日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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『天才』と言われる二人の共通点
2008年09月29日 (月) | 編集 |
昨年11月3日に武豊騎手がJRA通算3000勝を達成した際、
記者会見で
『親交のあるイチロー選手も(日米通算)3000安打に
 近づいている』と言われ、
『先に3000ができて良かった。
 でも、彼はコンスタントに年間200安打。
 僕も(コンスタントに)年間200勝を目指したい』とこたえた。


金持ち(馬主)が取り巻く環境からか若くして老成していた
武豊に比べ、
野球少年がそのまま大きくなったようなイチロー。
そういう意味では好対照といえるが、
若いときから『天才』と言われてきた二人には、
やはり共通点がある。


ひとつは、プロとして舞台に立っている競技が好きなこと。
『努力?何だろう。好きでやっていることだから』と
武豊が話したことがある。
好きなことをしているのだから、他人が努力と思うことも
そう感じない―。
イチローも同じだろう。


好きなことをして頂点を極めたのか、
好きだからこそ頂点を極められたのか。
いずれにせよ、それだけで常人とは違うのだが、
もう一つ、“目標となる人を作らない”というところも同じ。
『目標を達成すると、その先の進歩がなくなるから』といった内容の
イチローのインタビュー記事を読んだことがある。
武豊はここ数年、1月のJRA賞受賞式の壇上で、
『昨年の自分よりうまいジョッキーになりたい』というのが恒例だ。


二人の言葉に接するたび、
つくづく自分は凡人だと思い知らされる。
だが、凡人だからこそ、非凡な二人の言葉を外野で
興味深く聞ける立場にある。
彼等が偉業に達成した時にどんなことを話すのか、
これからも大いに楽しみたい。
その機会はまだまだたくさんありそうなのが嬉しい。


             サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                               鈴木学氏


私は息子と毎日、夕方のランニングやトレーニング、
夜はティーバッティングと続けています。
よく周囲の人たちからは
『よく頑張っているよね。
 どうして毎日続けられるの?』と聞かれます。
でも、私は全く苦じゃないし、逆に息子に感謝しています。
一緒にできることに。
『私だったら面倒だし、勝手にやれ!って思っちゃう。
 なのに、毎日なんて考えられない!!』―。
そうよく言われます。


自営業ということもあり、融通がきく立場なので、
毎日のスケジュールは息子中心で組み立て、
時間通りにこなすことが、私の日課。
息子も毎日の流れ通りに規則正しく生活できることで
万全の体勢で試合に臨めます。


子供の基盤を整えることが親の役目と考えています。
子供と接することができるのは、
一生のうちでほんの一握り。
そんな時間を大切にしたいし、息子が野球を続けてくれていることに
感謝したいです。
私が大の野球好きなので。

“好きこそ物の上手なれ”―。
息子も不器用なりに、でも野球が好きで頑張っています。
そんな息子をこれからも見守り続けていきたいです。



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『凡事徹底』が生んだ浦添商野球
2008年09月26日 (金) | 編集 |
『凡事徹底』―。  
今年の夏の甲子園、浦添商のアルプススタンドには、
そう書かれた垂れ幕がかかっていました。

平凡を非凡に務め上げることを言います。
日ごろの生活を徹底することから全てが始まる。
  
神谷監督は、プレー以前に選手たちには
日常生活のことを厳しく言ってきました。


甲子園、準決勝のマウンドには島根君がいました。
島根君は夏の大会直前に遅刻。
神谷先生は、いくらメンバーであろうと、
チームのルールを破るものは許さない、と、
あえてメンバーを外した選手でした。
これこそが凡事徹底から外れていることだからです。
チームの中では、伊波君、上地君に並ぶ投手3本柱の1人。
ここまで一緒に頑張ってきた仲間。
キャプテンの仲村早君は、監督に島根君を許してやって欲しいと
頭を下げましたが、かないませんでした。


県大会を戦う選手たちの心の中には、
甲子園で島根をマウンドに立たせてやろう。
そんな気持ちがありました。
なぜなら、これまで島根君はチームで一番の
努力家だったからです。
島根君もまた、もう一度みんなでプレーできるように、
と日ごろの生活態度を改めることに。
甲子園では背番号15。
大阪入りしてからも、律した生活をしている島根君の姿を、
神谷監督はちゃんと見ていたのです。


大一番のマウンドへ島根君を送り出しました。
帰って来たチームメート。
浦添商が一つになった瞬間でした。
2回で降板、そして試合には負けたけれど、
今、選手達は改めて思います。

『凡事徹底』の大切さを。
それでチームが一つになったうれしさを。


浦添商の長い夏は終わりました。
選手たちは神谷監督の考えと、かけがえのない仲間を
手に入れました。


            輝け甲子園の星191号 『浦添商 チームルポ』より
北京惨敗で日本選手の評価ガタ落ち
2008年09月25日 (木) | 編集 |
星野ジャパンの惨敗は、今オフにまで影響を及ぼしそうだ。
『スカウトから日本人選手の名前は聞かなかった。
 マイナーリーグ(米国代表)に負けてしまったからね。
 ダルビッシュもあまり投げなかったから、
 “どこか悪いのでは”と心配されていた』というメールを
くれたのは、北京五輪を取材したニューヨーク・ポスト紙の
マイク・バキャロ記者。
五輪の4位で日本人選手の評価は急激に低下してしまったようだ。


それでなくても今季の米大リーグでは、
移籍1年目の選手が不振。
大型契約を交わしたカブス・福留やドジャース・黒田は
期待通りの数字を残せず、
ロイヤルズ・薮田やレンジャーズ・福盛はメジャーの40人枠からも
外され、事実上の戦力外通告を受けている。
国内で高年俸を得ている日本人選手が複数年契約を
求める傾向が強いことも、敬遠される一因にねっている。


こうした一連の影響を最も受けそうなのが巨人の上原だ。
ベテランの救援投手で高年俸。
交渉難航の条件がそろっている上、今季の不振もある。
先月19日付の『USA TODAY』紙は北京発で、
スカウトの証言をもとにした日本代表の記事を掲載。
注目選手としてダルビッシュ、中日の岩瀬と川上、
野手ではヤクルト・青木が挙がる中で、
上原の名前は出てこなかった。


これまでとは一転して、日本人選手の大リーグ移籍は
厳冬ムード。
メジャーを目指す選手には長く厳しいオフが待っている。



             サンケイスポーツ 『MLBプレスルーム』より
                               田代学氏
自らの打撃技術を信じ続けた成果
2008年09月24日 (水) | 編集 |
イチローがここまでやってこられたのは、
他人にはマネできない打撃技術にある。
大リーガーの多くは、後ろ足を残して球を呼び込んで打つ。
対するイチローは、軸足(左足)が動くという、
まったく逆の打ち方だ。
普通なら、インパクトの瞬間に力が逃げるはず。
しかし、ステップした足(右足)が強く踏ん張り、
動いた軸足も親指の付け根あたりで地面をつかむイメージが
あるから、巧みなバットコントロールと鋭いスイングが可能になる。


この打撃フォームは決して教えられてできるものではなく、
自身が積み上げてきたもの。
たとえスランプでも、
信じ続けた成果が偉業につながった。
張本勲さんの通算3085安打が破られることなど
考えもしなかったが、
来年には間違いなく抜くだろう。
あとはピート・ローズの持つ4256安打だ。


一見きゃしゃに見える体だが、
陰で鍛えていなければ年間160試合を超すメジャーでは
やってこられなかったはず。
精神面も強いから、あと3、4年は同じペースの
活躍が望めるだろう。


ローズの記録には、41歳まで今のペースを続ける必要がある。
私は42歳で引退したが、
苦しんだのは視力の低下だった。
変化球に対応できても、速球、特に内角が見ずらくなる。
是非、頑張ってもらいたい。


             サンケイスポーツ 『芯打ち登場~若松勉~』より


イチローの鍛え抜かれた肉体と精神力の強さは
計り知れないものであり、
これからも年齢を感じさせないプレーを
ファンに魅せていくために、
更に自らの“野球美学”に磨きをかけていってほしいです。
イチロー選手は日本が生んだ世界に通用する一級品です!!
限界追う姿勢 健常者に負けず
2008年09月19日 (金) | 編集 |
パラリンピックも無事閉幕。
このブログでも紹介してきましたが、
印象的な記事があったので2つ紹介したいと思います。


   ~ 読売新聞 『きずな』より ~ 


印象的な光景がある。
先年10月、取材に訪れた工場で、車いすに座って作業服姿の
笹原広喜が黙々と機械部品を組み立てていた。
前日の車いすマラソン大会で転倒、腕にケガをしていたが、
何事もなかったように朝から作業に励んでいた。

17日のマラソンで、先行する選手を抜き、トップを追う笹原の姿から
感じたのは、悲壮感ではなく、たくましさだ。
車いすバスケットボールの香西宏昭からは、
幼い頃に友達と特別ルールを作って、
車いすで野球やサッカーをして遊んだという話を聞いた。



私たちは障害者には、
できないことが多いと思いすぎていないだろうか。
障害を抱えても、工夫を重ねて限界に迫っていく選手達の姿勢は、
健常者に勝るとも劣らない。
  
視覚障害者の競泳で棒で頭をたたいてターンのタイミングを
知らせるタッパー、ロープで手と手をつないでマラソンを一緒に走る
ガイドランナー、脳性まひなどの競技 ボッチャで球を転がすのを
助ける介助者・・・。
  
パラリンピックの会場で健常者は欠かせないが、
主役ではない。
彼らを輝かせるために、会場の外でもタッパーとして
手を差し伸べたいと思う。
  


                        近藤幹夫氏


   ~読売新聞  『自分越える魅力あるから』 より~

エリート化が進むパラリンピック。
競技レベルの上で、五輪とパラリンピック双方に出場を目指す
選手も出てきた。
しかし、こうした選手も、パラリンピックに参加を続けたいと
口をそろえる。その魅力とは何か。


五輪の女子10㌔オープンウオーターで16位、
パラリンピックで競泳5冠を達成したデュトワ(南ア)は、
  
『手足が無くても世界記録保持者になれる、
 それがパラリンピックの素晴らしさだ。
 私自身、自分より重い障害を持つ選手の姿に心を打たれる。
 これが参加し続けたい理由』― と言う。
  
『私も、もうこれ以上できない、と思ったことが何度もあった。
 でも今はこう思える。
  
 人生の悲劇とは、障害で自分の目標が
 達成できなくなることではない。
 悲劇は、目指す目標を持てなくなる事なのだ』― と。
  


男子陸上3冠のピストリウス(南ア)も言う。  
『健常者の大会では、常に勝つことを要求された。
 でもパラリンピックで一番大切なのは、
  
 優勝でなく、自分を超えることだと教わった』―。  


自身パラリンピック選手のクレーブン国際パラリンピック委員会会長は、  
『パラリンピックが持つ独自性を守り続けたい。
 それが大会の存在価値そのものだから』― と語っている。


                                結城和香子氏


パラリンピックに参加するまでには、費用の面や競技生活のサポートを
してくれる方々が必要です。
日本の選手も環境が整えば戦えると、今回は証明できたと思います。
企業や国が支援に本腰を入れてくれさえすれば、
もっと光や希望が見出せる分野だと思います。
学ぶことの多かった大会でした。
選手のみなさんやサポートして下さった関係者の方々、
お疲れ様でした。



歴史の扉開くイチロー
2008年09月18日 (木) | 編集 |
イチローが8年連続200本安打に近づいている。  
この記録を100年以上も前に達成したのが、
ウィリー・キーラー。
  
彼のバットが、日本の野球体育博物館に展示されていることは、
あまり知られていない。
  
学芸員の新美和子さんは、説明する。  
『1959年の開館当時、クーパーズタウンにある
 米国の野球殿堂から寄贈されたものです。
 キーラーは小柄な方だったよで、
 バットも短いんです』―。
  

当時、寄贈されたバットは2本。
1本はキャップ・アンソンという選手のもので、
こちらは91㌢と長く、キーラーのバットは77.5㌢。
  
米国の関係者が特色のあるバットとして、偶然、
贈ったものと推測されるが、このキーラーの記録に、今、
日本のイチローが迫っていると考えると、
歴史の糸がつながったようで、不思議な気持ちにさせられる。
  


キーラーはベーブ・ルースやタイ・カッブなどに比べ、日本では、
なじみのない選手だ。
  
『8年連続200安打』と単に数字で言われても、
ピンとこないが、イチローの歩みを知った上で、
その記録を眺めると、キーラーのすごさも改めて浮き彫りにされる。
  
今回、博物館で、キーラーのバットを目にしたが、
ルースなど数多くある有名選手のバットが並ぶ中でも、
スポットライトを浴びたように、輝いて見えた。


新さんは言う。  
『100年も前の選手の話がイチローさんの話で今回、
 出てきたことが面白いですね。
 まさにイチローさんによって、歴史が掘り起こされているようです』―。
  


2004年にシーズン最多安打を更新したときには、
ジョージ・シスラーが脚光を浴び、今年7月、
日米通算3000本安打の時には張本勲さんの偉大さが再び、
クローズアップされた。
  
イチローの魅力は華麗なプレーだけだはない。
歴史の扉を開けて、野球ファンを楽しませてくれている。


                     読売新聞  『熱視線』より
                                 荒井秀一氏
  

2007年11月24日付けのブログで
『7年7つのイチローShoto Story(2) ≪2004年 過去からの声≫』
と題して、イチローとシスラーとの不思議なつながりを紹介しています。
合わせてご覧下さい。




イチロー8年連続200本安打達成しました~~~
おめでとうございま~~す
品格問われる巨人トップの発言
2008年09月17日 (水) | 編集 |
ちょっと暴言も過ぎるというものだ。
WBCの監督をめぐる巨人の渡辺球団会長の発言だ。
一度は『星野くん以上の監督がいるか?』と
北京五輪日本代表の星野監督続投をぶち上げたが、
その星野監督が就任に消極的な姿勢を示すと、
今度はソフトバンクの王監督に白羽の矢を立てた。


前回のWBCで世界一に輝いた王監督なのだから、
名前が挙がるのは仕方ない。
だが、そのモノ言いは、まさに暴言といってもいい内容だった。
王監督は前回のWBC直後に胃がんが見つかり、
胃の全摘出手術を受けている。
今回の監督問題にも体調不安を挙げて
『自分の体では無理。元気な人がやるべきだ』と
就任を拒んできた。
特に8月には体調を崩し、休養した経緯もあり、
親しい知人にも
『やれる自信がないし、絶対に引き受けない』と
話していたという。


そんな王監督の健康問題にも渡辺会長は
『オレも前立腺がんを摘出した。
 ワンちゃんのがんだって、たいしたことない』と言い放つ。
王監督を奮い立たせるための独特の言い回しなのかもしれないが、
これでは王監督ばかりか、
同じ病と闘う人々をも愚弄(ぐろう)する暴言と言われても
仕方ないのではないだろうか。


新日本石油ENEOSの田沢投手のメジャー挑戦に
『国交断絶だ!』『日本人メジャーリーガーは全員引き上げだ』と
迷走発言を繰り返した滝鼻オーナーといい、
ここのところ巨人のトップたちの発言は、
どうも首をかしげたくなるものが多い。
球団トップとしてメジャーへの選手流出に強い危機感を持つのは
当たり前のことかもしれない。
しかし、だからこそ、球団トップの発言は重く、
一つ一つの言葉には慎重さが求められるはずなのだ。

トップの品格が、改めて問われることになる。


             サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
                                鷲田康氏


トップに立つ人間の品格の差が、
どんな職種にでも反映されると思います。
小さな世界でも。

トップに立つ者は、言葉を選んで話さなくては、
自分の物差しでしか相手を計れないなんて、
上に立つ価値がない!!
巨人は好き、でも、会長は大嫌い!!・・・というファンも多いのでは?
懸ける (4)
2008年09月15日 (月) | 編集 |
『笑顔 彼と母の分まで』 ― 女子車椅子バスケ・吉田絵里架選手

神戸市の実家の本棚に、1枚のスナップ写真が飾られている。
19歳の冬、岡山・鷲羽山を訪れた際に撮った
お気に入りの1枚だ。
部屋に帰るたび、肩を抱いてくれた恋人に、
『頑張って生きてるよ』と心の中でつぶやく。


女子車椅子バスケットボール日本代表主将の
吉田絵里架選手(31)が、
恋人の運転する乗用車で事故に遭ったのは1997年、
この写真の2ヶ月後のバレンタインデーだった。
意識が戻った時は、病院の集中治療室のベッド。
全身に激痛が走るなか、
『みー君は無事なの?』と恋人を気遣った。
父の健四郎さん(50)からは
『別の病院で元気にしているよ』と言われたが、
1週間後に真実を知る。

『即死やった』―。
そして自分はもう歩けないことも聞かされる。
『なんでそんなウソ言うん?』―。
現実と信じられず泣き明かした。


2年前の阪神大震災で自宅が倒壊して生き埋めになり、
当時はまだ仮設住宅暮らし。
震災のショックから立ち直りつつあった母の裕美子さんは
度重なる心労に耐えられず、事故の2年後に38歳で亡くなった。



入院先で知り合った女性に誘われて、車椅子バスケに出会った。
中学校では陸上の中距離選手だったが、球技は苦手。
障害で体をひねることができないため、
ボールを床から拾い上げるのも難しく、
シュートはリングにも届かない。
腕は筋肉痛でパンパンに張った。
障害を持ち、同じように結婚や仕事への不安を抱える友人ができて、
何となく続けてきた。


練習に身が入るようになったのは、
2000年のシドニーパラリンピックで女子日本代表が
銅メダルを誇らしげに掲げる様子を目にしてからだ。
相手に抜かれそうになると、必死に食らいついた。
連携プレーでシュートが決まると、競技の面白さも知った。

初出場したアテネパラリンピックではメダルに届かなかった。
北京では悔しさを晴らそうと、昨年4月に練習環境にも恵まれた
愛知県に引っ越した。
毎日のようにボールに触れ、コートでは誰よりも大きい声で、
味方を励ます。



あの事故後、警察署で見せられた恋人の乗用車の写真が
忘れられない。
道路左側の電柱に激突したのに、右側の運転席が
跡形もなくひしゃげていた。
前後の記憶は途切れているが、
『助手席の私を守ろうとして、ハンドルを切ってくれたのかな』
と思っている。

ケガを負ったことで、一生続けたいと思える車椅子バスケに出会えた。
それでも、ふとした拍子に、
『あの事故に遭わなければ』と考える。
立って歩ければどんなにうれしいか。
何よりも恋人だって母だって、いまも目の前で
笑顔を見せてくれていたはずだ。


事故で死のふちを覗き込み、限られた人生を楽しみ、
幸せに暮らしたいと思うようになった。
自分は、恋人や母の命も背負ってコートにいる。
『精一杯生きるよ』―。
その誓いをボールに込めて、リングを狙う。


                読売新聞 『懸ける』より
                            近藤幹夫氏

 
懸ける (3)
2008年09月12日 (金) | 編集 |
『絆が薬』 感謝のトス 復活 
~ シッティングバレーボール  中山要選手 ~

夜になっても人もまばらな京都市障害者スポーツセンターの
トレーニングジムでガシャッ、ガシャッと、
マシンの重りがきしんだ音を響かせていた。

男子シッティングバレーボール日本代表の中山要選手(33)の
左足は、太ももまでしかない。
トラック運転手だった10年前、仕事中の交通事故で失った。

翌年から地元の『京都おたべーず』でプレーを始めると、
すぐに頭角を現した。
2004年のアテネパラリンピックでは、代表の正セッターを
任された。


今は京都府庁の勤めを終えると、ジムに直行して
右足でマシンと格闘する。
『練習のきつさなんて何てことない。
 仲間と離れなければならなかった時間を思えば・・・』―。
時折、右ひざの周りをさする。



『君の右ひざはボロボロだよ』―。
06年末。
アジア・オセアニア地域の障害者スポーツの祭典、
フェスピックが開かれたマレーシアから戻ると、
医師の非情な通告が待っていた。
大会で北京への出場権を獲得した喜びは吹っ飛んだ。

もともと事故で骨折の古傷があったうえ、この4年前に
靭帯を断裂していた。
シッティングバレーは尻を床に着けたまま動き回る。
何万回もコートをけりつけてきた代償だった。

その時は手術でつなぎ、だましだましプレーしてきたが、
今度は裏側が切れかかっていた。
『歩けなくなるよ』という医師の言葉に、
コートを離れる決心をした。

昨年4月、北京のメンバー12人を決める選考会が
行われたが、欠席した。
だが、おたべーずの練習を見に行くと、
日本代表でも指揮を執る冨田圭造監督(40)が
『選んだのは10人だけ。いつ戻ってくる?』
と声をかけてきた。
『ピンチサーバーでもええぞ』―。
顔を合わせる度に誘われる。
心は揺れたが、めったに使わなかった車椅子に乗り始め、
無言で『無理』と伝えた。


間もなく、携帯電話に着信が入り始める。
『一緒につかんだ北京だろ』
『ベンチにいてくれるだけで嬉しい』―。
ジャパンのチームメイトからだった。
『足を引っ張るだけや』と突っぱねても、携帯は鳴り続けた。

選手会辞退から半年。
妻の実穂さん(38)の言葉に背中を押された。
『戻ったら。 もう一つの家族の元に』―。




昨年10月の東京での代表合宿で、コートに姿を見せた
セッターは、握手攻めにされた。
右ひざをプロテクターで固め、球拾いからの再起だったが、
役に立てるのがうれしかった。

ひざの負担を軽くするため、筋トレで周辺を強化し、
体重を10㌔絞った。
今年5月、回復したと自信がついてトスを上げた時は、
涙で仲間の姿がにじんだ。

8月23日、合宿地の神戸で冨田監督から
『JAPAN』のユニホームを渡された。
ナンバーは『5』。
アテネでも背負った正セッターの番号だ。
『ウソつき。ピンチサーバーでも、なんて』―。
ドーピングを考慮し、痛み止めの服用はやめた。
『おれには絆という最高の薬がある』と言う。
仲間への感謝を込めてトスを上げる。


                      読売新聞 『懸ける』より
                                 竹村文之氏
 
北京の後は 乳がんとの闘い
2008年09月11日 (木) | 編集 |
言うまでもなく、パラリンピックの選手達は舞台に立つまでに
様々な困難を乗り越えてきた。
『夢があるから頑張れた』 と話す
陸上女子円盤投げの藤田真理子(44)もその一人。

藤田の試練は脳性まひの障害と、
1年前に左胸に見つかった乳がんだ。
告知されたときは、
『死ぬかもしれない』 と、親にも言えないほど悩んだという。
それでもシドニー以来3度目の出場を果たし、
自己ベストより2㍍以上も悪いとはいえ、
15㍍51の記録を残した。
12日には砲丸投げにも出場する。

彼女は
『主治医の先生の励ましや、コーチや家族の支えがあったから』
と言う。
だが、彼女を北京の地に呼び寄せたのは、
  
何よりも彼女自身の熱い思いだ。

帰国後、治療を再開する藤田は、
『障害者も、がんと闘う人も勇気を持って』と話す。
その言葉を多くの人に届けたい。


                  読売新聞 『きずな』より
                              藤田真則氏


ハマッチさんの息子さんや、私の幼なじみの息子さんが、
闘病生活をおくっています。
毎日が闘いで、でも前向きに治療と向き合っています。
ハンディを背負った人たちは、日々生きることに感謝し、
何気ないあたり前な毎日にも安らぎを感じています。
熱い思いがあれば、病にも勝てます。
これからもブログを通して、たくさんの人たちに
勇気と希望を提供できたらと思っています。
懸ける (2)
2008年09月11日 (木) | 編集 |
北京での障害者スポーツの祭典、パラリンピック。
プロアスリートとしての将来をかけ、
義足の右足でしっかりとトラックを踏みしめた。
6日の開会式で旗手を務めた陸上走り高飛びの
鈴木徹選手(28)。
アテネ後の4年間、スポンサー会社の破たんや
ひざの故障にも負けず、パラリンピックに戻ってきた。


高校3年の時、ハンドボールで国体に出場、
全国3位に入るほどの選手だったが、
18歳の冬に乗用車を居眠り運転して事故を起こし、
卒業式の日に右足を切断した。

リハビリで走り高跳びに出会い、シドニー、アテネと連続で
パラリンピックに出場。
海外遠征や合宿の費用はほとんどが自己負担だったため、
アテネで不本意な6位に終わると、
競技に集中しようとプロアスリートを目指した。

パラリンピックでの活躍を伝える新聞やテレビ番組の録画ビデオを
持ち歩き、100社以上の企業にスポンサー契約を掛け合ったが、
次々と門前払い。
『僕って、これぐらいの価値なんだ』と、障害者スポーツの認知度の
低さを思い知らされた。

ようやく大阪のIT関連企業と年間250万円で契約。
2006年10月には世界で3人目の2メートルジャンパーになったが、
その3ヶ月後にスポンサー会社が経営破たんし、
契約は打ち切られた。


当時はアテネ大会直後に結婚した妻、麻美さん(32)との間に
長男の勇悟君(1)が生まれたばかりで、
家計を支えるために宅配会社で仕分けのアルバイトを始めた。
度重なる左ひざのケガも乗り越え、
北京に照準を合わせてきた。


足を切断する前は、パラリンピックさえ知らなかったが、
事故で走り高跳びと出会ったからこそ、夢がかなえられ、
胸を張れるようになったという思いがある。
『メダルを取ることが義務』―。
フィールドで自分が義足姿で高々とバーを飛び越える時、
義足を堂々とつけられる世の中が来ると信じている。

 
                        読売新聞より
                            近藤幹夫氏
勝負に生きる男の姿勢
2008年09月10日 (水) | 編集 |
そぶりを見せないことは、勝負の世界では大切なことだ。
何か不安があっても、おくびにも出さずに平気な顔をする。
弱点を見せれば、戦う相手は必ずそこを攻めてくる。
少なくとも弱点を知るだけで、相手は精神的に優位に立てる。


北京五輪で星野JAPANの4番を任された
阪神・新井は立派だった。
選手選考の段階から腰痛を不安視された。
最終選考の席上で、星野監督が直電。
『どうなんや腰は?』と問われれば
『大丈夫です!』と答えるしかなかった。
そして臨んだ五輪の舞台。
新井は全9試合で4番を務め、韓国戦の2ランなど
その重責を勤め上げた。
痛めていた腰は大会期間中から悲鳴を上げていた。

帰国直後の精密検査で腰椎を疲労骨折していたことが
判明したが、
五輪のグラウンドでは そんなそぶりはみじんも見せなかった。


『なぜ交代させられたのか分からない』―。
準決勝の韓国戦で7回の打席に代打を送られた
ソフトバンク・川崎は、試合後にこう首をかしげた。
この男も痛みと戦っていた。
左足中指骨の疲労骨折。
五輪では初戦のキューバ戦で3安打しながら、
痛みが悪化してその後は試合出場ができなかった。
ようやく復帰した準決勝戦。
だが、川崎はそぶりを見せてしまった。
4回の守備で併殺を完成したとき、
5回の打席で一ゴロに倒れてベンチに戻るとき。
川崎が明らかに『痛い』という様子を見せていたのは、
遠く記者席からでも分かった。

だから交代は何も不思議ではない。
痛がっている選手は使えない。
直前合宿から故障は分かっていた。
それでも『出たい』と出場を直訴して北京にやってきた。

1試合でリタイアしたのは仕方ない。
チームメートの荷物運び、裏方の仕事をしてでも
何とかチームの力になろうとした姿勢も素晴らしかった。


だが、グラウンドに立ったからには、そぶりを見せてはならなかった。
それが勝負に生きる男の姿勢だということは、
先輩の新井が自らの身をもって示してくれていたはずだ。


            サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
                                  鷲田康氏


ケガをしている選手を選考する自体、星野監督は
全く以って間違っていた!!
本当に勝ちに行くのであれば、万全な選手を選考すべき
だったのではないか。
かなり甘く見ていたのでしょう。“五輪”を。
素晴らしい日本のプロ野球選手、たくさんいるじゃないの!!
オリックスの後藤、坂口とか、ベイスターズ内川、ヤクルト畠山・飯原・・・。
西武のおかわり君もいましたね!!

今度のWBC監督、お願いします!!
WBC日本監督に・・・!!
2008年09月09日 (火) | 編集 |
サンケイスポーツの『球界インサイドリポート』。
毎回、楽しみにしているコラムです。
スポーツジャーナリスト・鷲田康氏、今回のコラムには、
私も1票!!と叫びました!!
昨日に引き続き、WBC監督絡みの記事を載せてみたいと
思います。



来年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の
監督問題が紛糾している。
北京五輪で日本代表を率いた星野監督だけでなく、
さまざまな名前が候補として挙がっている。
『国際大会で勝てる監督』というのが唯一、
絶対の条件であるべきだが、
どうやらそれだけではないところが ややこしい。
『あの人ではスポンサーが集まらない』、
『あの監督だと選手が集まらない』―。
何人かの候補にはこんな話しがついてまわる。
星野監督にしても
『ダルビッシュは出ない』、
『イチローも辞退する』― などという
うわさ話が先行しているのが現状だ。


それならいっそのこと、イチローに監督を兼任してもらえば
どうだろう。
話題性も十分でスポンサーも集まる。
『出よう!』と呼びかければ、チームメートの城島や
松坂はもちろん、日本からも“チルドレン”といわれる
ヤクルト・青木、ソフトバンク・川崎らが名乗りを上げるのは確実。
選手集めにもイチロー効果は必ず出るはずだ。


もちろん、それだけで監督説を唱えるのではない。
メジャー8年目。
WBCはメジャー選手主体のチームが多いだけに、
最も相手を知っているのもイチローではないか。
前回大会の経験があり、国際試合のノウハウも肌で感じている。
年が若い(34歳)というだけで、
こんなうってつけの監督はいないのではないか。
何より、そういう立場になったら、
もっと身を入れてチームに関われるかもしれない。
監督なら大会期間中はチームメートと同じ宿舎に泊まり、
ミーティングにも出席するはずだ。
その中から日の丸を背負う一体感が出てくるかもしれない。


1日の実行委員会で、人選は最終的に加藤コミッショナーに
一任することになった。
どうです、コミッショナー!
イチローの名前も、ぜひとも選択肢の一つに加えて
いただけないでしょうか。




私も見てみたい気がします。
全く考えてもみませんでした、イチロー監督!
でもアリだと思います。

“男 星野” の支持率
2008年09月08日 (月) | 編集 |
『WBCは星野監督でいいのか』というサンスポCOMの
緊急アンケートで、『YES』は13%だった。
政権を放り出した福田首相でさえ、
直近は支持率は20%台だったというから13%は“論外”だ。
五輪惨敗後、燎原の火のごとく広まった批評を受け止め、
WBCでの続投は思いとどまるのが世間の常識ということだろう。


万事ひとごとのようだった福田首相は
『就任するまで首相になろうと考えたことはなかった』
という。
一方、星野さんは五輪監督をやりたくて仕方なかったようで、
WBCも同じらしい。
支持率の低さではいい勝負になった2人だが、
ポストへの執着という点では大きな違いがあるらしい。


1日にはプロ野球実行委員会が開かれ、1時間も論議された
WBCの監督問題は、結局加藤コミッショナー一任という形になった。
『前年度の日本一監督など すっきりした形はいくらでもあるのに、
 いろんなしがらみがあり肝心なところが不透明で、
 よく分からないのは政界と同じ。
 球界も混迷している』と本紙専属評論家の江本孟紀氏は
苦笑する。


うらみごとをならべたて、最後は記者の質問に切れた福田首相の
会見は、聞いていて不快感この上なかった。
引き際の美学などかけらもなかった。
しかし、禍転じて・・・で辞任により与党側は、
自民党総裁選がマスコミで大きく取り上げられて注目を集め、
新首相が高い支持率を得ると期待してしているそうだ。


首相に先を越されたが、“男 星野”のイメージを大事にするなら
この際、星野さんこそ男らしく身を引く美学を見せてもいい。
支持率が回復し、『もう一度チャレンジを』の声が出たら、
改めて信を問うてみたらどうか、老婆心ながら思う。


           サンケイスポーツ 『甘口辛口』より
                             今村忠氏


来月初旬にはWBC監督が選考されますが、
“イチロー監督”の声も挙がっているくらい、野球ファンのみならず
日本国中が注目している WBC監督。
昨晩のTBS『Jスポ』でも、電話投票を生放送していましたが、
本当にどうなるんでしょうか??
私としては監督もですが、選手と監督との関係をうまく補佐し、
監督より強く物を言える、威厳のある首脳陣が必要だと思うし、
誰になるか興味あります。

懸ける (1)
2008年09月05日 (金) | 編集 |
五輪の興奮が冷めやらぬ北京で9月6日、
パラリンピックが幕を開ける。
日本からは、162人の障害者アスリートが出場する。
死を彷徨ったり、絶望のふちに立たされたりした選手達は、
何を懸けて障害者スポーツの祭典に挑戦するのか。
その原動力を探った。

                (読売新聞 『懸ける』より)


ガツン、ドン―。
車椅子同士が激しくぶつかり合う音が体育館に響き渡る。
千葉・幕張で8月中旬に行われた車椅子ラグビーの
日本代表合宿。
1チーム4人でボールを運び、ゴールを目指す車椅子ラグビーは、
障害者競技で唯一、タックルが認められている。

選手が車椅子ごと倒されることも珍しくなく、迫力とスピード感は
格闘技にも例えられる。
『おおきな相手をタックルで止める時の壮快感はたまりません』―。
代表メンバーの仲里進選手(31)は額の汗をぬぐった。


仲里選手はこの種目で沖縄県から選ばれたただ一人の代表選手。
関節の筋肉が収縮し伸びなくなる先天性の障害
『多発性関節拘縮症』を患っている。
父の吉見さん(53)は同じ障害を持ち、
母のさちみさん(53)は小児まひの後遺症がある。
親子3人が障害者という家庭で育った。


障害を抱える両親は、子育ての大変さは覚悟しつつも、
子供が欲しかった。
待望の息子に障害があると知った時はショックを受けたが、
『前に進んで欲しい』という思いを込めて
『進』と名づけた。

『健常者に負けるな。人一倍努力しろ』―。
が両親の教育方針。
小・中・高校と普通学級に通い、装具を足にはめて歩く姿を
同級生にからかわれたり、無視されたりした。
他の家庭との違いに戸惑い、
『ナゼ産んだ』と母につらく当たった。

就職、結婚や健康への不安―。
『自分に将来はあるか』と絶望した。
21歳の時、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図り、
意識不明になって3日間死線を彷徨った。
意識が戻ると、病院のベット脇で泣いて喜ぶ両親の姿があった。

入院していた1ヶ月間に、吉見さんから数通の手紙を受け取った。
そこには、自分の生い立ちや同じ障害を抱える者の苦しみが
切々と綴られていた。
吉見さんは厳しくしつけたことが、
息子を追い込んだのではないかと苦悩していた。
『親が自分を愛し、苦労して育ててくれたことがわかった』―。
両親への感謝の気持ちが芽生えた。



退院後、車椅子ラグビーを知った。
知人の紹介で地元チームに加わると、恵まれた体格と車椅子の
巧みな操作技術で、たちまち中心選手になり、
1年後には日本代表に選出された。
アテネパラリンピックには両親を連れて行った。

左目は24歳の時、網膜はく離で手術した。
試合や練習で激しく体をぶつけ合うため、絶えず網膜はく離の不安が
つきまとうが、自分の人生を肯定し、精一杯生きようと
思えるようにしてくれたラグビーを、やめるつもりはない。


2度目のパラリンピックとなる北京。
日本代表の塩沢康雄監督(50)からは
チームのムードメーカーの役割も期待されている。
『自分はスポーツで世界が変わった。
 北京では同じような境遇に悩む人たちの励みになるような
 プレーをしたい』―。
それは両親の願いでもある。

                         迫田修一氏
『第二章』へ 納得の復活弾
2008年09月04日 (木) | 編集 |
帰って来た手強い男。
左ひざ痛による2度のリハビリを乗り越えて、
先月19日に合流すると、
復帰3戦目にして本塁打を放った。
それも、ハラデーからだ。


2003年のサイヤング賞投手で、ブルージェイズの右腕。
球速は150㌔を越え、高速シンカーは一瞬甘いコースと
感じても、ボールゾーンへ遠ざかって落ちる。
今季もここまで14勝、防御率も2点台。
両リーグトップの8完投を誇る。
苦手な相手だ。


しかし、少しずつひびを入れた殻に、ぽっかり穴を
開けたかもしれない。
21日、敵地トロント。
ヤンキースは13点差の完敗ムードとはいえ、
個人的には絶対攻略したい7回一死一、三塁の第3打席。
『三振かダブルプレーを取りたいところ。
 シンカーの確立が高い』―。
狙いを絞った。
ひっかけたゴロにならぬよう、外へ沈んで行く軌道を頭に描く。
ボールを長く見て、逆方向へ強く打ち返す―。
これまでのハラデー対策をより強く意識した。

3球で窮地に立った。
内に入るカットボール2球にカーブが1球。
つまりは狙いが外れた。
追い込まれ、対応の幅を広げるため、シンカーへの強い意識は薄めた。
そうしてボール、ファウル、ファウルと粘る。


今度は相手が考えた。
『これまでシンカーを投げ過ぎていた。
 内に食い込むボールの方がいい』―。
投げ過ぎ、とは負の記憶だろう。
6月3日、前回の対戦で松井はシンカーを狙い打ち、
左へ2安打している。
勝負の7球目は内角へのカットボール。
外に逃げる軌道への意識を薄めていた背番号55は、
自然な反応で体をくるりと回す。
右翼へ3ランが飛び出した。


対戦打率は2割そこそこ。
一昨年にはボールが遠ざかる前にさばくため、
打席で投手寄りに出ることも試みた。
今季は相手が動き、その試みを打ち砕いた。
単打2本でまいた種を咲かせた格好の一発長打に、
少しだけ胸を張る。
『シンカーかカットボールか。
 どっちを狙ってるんだと、相手が考えることになるかもしれないね』―。
試合に勝って局面で敗れたハラデーは逆に、
『少し違う攻めをしようとおもったんだ』と悔いを残した様子。
さらに考えさせられるかもしれない。


難敵への挑戦から対決へ。
第2章の始まりを予感させる一発は、自分と首脳陣を
納得させる復活弾でもある。

『本当にうまく打ったし、いいきっかけになるよね』―。
2ヶ月のブランク明け。
ひざへの不安が消えない一方で、
明るい笑顔に安堵に似た思いを漂わせた。


打撃はさびついていない。
2日後には、恩師、長嶋茂雄に並ぶ
日米通算444号を打って見せた。  


                   読売新聞 『松井秀喜 ’08』より
                               小金沢 智氏
『頭脳的』 好守でけん引 ~レイズ・岩村明憲二塁手~ 
2008年09月03日 (水) | 編集 |
今日は、私も応援しているレイズ・岩村明憲選手を
ピックアップしてみました。
スポーツ紙でも裏一面で取り上げられるほど、
今、日本メジャーリーガーの中で最も注目されています。
地区初制覇へ、一歩一歩 歩み寄っていくチーム内で、
『形はどうであれ、1日1回ホームを踏む』という信念のもと
チーム全体が盛り上がりを見せています。


読売新聞  『メジャー’08』より
今回は載せてみました。


レイズの岩村が、メジャー一の成績を残している分野がある。  
ポジション別の守備率だ。
今季、コンバートされた二塁で、9割9分4厘。
エラーはわずかに3。
堅実な守備で、首位を走るチームを引っ張っている。
  


メジャー1年目の昨季も、三塁手としてメジャー最高の守備率
9割7分5厘を残し、失策は7つのみだった。
  
日本で6度、ゴールデングラブ賞を受賞したが、
受賞年で、失策数が10未満だったのは1季のみ。
  
難しいと言われている天然芝の球場が多い大リーグで、
確実性が上がったのはなぜか?
  



本人は、
『神宮でサードを守るよりは、こっちの天然芝の方が楽』
と笑い飛ばす。
  
かつての本拠地は、打球が死なず、バウンドも不規則
だったのだそうだ。
  
ただ、それだけでは説明がつかない。
三塁から、二塁手へのコンバートは、そう簡単ではないはずだ。
  


守備に対する考え方を変えたのが、一つの要因だ。  
三塁手は花形のポジションだから、
『長嶋(茂雄)さんのように、大きな動きを入れたり、
 余裕を持って一つのプレーをこなし、
 お客さんを喜ばせるのがプロ』―。
そう思っていた。
  
しかし二塁手は、
『玄人好みと言うか、いぶし銀と言うか、派手なプレーよりも
 一つのアウトを確実にとることが大切。
 そうすれば、投手とセンターラインの信頼関係が出来る』―。
守備の要だという自覚が生まれた。
  


岩村の守備は、堅実なだけではない。  
フォーリー内野守備担当コーチは、  
『ポジショニングに優れている。
 頭がいい』と言う。
  
例えば8月16日のレンジャーズ戦の5回。
二塁ベースよりも三塁寄りのゴロを軽快にさばいた。
広角に打ち分ける右の好打者、ヤングの2球目のファウル、
3球目の空振りを見て、その都度、守備位置を、
少しずつ二塁寄りにずらしていたのが効いた。

『打者がどんな振りをしているかで、1球1球、
 守備位置を考えている。
 その場にとどまることはない』―。
まさに、派手さはないが、玄人好みするプレーだった。
  


一軍デビュー当初、野村克也監督(当時)に酷評された
岩村の守備は10年後、メジャーの舞台で、
プレーの幅を広げるとともに、
確実性、信頼感をも増している。
  



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私も注文します!!
是非、身に付けて、岩村明憲選手を体感してみて下さい!!
地区優勝が目前!!!