日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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驚くぐらい球が飛ぶ
2010年06月15日 (火) | 編集 |
読売新聞 『時代の証言者』 ホームラン王 王貞治(13)より

マスコミは、僕が『一本足打法』に切り替えたことにすぐには
気づかなかった。
何試合かたってからですよ、
『王が変な打ち方をし始めた』と。
川上(哲治)監督は何も言わなかった。
びっくりしていたと思います。

≪だがネット裏の『一本足打法』に対する評価は芳しくなかった。
 評論家のほとんどは
 「あの構えではタイミングを外されると手も足も出ない」
 「田んぼのカカシだ。強い風が吹けば倒れる」などと言った≫

荒川さんは『悪評なんて結果が良ければ変わる』と言ってね、
僕の練習をさらに厳しくした。

結果、本塁打はどんどん増えていった。
僕が一本足で打ち始めたのは1962年(昭和37年)の
7月1日からですが、7月の1ヶ月で10本打てた。
それまでは3ヶ月で9本ですよ。
結果が出始めると、もっと打ちたい、打ちたいと思う。
そうなると日々の練習にも身が入るんです。

荒川さんと猛練習のお陰で、
バットを振る筋力はすごく強くなっていた。
本来、球を強く打てるタイプですから、
自分でも驚くぐらい球が飛ぶんです。

ホームランの会館は味わった者しか分かりません。
打球が飛んだ瞬間、スタンドに届くと分かる。
相手バッテリーも同じです。
僕と相手投手、捕手の3人だけがその瞬間、ホームランと分かる。
『やった!』と『しまった!』です。
球は放物線を描いて観客席に飛び込む。
時間が止まって僕だけがゆっくり走り出す。
誰も僕を止められない。
球場内のすべての視線が僕に注がれる。
何とも言えぬ気分なのです。
もっともっと味わいたいと思いました。

≪7月19日の中日戦から連続アーチをかけ、
 ホームラン争いで初の単独首位に立つ。
 9月9日の阪神戦では小山正明投手から3本塁打を放ち、
 チームの全5得点をたたき出した。
 王選手は本塁打38本、打点85の活躍で二冠に輝いた≫

うれしかったのは9月29日、シーズン最後の38号本塁打を
大洋の鈴木(隆)さんから打てたことです。
僕は左投手が苦手でね、鈴木さんはとりわけ苦手だった。
忘れもしません、2年目の6月でした。
先発が鈴木さんと発表されると僕はベンチに引っ込められ、
『もう帰っていい』と。
川崎球場の風呂場で、僕は悔し涙を流しました。

こうして本塁打、打点王の二冠を得て分かったことがあります。
給料は上がり、女の子も今までとは違う目で僕を見てくれる。
天国と地獄の違いでした。
前年までの僕はたぶん活躍する長島(茂雄)さんを
羨望のまなざしで見ていたはずです。
僕は心に誓いました。
この二つのタイトルは誰にも渡さないと。

荒川さんとの練習は辛かったけれど、僕から
『お願いします』という感じになっていったのです。


           西部編集委員 伊藤哲朗氏 
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『足を上げて打ってみるか』
2010年06月14日 (月) | 編集 |
読売新聞『時代の証言者』ホームラン王 王貞治(12)より

荒川(博)コーチとのマンツーマンでの練習は、
1962年(昭和37年)2月の
宮崎キャンプから本格的に始まりました。
4年目の僕は、わらにもすがる気持ちだった。
もう低迷は許されないと。

パンツ1枚の裸でバットを振らされました。
荒川さんは名優。六代目菊五郎から
『芝居の稽古をする時、弟子を裸にした』と聞いたそうです。
筋肉の動きを見れば、どこに無駄な力が入っているか分かると。

≪荒川コーチは歌舞伎や合気道、居合術を研究して
 王選手の指導に行かした。
 ダウンスイングの会得のため真剣でわら束を切らせるなど、
 独特の指導は「荒川道場」と呼ばれた≫

とことん絞られました。
チーム練習の後に素振りをし、夕食後とミーティング後にも振る。
1日1000回は振ったでしょう。
僕の弱点は内角だった。
内角へ食い込むように投げられると、打球が詰まってしまう。
腕が伸びない。
どう克服するか、2人で試行錯誤を続けました。

公式戦が始まると球場へ行く前に多摩川で打つ。
試合が終わると荒川さんの家でバットを振る。
僕は21歳で荒川さんは31歳。
若かったからできたのでしょう。

ある日、荒川さんが話したのです。
内角を攻められて詰まるのは、バットの始動が遅いからだ。
では最初からバットを後ろに引き付けておいたらどうか。
相手投手が足を上げるのに合わせ、こちらも足を上げる。
太ももが水平になるくらい上げてみよう。
相手が足を地面に着けたら、こちらも下ろしていく。

『一本足打法』です。

忘れもしない、7月1日の川崎球場での
大洋戦ダブルヘッダーでした。
第一試合で、荒川さんから『今日は足を上げて打て』と
指示されたのです。

≪試合は前夜の雨で開始が30分遅れ、
 巨人はスタッフミーティングを開いた。
 ここで別所毅彦コーチが打線の不調をなじり、
 カッとなった荒川コーチは思わず
 「王に本塁打を打たせる」と宣言したという≫

僕は前日、大洋の鈴木隆投手に3打席2三振に抑えられ
代えられていた。
帰る時に荒川さんに言った記憶があるのです。
『打席に立つのが怖い』と。

荒川さんは言った。
『打つのが怖いと言うくらいなら、
 思い切って足を上げて打ってみるか』―。

その夜に一本足の練習をし、
1日の試合前のフリーバッティングで試した。
一本足で実際に球を打ったのはその時が初めてだったはずです。
それが一打席目で稲川誠投手からライト前に安打を打てた。
2打席目は右翼席への本塁打です。
4打席目も安打になった。
一本足で5打数3安打ですよ。
僕はもう、わあっという気分になった。

あの日打てなければ『一本足打法』は続けていなかった。
光明が見えました。
ああ、この打法は僕に合っているんだと。

            西部編集委員 伊藤哲朗氏
不振の3年目、荒川道場へ(2)
2010年05月28日 (金) | 編集 |
読売新聞『時代の証言者』ホームラン王 王貞治(11)より

長嶋(茂雄)さんを語る場合に、1959年(昭和34年)の
天覧試合でのサヨナラ本塁打が引き合いに出されます。
でも、あの試合では僕も打っている。
長嶋さんとのアベック本塁打の第1号なんです。

≪昭和天皇を迎えて初の天覧試合は59年6月25日、
 後楽園球場で行われた。
 阪神に2対4で先行されていた7回、
 王選手は小山正明投手から右翼席へ同点本塁打を
 たたき込んだ。
 これが布石となり、9回の長嶋選手の劇的な
 サヨナラ本塁打が生まれた≫


僕の本塁打の印象が薄いのは仕方ない。
長嶋さんはこの試合で本塁打を2本打っていて、
1本が衝撃的なサヨナラですから。
でも1年目に球史に残る試合で打てた。
このシーズンに打った本塁打は7本ですからね、
僕に運があったということです。

しかし入団から3年間、僕は泣かず飛ばずです。
お粗末な3年間でした。

1年目は打率1割6分1厘。
2年目は早大の一塁手だった木次(文夫)さんの入団で奮起し、
2割7分を打った。
本塁打はチーム最多の17本でしたが、三振も多くてね、
何と101個にもなった。

プロの世界は甘くない。
3年目はスランプです。
相手チームや投手に研究されたのか、打率は2割5分3厘、
本塁打も4本減って13本です。
多摩川で猛練習をしたが、どうもバッティングに自信が持てない。
川上(哲治)さんに
『これだけの素質を持っているのに歯がゆいな』
と言われたことがあります。
どうしたらいいのか、僕は分からなくなっていました。
荒川さんから電話をもらったのは、
そんな昭和36年12月のことです。
『巨人のコーチになる』と。

荒川さんは中学2年の時に偶然出会い、
僕に左で打つよう助言し、早実に行くよう勧めてくれた。
奇縁というか、もう運命だと思いましたね。

≪荒川博コーチの就任は、この年から指揮を執っていた
 川上監督の要請で実現した。
 川上監督は『王を本塁打25本、2割7分を打てる打者に
 してくれ』と頼んだという。
 王を長嶋に次ぐ3番打者にしたい、
 というのが川上監督の考えだった≫


巨人のユニホームを着た荒川さんは、
多摩川グラウンドで僕の打撃フォームを見るなり言いました。
『ひでえもんだ』
『野球のボールじゃあ無理だな。
 ドッジボールでも投げなきゃ打てんな』と。
『遊びは上手になったらしいが、野球は下手になったな』
とも言われた。
荒川さんとの再会の初日は、この三つの言葉だけで
終わったんです。

数日後、言われました。
『やる気があるなら、3年間は俺の言うことを黙って聞け』。
夜遊びはやめろ、酒もたばこもやめろ、と。
『理屈はともかく、やめるということが大切なんだ』
と荒川さんは言う。
荒川道場の始まりです。

(西部編集委員 伊藤哲朗氏)
一花さんの貴重なコメント
2010年05月26日 (水) | 編集 |
先日『時代の証言者』より 王貞治氏の記事を載せました。
(今後もいくつか伐採して載せていきます)
一花さんのとても貴重なコメント頂戴いたしましたので、
ここでご紹介したいと思います。



この記事読みました。
私は、人間大事な物、集中したい事があるなら、
ある程度他の事を捨てる事も必要かな思います。

少し焦点は、ずれますが
日航の60代で現役パイロットだった人の著書に
「集中力を維持するコツは、他の事を捨てること」
というコメントがあり印象に残りました。

王さんも、長島さんも、
大事な事以外の雑念を捨てたからこそ、
偉業を成し遂げたんでしょう。

この記事の王さんのコメントにある通り、それぞれ、
相手の個性に追随せず、自分にないものは捨てて、
自分の特徴を生かしたと言えると思います。
  

最近は、40代で三流投手しか打てないのに
連続記録に拘り現役と記録を捨てられない選手もいますが、
私はONに関しては引退も潔く、
捨てる心を持った選手だったと思います。

ドラフト候補のインタビューや監督の評価を読むとき、
余分な話や課題盛りだくさんの選手より、

よりわかりやすくポイントを絞れている選手が好きです。
ここでも捨てる心の有無があるかどうかだと思いますね。
  


2010/05/24(Mon) 20:56 | URL | 一花 #-[ 編集]  


いつもコメント頂きながら、
私も学ばせて頂いている方です。

私事なのですが、うちの息子も自分のプレーの領域を
客観的に見て学ぶ力を養ってきている様子で、
何が自分に合った練習方法か、どんなことをすれば
いいプレーに結びつくのか・・・
色々と自分なりに学習しているようです。

つい先日も練習試合で、とても目を惹く守備をする
内野手がいたそうで、そのプレーを見ながら
『自分は手投げになっている』→『だから肩を痛める』
→『ストレッチを怠けない』・・・という
とても単純なことなのですが、
親がいつも注意していることをようやく
身を持って体感してことで、意識も高まり
解決策を自分なりに考え会得していっているようです。

足も遅く力もなく、
人より優れているものは持ち合わせていない・・・
と自信を失いかけていた息子でしたが私は、

『なんでもいい、なにか一つでも人より優れている物に
 自ら気付いて、それだけを全うしてみたら?
 お母さんが思うには、それが勇汰のバッティングだよ。
 誰でにもできる、というものではないよ。
 何か持っている。自信持ってみていいと思うよ』
と伝えました。

体も回りの友人達は大きくなって、息子はようやく
160㌢をは超えた中間よりも小さいほうです。
力も、みんなは体が大きい分あるし、
今の段階では自分に自信が持てていないようです。

でも、一花さんのコメントにもあるように、

『集中力を維持するコツは、他の事を捨てること』
ということを、私も息子に伝えたかったのです。

この記事を載せてみて私も再度、気づきましたし、
まずは自分の得意な分野に早く気付いて前に向かって
行って欲しいな、と親心ですが思いました。


一花さんのコメントにはいつも温かいものを感じると同時に、
タイムリーな時が多いです。


存在感が違った長嶋さん (1)
2010年05月24日 (月) | 編集 |
読売新聞 『時代の証言者』より
~ホームラン王 王貞治(10)~

入団してまもなく、夜行列車で広島に遠征した時のことです。
列車で『起きろ!』と誰かに怒鳴られた。
目の前に長嶋(茂雄)さんが立っているんです。
寝坊した僕に、
『荷物は俺が持って行ってやる。早く服を着ろ!』
とまた怒鳴った。
長嶋さんがネクタイやシャツ、上着を差し出してくれ、
僕は寝ぼけ眼でそれを着て通路に飛び出す。
長嶋さんは後ろから僕の靴を持って追いかけてくる。

1961年(昭和36年)にアメリカのベロビーチで
初めて海外キャンプをした時も寝坊して迷惑をかけている。
長嶋さんに世話を焼かされた人は多いようですが、
世話を焼かせたのは僕ぐらいでしょう。

僕は、プロ野球の戦後は長嶋さんの登場で始まったと
思っています。


≪立教大時代に六大学で8本の通算本塁打記録を持つ
 長嶋茂雄選手は58年、巨人に入団するや打点92、
 本塁打29本で二冠に輝く。
 打率3割5厘も2位と三冠王にあと一歩と迫る活躍で
 新人王を獲得した≫

スターです。
登場するやファンの心をわしづかみにしてしまった。
1年目から結果を出すのがスターなんですね、
僕はその意味でもスターではない。
成績もみごとですが、それだけではない。
長嶋さんはグラウンドに立つだけで人気があった。
存在そのものが野球界を支える中心でした。
大洋みたいなものですね、
僕らはその周りを回っているだけなのです。

とにかくダイナミックでね、走り方からしてカモシカのようで
明るく躍動感があった。
ファンの目を意識していたと思うのですが、
それがまたファンやメディアに受けるんですよ。

バッティングは天性の対応力があった。
どんなに体勢が崩れても球をバットの芯でとらえる。
相手バッテリーが『しとめた!』と思った球をヒットにする。
その一方で、ものすごく甘い球を凡打にする。
僕らの想像を超えていました。
投手からすれば一番攻めにくい。
ここに投げれば確率的に大丈夫という攻め方が通じませんから。


≪『ON砲』と2人が呼ばれるのは、王選手が62年に
 『一本足打法』を会得、63年に長嶋選手とともに
 巨人優勝の原動力となってからだ。
 74年に引退するまで長嶋選手は本塁打王2回、
 打点王5回、首位打者6回に輝き、
 王選手とともにV9の原動力となった≫


僕は相手の失投を見逃さずに打つ。
捕手が『あっ』と言った球は必ずものにしようと考えていた。
僕の人気はホームランを打ってのものです。
立っているだけで人気のある長嶋さんとは存在感が違う。

僕は長嶋さんに対してライバル意識はありませんでした。
僕の方が年下ですしね。
その方が面白いから、周りはいろいろ言っていましたが。
でも長嶋さんは僕の中では絶対に同格にならない。
だからONがうまくいったと思うのです。


僕は本当に幸運でした。
長嶋さんと一緒に野球ができたのですから。


         (西部編集委員 伊藤哲朗氏)