日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
あと5年。全国制覇めざし勝負!(3) 
2007年04月30日 (月) | 編集 |
 一度会ったら忘れない。
 2日おきに剃るというスキンヘッドに、大きく曲がった
 前歯が1本。
 練習では選手に容赦なく罵声を浴びせるが、
 ひとたびグラウンドから離れると、大きな目をくりくりさせて
 人々を楽しませてくれる。
 そんな伊志嶺吉盛監督、53歳。

 『格好つけようがないね。
  生活の全てが野球だから、それしか語れないし、
  飾ったり背伸びした所で それこそ無駄。
  こんな低い身長だから限界があるよ(笑)』

 昨年全国の舞台に立って旋風を巻き起こした
 八重山商工は、新チームになって挑んだ秋の県大会で
 見事、優勝を果たした。が、残念ながら進んだ九州大会では
 初戦で敗れ、2年連続のセンバツ出場はならなかった。

 『新チームには飛びぬけた選手はいませんが、チームは前より
  上。それでも勝てなかったのは、チームを維持するための
  体力と精神力が足りなかったからです。
  だから、センバツのなくなったこの冬は暗い地獄の練習。
  理不尽のオンパレードですが、それらを通じて選手達に
  意識革命、自己革命を起こさせたい。
  すごく真面目で一生懸命な子供が多い半面、
  “何くそ!”という部分が無い。
  お坊ちゃんで終わらず個人個人を変えていき、
  そしてチームを変えよう。
  改革ではなく、革命だぞ!と言っています』―。

 指導法そのものも、これまでとは同じではいけないと
 思っている。
 伊志嶺監督に“怒る”と“叱る”の違いについて聞いてみると
 怒る時は大半がパフォーマンスなのだという。
 バカ野郎ー!許さんぞ!と、怒鳴りながら心の中では冷静で
 選手の次のアクションを期待している。
 反対に叱る場合は、世の中は思う以上に厳しいんだという
 人生の教えが入り、
 “こういう大人になってもらいたくない”との思いが
 言葉の中を占めている。

 『そんな今までの方法が新チームでは逆効果になる。
  それこそ“死ね!”なんて言ったら、モチベーションを
  上げる目的がテンションを下げてしまう。
  子供のタイプが全然違うのです。
  今までの指導ではもう彼等には浸透しない。
  私も変わらなくてはいけません』―。

 小学生の頃から付き合って互いを知り尽くした選手達から
 今後は初めての顔ばかりになる。
 監督の言葉の裏を理解しろといっても無理がある。
 
 『島の外から選手が来るなど これからのチームは大きく
  変わる。どうなるのか とても気になるところだが、
  監督には正念場といえるここ数年を、是非乗り越えて
  いってもらいたい』―。
 そう語ったのは、市の派遣事業として伊志嶺監督を
 高校野球界に送った大濱長照石垣市長である。
 『八重山商工の伝統は、今のチームが作ります。
  ひとつの扉を開けたのは大嶺らだが、
  しかしチームの基礎を作りさらに上へと行くのはこのチーム。
  “全国制覇”という大目標を掲げ、私なりに目安を
  作りました。 
  あと5年、そこで結果を出そう。
  その結果がどうであれ、進退をも考えていこうと』―。

 24歳で引き受けた1度目の八重山商工監督は
 6年間、4勝でピリオドを打った。
 離婚を2回経験し、父を海の遭難事故で亡くし、
 その後、長男まで失うという波乱万丈の私生活。
 しかし、49歳から再び始まった2度目の監督業では
 “子供達と真っ向からけんかをする為”に
 好きな酒を一切やめ、夢に向かって突き進む。
 本当に、何があっても飲まない。
 楽しそうに酒を口にする人を、もっと楽しそうに
 みつめているのが伊志嶺監督だ。

 『市から監督業を委託された時、最後の御奉公、
  島に恩返しだな、と思っていました。
  でもこうして野球をしているお陰で、全うな道を歩め
  しかも色々な人に出会うことが出来て
  感動をありがとう、と言ってもらえる。
  結局また、野球に面倒を見てもらい、お世話になって
  いるんですよね。幸せ、かなと』―。

 逆風が無い訳ではない。
 島の他の2校にも相乗効果で好影響を与えているのだが、
 猛練習はできれば避けたいという選手がこぞって
 そちらに流れ、むしろ八重山商工の部員数は増えていない。
 部費もずっと16万円だったが、野球部だけ多いのは
 ズルいとの声が出て、なんと昨年から半分の8万円に
 なってしまった。
 体調も、年中頭に血を昇らせているためか、偏頭痛が頻繁に
 起こり、肩痛はじめクビの頚椎を痛めている影響で
 腕にもしびれがある。
 満身創痍の体ながら、それでも野球を愛す伊志嶺監督。
 『野球ってね、人の長い人生を9イニングに
  まとめたような感じだと思うんです。
  失敗しても立ち止まって反省してやり直す事が出来て
  人と人とのつながりで勝負していく。
  さらには、それらを通じて人を育てられるという、
  だからハマってしまったんです』―。

 夏、絶対に勝つ!
 365日続く名物の朝練に、毎日薄暗い4時半に起きて
 グラウンドに向かう伊志嶺監督。
 小さな部屋に、長男と風呂に入って歌ったという大好きな
 長淵剛の歌が 今日も流れている。


  ~日刊スポーツグラフ
    『輝け甲子園の星』より
       監督と甲子園から載せて頂きました~

 臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
  かたきを討とうとして苦心、苦労を重ねること。
 
 何度も読みました。
 人情味のある、一度“こう”と決めたら突き進む。
 そして心で子供達と会話ができる―。
 真の教育者だな、と思いました。
 自分の身を削ってまでも子供達に“野球の楽しさ”を
 教えて、その延長に“甲子園の頂点”を
 子供達と目指す。
 苦労している分、形として結果が着いてきている姿に
 感銘を受けました。
 私も今度生まれ変わって“男”になったら絶対!!
 高校野球の監督になっていると思います!!
 それだけ価値のある 誇れる業種だと思います!!
 
 
  
   
  
スポンサーサイト
厳しい言葉も裏を返せば温かく (2)
2007年04月30日 (月) | 編集 |
 伊志嶺監督が、なぜ選手達にここまで厳しく接するか。
 その理由を長く監督と接してきた人々はよく理解している。
 マスコミ陣が今もひっきりなしに監督の元を訪れるのも
 生活の全てを野球に捧げる監督の姿に共鳴するものが
 あるからだろう。
  

 が、夏の甲子園では思わぬ事件が飛び出してしまった。
 新聞の一面で報道されてしまった『死ね』事件である。
 初戦の千葉経大付戦で、マウンド上で右往左往する大嶺に
 伝令を送って伝えた言葉がこれ。
 新聞に載ると知った時、監督は
 『これまでの一部始終を見て書くというのだから構わない』
 と言ったという。
 だが、世間はそうもいかない。
 その後、学校には非難の電話が相次いだ。
 対応した1人、野球部長として伊志嶺監督と最初にコンビを
 組んだ現・添石邦夫校長は苦笑いをする。
 『本当に死んだらどうするんだ、と。あの監督を教育
  し直せという電話もありました。
  もちろん私自身は監督の言葉の意味を理解している。
  ただ、あまりにストレート過ぎるんですよ。
  彼は選手の親にもこうして平気でものを言うから
  煙たがれてしまう。 損な性格だと思わずにはいられないが
  でも、こうまでしなかったら甲子園はなかったというのも
  確かでしょう』―。

 伊志嶺監督は誰を伝令に出したらいいかも考えて
 3年生の新城永人を選んだ。
 言葉の裏にある真意を正しく伝えさせる為である。
 その通り、選手達はマウンド上で
 『監督の方が先に死ぬよな』などと言っている。
 そして大嶺は立ち直った。  
 
 『死ぬ気でやれ、お前ら本気でやってるのか!
  これが普段の僕らの会話です。
  その言葉の前後に過去の長い時間があり、彼らの気持ちを
  切り替えさせるために僕はボタンのスイッチを入れる為の
  言葉は短くていい。
  裏づけがあるから言えることなんです
』―。 


 甲子園で見せた伊志嶺監督の采配、選手の起用法にも
 高校野球のセオリーから外れていると異論を唱える声も
 聞かれてた。
 だが、監督をよく知る人々の間ではそんな声は全て一蹴
 されている。
 過去の一部始終を見てきた監督だからこそ下せる、
 最良の判断だと。
  
  
 例えばスクイズよりエンドランを多用する理由も、
 選手の技量、性格などの全てを頭に入れ、本人にとって
 チームにとって、最もいい方向に導き出す為の作戦だ。
 そこに言い訳も遠慮もない。
  
 重視されているのは、野球の技術うんぬんよりも
 プレーする“人”である。
  
 人そのものを長い時間をかけて育てようと もがいてきた
 伊志嶺監督ならではの、これこそが島の野球なのだ。
  
  
 ある親しい関係者はこう表現する。
 『監督は激しい言葉を選手に浴びせるが、私からすれば
  全てあったかさに聞こえるんだな。
  野球を愛し、子供達を心から大切にしているね』―。
  

 伊志嶺監督の指導は、まさに手取り足取りである。
 全員に同じ指導を繰り返すのではなく、1人1人の特性に
 合わせて伸ばすべき点を教えていく。
  
 冒頭の野球日誌には(4/29日付けブログ参照)
 裏ページに選手の名前を羅列し現状を書いたメモ書きも
 残っている。 交わす会話は子供にとってより分かりやすく
 噛み砕いたストレートな言葉が並ぶ。
 『少年野球より言っている言葉が、少し難しくなったかな、
  というくらい。 自分の思っていることを そのまま
  口にして、俺の言うことが分からんか、と頭ごなしに
  言う指導者もいるけれど、子供の目線になって教えなければ
  正しいことは伝わらない
』―。

 練習でも、更には試合でも叫びっぱなしなのは、細部に
 わたって教え込もうとする人並み以上の熱意である。
  
 キャッチボールでもシングルキャッチや、肘を下げ横から
 いい加減に投げようものなら即座に注意をする。
 『強豪高ほど部員も多く、細かく言わないかも知れないですね。
  でも、ボクに言わせれば、そんなキャッチボールを
  していたら、いざという時に出るよ、と。
  シートノックでも相手のプレーをきちんと見させて言います。
  あんな投げ方をしていたら、きっと暴投する。そして
  必ずその通りになる。
  体に染み付いてしまってからでは遅いんです』―。

 中学生の八重山ポニーズを自ら立ち上げたのも、
 島から本島に渡った選手の半数以上が途中退部に
 追い込まれている現状から、高校野球で通用する確かな
 技術と精神力を付けさせるためだった。
  
 正しい事をきちんと全員に教え込もうとするには
 相当のエネルギーがいる。
 それを毎日毎日、今も伊志嶺監督はやり続けているのだ。  

 『辞めるという子供を家まで行って説得したり。
  高校でこんな事してる指導者、いないよね。
  大嶺だって何度辞める、と言ったことか。
  放置していたら、今の彼は絶対にない』―。

 ロッテの一員としてプロの世界へと巣立っていった大嶺。
 だが、ドラフト1位指名を受けたとき、
 意中の球団ではなかった為に心は揺れに揺れた。
 伊志嶺監督もまたガックリと力を落とし、入団拒否の姿勢を
 取ったがゆえに これがまた世間の批評を浴びてしまった。
 インターネットでは
 “話をしないうちに不満を明らかにするのはどうか”
 “一社会人、指導者として正しくない”などといった
 中傷の言葉も並んだ。

 だが、監督が大勢のカメラを前にしても本気で顔を
 ゆがめ苦渋の表情を浮かべたのは、大嶺自身の 
 まだ成長しきれていない心の部分を案じたからである。
 島で育ち、両親の離婚により祖父母に育てられ
 世の中の厳しさもまるで知らない。
 裏を返せばあまりに純粋で、彼を本当に分かってくれる人が
 周囲に居ない場所では間違いなく潰れていってしまう。
  
 伊志嶺監督は島に度々訪れ、そこを十分に理解してくれていた
 ソフトバンクならと考えていた。
 だが結末は、大きく異なる方向へと進んでしまったのです。  

 一度は浪人する覚悟もした大嶺。
 しかしその後、ロッテ入りを勧めたのもまた伊志嶺監督だった。
 『お前に1年間切磋琢磨して過ごせる覚悟があるか?
  野球には“流れ”という とても大切なものがあるように
  お前の人生にも流れがある。
  怠慢しながら曲りなりにも ここまで来られたのは、
  全て“流れ”。その“流れ”に逆らったら負けるよ』―。
  

 伊志嶺監督の凄さは、逆境にあい深く落ち込みながらも
 人前で弱音は一切もらさず、こうと決めたらいつも
 前向きに物事を進めていくことだ。
  
 この時も、ロッテ側に大嶺の現況を事細かに伝え、
 どう育てていくかの計画案を作ってもらった。
 1人での自主トレはムリと、すぐに九州から
 トレーナーを手配。
 多額の契約金などについても祖父母を交え話し合ってる。
  
 その大嶺の祖母は、言った。
 『監督は私達にとって宝物。
  どうしたら恩返しが出来るか、いつもいつも考えているよ』

                  (続く)          
 
  
   
   
   
  
 
『臥薪嘗胆』 離島から感動を全国に―。 (1)
2007年04月29日 (日) | 編集 |
 すっかり古びてしまった日誌がある。
 伊志嶺監督が2003年に八重山商工の野球部に赴任して
 以来、1年間書き続けた野球部活動日誌である。
 わずか4年ほど前のものではあるが、
 今となってはとても考えられないような
 地道な日々が綴られている。
 練習メニューの具体的内容から、その時の選手の様子、
 さらには監督の率直な思いなど、文字に隠された
 心の内は いかばかりだったか。

 4月16日 主力メンバーが休みの為、シートノック出来ず
 5月12日 朝練に来ない
 5月31日 試合中マナーが悪いと注意すると ふてくされて
       反抗する。午後から休み。
 6月14日 大会まで1週間なのにメンバーが集まらない。
 7月22日 新チーム始動も参加人数4名。
 7月31日 2名。
 8月9日  秋季大会不参加を話し合いで決定。
 12月11日 1名。
 1月2日  2名。 7時~16時まで練習。
 2月1日  防球ネット9台、バッティングケージ1台完成。


 ほんの一部の抜粋だが、この時期こそ伊志嶺監督にとって
 まさに冬の時代だった。
 最初の夏を突貫工事でベスト8という、周囲も驚く好結果を
 導き出したにもかかわらず、次に待っていたのが選手の
 大量退部。
 最後に残ったのはわずか2名で、夏休み明けた9月1日
 伊志嶺監督は手帳に『あと205日』とメモ書きしている。
 翌春、1年生が入部してくるまでの日数である。  

 だがその間、日誌を見ると練習メニューは実に多彩で
 手を抜いた形跡は一切無い。  
 練習態度が悪ければ叱り飛ばし、次なる目標を常に掲げさせて
 練習に取り組ませた。
 並行して、自身は黙々とネットなどの補修作業。
 『うみんちゅ(魚師)並みにうまくなったよ』と笑うが
 そこまでの強固な意思をよく半年以上も持続して
 いられたものである。

 『二人にやめられたら困るとか、そんな邪念は全く
  抱かなかった。練習を軽くしたらどうかという声も
  あったが、そんな中途半端な事がどうして出来ますか?
  そりゃあ気分いいわけは無いですよ。
  市から担ぎ出され、5万円の報酬で納得して始めた事だけど
  あれこれ言われ議会でも取り上げられる羽目に
  なっちゃって。 それでも続けられたのは、やるからには
  結果を出すという信念と、やっぱり野球が心底
  好きだったからでしょうね
』―。

 辛いと思ったのは、むしろ自分ではなく2人の部員に
 対してだった。
  
 この人数では到底試合をする事は出来ない。
 試合を通じてより野球の面白さを知ることが出来るというのに
 それを味合わせてやれない悔しさ。
 ご苦労さんとの思いで夕飯をご馳走するくらいが
 精一杯だった自身への苛立ちは、とても大きかった。
  

 『大人たちは皆、お前の指導が悪いんと決め付ける。
  ケツバットも年中行事で、だから辞めていくんだと。
  でも子供達からは、そういう答えは出てこないんです。  

  辞めていった生徒に聞いても、ただもっと自由に普通の
  高校生活が送りたかっただけで、叱られる事には文句は無い、
  理由は分かっているからと言う。
  その証拠に、監督について行き甲子園に行けよと
  残された仲間を励ましているんです。
  
  それでも親や諸先生、多くの大人は、生徒が辞めた原因を
  僕から導き出したいんでしょうね。
  毎日朝練が始まる前に1時間ほど自転車を走らせながら
  考え事をしてはため息ばかりついていました
』―。

 辛く厳しい冬を我慢努力すれば、
 夢叶う春が必ずやってくる―。
  

 今も色紙にしたためる言葉である。
 伊志嶺監督は赴任前、小学生チームの八島マリンズ、
 中学生チームの八重山ポニーズを率いてきたが
 子供達にひたすら言い続けたのは
 『なぜ石垣から甲子園に行かれないんか』だった。
 チームという組織を作り上げるには、まず 挨拶や礼儀作法
 といった生活態度と、野球に対する強い意識を作りあげねば
 ならない。  そして、それこそが島に最も欠けている点だと
 訴え続けたが、その思いを理解させるのは容易ではなかった。


 『自然の豊かな島で野生児的に体を鍛え、のびのび過ごす
  ことが出来るから、それこそ運動神経に長けた子供が多い。
  半面、野放し状態で生活の基本がありません。
  島全体がそうなんです。 だから子供達だけではなく
  私の言っていることを親にも理解してもらわねばならない
  これが本当に大変でした』―。

 野球用具が買えない子供には自分が用意し、遠征費を
 払えない子供にも旅費を立て替えたりした。
 ゴミ処理回収業を営みながら自分もギリギリの生活なのに
 回収できないお金と分かっていても手を差し伸べてしまう。  
 そこまでしておきながら、子供の親から幾度も罵声を浴びた。
 裏切られた気持ちになって、もう面倒は見まいと思った事は
 数知れない。 でもその都度、『子供には罪が無い』と
 心を入れ替えていったという。
  

 就任の翌春、待ちに待った1年生の入部の日、日誌には
 “臥薪嘗胆”“鉄心石腸”。  
 八島マリンズ時代から育ててきた大嶺祐太、金城長靖らの
 加入だったが、彼らとの日々こそまた戦いだった。

 『センバツが決まってからも、朝は起きてこないし
  平気でウソはつくし。 ちっとも慌てなくて、こっちが
  何か言うとハイハイと返事だけしておいて後ろ向いたら
  舌を出してるし。 これはね、しょうがない。
  地域性だから。 沖縄タイムならぬ“石垣タイム”があって
  7時集合だったら7時半前後に始まるからそれくらいに
  行けばいいや、という感覚。
  取材フィーバーが始まっても彼ら、全然変わらない。
  それも島の人々はシャイという人間性も関係してるんです。
  来る人、来る人びっくりしいて、ある人はこの姿が特徴なら
  いいんじゃないんですか、って言ったんだけど、
  僕は許せないんですよ、絶対に』―。

 普通の高校野球とはひと味もふた味も違う事件の連続だった。
 マイペースの選手達に真っ向挑む伊志嶺監督の姿が
 テレビのドキュメンタリー番組で何度も紹介され
 マスコミがいようといまいと素のまま本音でぶつかり合う
 光景は圧巻だった。
 監督に大声で注意された金城が、逆に監督の胸倉を掴んで
 きたこともある。
 テレビカメラが目に前にあったが、伊志嶺監督は
 ちゅうちょせず、こう叫んだ。
 『お前がやるなら俺もやるよ!甲子園なんかムリに
  行かなくたっていいんだ!お前らに こういう事を
  許してまで、甲子園に行こうとは思わない!』

 それはまさに、監督と選手という関係を超えた父子の
 戦いだった。
 そんな選手達に大きな変化が見られたのが
 センバツ出場後である。
 初戦で悲願の初勝利を挙げたが、2戦目の対横浜戦で
 惜しくも敗退。 勝ったゲームを落とした、と
 伊志嶺監督はキッパリ言う。

 『これこそが日頃の行い。 チームに一番足りないものが
  出たんです。平気で手を抜き、相手に合わせた野球をする。
  肝心な時に大嶺がやった怠慢なタッチプレーや走塁など
  その典型です。だから、夏に向けて彼らに言ったのは
  “球道一心”。生活態度を正し、当たり前のことを
  当たり前にやる。その上で心をひとつにしてやろうと』―。


 遅刻常習犯・大嶺が何より時間を守るようになった。
 夏、甲子園に旅立つまでに練習に遅れたのはわずか2回。
 でもその1回が甲子園出発前日で、監督はそれを
 断固許さなかった。
 『わずか1分だったんだけどね。出発日の朝は練習しない
  予定だったのですが、急遽返上して5時半に開始しました。
  大嶺はこの時間に遅刻したらいかんと、前日から学校に来て
  校舎の片隅で寝ていたらしい。
  
  それがまた噂になって、監督は出発の朝も練習させたと。
  また悪者ですよ(笑)』

                 ~続く~
  
 
  
 
   
大阪桐蔭の本当の強さ
2007年04月28日 (土) | 編集 |
 山口祥継くん(17)。
 この春の課題は『チームの為に』です。
 一昨年9月、1年生のこと。
 練習中のクロスプレーで右手首を痛めてしまいました。
 以来、だましだましプレーしてきたものの、完治せず。
 昨年12月にそのじん帯を手術。
 『選抜出場はうれしかった。  
  でも、僕は手術をしなくちゃいけない。
  でられないかもしれない。
  部屋で1人でずっと考え込んでいました』―。

 山口くんの落ち込んでいる姿に、みんなが次々に
 声を掛けてくれました。
 『はよ、帰ってこいよ!』と。

 『本当に嬉しかった。
  そこで気持ちが吹っ切れました。
  早く治してチームの為に頑張ろうと思いました』

 手術から2ヵ月後のリハビリ。
 練習では、みんなが練習している後ろで走るだけ。
 『出来ない自分が悔しい。
  みんなが羨ましかった』

 人は、無くなって初めてその大切さに気づくもの。
 その時山口君は野球が出来る事、そしてバットを振れることが
 どれだけ幸せなことか分かった、と言います。
 そして、『ケガがあったからこそ今があると思うんです。
 1球打席、1球を大切にするようになったし、
 チームの為に自分は何が出来るか、という考え方に
 変わりました』―。 

 昨夏の甲子園で使った帽子のひさしには『全力』と書いて
 ありました。
 『去年は2年生で先輩が連れて来てくれた甲子園。
  正直、自分が打てなくても誰かが打ってくれる、と
  思っていました。
  でも、今年はチームが勝つために、自分は何を
  しなくちゃいけないかを常に考えています』―。

 この春は、帽子のひさしに
 『One for all all for one』
 (ひとりはみんなの為に、みんなはひとりの為に)
 と書きました。
 
 ファーストストライクから積極的に振る。
 甲子園前にはノックを重点的に受け、苦手な守備は足の
 運びから再確認。
 『飛んで来い!』と思えるようになりました。

 苦しみを知っている人間は、とても芯の強い人間だと
 思います。
 中田君が活躍する中で、大阪桐蔭の底力をこれからも
 見せて欲しいです。
  
 チームみんなの思いは
 “チームの為に”―。
 
 
原巨人『V奪回』は足元から
2007年04月27日 (金) | 編集 |
 『奪回』への足固めだ。
 改良された東京ドームの人工芝に続き、原巨人のこだわり
 その2は『土』。
 ここまで中日と並びリーグトップのチームG投が、
 “甲子園の土”で故障者を完封する。

 昨季終盤から試験的に、東京ドームの試合で投手陣が
 行っていた屋外の試合前練習。
 足腰に負担がかかるノックやダッシュなどを
 土の上で行えることから好評で、今季から本格的に
 行うことが決定した。
 
 これに伴いバージョンアップしたのが『土』。
 東京ドームから徒歩約10分の文京区の施設、小石川運動場の
 土を巨人軍が工事を請け負い総入れ替えしていた。
 「土の産地は違いますが、割合は甲子園と全く同じ。
  野球をやるのに最適なものです」
 と整備を担当した奥アンツーカー東京支社。
 
 同運動場はかつて東京五輪のサッカー予選会場として
 使われたこともあり、現在は一般開放され、
 主にサッカーの練習などに使われている。
 更に投手陣が使用するグラウンド脇は、遊水地として
 使われることから、ダスト舗装され、細かい石が
 混ざっていた。
 2月中旬から着工した工事ではこれを除去し、
 甲子園と同じ黒土と川砂を6対4の割合にした混合土を
 約10㌢、敷き詰めた。

 「文京区の協力でかなり状態が良くなっているみたい。
  ケガ防止の意味でもいいこと」と
 斉藤投手コーチ。

 上原が左太もも裏痛で離脱し、パウエルは左膝を痛め帰国中。
 2本柱を欠くG投にこれ以上のケガ人を防ぐ意味でも
 大きなバックアップだ。

 屋外練習は5月からの予定だが、気候次第では使用する
 可能性もある。
 
 おしゃれも『奪回』も まずは足元から・・・?!
 
 
抑えの一時的な入れ替え必要!?
2007年04月26日 (木) | 編集 |
 プロ15年目のベテランでも、甲子園の雰囲気というのは
 特別なのかもしれない。
 20日の阪神VS巨人戦。
 延長12回にまさかの大逆転を喫したジャイアンツの豊田。
 調子が悪い上、フォームが小さくなって
 ゆとりもないから、直球も走らないし、フォークも落ちない。
 打者にことごとくバットの芯で捕らえられていた。
 もう一度、原点に帰って調整し直さないといけない。  

 『抑え』という役割を考えたとき、巨人は間違えなく
 配置転換を考えなければいけない時期にきている。  
 林が代役の第一候補だろうけど、簡単に務まらないのが、
 抑えの難しさ。
  
 開幕から林は好投を続けているが
 『後ろに豊田がいる』という 心のゆとりが
 好投に繋がっている事も考えられる。

 調子がいいからと、抑えを任せたとたんに
 結果が出ないというケースもよくあること。

 だから阪神が、体調が万全でない藤川と久保田を入れ替えて
 急場をしのいでいるように、巨人も完全に配置転換して
 しまうのではなく、暫定的に豊田と林を入れ替えてみるのも
 ひとつの手だと思う。
 
 林の抑えとしての適正を見極め、豊田はプレッシャーの
 少ない場面で投げさせて自信を回復させる。
  
 
 原監督も一時的な『入れ替え』は決断しなくては
 いけない所まできているのかもしれない。
 
最強スラッガー 豪打の真実
2007年04月25日 (水) | 編集 |
 4番、それは限られたバットマンだけが立つ事が許される。
 チームの顔、球界の顔―。
 期待と重圧が渦まくその場所で、男達は幾多の伝説を
 作り上げてきた。
 そして今、ひとりの若き4番、球界に旋風を巻き起こそうと
 している。
 
 横浜ベイスターズ 村田修一。  
 26歳 現役球界最年少 4番バッターである。

 昨シーズン34HR 114打点で日本人トップをマーク。
 最強スラッガーの本能が 一気に覚醒した!
 ひとは彼をこう言う。  “男 村田” ―。

 その姿はまさに豪放磊落(ごうほうらいらく)!!

 だが、その豪快さの裏側には、衝撃的な真実が隠されていた。
 この男の全貌を今、解き明かそう―。


 開幕10戦目となる4月14日、対ヤクルト戦。
 村田はプロ5年目にして通算100HRを達成した。
 今やセ・リーグを代表するスラッガーとして
 その地位を不動のものにしている村田だが、
 その裏には、ある男との運命的な出会いがあった
 『あいつと対戦していなかったら、まだピッチャーを
  していたかもしれない―。』
  

 話は高校時代にさかのぼる。
 当時村田は、東福岡高校のエースピッチャーとして
 2度甲子園の舞台に立った。
 だが、ひとりの男の存在が、村田の人生を大きく変えた。  
 『上には上が居るんだな、と思った。
  ピッチャーでやるんだったら、松坂には勝てないな、と』

 そう、その男こそ・・・横浜高校 松坂大輔。
 春夏連覇を成し遂げた、同世代の怪物である。

 二人の対戦が実現したのは98年センバツ大会3回戦。
 そこで村田が見たものは、あまりにも衝撃的なものだった。
 目の前で繰り広げられる快刀乱麻。
 連続三振を含むノーヒットに封じ込まれる。
 一方、ピッチャーとしての村田は中盤、横浜高校打線に
 つかまり、3失点。
 怪物 松坂の前に13三振、完封。
 成すすべも無く破れ去った。

 この時村田は、ピッチャーとしての野球人生を捨て、
 バッターへの転身を決意する。
  

 その後、日本大学へと進学し、悔しさをバネに
 スラッガーとして開花する。
 日本学生選抜として世界選手権では日の丸を背負った。

 2003年、ベイスターズ入団。
 初年度から25HRを放つと、若き大砲として次第に成長を
 遂げていった。
 
 そして2006年、ある目標が芽生える。
 “4番 村田”―。
 打線の顔、4番バッターへの並々ならぬ欲。
 当時、横浜は主砲タイロン・ウッズが移籍し、新たな
 4番打者が必要とされていた。
 それまで7番を打つことが多かった村田だが、
 4番昇格への期待と注目が集まっていく。
 
 そんな中、5月19日対西武戦。
 村田は自らの野球人生を変えた あの怪物と
 再び合い塗れる。
 
 この時、松坂から放ったバッター村田の豪快なる一打!  
 それは高校時代、怪物を前に手も足も出せなかった男が
 その呪縛から解き放たれた瞬間でもあった。
  
 『ずっと目標としてきたひとりだったので、
  今になって打者に変わって良かったと思いました』
 4番の座獲得へ大きな自信とつながる一打になった。
 しかし、そのわずか1週間後、事件は起きた。

 5月25日、対ソフトバンク戦。
 この日村田はまさかのスタメン落ち。
 チームトップの14HRを記録していたにもかかわらず。
 だが、これには当時の指揮官の大きな狙いがあった。
 『ホームランが増えてくると、ホームランを打つような
  バッティングになる。ここぞ、という所で弱いと、
  周りの選手達、チームの期待、信頼感というのが
  なくなるので』―。(元監督 牛島和彦氏)
 当時、村田も
 『スタメン落ちした事で、外側から野球を見る事が出来て
  ためになった。』と話している。
 
 『スタメンを外れる悔しさを知って欲しい。
  外して冷静に見ろ!』と 監督も
 4番への期待が高いからこそ、中途半端な状態で座らせる
 わけにはいかなかったのだ。
 
 そして彼にとって運命の時が訪れる。

 6月1日、対ソフトバンク戦。
 遂に訪れた“4番 田村の初打席”―。
 それはランナーを塁に置いて巡ってきた。
 みごと、先制タイムリーツーベース!
 記念すべき4番初打席で、きっちりと仕事を果たす。
  
 
 『短期間でスタメン外れて4番になっていった・・・という
  色々な想いが凝縮されていったようだ。
  与える、という事は好きではない、
  自分で(4番を)勝ち取って欲しかった
』―。
 牛島氏は、その時の心境をこう振り返っていた。

  
 その後も結果を残し続けた村田。
 ホームラン、打点はリーグ日本人トップ。
 チャンスに強い打撃も見せた。
 2006年6月1日以降、現在に至るまで
 4番として全試合出場。
 一度も明け渡していない。
 ―引退するまで4番で打ちたい!4番の座を渡さない!―
 こうして誕生した『不動の4番』村田修一。  
 
 更に相手ピッチャーから厳しいマークにあうのが4番の宿命。
 そこにも ある ひとつの結論を見出していた。
 “ファーストスイング”―。
 最初の一振りで相手を打ち砕く!!
 まさに“一撃必殺”―。
  
 『一打席に(いい球は)1球あるかないか、その1球を
  いかに打つかという事を考えています』

 狙ったコースに来るまでは、決して手を出さない。
 そこに甘い球が来た瞬間、迷わずフルスイング!!
 決して簡単には攻めてこないからこその
 4番村田の思考回路。
  
 
 昨シーズンのファーストスイング成績を見てみると
 打率.352 長打率.725 HR18
 打率ではトータルを大きく上回る。
 長打率に至っては7割を超える成績を残すなど
 いかにファーストスイングで仕留めてきたかが見て取れる。

 4番としての使命を果たす為、1打席に1球あるかないか
 という一瞬に勝負を賭けていたのだ。
 “一振りで仕留める!!”
  

 では、いかにして たった一振りで結果を残せたのか。
 そこには豪快さとは相反した知られざる秘密があった。  

 試合前の村田の日課。
 対戦相手のピッチャーの観察をすること。
 この姿勢をチームのスコアラー川端一彰氏は
 『一人で残ってビデオ(映像)を見たり
  相手投手を何回も見てイメージする。
  そういう所は繊細ですよね、意外と

 打席に1球あるかないかの世界で、彼は緻密なデーター分析
 の元、一撃必殺の勝負に挑んでいた

 更に緻密な野球を追及する男のこだわりは こんな所にも。
 『マウスピースをすることで、リラックスして力が出せる。
  毎日毎打席同じ噛み合わせで同じ打席に入れる

 去年から使用し始めたマウスピース。
 プロ野球で使っている選手は決して多くは無い。
 『同じように同じ気持ちで打席に入れば
  同じような結果が着いてくる

 4番として安定した成績が求められるが故の工夫が
 そこにはあった。
  

 また、構えにも村田ならではの こだわりがある。
 打席での構えは、ピッチャーに対して平行に立つことで
 好成績を維持することができる。
 バッターボックスでライトポールへ自分の姿勢を合わせる事で
 どんな状況でも変わらぬ構えを作りあげていた。
  
 
 『同じように同じ気持ちで打席に入れれば
  同じような結果が着いてくるし、
  マウスピースも同じ噛み合わせで打席に入りたいし
  構えた時に姿勢を伸ばして真っ直ぐ立つのも
  必ずそこにライトポールがあって、それを目印に
  そういう同じ気持ちで打席に入りたい』―。
 全ては4番としての仕事を果たす為。
  
 
 豪快とは相反する緻密な分析と、常に安定したスイングを
 行うための意識。
  
 これぞ“一撃必殺”のファーストスイングに隠された真実。
 
 そして2007年、男は更なる進化を遂げていた。

 4月10日、対ヤクルト戦。
 1点を追いかける5回1アウトランナー1・2塁で
 村田に打順が回ってくる。
 一撃必殺のファーストスイングで空を切る。
 一端打席を外し、再び打席へ。
 そして あることを呟く。
 “抑えて・・・抑えて・・・”
 気持ちを抑えて打席に臨んだ。
 放物線は大きな甲を描き、チームを勝利へと導く。
 プロ通算100号ホームラン。
 空振りをした自分を冷静に判断し、一発狙いではなく
 コンパクトなスイングへと切り替えたからこその一撃!
 それは記録達成と同時に4番としての更なる進化の証だった。


 『考えることは考えて、しっかり準備して野球はやりたい!』
 
 “とりあえず、何でもいいから俺に繋げ!
  という時が来て欲しい。
  何とかしてやるから!!”―。

 豪快にして緻密。
 二つの要素を兼ね備えた“男 村田修一”―。
 4番伝説、幕を開けたばかりだ!!

    生涯 4番  村田修一!! 
 
 

   
 

 

 
 

 

 

 
メジャーに向いている岡島の投球
2007年04月24日 (火) | 編集 |
 ヒデキはヒデキでも、今メジャーで注目されているのは
 ヤンキースの松井秀喜ではない。
 レッドソックスのセットアッパーとして活躍する
 岡島秀樹投手のことだ。
  

 22日のヤンキース戦(日本時間23日)8回、先発松坂の
 後を継いで3連投となるマウンドへ。
 気負いからか得意のカーブが抜けて、打者3人に1安打1四球と
 不満足な内容だった。
 それでも、大事な場面で起用されるまで首脳陣の信頼を
 得た事が、大きな収穫だったはずだ。
  

 日本にいた時と何が変わったのか?
 その秘密の一端を見たのが、21日(同22日)の
 ヤンキース戦でジアンビを空振り三振に仕留めた場面だった。  
 カウント0-1からの2球目。
 真ん中低めにワンバウンドになったボールをジアンビが空振り。
 2-2から最後は外角低めのストレートで
 空振り三振を奪った。

 岡島といえば、切れのあるストレートと大きなカーブの
 コンビネーションで、将来を嘱望された左腕だった。
 だが、最大の難点が制球力。
 巨人時代には、リリーフでマウンドに登り、いきなり
 先頭打者を歩かせ、首脳陣の頭を抱えさせたものだ。
  

 ただ、そんな岡島がメジャー向きだったのが、
 『ボールを選ぶ』のではなく『まず、スイングをする』
 というバッター気質の違いだった。
  
 
 日本時代ならまず見送られた2球目のボール球。
 打ち気のジアンビが振りにいかなければ、次のボールで
 カウントは0-3。
 巨人時代のように四球~自滅と、お決まりのコースに
 なり兼ねない所だった。
  

 もちろん、相手に助けられるだけでなく、岡島自身の
 攻めるピッチングが相手のスイングを呼び込んでいるのも
 間違いない。
 打ち気満々のバッターには、日本ハム時代に覚えた
 チェンジアップが非常に有効なのも大きい。
  

 環境の変化が才能を開花させる。
 今年の岡島は、ひょっとしたら その典型型例になるかも
 しれない。
  

  ~4月24日 サンケイスポーツ 
    『球界インサイドリポート』より
        スポーツジャーナリスト 鷲田康氏~


 うちの息子は昨シーズン後、ピッチャーの練習に
 入っている。 主に守備はショートなのですが、
 昨年の大会では いつも対戦する監督や首脳陣らに
 『あのショートの守備の子はエースか?』と
 うちの監督へ聞いてきていたらしく
 『うちの隠し球(?!)だよ!!』と笑い交わしたそう。
 
 その息子は、岡島の投球に似ていて本人もマネしている
 わけではないのですが・・・似ています。
 岡島の人柄も好きで、この頃では
 PM9:30~のMLBニュースを見るのが日課となり
 岡島を応援しています。  
 
 あるきっかけでリンクを組ませて頂けた
 デビルレイズ・岩村明憲応援ブログ『何苦楚魂』をはじめ、
 MLBの奥深さに うちの息子も少しずつ興味を持ち
 楽しんでおります。

 岡島投手は松坂のお陰で(?!)マスコミにも過度に
 注目されることなく、自分のペースで
 (メジャーに合っていた)調整出来るというメリットが
 好成績につながっているのかな、と思います。
 息子も期待している たくさんの日本メジャー選手、
 これからもブログを通して応援していきます!
大輔、死球生かせ!
2007年04月24日 (火) | 編集 |
 ~今日の『カネやん、ワシの話を聞きなさい!』より~

 怪物のピッチングに対して物申す!!
 ヤンキース戦で2勝を挙げた松坂の分析から
 ヤクルト・古田敦也兼任監督の退場劇、
 首位に立ったジャイアンツに至るまで―。
 カネやん節が炸裂します!!


 ―最後までハラハラしましたが、松坂が2勝目を挙げました。
  それにしても、肝心のピッチングは余り良くなかったですね。
カネやん)松坂らしい“キレ”がなかったねぇ。
     さかんに屈伸運動をしとったが、相当下半身に
     疲れがきとるなぁ。
     体も重そうだし、まだ中4日のリズムに乗ってないな。

 ―それでも『1億ドルの男』としては、休むわけには
  いかないでしょう。
カネやん)これから遠征が多くなって時差ボケも出てくるし
     普段の生活からして大変になってくる。
     向こうの選手は夫人を連れて行っていいんだろ。
     一人でホテルに居ると必ず気が滅入るから、
     夫婦で一緒に過ごすことやな。

 ―それが一番ですね。精神面はいいとして、技術面は?
カネやん)松坂はステップする時足をドンと地面につくだろう。
     あれだと、向こうの粘土質のマウンドでは
     スパイクがグッとはまって、左足首がうまく
     回らないんだ。 それで、ジーターやロドリゲスへの
     内角球がスッポ抜けた形になって、
     ぶつかっちゃったわけよ。 アメリカでは
     すり足気味にステップした方がいいな。
  

 ―ただ、結果的には最初の死球がその後の攻めに生きました。
カネやん)そうよ。ロドリゲスほどのバッターでも、
     ぶつけられると怖いわけだ。
     あの後はスッカリ腰が引けとったからな。
     松坂の持ち味は“荒れ球”なんだから
     これからも、2,3個ぶつけるつもりで
     攻めることやな。
  

 ―“ぶつける”といえば、先週は古田兼任監督が危険球
   がらみで退場になりましたが。
カネやん)それだよ!!今回言いたかったのは!!
     2度目の頭に当たったヤツ、あんなもん危険球でも
     なんでもないぞ!カーブのすっぽ抜けに対して
     こともあろうにバッターが頭を出して来よった!
     あれを危険球だという審判は辞めた方がええ!

 ―死球を招いた側も悪いとして、古田監督が退場になった
  理由は暴言でしたが。
カネやん)何が暴言なんだ!「(審判に)敬語を使え」とか
     言ってきたんだろ。なんで監督が抗議するのに
     敬語を使わんといかんのよ?
     それに審判は言葉を返してきちゃいかん。
     ワシも監督の時に審判から
     「それは暴言になりますよ」と言われて
     「何が暴言だ、バカ野郎!」と言って退場になった。
     これは“売り言葉に買い言葉”ですよ。  

 ―8度退場になっている金田さん。さすがに審判には厳しい。
カネやん)もっと野球経験豊富な人を選んで、徹底的に鍛えて
     給料も上げてやればいいのよ。
     言葉尻をつかまえるような審判はいらん!
     権力を笠に着やがって。
     警察じゃないんだからな。
  

 ―先週もうひとつ大きな話題といえば、金田さんの愛する
  巨人が首位に立ちました。
カネやん)阪神にサヨナラ負けした後、2連勝したからな。
     あれはナンでか分かる?
     初戦で豊田が打たれた時、『今後も使うか』と
     聞かれた原監督が 『本人がメゲない限り』と
     答えたのが良かったよ。
     タツノリもここまで来たか、とワシは感動したね。  

 ―というと?
カネやん)わからんか?あれで選手はみんな「前向きに頑張ろう」
     と思うだろ。 
     どんなに打たれても、1日経てば次の試合がある。
     一夜明ければパッと切り替えて、全く新しい試合に
     入っていく。
     それが野球のいい所ですよ。
     タツノリのあの言葉で豊田は救われ
     チームも一丸になったしね。
  

 ―ただし豊田はあの後、登板していません。
カネやん)確かに調子は良くないな。しばらくは登板を控えて
     一度しっかり投げ込ませた方がいいかもしれんな。
     開幕から「(リリーフに)出そうで出ない」
     便秘状態が続いていて、ストレスが溜まっとった
     だろうし、精神的にスッキリさせた方がいい。

 ―ちなみに金田監督であったらサヨナラ負けした後の
  豊田に何と声を掛けましたか?
カネやん)それはあり得んよ。ワシなら負けるまで
     続投させとらんから・・・。
     タツノリには、それはできんのだろうが、
     それならそれでコーチにブルペンの管理を
     きっちりさせることだな。
  
     あんなに調子の悪い豊田の情報が
     監督に届いていないのは大問題。
  
     そこを解決すれば、今年の巨人は
     ものすごく強いチームになるよ。
     
    
    
DICE-Kの次はKOSU-K
2007年04月23日 (月) | 編集 |
 今オフ、メジャーきっての大物代理人が“オレ竜”の主力に
 照準を絞る。
 『日本人選手で誰に興味があるか?
  それは福留だな』―。

 マリナーズ―エンゼルス戦を観戦に訪れたボラス氏が
 爆弾発言をした。

 昨オフ、西武からポスティングシステム(入札制度)で
 レッドソックス入りした 松坂の代理人を務め、
 6年約70億円(出来高含む)の超大型契約を結んだボラス氏。
 粘り強い交渉術で、日本でも有名な代理人が念を押すように
 『彼(福留)はフリーエージェント(FA)なんだろう?』
 と確かめた。

 昨オフの松坂の交渉では、落札金の高さを理由に
 年俸を低く提示してきたレッドソックス側と対立。
 結局、押し切られる形になったことでポスティングには
 嫌悪感が残った。
 FA権を取得する福留なら、交渉がスムーズに運べるという
 計算がある。
  

 福留は作オフ、中日との契約更改交渉で年俸4億円超えの
 攻防から越年。
 2月の沖縄キャンプが自費キャンプとなるなど、
 球団との溝が生まれた。
 もし、ボラス氏が後ろ盾となれば、メジャーで松坂クラスの
 年俸を勝ち取る可能性は十分にある。
  

 福留だけではない。
 気になる投手として『黒田(広島)と左のクローザー』 を挙げた。
 『どちらもすぐに通用する逸材だろう。
  ただ、黒田の肘はどうなんだろう?』と
 続けたたが、“左のクローザー”とは
 中日・岩瀬を指しているようだ。
 岩瀬も、今季中にはFA権を取得する見込み。
 
 松坂を“1億ドルの男”にしたボラス氏が
 次のメジャーを狙っている!

 
 
 
チームを影で支えた背番号18番(大垣日大)
2007年04月22日 (日) | 編集 |
 浅野公佑君(3年生)、マネージャーさんです。
 普通、マネージャーは制服を着て「記録員」として
 ベンチ入りします。
 でも、大垣日大は違います。
 『自分でもユニホームを着られるなんて思っていなかったので
  ビックリでした!』

 3月19日。 出陣式で阪口監督から背番号18の
 ユニホームを渡されました。
  
 『最高のプレゼントを ありがとうございました!』
 と監督と握手。
 『頑張れよ!』
 と言ってくれた時の監督の笑顔は、浅野君の心に
 深く刻まれていています。

 宿舎ですぐにユニホームを着て、その姿を鏡に映しました。
 『ユニホームを着る嬉しさでいっぱいになりました。
  でも・・・日に日にその責任感を感じるんですよ』

 浅野君は投手として入学しましたが、
 度重なるケガで選手を断念。
 1年の2月にマネジャーに。
 
 主な仕事は練習の準備から、環境作り。
 グラウンドのトイレ掃除も。
  
 『監督さんがよく言われるんですよ。
  グラウンドのトイレは野球部の鏡、と。
  いつも念入りに掃除をします』
 スポンジでゴシゴシ便器を洗う。
 これが自分の仕事。
 そう思えば嫌な思いはひとつもありませんでした。
  


 グラウンドを見ると、必死にボールを追いかける選手たちの
 姿が目に入ります。
 チームメイトの頑張る姿を一番間近で見てきたのも
 浅野君でした。

 だからこそ、今この“背番号18”の重さを感じるのです。
 『この背番号を目指して頑張ってきたやつが沢山いる。
  それを僕がつけていいのか?
  大きな責任を感じます。
  決して皆に迷惑を掛けちゃいけないんです』―。

 
 甲子園では一塁のランナーコーチ。
 それも初めての経験。
 『自分なりに精一杯、大きな声で盛り上げたいと
  思っています』
 と一生懸命。
 その姿は誰よりも生き生きと輝いています。  
 
 グラウンドでプレーしている選手だけが
 ヒーローじゃない。
 みな、それぞれに
 活躍の場があるのが甲子園。 
  

 
 大垣日大、浅野君はチームを影で支える  
“背番号18”のヒーローなのです!
 
 
 
 夏、また甲子園に旋風を巻き起こして下さい!
 待っています!
 
必聴!背番号「90」右腕 深町亮介
2007年04月21日 (土) | 編集 |
 未完の大器のデビューが近づいてきた。
 『ボクはいつでも準備していますよ。声が掛かるのが
  いつなのか、楽しみです』
 初昇格したルーキー・深町が、ジャイアンツ球場で行われた
 投手陣の練習に参加。
 プロ初マウンドに向け、胸を躍らせた。

 持ち味はMAX154㌔の直球。
 ただし直球以外の球種はフォークのみで、現在スライダーと
 カーブを習得中だが、どちらも未完成。
 それでも首脳陣は“魔神”と呼ばれた元横浜の
 佐々木主浩氏のように、2つの球種でも
 十分通用するとみている。

 
 この深町、投げるたびに雄たけびを上げる。
 キャッチボールでも
 『ヨイショ』や『ヨッシャー』と、1球1球声が出る。
 マウンドに上がるとボルテージは上がり
 自分でもなんて叫んでいるか分からないほど。
 あまりのうるささに香田二軍投手コーチから
 『その声、どうにかならんか!!』と注意されたが、
 中学時代から続けている為、声無しではキャッチボールも
 出来ないという。
 
 『使いたいから(一軍に)上げている。
  球も速いし、フォークも落ちる』

 この日、付きっ切りで指導した尾花投手総合コーチも
 起用に前向きな姿勢を示した。
 まずは、中継ぎで登板となるが、本人はもちろん、
 首脳陣も期待するのはクローザー。
  
 近い将来、深町の叫びが、巨人の勝利の雄たけびとなる!?


 ~深町 亮介~
   1984(昭和59)年10月25日
   愛知県生まれ、22歳。
   中京大中京高から中京大に進学。
   愛知リーグ通算32試合に登板し4勝7敗、
   防御率3・54の成績を残した。
   07年大学生・社会人ドラフト7巡目で巨人入団。
   1㍍80、81㌔。
   右投げ右打ち。
   独身。
   年俸800万円。
   背番号 90.  
  
 
 
 
『格別1勝』
2007年04月20日 (金) | 編集 |
 『苦しい経験をしてきて良かったなぁ』と、今はそう思える。
 阪神での9年間が無かったら、この日は迎えられなかった
 かもしれない。 
 特に、2005年に味わった悔しさが、自分にとって
 前を向く原動力になっている。

 3試合目の勝利。
 メジャーリーガーとして第一歩を踏み出せた
 ヤンキース 井川慶投手。
 どこで勝っても嬉しいけど、ホームで勝てたのは
 また格別だ。

 
 完封しても完封しても、阪神ファンからヤジられる辛い
 時期だった。
 1失点、いやヒット1本でも文句を言われた。
 抑えたら・・・ではなく(打たれて)降板すると拍手された。
 『調子にのるな!』『ふざけんな!』『やめちまえ!』―。
 あらゆる罵声を浴びせられ、精神的にどん底に
 陥ったこともあった。

 それでも耐えられたのは、プロ入り後に膨らんだ
 “メジャーで投げたい!”という夢があったからだ。


 『応援されていないチームで、なぜ投げているのか』
 と自問自答しているうちに、
 『メジャーに行きたいなら集中して投げろ』と
 自分に言い聞かせて試合に臨むようになった。
  

 『井川はいい投手だったな、と後悔させてやろう』と
 心に誓うようになって、悩みが消え、吹っ切れた。
  

 当時に比べたら、ヤンキースタジアムでのデビュー戦
 (7失点した7日オリオールズ戦)で受けたブーイングは
 全く気にならなかった。
 英語はまだよく聞き取れないから、どんなヤジを飛ばされて
 いるのか分からない。
 この点だけは、英語が出来なくて良かったことかもしれない。

 チームのサポートも大きかった。
 自分は全く気が付いていなかったけど、オープン戦中盤、
 (3月20日)に「開幕からマイナー調整の可能性がある」
 と報じられた。
 “しんらつ”と言われるニューヨークのメディアにも
 酷評された。
 でも、ミーティングの際にトーリ監督がこう言ってくれた。
 『大事なことは必ず選手に直接伝える。
  メディアを通じて話すことはない』―。
 この言葉にどれだけ救われたかわからない。
  

 松井さんを始め、英語が苦手な自分にチームメートが話し
 かけてくれた気遣いも嬉しかった。
 キャンプ中には、投手陣のリーダー役であるぺティットに
 助言をしてもらい、心強かった。
 同じ左腕なので、決め球のカットボールの握り方を聞いたら
 丁寧に教えてくれた。
 今でもけん制や、配球などで学ぶことが多い。

 黒星スタート後は、ギドリー投手コーチの言葉が励みに
 なった。  この日と、前回登板の直前に
 『ブルペンの通りに投げればいいんだよ』と声を掛けられ
 平常心でマウンドに立てた。
 初勝利の記憶と一緒に忘れられない言葉になるだろう。

 
 阪神でいろんな経験を積んできたから、今夜の勝利があり
 今の“井川慶”がある。
 月並みだけど、この場を借りてお礼をさせて頂きたい。
 この白星を起点に、今後も精進を重ねていきます。  

  ~4月20日サンケイスポーツ1面 井川慶 独占手記より~
 
 

 
  
低迷次代のロッテを支えた右腕 ジョニー黒木
2007年04月19日 (木) | 編集 |
 ~年俸の10分の1~
 若手選手らの声が響くロッテ浦和球場。
 33歳の黒木が黙々と汗を流す。
 復活の日を信じて・・・。
 
 『年が明けて、今年のテーマを考えたとき、楽しく1年
  やり続けたいと思ったんです。
  そういう思いで肩の力を抜いたら、自然とよくなった。
  一番変わったのは、投げている時の顔です(笑)』

 かつては150㌔近いスピードを誇ったが
 01年から続く右肩などの故障で、相手を圧倒する
 剛球は見られない。
 黒木は今年、復活への手がかりとなる新球に賭けた。

 『これまでとはピッチングのスタイルを変更したつもりです。
  シンカーや今年から投げ始めたシュート。
  昔に戻ろうとしたって、昔の球を投げられないのは
  自分で分かっていますから』

 球界に長く生き残っていくには、技巧派への転身は
 避けては通れない。
 工藤(横浜)や吉井(オリックス)、あるいは今年40歳
 になる佐々岡(広島)にしても、
 全盛期より球速が落ちても、それを補って余るだけの術を
 身につけている。
 
 『理想とする投手は恐れ多いですけど、東尾さん(元西武)
  や西本聖さん(元巨人)、北別府さん(元広島)。
  もちろん晩年に近い時代のピッチングです。
  現役で言ったら(中日の)山本昌さんだとか。
  言い方は悪いけど、スピードが無くても「これだ」という
  自分の球があって、コースの「出し入れ」で勝負できて
  打者を見抜く眼力を持った・・・。
  そういうピッチャーになりたいですね』

 “楽しむ”をテーマに心身共に変貌した今季。
 だが勝つことを使命とされたプロが、
 野球を楽しむとはどういうことなのか―。
 実際、黒木もその矛盾に葛藤した時期があった。


 ~解雇通告覚悟~
 『豪州キャンプでは何度も“楽しく”とは何かと自問自答
  しました。 一言で言うなら野球をやり始めた時の
  純粋な気持ちかな。 それと開き直りという言葉の意味を
  自分の中で整理することが出来たのが大きかった。
  開き直るといっても、綱渡り的な楽しみ方ではないですよ。
  そういう楽しみ方、というのは今までいっぱいしてきて
  ますから(笑)』

 その一方で、瀬戸際という思いは本人は十分感じている。
 昨年までの3年間で登板数は15試合、勝ち星はたった3。
 解雇通告は覚悟していた。

 『そう思われても仕方ないですよ。自分でも苦しい思いで
  ここ何年かやってきましたから。
  ただ後ろが無い崖っぷちの状態で、耐えるのは辛い。
  だったら少しでも前に進めばいい。
  一歩でも進めるなら、それだけでいいんです。
  そういう考え方が、本当の意味で開き直りかもしれません』

 ~迷惑かけた・・・~
 もっとチームが黒木の復活を温かい目で待つのは、
 十分過ぎる実績があるからこそ。
 今でこそ優勝候補に挙げられるが、かつてのロッテは
 万年Bクラス。
 その弱小チームを支えていたのは、ジョニーだった。

 『「黒木が故障したのはムリして投げたからだ」と美化して
  くれるのは ありがたいですが、でも自己管理の気持ちが
  強くあれば、ピッチャーがいない、誰かが投げなきゃ
  いけない場面だって、調子が悪ければやめればいいんです。
  チームの為だって自分の中で美化してやってたけど
  結局は故障してチームには一番迷惑を掛けてしまった。
  強気一辺倒ではなく、心の弱さもどこかで素直に出せて
  いたら、ケガも無かったのではと思っています』

 05年には、チームは31年ぶり日本一になった。
 黒木はプレーオフ、日本・アジアシリーズとベンチに入ったが
 登板の機会は与えられなかった。
 『正直に言えば、羨ましいという気持ちもありましたよ。
  でも自分が元気な時に一緒に戦ってきた園川コーチや
  小宮山さんが泣きながら
  「お前もよう頑張ったな!」って言ってくれた時に
  素直に喜んでいいんだと涙が出ました』

 力の投球は捨てたが、現役へのこだありは持ち続けている。
 周りの誰もが、それを望んでいることは伝わっている。
 だからこそ、諦めるわけにはいかない。


 ~熱い思い胸に~
 『多分ファンの方には“黒木”っていう像があると思うんです。
  直向きに野球やって、気合が入って、ストイックでという
  ような。  でも今は、そのイメージを裏切るわけでは
  ないけど“黒木って本当に野球楽しんでるんだなぁ”と
  感じて欲しいな、と思っています。
  以前、カミさん(裕子さん)に言われたんですよ。
  “辛かったかもしれないけど、いいじゃん。
   これより辛いことも まだいっぱいあると思うよ”って。
  きっと、うちのカミさんが一番辛かったと思うんですけどね』

 清水、小林宏、小野、久保とリーグ屈指の先発陣が揃い
 黒木には出番がなかなかまわってこない。
 3月30日には、渡辺俊と入れ替わりで二軍に降格を
 告げられた。それでも・・・。
 『シーズンが終わった時に、自分で自分に
  “お前よくやったな”って言えるようになりたい、
  それだけですよ』

 熱い思いを胸に、ジョニーは黙々と投げ続ける―。



 未だ人気衰えない“ジョニー黒木”。
 黒木の背番号『54』入りのTシャツは、チームの
 オフィシャルショップの人気商品の1つになっている。
 開幕から早くも売り切れて、在庫薄の状態が続いているらしい。
 黒木の魅力は“直向きで気合十分、真っ直ぐ”という
 イメージが とても強い。
 ただ、本人が“楽しく”という背景には
 細々に生きの長い投手像を自ら作り出し、肩の重荷を
 取り去りたかったのだと思う。
 
 黒木選手、ファンはあなたの姿を いつまでも見守り
 続けていますよ。
 マウンドに立つ あなたの姿には、他の誰にも無い
 “オーラ”があります。
 ファンを引き付ける“オーラ”が―。
 
 
過熱メジャー報道も日本球界への財産
2007年04月18日 (水) | 編集 |
 レッドソックス・松坂を中心にしたメジャー報道の過熱を
 指摘する意見がある。
  
 『この種の報道がNHKの7時のニュースで毎朝取り上げられる
  のは、全体のバランスからみて問題がある』―。
 と、苦言を呈したのは尾身財務相だ。

 これは一理ある。
 財務相という立場からみれば、NHKの公共性を考えると、
 もっと報じるべきニュースはあるはず、という事だからだ。

 だが、こちらの意見はいかがなものか、と首をかしげたく
 なってしまった。
 
 14日の対ヤクルト戦を観戦した巨人・滝鼻オーナー
 『(NHKのメジャー中継は)ちょっと多すぎるのでは。
  もうちょっと日本のプロ野球もやって欲しい。
  日本のプロ野球を盛り上げて欲しい
』―。
 という発言だ。


 滝鼻オーナーといえば、昨シーズンも巨人の
 故障者続出の原因を―
 『東京ドームの人工芝が一つの要因。
  東京ドームには屋根を外せ、天然芝にしろ、といいたい』
 と発言。
  

 自分の足元を見る前に、他人を非難する言動には
 驚かされたばかりだった。

 そのオーナーが『やり過ぎ』というNHKのメジャー報道。  
 だが、むしろ球界にかかわるものとしては、
 歓迎すべきことのはずなのだ。
  

 『選手がメジャーに行くことが日本球界の衰退につながる
  という考えは おかしい』―。
 と言うのは、ヤンキースの松井秀喜選手だった。
 『だって、メジャーでプレーする選手を見て
  子供達が野球をやりたいとか魅力を感じてくれる。
  それが日本球界にとっても大きな財産でしょう』―。
  
  
 そうして野球を目指した子供達は、少年野球から高校野球、
 プロ野球へと道を進むことになる。
  

 
 野球の底辺拡大には、メジャーでも日本のプロ野球でも、
 野球そのものの魅力をテレビやマスコミを
 通じて感じてもらう。
 だからNHKのメジャー報道に、野球にかかわる人間ならば
 感謝こそすれ、文句を言う筋合いではないはずだ。
  

 裏金問題にまみれた球界へのイメージが
 どんどん汚れていく。
 そんな中でトップに立つ人々が自分のことばかりを考えた
 発言や行動を繰り返していたら・・・。

 野球人気は益々下降線をたどるばかりになってしまう。
  


4月18日 サンケイスポーツ『球界インサイドリポート』より
                  スポーツジャーナリスト
                         鷲田康氏
 
 
 身勝手極まりない話です。
 利益だけのことにしか頭に無い、自己中心的な傲慢さ。
 どこの社会にでも はびこる 大人の小我の心。
 もっと大きく広い視野で 野球界を背負っていって欲しい。
 こんな考えの上でのトップでは、発展もしないだろう。
 
 
 
次世代の野球人へ
2007年04月17日 (火) | 編集 |
 今日のカネやん“ワシの話を聞きなさい”から―。
 『初黒星松坂に“「メジャー流」投球術を”―。』他。

 ―海外の話題はやはり松坂。2戦目で黒星がつきましたが?
カネやん)相手ピッチャー(マリナーズ・ヘルナンデス)が
     よかったねぇ。 まさにメジャー流。
     高低の差をつけてバンバン投げ込んだでしょう。
     松坂もあれを見習わなくちゃ。
     向こうのバッターはリーチが長いし、踏み込んで
     来るから、横の変化にはついてくるんだよ。
     内角の厳しい所がストライクにならないから、
     外角に的を絞ってくる。
     だから、簡単にカウントを取りにいったらダメ。
  

 ―初球から気が抜けないということですね。
カネやん)そう。向こうのピッチャーが6,7回で交代するのが
     よくわかったな。
     初球から手を緩められないだろう。
     ずっと、ねじ伏せるような球を投げていかないと
     1,2点には抑えられないんだよ。
     松坂も調子が上がるのはこれからだし
     威力のある球を投げることを重視することだね。
     高めのボール球で空振りが取れるようになったら
     もっと良くなる。
  

 ―松坂に抑えられたイチローはどうですか?
カネやん)イチローは毎日動いていないと調子が落ちてしまう。
     体のキレで勝負するタイプなんだから。
     その前の数試合、雪が降って中止になったのが
     影響していたな。
     でも、これからは心配要らないだろう。

 ―ますます注目されているメジャーや、早稲田 斉藤佑樹や
  楽天 田中将大など―。次代のスター選手も現れています。
  プロ野球選手を目指す子供も増えているようですが。
カネやん)大事なことは肩が強いか、または足が速いか。
     どちらかが優れているようだったらプロを
     目指しなさい! 夢を抱くのは簡単だが、
     素質がないとプロにはなれないよ。
  
     ただし、小4年生頃まではサッカーやラグビー、
     他のスポーツをやって走り回ることだね。

 ―金田さんから“サッカー”という言葉が出てくるとは意外。
カネやん)何が意外なの?ワシも子供の頃はよくやっとったよ。
     力一杯走り回ってボールを蹴るなんて
     これほど爽快なことはない。
     まぁ、ワシの場合父親の仕事を手伝って堤防工事の
     トロッコを押すことの方が多かったがな。
     稲尾は漁師の船をこいだらしいが、ワシはトロッコで
     足腰を鍛えたんだ。 本格的に野球を始めたのは
     高校に行ってからだよ。

 ―子供の頃は基礎体力を付けることが大事、という事ですね。
カネやん)基礎体力があって本当に肩が強ければ、
     中学からでもすぐ投手になれる。 
     本当に足が速ければ、すぐいい野手になれるんだよ。
  
     20歳になってから基礎体力をつけようとしても
     もう遅いんだ。

 ―他にもアドバイスありますか?
カネやん)目も大事だな。サッカーをやりながら
     瞬時の判断で体を動かす。 
     目を見開いて動きまくることで
     バランス感覚が備わり、ケガも少なくなるんだ。
     そうなる為にも、子供の頃は特に目を大事に
     することだな。
 くだらんテレビやビデオ見たり
     ゲームなどしていないで、6,7時には寝なくちゃ
     いかん!!
 ―6時とは厳しいですね。
カネやん)“それくらい”という意味だよ。
     その上で、人の何倍も食べて、人の何倍も動く。
     プロになる夢があるんだったら
     それくらいやらなくちゃあ。 
   
     

 
苦闘を大切にする
2007年04月16日 (月) | 編集 |
 “楽天一場 18安打14失点!”―。  

 マウンドで立ち尽くす背番号『11』を見つめ、
 野村監督が“鬼”の続投指令を出した。
 
 “恥をかかせ!!”―。  

 一塁ベンチにドスの利いた声が響いた。
 札幌ドームはお祭り騒ぎ!
 二回途中から登板した一場投手は、大乱調で六回まで
 毎回得点を許し、5回8安打、14失点(自責点13)の
 猛攻を浴びた。
 それでもタオルは投げなかった。

 『言葉もありません。一場はゲームを壊した。
  恥ずかしいという気持ちがあるのかどうか。
  それがないとな・・・』
 ダッグアウトに引き揚げると、ため息交じりに説明した。

 開幕二軍スタートだった一場は、復調気配が無く
 この日、再降格が決まった。
 昨季はチームの勝ち頭(7勝)だったが、まるで別人。
 自慢のストレートも140㌔台前半しか走らず
 野球人生で経験したことのない屈辱のマウンドに
 無言でバスに乗り込むしかなかった。

 最下位転落がかかった試合。
 それでも野村監督は期待の右腕に、赤っ恥を味わわせる
 “荒治療”にこだわった。  


 『楽天の命運は一場が握ってる。
  あれが一本立ちしないと、楽天は浮上しない』
 これが指揮官の口癖だ。

 首脳陣は今後、時間をかけて一場を再調整させる方針。
 最悪、6月上旬までファーム暮らしが続く可能性もある。



 人生は苦闘の連続だが、もし苦闘しなければ私達は
 本来の強さを発揮することが出来なくなる。
 苦しい思いをするのは誰でもイヤだが、
 苦闘は成長の機会でもある。  
 自分の人生を切り開く人は、
 逆境が人格を鍛えることを理解し苦闘を歓迎する。

 ほんの少しの努力で成し遂げられることばかりしてきたなら
 今以上に成長することはないだろう。
 苦闘は強さを獲得する上で必要なのだ。  

 成否の分かれ目は、ピンチの瞬間にくる。
 困難に直面したときには、前進し続けなければならない。
 そうすることによって初めて
 挫折を乗り越えて飛躍する能力が発揮できるのだ。
  

 この試練から這い上がってこれるかどうかは一場次第。
 この日の屈辱は復活へのエネルギーとなるのかいなか―。
 
 
大リーグに挑む“切り札”を託されたルーキー
2007年04月15日 (日) | 編集 |
 今年から大リーグに挑戦している28歳ルーキー
 岩村明憲。

 ヤクルト時代、3年連続30本以上のホームランを打った
 強打者。
 チーム躍進の切り札として期待を集めていた。  
 しかし、大きな試練が待っていた。

 日本より広いストライクゾーン。
 アウトコースの球に苦しんだ。
 のしかかる期待と、立ちはだかる壁―。


 岩村明憲選手 開幕までの3ヶ月を、昨晩BS1で放送された
 『ドキュメント スポーツ大陸』から
 紹介したいと思います。


 1月4日、母校(愛媛県立宇和島東高校)での最初の練習。
 例年より早い始動。
 メジャーでアピール出来る体を作りたいと考えたのです。
 
 “勝負の年”―。
 初練習の場所に母校を選んだのには理由がありました。
 ここでの練習が、野球人生の原点になっているから。
 『決して自分自身“野球エリート”ではなかった。
  甲子園で騒がせてプロに入ったわけでもない。
  頂点を極めたい!という気持ちは本当に強いし
  昔から負けず嫌いでしたしね。
  野球をやっている上で“負けず嫌い”というのは
  必要なこと


 無名で入団したプロ野球の世界。
 “誰にも負けたくない!!”―。
 練習の2時間前にはグラウンドに姿を見せバットを振り続けた。
 そして入団4年目、レギュラー獲得!
 翌年にはヤクルト歴代の好打者が付けた背番号「1」を背負い
 チームの顔となる。

 才能が開花したのは04年、ホームランを量産し日本を
 代表とする強打者に成長した。
 持ち味は、おもいきりの良いスイング!
 三振を恐れずピッチャーに立ち向かっていった。
 『子供の頃から、中途半端なバッティングをして凡打に
  するなら、おもいきって空振りしてピッチャーが
  ビビるくらいの打者でベンチに帰っていた
。オヤジの言葉で。
  当てに行くバッティングは多分、ファンも喜ばないし、
  振って振って三振でもいいから
  “こいつ、振って当たったら何かが起こる!”というものを
  ファンに見せたかったのが自分の野球スタイルですね
』―。

 ワールドクラッシックや日米野球。
 世界の舞台で活躍することが多くなった岩村は
 大リーグ挑戦を意識し始める。

 『最高峰の舞台という、高いレベルというものがあれば
  アスリートなら誰でも思うこと。
  メジャーリーグに行って活躍したいという想いが強くなった』

 アメリカに発つ前、岩村はある人に報告した。
 2年前に亡くなった母、美千代さん。
 美千代さんは岩村にとって世界の舞台に挑む先輩でもあった。
 美容師だった美千代さんは、技術を競う大会で何度も優勝し
 世界大会に出場していた。
 幼い頃から憧れていた母の姿―。
 今、同じ舞台に挑もうとしている。
 『母親は多分言うと思います。“入るのが目的じゃなくて
  再確認する為。これからが大変よ”ってね。
  その気持ちを胸にアメリカに行きます』

 高校時代に味わった悔しさ、世界を教えてくれた母の姿。
 自分の原点を胸に刻み込んだ岩村だった。


 岩村が入団するデビルレイズの本拠地トロピカーナフィールド。
 3万8千人入るこの球場が、岩村の戦いの場になる。
 2月9日入団発表。この日は28歳の誕生日。
 一生の記念にしたいということで、この日に決まった。
 会見には日米合わせて50人の報道陣が集まった。
 岩村の背番号は「1」。
 チームを引っ張ってきたヤクルト時代と同じ背番号。
 “岩村がデビルレイズに旋風を巻き起こす!”
 地元紙は岩村への期待を大きく報じた。
 デビルレイズは岩村獲得に14億円を賭けていた。
 
 過去9年で8回最下位。長い低迷が続いている。
 深刻なのは打線。去年チーム打率が大リーグ最低。
 打線を引っ張る存在が必要だった。  

 デビルレイズ ハンシッカー球団副社長は
 『岩村はオールラウンドプレーヤーです。
  打撃については、日本で何年にも亘って素晴らしい
  成績を残しています。長打力もあるし、打率も残せる
  バッターです。守備も堅実で足も速い。
  我々は非常に優秀な選手を獲得できたと喜んでいます。
  彼はきっとチームに貢献してくれるはずですよ!』

 キャンプが行われている施設でも岩村が実感することがあった。
 ロッカールーム。
 岩村には2人分のスペースが用意してあった。
 レギュラー選手だけに与えられる特権。
 
 キャンプまであと1週間。
 岩村は自主トレを始めていた。
 この時のバッティングフォームは日本にいた頃と大きく
 変化していた。 
 右足をホームベースに近づけるいわゆるクローズドスタンス  
 に変えていた。
 日本では右足をホームベースから離すオープンスタンスだった。
 大きく異なるスタンス。
 ここには大きな狙いがあった。
 それは、ストライクゾーン。  
 特にアウトコースへの対応だった。
 大リーグのストライクゾーンは日本よりアウトコースに広い
 傾向がある。
 日本ではボールの球が、大リーグではストライクと判定される
 可能性があるのである。

 岩村は、アウトコースをしっかり見極めようと
 スタンスを変更したのだ。
 
 『どうしてもバッターは体で反応してもバットが出ない時が
  ある。だから反応出来る様に練習できっちりと見極めたい』
 
 だが、アウトコースに対応したいと始めたクローズドスタンス。
 それが、岩村のバッティングそのものを混乱させていた。
 アウトコースの球は見えやすいものの、肝心のスイングが
 窮屈になっていたのだ。

 
 キャンプ後半、岩村のスタンスに変化が起きていた。
 取り組んでいたクローズドスタンスを止めていたのだ。
 右足と左足を平行に置く“スクエアスタンス”―。
 右足をホームベースから離す“オープンスタンス”―。
 岩村は、どういうスタンスがいいか改めて試していたのだ。
 『クローズにすると、背中から来る感じ。自分には慣れない
  という感じは受けた。バッターボックスの中で
  窮屈さを感じたら、打てないしスッキリしない感じ』

 自分のバッティングに悩み続けていた岩村。
 その後も快音は聞かれなかった。

 
 3月、オープン戦が始まり、岩村はどのスタンスで始めたら
 良いか悩んでいた。
 オープンスタンスで構えると、アウトコースのストライクを
 見逃し、スクエアスタンスで構えるとボール球に手を出す始末。
 どちらのスタンスで構えてもアウトコースの球に
 対応することが出来なかったのだ。

 オープン戦7試合目、岩村の試行錯誤は続いていた。
 スタンスだけはオープンスタンスに固まりつつあった。
 打ち慣れていることを優先したいからだ。
 ただアウトコースの球だけは、相変わらず見極められずにいた。
 しかしこの試合、ヒントを掴むのだ。  
 岩村はボールをよく見ていこうと望んでいたのだ。
 これまでなら手を出したコース、何度か見逃す事ができたのだ。
 そして岩村に自信を与える1球が来る。
 ストライクを取られてもおかしくないコース。
 ぎりぎりボールと判断できたのだ。
 判定もボール。
 アウトコースのストライクゾーンを克服出来たと
 感じることが出来た瞬間だったのだ。
  

 これまで岩村は、アメリカのストライクゾーンは
 自分の感覚でボール2個分外に広いと思い込んでいたのだ。
 しかし、広いのはボール1個分だけ。
 これなら元のオープンスタンスでも対応できると
 確信したのだ。

 『最初は色々な打ち方を試したけど、アウトコースの球を
  考えすぎだと思った時から今まで通り打てばいいんだ、と
  思った』

 アウトコースのストライクゾーンを見極めた岩村。
 しかし、全てが解決したわけではなかった。
 ヒットが出なかったのだ。
 アウトコースに体勢を崩される場面が目立ったのだ。
 9試合に出場して20打数1安打―。
 この試合、初めて報道陣の前に姿を見せなかったのだ。

 ボールが見えてるのに、なぜ打てないのか。
 この頃から岩村は空いている時間を見つけては
 バッティング練習を行っていた。
 試合開始直前まで打つ日もあった。
 
 岩村の不調の原因に気づいていた人がいた。
 ヘンダーソン打撃コーチだ。
 『もう少しリラックスして打って欲しい。
  岩村は結果を欲しがり、走りながら打っているように見える』
 
 これまでヘンダーソンコーチは岩村が自分で気付くのを
 待っていた。 
 しかし、開幕まであと2週間あまりとなり、
 この日直接アドバイスをおくることにした。
 コーチは打つ際、体が1塁側に流れてると伝えた。
 おもいきったスイングが出来ないというのだ。
  

“試合ではボールをよく見ろ、速い球を打つ為にしっかり振れ!”
 
 日本ではどんな時もバットをおもいきり振ってきた岩村。
 アメリカに来てヒットを欲しがるあまり、当てにいく
 中途半端なバッティングになっていたのだ。
  

 更に、コーチの一言が岩村の気持ちを楽にしたのだ。
 『“体が動くようになれば(頭では分かっている)お前は
  打てる!日本では打ってるだろう”―。そう言われ気持ちが
  楽になった。 その間に打てなかった時期に得た
  アウトコースに対して考え過ぎてた部分が
  一気に無くなった』
  
   
 アドバイスを受けた3日後のパイレーツ戦
 “強く振り切る”そのことだけを考えて望んだ。  
 13打席目ぶりのヒット。
 苦しんできたアウトコースの球を強く振り抜いたのだ。
 
 オープン戦が終わり岩村は22試合 通算2割2分。
 

 4月2日 ニューヨーク ヤンキーススタジアム。
 憧れ続けていた大リーグ初舞台、名門ヤンキースとの戦い。

 『今まで通り強気な姿勢は見せていかないと、自分自身が
  必ず潰されてしまうと思いました』
 思い切りのいい責めの姿をどこまで出せるか?!

 岩村は6番サードで先発出場。
 第一打席は2回表に回ってきた。
 この時、岩村は ひとつの事だけを心掛けていた。
 『開幕戦の1打席のファーストストライクは、空振りでも
  ファールでもいいから、とにかくバットを振ることが
  一番落ち着かせる 手っ取り早い方法だと!』
 
 1球目、アウトコースの球を見送り。
 2球目、ファール。ファーストストライクに対して
 力強いスイングができた。
 6球目、ショートゴロ。アウトコースの球を打たされた。

 第二打席。相手は第一打席で打ち取ったアウトコースを投げた。
 しかし、岩村はアウトコースは手を出さない。
 しっかり見極めフォアボールを選んだ。 
 六回表の第三打席。相手投手は150㌔を超えるストレートが
 武器の左腕 ヘン。
 2-3フルカウントからの1球、アウトコースだった―。
 初ヒット!!
 アウトコースに苦しんできた岩村、結果を出したのだ!  
 第二戦、八回同点で迎えた第4打席。
 アウトコースを打ち返してツーベースヒット!
 この後、決勝のホームを岩村が踏んだ。
 開幕カード、岩村は7打数3安打。
 確かな手応えを掴んだのだ。

 『迷って壁にぶち当たったからこその結果。
  2試合だけの結果で喜びたい気持ちもありますが
  まだ160試合あるわけで、これから大切に行くために
  いい滑り出しが出来たと思います』

 続く本拠地開幕戦、38000人の大観衆の前で
 岩村は大きな仕事をやってのける。
 第一打席、センター前ヒット。
 第二打席、大リーグ初ホームラン。
 第三打席、センター前へ。
 第四打席、セーフティーバント。
 4打数4安打の大活躍!!
 そして同点で迎えた9回裏、サヨナラのホームを踏んだ。

 期待していた切り札としての役割を果たす事が出来たのだ!

 『この試合は、自分自身これ以上無い責めの野球が出来た
  “証”だと思うし、岩村明憲というものを
  バッターボックスで表現出来たと思う。
  1打席でも忘れることなく打席の中で
  “責めの岩村”というものを皆さんに見てもらいたい』
  

 低迷脱出の切り札として
 期待を背負うルーキーはバットで答えを出し続ける
 覚悟でいるのだ―。
  
 
  
 
 
  
 
 
 
   
 
  
  
 
 


 
指揮官としての威厳
2007年04月14日 (土) | 編集 |
 “ボビーマジック”と称され、采配や選手起用に定評がある
 ロッテのバレンタイン監督。
 彼の元でプレーした選手から話を聞くと
 ベンチでは感情の起伏が激しく、行き当たりばったりの
 起用が多いとのことで、巷で言われている評価より
 差し引いてみているのだが、
 一度だけ、この指揮官に心底感心したことがある。

 3年前の04年のシーズンのことだ。
 開幕から守護神の小林雅が絶不調。
 4,5月だけで5敗を喫し、防御率は一時8.59まで
 上がった。
 それでも使い続け、8月には防御率は3点台まで回復。
 その年の成績は8勝5敗20S。
 もし抑えから降格させていたら、翌年、日本一が
 達成できたかどうか―。
  

 バレンタイン監督が指導者としての地位を確立したメジャーでは
 キャンプインまでにほぼレギュラーが決まっている。
 高年俸選手同士でポジションを競わせたりはしないし
 いざという時の保険に選手を取っておくぐらいなら
 リリースして年俸を浮かせる。

 替えたくても、代わりがいないのだから、選手が少々
 不振に陥っても使わざるを得ない。
 彼は監督として当たり前の仕事をやり通した
 だけかもしれない。
  
 
 毎年のことだが、今季も各監督の採った陣容に、
 様々な疑問や批判が浴びせられている。

 岡田監督はなぜ赤星ではなく、鳥谷を1番に起用したのか。
 落合監督の中村紀起用は火種にならないか。
 巨人の1番と抑えは高橋由伸と豊田でいいのか。
 横浜の石井琢郎は2番で腐っていないか・・・。


 選択が正しいかどうかは分からない。
 ただ、大将が一度“この形でいく”と決めた以上、
 ちょっと結果が出ないくらいで、動かさないで欲しい。

 少なくとも、下で働く選手たちはそう思って
 いるのではないか―。

           サンケイスポーツ記者 楠山正人氏
              『甘口辛口』より  
  

 指揮官の威厳が、チームを作り上げているのだと思う。
 長いシーズンに挑むチーム指揮官は、選手たちに
 “向上する機会”を与える義務がある。
 成功をおさめる為の代償は、経験と失敗。  
 その為の場を、指揮官は辛抱し使い続けることで
 選手達も いかなる障害に遭遇しようとも
 自分たちは、それを乗り越えることが出来るという
 “信念”を持ち、責務に全うできるのだ。

 
  

 
 
超一流バッターたちのリアル魔球対策とは!?
2007年04月13日 (金) | 編集 |
 どんなに凄い魔球でも、破られるのがお約束。
 超一流のバッターたちは己のプライドを掛け、常に対応策を
 練っている。
 
 昔の魔球(カーブやストレート)など、大きな変化だったら
 同じポイントでも球種が分かれば打てたが
 (手前から大きく変化する)、
 今の魔球(ツーシームなど)は“ずっ”と手元に来て
 真っ直ぐのように見えて、落ちたりスライドしたり
 シュートするわけだから(手元で小さく変化)、
 それにバッターは対応しなくてはならない。
  

 ということは、ある共通した技術を身につけてバッターは
 対応していかなくてはならない。
  

 高度に発達したスーパー変化球を打つため、バッターたちが
 取り組む ある共通した技術とは?


 毎年高打率を記録する代表的アベレージヒッター、
 ヤンキース D・ジータに、魔球破りの秘訣を尋ねてみると
 『ピッチャーが投げた後、ボールが来るまで時間がある。
  そこで、なるべくボールを待って引っ張らずに
  流し打とうとしているんだ。
  色々な変化球にも対応出来るからね
』―。

 “変化を見極める為、なるべく待って対応、引っ張らない”
 
 確かに魔球ひしめくメジャーで1年目で活躍した
 ホワイトソックス・井口なども
 センターから右方向中心の いわゆる
 おっつけるバッティングを得意としている。
 おぼろげながら見えてきたリアル魔球攻略法―。

 しかし、想像を絶する 驚くべき証言から、更にレベルの高い
 魔球キラーの存在を知ることになる。

 究極の魔球キラーとは・・・。
 ジャイアンツ・Bボンズ。
 シーズン最多ホームラン記録を持つ世界最高峰のスラッガーは
 5年前の来日でも、その実力を披露した。

 その試合でマスクをかぶった阿部慎之介捕手は、
 その衝撃を語った。

 『一番驚いたのは、スイングスピード!
  分かりやすく言うと、
  “見逃すんじゃないか、もう(ミットに)取れそうだ”と
  いう時に、バットが“ポッ”と出てくる!
  そういう感覚がありましたね。
  体の正対しているこの中(キャッチャーより)まで持ってきて
  そこから“ガン”とバットが回るという―。
  “アッ”と思った瞬間に“ボーン”といきましたね


 ギリギリまで引き付けて、小さな変化にも対応している。
 これは“究極”!!
 魔球を巡る壮絶なる攻防―。
 そして遂に究極の魔球キラー B・ボンズを直撃!

 栗山)年々ポイントが近くなってないですか?
    打つポイントがこっちに(キャッチャーより)
    来ているような気がするんですが―。
 B・ボンズ)その通り!
    速いボールがきても、素早くスイングする自信が
    あるから、十分に待てる。
    ベース側に体を残してギリギリまで引き付けて打つ。
  
 栗山)日本のプロ野球選手も、引き付けて打ちたいんですが―。
 B・ボンズ)問題なのが―。
    多くの日本人バッターが高い位置からスイングを
    始めてること。
    でも、ボクは違う。
    遅れたり そういう状態から踏み込んで打とうとすれば
    体が開いて目線がぶれてしまうだろう。


 B・ボンズは理に適っていた。
 ボールに対して強く打つのではなく、
 ボールを手元で受けることも出来る。
 ボンズは、ある程度パワーと瞬発力があるので
 ベース側でボールを捕まえても、ホームランになる。

 
 ボンズのようなパワーが無くても、魔球を打つ事が出来る
 バッターの条件とは―。

 速く振り始めても球道(軌道)のイメージがしっかり持てる
 バッターは、打てる可能性がある。
 だからスイングスピードが遅くても、その能力が高い選手は
 魔球を打てる可能性がある。
  
     
             ―ナンだ!4月12日放送より―  


 でも、その魔球を打つために、普通の人も打てなくて
 物凄く努力したり、考えなきゃいけなかったりとか
 そこのせめぎ合いが、
 “魔球”が“野球”を面白くしていると思うし
 レベルを上げてくれているんだと思います。

 魔球に対抗していく バッターたちの切磋琢磨が、
 プロ野球を面白くしていき、
 野球の魅力を益々引き出し、見ているファンも盛り上がる。
 魔球VS打者の一挙一動が、観客を魅了するのだ。
 
 
 
   
    

 
 
18歳なら許される!!
2007年04月12日 (木) | 編集 |
 “若者の特権を もっと生かせ―。”  

 野村監督が、荒々しさに欠ける田中将大投手(18)に
 強気の“ケンカ投法”を指令した。  

 『内角に危ない球がきても、18歳なら
  “すみません”で済むやろ?それがベテランなら
  許されないけどな』

 もちろん、故意に狙えと言っている訳ではなく
 気持ちの問題だ。
 
 あくまで野村監督が田中に求めるのは、
 18歳らしい恐いもの知らずの投球。
 “打ってみやがれ!!”と全力投球して
 少し手元が狂うくらいの方が、
 高卒ルーキーらしいというわけだ。
  

 野村監督自身、現役時代に池永(西鉄)、尾崎(東映)ら
 ルーキーの荒れ球に手を焼いた経験がある。
 “こいつの球はスッポ抜けるのでは・・・”と意識し
 体が開いてしまう。
 かといって、当てられたとしても、プロの先輩としての
 意地もあるから、1球くらいで文句を言う訳にもいかない。
 結局は
 “まぁ、18歳じゃオレにビビッてぶつけてしまったのも
  仕方がないか”
 と、自分を納得させてしまったという。

 しかし田中には、かつて自分が対戦した若武者たちの
 面影はない。
 丁寧すぎるほどコーナーを付こうとするが
 その意識が強すぎてカウントを悪くし、四球を出す
 ケースが目立つ。
  

 『だったらもっと乱暴で無謀でいい』
 というのが、野村監督の要望だ。
  

 『(もっと強気に)投げろと言われれば投げます!』
 田中も監督指令を了解した。

 キャンプの紅白戦から田中は一度も死球を与えていないが、
 三度目の先発となる今日の西武戦(フルスタ宮城)では?

 マー君が初体験をするかもしれない!??
 

 
 
若き主将の葛藤 阿部慎之介(27)
2007年04月11日 (水) | 編集 |
 原監督が新キャプテンに指名した 阿部慎之介。
 彼は私生活でも大きな転機を迎えた。
 昨年12月 結婚。
 守るべき家庭が出来た。

 しかし、阿部は来るべきシーズンを見据える。
 年明け早々にはグアムで自主トレをスタート。
 チームメイトのいない孤独なトレーニング。
 徹底的に自らを鍛えぬいた。

 キャプテンとして迎える初めてのシーズンに向けて
 阿部の助走は既に始まっていた。

 所がキャンプ前日、阿部はキャプテンについて
 インタビューで こんなことを語っていた。

 『今はまだ始まっていないので、どうしていいのかも
  分からないし、正直、不安な所が多い。
  年上が多いので、どこまで出来るかな・・・?!』
 と、27歳の自分に化せられたキャプテンという重責―。 
 キャプテンとして、何が出来るのか―。
 翌日、不安のまま迎えたキャンプイン。
 真新しいユニホームの袖にはキャプテンマーク。
 
 先輩達を、どう引っ張っていくか―。
 その答えは阿部が見続けていた一人の男の背中にあった。
  

 阿部が求めた、理想のキャプテン像―。
 それは、惜しまれながらチームを去った
 前キャプテン 小久保裕紀(35)。

 『プレーしている姿で引っ張っていくという感じが僕には
  見受けられたので、そういうのには“スランプ”は
  ないんだな、と感じながら小久保さんを見ていました』

 だから阿部は去年までの小久保のように
 プレーでチームを引っ張ろうとした。
 プレーで見せることに、先輩も後輩も無い。
 いつもの明るさで誰よりも声を出した。

 自分を追い込む練習にも、一切の妥協は無かった。
 プレーしている姿こそが、先輩達を引っ張る無言の手段だった。  

 しかし、阿部は小久保の影を追うだけではなかった。
 阿部が心掛けていたこと―。
 それが、チームメイトとのコミュニケーション。 
 若手投手に対しては、とりわけ厳しく接した。
 後輩達と直接対話することで、互いの理解を深めようとした。
 
 4年間も優勝から遠ざかっている巨人。
 若手の活躍無くしてチームの浮上は無い。

 即戦力ルーキー 金刃憲人(22)も、
 阿部が期待を寄せる 一人。

 2月7日、この日金刃とのキャンプ2度目のバッテリーを
 組んだ阿部が、ある行動に出た。
 なんと、金刃のボールを受けて わずか2度目にして
 投げる時のクセを見抜き指摘したのだ。

 『2回取っただけで指摘されて・・・。
  観察力が凄いな、と思いました。
  一言一言にすごい重みがあって、自分も納得する部分もあって
  とても信頼できる選手です!』と、金刃投手。
 木佐貫洋投手は
 『阿部さんのミットを しっかり目掛けて
  サインを理解して投げるだけ』
 吉武真太郎投手も
 『ピッチャーのいい所を引き出してくれる選手だと思います』

 原監督は、阿部をこう評価している。
 『基本的には明るいですね。
  対話したり 明るさっていう部分においては、チームに
  いい刺激。  目標である“奪回”―。 これを
  近づけていこうというものは見えますね


 阿部がグラウンドで見せたキャプテンとしての姿は
 ただ小久保選手の理想像を辿るだけではなかった。
 対話すること、コミュニケーションを密にすることで
 阿部は阿部だけのキャプテン像を作り挙げたのだ。
  

 “新キャプテン阿部”が得たもの―。
 それこそが、チームからの“信頼”―。

 キャンプ前の不安が、自信へと変わった阿部。
 ジャイアンツの顔として、優勝へ導き出す“キャプテン”で
 あり続けていて欲しい。 
松井のケガは年齢から来る筋肉の衰え
2007年04月10日 (火) | 編集 |
 15日間の故障者リスト(DL)入りをした松井秀喜だが、
 ケガ自体は軽度の肉離れで、それほど重いものではなかった。
 
 今回のDL入りは、あくまでチームの外野手不足と
 松井のオーバーワークを考慮した上での 慎重な判断という
 ことになりそうだ。

 松井にとっても、4月23日という復帰期日が切られた事で
 そこから逆算して、リハビリと調整を進めることが出来る。
 ムリすることなく、完治させてチームに戻る為には
 ベストな判断だったといえるだろう。
  

 今回のケガは、体感気温は0度を下回った極寒の中での
 プレーが引き起こしたアクシデントと見るのが
 一般的な見方だ。

 だが、単純にそれだけで済まされるのか。  
 この故障は、松井にとって嫌な兆候を示す“危険信号”
 という見方もできる。
  

 松井はこれまで筋肉を傷める故障が非常に少ない選手だった。
 1999年のオールスター戦で、体調不良の中でムリして
 スイングをして、右脇腹を痛めたことがあった。
 その後は、こうした筋肉系の大きな故障は皆無に近い
 プレーヤーだったのだ。

 それがたとえ極寒の中とはいえ、走塁中に肉離れを起こした。
 この故障の意味を どうとらえるか―。  

 元々柔軟性に富みながらも強い筋肉の持ち主で
 その良質な筋肉が故障への強さを支えていた。
 
 だが、年齢を加えるごとに、最も衰えが出るのが
 筋肉の質ともいう。
 
 今回のケガは松井にも そういう時が来た、という
 危険信号だったといえるかもしれない。
  

 イチローは試合の時は、チームよりもかなり早く
 スタジアム入りして、入念なストレッチを繰り返している。
 ケガをしない為の最善の努力の結果、故障への強さを
 手にしているわけだ。
  
 もちろん、松井も体の手入れにも十分配慮して、
 試合前にストレッチもやっている。
 それでも、イチローほどの入念さがあっただろうか・・・。  

 松井にとって故障を避ける最善の方策を講じる事こそ
 今回のケガの大きな教訓だったのかもしれない。
 
 

 
400勝投手カネやんの“ワシの話を聞きなさい”
2007年04月10日 (火) | 編集 |
 レッドソックス・松坂投手について―。
 『今の大リーグは“メジャー”というより
  “インターナショナル”リーグだな。

  世界中から色々な選手が集まって来とる。
  でも、そんな中でも、やっぱり(松坂は)いいんだよ』  

 
 松坂投手のどの部分がメジャーでも優れているのか―。
 『パワーでは劣るかもしれんけど、元々技術でいえば
  日本は大リーグを上回っているんだ。
  松坂も柔道で言う二枚腰を持っとる。

  相手を投げる時の様に、下半身でタメを作って
  腕が最後に“ビュッ”と出てくるだろう。
  これで球が速く感じるんだよ


 多彩な変化球も効きました―。
 『あっちのバッターは横の変化に強いけど
  上下の変化には弱いからな。
  松坂が落ちる球を、コースをバラつかせながら投げたら
  誰でも空振りするよ。

  今年はうまくいけば20勝、負け数も10いかんだろう』

 松坂投手とは正反対に、デビュー戦で乱調だった井川投手と
 その試合で負傷してしまった松井秀喜選手。
 ちょっと心配なヤンキースコンビはどうですか―。
 『井川は心配ないよ。あの(トーリ)監督が一度ローテに
  入れると決めた以上、4・5試合は投げさせてもらえるから

  立ち直るチャンスはいくらでもある。
  むしろ、松井のほうが心配だな。
  長年の“勤続労働”が出てるわけだから、しっかり
  休まないと。 全力疾走が出来るまでは試合に出ないこと。
  テスト的に出るようなこともせず、
  勇気を持って 完全に治すことだな

  
 
 国内では、先週巨人が中日・阪神という手強い相手に
 3勝3敗でしたが―。
 『今年の巨人は、いいチームになって来てるな。
  ただ、このままじゃ中日には勝てん。
  勝つ為には、中日の強力な投手陣から2,3点を取って
  逃げ切るしかないんだけど、ウッズがおるからな。
  会田や前田がストライク取りにいってホームラン
  打たれたでしょう。 あんなピッチングしてたら
  何回でもやられますよ


 そのウッズを抑える為に、何か対策はありますか―。
 『ぶつけるつもりで、もっとインサイドを攻めなくちゃ。
  どんどん胸元を攻めていって、
  大乱闘を起こす位じゃないと抑えられんよ。 

  野球は“食うか、食われるか”―。
  今の巨人に欠けてるのは そこじゃないの。
  
  落合監督が、せせら笑ってたけど、
  相手の監督に笑われるようじゃ勝てんよ。
  ウッズ用に“球は速いけど、どこにいくか解らない”ような
  外国人ピッチャーを獲ってきて、恐怖心を与える―。
  これが金田式の勝利の方程式だな』

 相変わらずのカネやん節炸裂!!
 黄金時代といわれた野球界を背負っていた男の渇!に
 現代のプロ野球選手達が、恐れをなしてしまうかもしれないが
 カネやんの目は、鋭く力強い。
 
 これからも、随時載せていきます。
 日本プロ野球を、もっと奥深く 沢山の人達に
 伝えていきたいです!
  
  
  
  
  

  
  
失った信頼・・・天才の変化 高橋由伸
2007年04月09日 (月) | 編集 |
 今シーズン、強く悲壮な決意を持つ男、高橋由伸(31)。
 選手会長になってから4年間、優勝は一度もない。
 しかも、去年・一昨年と目の前で胴上げを見せ付けられた。
 更に、ケガに苦しみ二軍生活もあじわった。

 そして、去年は過去最低の成績。
 (打率 .260 打点 51 HR15)

 『色々な人への信頼というものを、当然この何年間では
  裏切っても失ってもいるし、
  そういうものを当然自分自身で取り戻したい』
  

 自主トレを開始した1月、由伸は沖縄にいた。
 今までは母校の慶応で行ってきた自主トレ。
 今年は人にあまり目に付かない沖縄を選び出直すことを決めた。

 『この1、2年良くないので、何かひとつを変えることで
  流れが変わっていけばいいな、って』―。
  

 理屈ではない、何かを変えたかったのだ。

 由伸は更に今までには無い自分の姿を追い求めた。
 実は今回自費でバッティングピッチャーを帯同していた。
 これまでは、2月のキャンプから本格的に行っていた
 バッティングだが、
 今年は、自主トレの段階からフルスイング。
 振って振って振りまくった。
 手のひらに刻まれた振り込んだ“証”が物語っている。

 
 初めて行う 沖縄での自主トレには、並々ならぬ決意が
 漲っていた。
  
 
 一方で、選手会長としても、思い切った行動力に出る。
 キャンプイン1週間前に、ナインを引きいて宮崎入り。
 史上初めて、宮崎合同自主トレを敢行したのである。
 自分の奪回、チームの奪回―。
 由伸はキャンプでも がむしゃらにバットを振り続けた。
 連日1000本を越えるスイング。
 由伸は他の誰よりも多く振り込んだ。

 自らに科した悲壮な決意。
 倒れるまで止めるわけにはいかない。
 振れば振るほど、体中に激痛が襲う。
 由伸は苦しくて途中何度も倒れこんだ。
 立つこともままならない。
 しかし、由伸は倒れこんだ数だけ起き上がり
 まるで本能が奮い正せるかのようにバットを握った。
  
 
 そんな由伸を駆り立てるもの―。
 “自らが失った信頼を取り戻したい―”
 その為に、今年こそ結果を残さなければならない・・・。
 ただその一心である。

 肉体の叫び声が極限に達するまで、由伸の練習は終わらない。
 
 更にバッティングボールにも由伸の執念が込められていた。
 通常のボールが147㌘に対して、由伸の使用球は256㌘。
 100㌘も重い特殊なボールを打ち続けていたのだ。  

 それだけではない。
 手に持つマスコットバットにも由伸の決意が隠されていた。
 なんと、普通のマスコットバットより250㌘も重い
 バットで、あの重いボールを打っていたのだ。
  

 天才といわれた10年目の男が、今、
 プライドをかなぐり捨て、己を追い込んでいる。

 『自分としては、こんなものでは無いと思っている。
  とのかく、結果を残さなくてはならない』―。

 チームの為、己の為に、結果を残す。
 由伸の戦いは まだ 始まったばかりだ!
 
 
 
 


  
戸惑いの日々・・・“おみくじ”で迷い吹っ切れた!
2007年04月08日 (日) | 編集 |
 『周りの期待は嬉しいものであり、ちょっと過剰じゃないかな
  と思う部分もあった』

 全てが初体験だった春季キャンプ。
 言葉の壁、慣れない練習法、チームメートの顔と名前が
 一致しない・・・戸惑いの日々を送る松坂大輔。

 特に、投球練習を1日10分間に限定されたことは
 大きなストレスになって松坂を悩ませた。

 そんな時に出合った言葉に、迷いが吹っ切れた。
 
 中華料理店での夕食後、フォーチュン・クッキーと呼ばれる
 “おみくじ”入りのクッキーを割ってみた。

 “今、自分のベストを尽くすことが、必ず次につながる”
 と、英語で記されていた。
 『これ、今のオレに合うじゃん!!』  

 メジャーでは異例の投げ込みや、居残りの遠投など
 怪物流の調整法を取り入れ、急ピッチで調子を上げた。
 周囲の目や声を気にせず、信じる我が道を真っ直ぐに
 突き進んだ。

 
 リトル・リーグの選抜チームで世界大会に出場して
 “世界”を意識。
 中学生の時、野茂英雄投手(当時ドジャース)に刺激され
 目標を“メジャー”に決めた松坂。

 昨年12月のレッドソックス入団会見では
 『ここで投げられると信じてやってきたから、ここにいる』
 と、胸を躍らせた。
 今、その舞台に立ち、そして勝った!

 『自分にとっても、ファンにとっても幸先よく勝ったのは
  良かったと思います』

 ウイニンボールはスタンドで見守ってくれた
 夫人の倫世さんに感謝の意を込めて渡した。

 衝撃の序章で始まった松坂の“怪物伝説”は
 飛躍の第2章へ突入する!
 
怪物の勝利を支えるハイテクスパイク!出撃OK!
2007年04月07日 (土) | 編集 |
 松坂大輔投手のメジャー用スパイクの全容が分かった。
 松坂がナイキ社と打ち合わせを重ねた逸材で
 メジャーの固いマウンド対策で、
 多くの新機能が松坂の足腰への負担を軽減する。
  
 
 長丁場を戦う松坂の、心強い味方だ!
 先月末、松坂の元へメジャー用のスパイクが届けられた。
 
 契約するナイキが
 『MLB使用の秘密兵器は、硬いマウンドへの最高の
  グリップ性と、長いイニングを投げぬく為の足、
  腰への衝撃を減らす』
  
 というコンセプトで作成した新スパイク。
 日本時代とは違った工夫が施されている。

 〔歯〕― 11本だった歯が9本になった。
      これにより、1本の歯に伝わる力が大きくなり
      メジャーのマウンドの硬い土を掴まえやすく
      なった。
 歯の長さは10.8㍉から12㍉へと
      伸ばした。
 〔衝撃吸収〕― 歯の本数が減ったことで、力の伝導は
      増加したが、足裏の突き上げ感も増加する
      恐れが生じた。そこで、昨年まではかかと部分
      だけにあったエア(衝撃吸収パーツ)を
      足裏全体に入れた。 また『本数が減っても
      安定感が出るように、靴底の“ヘリ”の部分に
      埋め込まれています』
と、ナイキ担当者は説明。
 〔デザイン〕― 高さも従来のローカットから、足首を保護し
      ぐらつきにくく、サポーターのような保護性を
      生み出している。
      

 早速、松坂は3月31日のフィリーズ戦で着用してプレー。
 ロイヤルズとのデビュー戦前日の4日の練習でも着用した。

 『今後も松坂さんからの提案は、積極的に取り入れて
  いきます』(同担当)

 松坂のこだわりが詰まった新兵器が、
 好プレーと快投を演出していく!   
     
 
痛恨のサヨナラ大暴投(松坂大輔の高2夏)
2007年04月06日 (金) | 編集 |
 松坂が、横浜高校で投手としての大器を示したのは
 2年の春の 関東大会でのことだった。

 2回戦の前橋工業高校とのゲームだ。
 この試合は、延長13回までいった。
 前半、松坂はフォアボールを連発してしまっていたが
 後半になると、投球が安定してきた。
 しかも、回を重ねれば重ねるごとに、球威が増してくる。

 渡辺監督は、このとき初めて
 『松坂は鍛えれば凄いピッチャーになるかもしれない』  
 と、思った。

 2年生を主体としたチームながら、横浜高校はこの関東大会
 優勝する。

 そして迎えた夏の甲子園大会の予選を前に
 松坂は、横浜高校の背番号『1』を手にするのだ。

 松坂の調子も良く、神奈川県代表のイスを目指して
 横浜高校は順調に勝ち進んでいった。

 遂に、準決勝にまで登ってきたときだ。

 甲子園まであとふたつ―。
 チームの皆にも気合が入った。
 対戦相手は、横浜商業高校だった。
 試合は、横浜高校の優勢で進んだ。
 だが、毎回走者を出しながらも、それが大量得点に
 結びつかないという、イヤな展開が続いていた。

 2対1と、1点リードで迎えた9回裏。
 横浜商業の最後の攻撃だ。
 この回を0点で抑えれば、甲子園出場にあと一歩となるのだ。

 所が、この最終イニングで、それまで好投を続けていた
 松坂が突然、乱れだした。


 制球のあまいボールを投げるようになったのだ。
 連打をあびて、同点になった。
 一死三塁という場面だった。

 松坂が、スクイズを警戒して投げたボールが大きく反れて
 しまったのだ。
 それが“サヨナラ暴投”になった。

 三塁ランナーがホームに向けてダッシュしてきて、
 そのままホームイン。
 勝ち越しの1点をもぎ取られてしまった。
 
 松坂は、その瞬間、目の前が真っ暗になった。
“3年生に申し訳ないことをした―”

 そう思うと、涙が止まらなかった。
 自分のせいで、3年生達は甲子園に出るチャンスを
 逃してしまった。
 自分の暴投で負けてしまったのだ。

 『本当にこの時がボクの“転機”でした。
  悔しくて、しばらくは寝る前になると
  その時のシーンが思い出されるんです。
  あれ以来、泣いていないですね』
  

 それは自分自身の実力に対する悔しさだった―。

 “この時にあじわった屈辱が、今の松坂を作り挙げたと
  言っても過言ではない”
 今日の初勝利に、当時横浜高校野球部で部長も
 兼任していた小倉清一郎コーチが語っていた。
  

 小倉コーチは松坂が中学1年の時、偶然隅のほうで投げていた
 松坂の姿を目にして、
 “ひょっとするとこの子は伸びるかもしれないな”
 という手ごたえを感じていたのだった。
 松坂の振りかぶった時の背中の張り方が、とても印象的
 だったそうだ。
 “これだけ強い背筋力を持っている子は、そういない!”
 この想いが、小倉コーチの松坂への 
 ラブコールの原点だった。
  


 今日の松坂が誕生した裏で、さまざまな人たちが
 その才能を見出しサポートしていき、
 それに答えるように、着実に結果を出している。
 
 これから益々注目されるであろう“松坂大輔”。
 誰もが認める“メジャーリーガー”になる!!
 
 
 

 

 

 
 
 

 

 
 
松坂 メジャー初勝利!
2007年04月06日 (金) | 編集 |
 7回 投球数 108
 被案打6 奪三振10 与四死球1 失点1(ホームラン)

 堂々の初勝利でした!!

 『とにかく寒かった。
  自分が感じている以上に(寒さで)体力消耗していた。
  自分の球威を確認しながら室内でキャッチボールしていた。
  ここ2日間、下半身が張りっぱなし(寒さで)だったので
  わざと いつもより(足を開ける幅を)狭くして投げた
  課題は、シーズン始まれば チームがどう勝てるか
  ということになるので、チームが1勝できた(貢献できた)
  ことで、クリアした』
 と、コメント。

 言葉とは別の“貫禄さ”を感じました。

 ―冷静沈着―
 キャンプで試した成果が発揮できた デビュー戦だった
 ように思います。  
サムライの信念 (小笠原道大選手)
2007年04月05日 (木) | 編集 |
 一人のサムライにとって、古巣相手の凱旋試合となった
 オープン戦初戦。
 その第一打席で いきなり見せる。
 この男の今年に賭ける想いとは―。

 『もう下なんて向いてられないし、後ろも向いてられない。
  何が起ころうと前を突き進んで行かなければいけない。
  高い志を持って―。“挑戦”ていうことですよね』
  

 2月、小笠原は去年とは違う宮崎にいた。
 パ・リーグ2冠王、日ハムからFAで巨人に入団。
 社会人時代、NTT関東でキャッチャーとしてプレー。
 地道に努力を重ね、日ハムに入団。
 幼い頃から夢だったプロ野球選手となった。
 
 しかし、プロの壁は厚く苦しみ抜いた。
 そんな彼を救ったのは、持ち前の根性だった。
 9年前代打で出場した小笠原はプロ初ホームラン。
 実はこの時、彼は左手人差し指を骨折していたのだった。
 このホームランで、プロとしての行き方を見出した。

 そして付けられたニックネームが“ガッツ”―。
 プロ3年目の1999年、そのガッツで内野手の
 レギュラーを獲得した。

 そしてヘルメットを飛ばすフルスイング!!
 小笠原の専売特許である。
  

 彼はパ・リーグの顔となり、数々のタイトルを勝ち取った。
  首位打者(02・03) 最多安打(00・01)
  ベストナイン(99・01・03・04)
  ゴールデングラブ賞(99~03)
 
 昨シーズンはパ・リーグ2冠王に輝きチームを
 日本一に導いた。

  2006年 本塁打王 32本
  打点王 100打点
  MVP

 努力とガッツで栄光を勝ち得た男に芽生えたのは
 向上心だった。 
 プロ11年目にしての挑戦―。
 
 巨人入団の理由は そこにあった。

 『もう一回自分の中で成長したい部分があって、その為には
  環境を変えなくてはいけない』

 失敗は許されない挑戦。
 彼は自主トレを社会人時代のグラウンドで行った。
 プロ入りを目指し、毎日汗を流した思い出の地。
 『プロに入る前の5年間練習をした場所ですから。
  昔、志したものをもう一度思い出してやっていきたい』
 あの時の自分を思い出し、彼の挑戦は静かに始まった。  
 2月キャンプイン。
 原点に戻り新たなる挑戦に迷いは無い。
 貫き通すのは己のスタイル―。
 それは、彼のバッティング練習にあった。
 フリーバッティング。
 
 長距離砲と呼ばれるスラッガーは、キャンプ序盤から
 フルスイングで快音を響かせる。
 しかし、小笠原は違った。
 決して引っ張らず、常にレフト方向へ流し打ちを繰り返す。
 フルスイングでファンを沸かせた男とは思えない
 独自の練習法。
  
 キャンプ中盤、実戦形式の紅白戦が始まっても
 彼は出場せず黙々と自分のスタイルを貫いた。
 それは夜間も休日も休む事無く続いた。
  

 『全ては開幕から しっかりと振れるように計算をして
  やっていかなくてはいけないので、ひとつひとつ
  動作の確認を取りながら段階を踏んで
  最後の形に持っていこうと思う』
  

 サムライのバットから快音が鳴り響いたのは
 キャンプ終盤だった。
 ライト方向への引っ張り―。
 遂に“引っ張り解禁”である。
 そして2月23日、キャンプ終了2日前
 このキャンプ最初で最後の柵越え。
 彼は何かを掴んだ。  

 この春、己の信念を貫いた男 小笠原の“挑戦”―。

 彼が目指すものとは―。

 『常にグラウンドに立っていること。
  やっぱりそれは求められてる事だし
  プレーの前にまず、しっかりとグラウンドに1年間
  立っていることが大事で、中途半端な事はできない。
  命を掛けてやらなくてはならない―
  そう思っていますね


 小笠原道大 33歳。
 挑戦は今、始まった!