夫!頑張れる!』と
意気揚々と話す娘。
辛い出来事を越えて充実感を味わった笑顔を目に焼きつけ、
これからは勇汰が素振りをしている時には一緒に
フットワークや素振りを練習することを約束してくれました。
“早くみんなに追いつきたい!”・・・だそうです。





松井秀喜 走りこんで『カルビ』になる
2009年02月02日 (月) | 編集 |
『プロ野球選手の35歳はカルビです』―。

長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督の言葉だ。
その心は・・・。
『脂がのり切っている』―。


ヤンキースの松井秀喜と久々に会い、そんな話題で盛り上がった。
『(長嶋)監督は35歳の時が、選手として最高だったって
 言っていたからね。
 その年に首位打者もとったし、
 心技体が最も充実していたという風に話していた』―。
もちろん松井秀喜の心には、今の自分があるのは言うまでもない。

今年の6月に35歳になる。
だが、果たして自分はこの年に『カルビ』になれるだろうか・・・。
都内で行っている自主トレはランニングが中心だ。
30分から40分ほどひたすら走り、
その後のキャッチボールで汗を流す。
自宅で素振りはしているが、まだボールを打つこともない。
   
もちろん昨年手術した左ひざのリハビリもある。  
だが、もう一つ、松井秀喜の中で走る意味は違う。  
『やっぱり基本はランニングなんだって改めて思ったんだ。
 野球選手というか、あらゆるスポーツ選手は
 走れなくなったら終わり。
 悲しいかな、そのことを最近、すごく自覚するようになった』―。
  

2年続けてひざの故障に苦しんだ。
痛みでプレーができなくなる前に、まず最初の障害は
走り込みができなくなったことだった。
走れないから体、特に下半身の切れがなくなる。
スタミナもなくなっていく。
ひざの痛みからではなく、
そこからバッティングの状態は大きく狂っていった。


『若い時に走れ、走れと言われた意味が、
 いまやっと分かるようになった。
 今年の目標は1年間、走ること。
 走れる体を維持することだよ。
 それができなければ・・・』―。
  

“引退”の2文字を飲み込んだのかと思ったら、そうではなかった。
『オレはカルビじゃなくてロースかハラミになっちゃう』―。
極上カルビを目指し、松井秀喜は走っている。


             サンケイスポーツ  『球界インサイドリポート』より
                                    鷲田康氏