日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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『僕の原点 甲子園』 (3)
2009年08月14日 (金) | 編集 |
甲子園っていうのは、何か得体のしれない怪物みたい。  

甲子園というのは、ボクにとって一つ一つが勉強の場なんです。
打てない球に出会い、それをその後の練習によって、
少しずつ克服していくんです。

1年の夏、水野さんに3三振を食った横の変化球。
あれを打つために猛練習をしたんですよ。
やっとタイミングがわかるようになったらば、
秋季大会で京都西の堀井の力ーブに打ちのめされた。
同級生の小林(左投手)に頼んで、
毎日投げてもらったりしました。
2年の春の選抜大会で京都西にあたった時はもう
うまいこと打てるようになってました。

モグラ叩きっていうんかな。
ポクの場合、自分ってけっこうすごいなと思ったりすると、
必ず神様がそんなことではダメだって、
反省をさせるように失敗をさせてくれるんです。
それで練習をやって、
もう一度やり直せって言われているような気持ちになる。
だから、甲子園っていうのは、
何か得体の知れない怪物みたいなとこがあるけれど、
ボクにとってはすごい勉強の場になっていたような気がする。

京都西の堀井の力ーブにやられたのも、甲子園じゃないけど、
ボクにとってはとてもよかったと思う。
あのまま、すんなり、選抜大会に出られたら、
左投手の力ーブに手こずったような気がする。
プロに入って1年目、ボクは左投手から結構打っているんです。
近鉄の村田さんとか小野さんとか、ロッテの水谷さんとか。
29本目のホームラン(長島の記録に並んだ)も
小野さんだったですからね。
あの時の練習が今役に立っているなあと思います。  


昭和59年、PLは春は岩倉に、夏は取手二に、
ともに決勝で敗れた。
しかし清原自身の打撃は爆発。
春夏合わせて38打数18安打、打率.473、6本塁打の成績を残す。

「甲子園ではいつも桑田が上だった」という清原。
1年生の時みたいに下痢はなかったし、内心、
あの池田の水野さんに勝ったのだから
こわいものはないという気持ちの余裕がありましたからね。

でも、甲子園ではいつも桑田の方が上をいっていたような気がする。
ボクがちょっとミスをすると、
“今度ホームランを打ったらば許してやる”とか
“次は力ーブが来るぞ”とか指示する。
それがまたよく当るんですよ。
ずっと年上のような気がした。

だから夏の決勝で8点とられた時、さすがにショックでした。
桑田といえば、
ボクらの中では絶対にナンバーワンの投手じゃないですか。
それが8点もとられるのだから、
上には上がいるんだなあと思いました。

優勝はのがしたけど、あの夏はよかった。
全日本代表に選ばれましたからね。
これでやっと桑田に並んだという気持ちになれた。

だけど、韓国では桑田が結構打ってるのに、ボクは全然ダメ。
その年の春夏で6本もホームランを打っていたし、
ちょっと有頂天になってたんだと思う。
“日本代表の4番がこの程度か”って、PLの中村監督に叱られました。

そんな時だったかな。妙に母親が恋しくなってね。
あっちで先輩の洗濯をするでしょ。
洗剤負けをして手がゴワゴワになり、ひびが入ってしみるんです。
“そういえば、オレもお母さんによくハッサクをむいてくれって
 頼んだりしたな。
 お母さん、あかぎれの手で一生懸命にハッサクをむいてくれた。
 あれ、手にしみて痛かったろうな”なんて。
なんでハッサクが出てくるのかわからへんけど、
そのことが妙に思い出されて仕方がなかった。

遠征から帰ってさっそく、西山先生についてもらって、
バッティングをもう一度チェックし直してもらった。
その時、言われたのが、
“プロで通用するバッティングをしたかったら、
 下半身から作っていけ”だったんです。
ようわからなかったけど、ともかく、走ろうと思って、
御正殿の前を毎日毎日走っていた。
ゴルフ場にランニングに行った桑田が戻ってくるまで、
走っていようと思った。

(続きは NumberPLUS 『清原和博 1983-2009』 で)

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『僕の原点 甲子園』 (2)
2009年08月14日 (金) | 編集 |
清原はピッチャー失格なのに、体の小さい桑田が残った。
PL学園に集まって来る選手はほとんどが、
エースで4番だった連中ばかりである。
清原の3年時のレギュラーのうち、
7人までが中学時代は投手をしていた。
そんな連中が、一人、また一人と投手から野手に転向させられていく。
“お引き取り”(清原)という儀式だそうだが、
翌日からピッチングをしなくていいと言い渡されるのは、
ある意味で脱落したようなショックがあったようだ。

だが清原にとって、
投手失格のショックにも増して大きな衝撃だったのは、
桑田がそのサバイバルゲームに勝ち残ったことだった。

ボクより体は小さいし、スピードだってボクより下。
なのに桑田は投手失格の烙印を押されなかった。
野球はただ体が大きくて、
速いボールを投げればいいってもんじゃないって、
なんとなく考えるようになりました。

しかもですよ。
学校の授業中でも、こっちが居眠りしてて、時々目を覚ますと、
いつも桑田が手を挙げて質問してる。
こりゃ、頭ではあいつにかなわないな、と思いましたよ。

1年生の中では確実にチャンスをものにしてた清原にとって、
桑田が6月にレギュラー組に昇格して来た時のショックは大きかった。
素質や体で優る田口がコントロールの悪さからはずされる中、
桑田は確実にチャンスをつかんで来たからだ。
桑田を見ていて、清原ははじめて思ったという、
「野球ってヤツは、頭でやるものだな」と。

初めての甲子園。
清原は変化球が打てなかった。
何しろ、神経性下痢に悩まされたボクが、
いい結果を出せるわけなかった。
だから、1回戦、2回戦のことなんか全く憶えていないよ。
それで3回戦の東海大一との試合で、
止めたバットにボールが当たって、それがライト前ヒットになり、
急に気が楽になった。
それからですよ、ヒットが出るようになったのは。
一方桑田はその時はもうホームランを打っていたし、エースでしょ。
初めての甲子園なのに、
あいつどんな神経してんのかな、と思いましたよ。

準々決勝の高知商戦では二塁打を2本打てたし、
やっといい感じになってきたけど、でもあれ、
津野さん(日ハム)の速い球ばかりだったんです。
本当のことをいうと、ボクはあの時変化球が打てなかった。
それがバレるのがいやで、だから、早いカウントからばかり打ってた。
初球変化球から入ってくる高校生って、少ないですからね。

だけど、水野さん(池田ー巨人。準決勝で対戦)だけは別だったな。
いきなりスライダーで入って来ましたからね。
桑田はその水野さんから本塁打を打っているのですよ。
池田の水野っていえばボクら高校生にとっては、
超スーパースターじゃないですか。
それなのに、平然と打ってしまう。
また、思ったですよ、
なんていう神経をしているのだろうって。

ボクはといえば、スライダーを連投されて、簡単に三振。
春の府大会のことが急に思い出されてね。
2三振したら、すぐにベンチに引っ込められたんです。
だから三振だけはしたくないと思って、
当てにいってしまったわけです。
これが悪かったんです。
水野さんから結局3三振でした。全部スライダーみたいな変化球で。

そのぶんは決勝(対横浜商戦)で、
三浦さん(中日)からフォークをホームランして返しましたけど、
横の変化球だったらついていけなかったんちがうかな。
三浦さんは力ーブ投手っていわれていたんで、
それが来る前に打ちにいこうって思ってたんです。  


甲子園で優勝した清原に再び大きな挫折が訪れる。
PL学園は3対0で横浜商を破って、優勝を飾る。
だが、甲子園で初ホーマーを打って、
ちょっぴり自信を取り戻した清原の鼻をへし折るような知らせが
入って来た。
アメリカ遠征の高校選抜メンバーの中に、
清原の名前がなかったのだ。
PLから4人が選ばれたが、もちろんその中に桑田の名前もあった。
脳天を割られるような思いがしたという。

桑田たちがアメリカ遠征に出かけている時、
PLの室内練習場には、
深夜まで力ーブマシンを打ち込む清原の姿があった。
“あの時ほど死にもの狂いで練習をやった時はなかった”
と本人が言うほどの猛練習。
マシンを打ちながら、清原は考え抜いた。

やがて、力ーブに対して、気持ちの方があせってしまい、
前につっ込んでいく自分がわかりかけて来た。
そして力ーブを待って右方向に打てるようになった時、
“こまった時は打ち込むしかない”という確信を、
清原はつかむに至ったという。

秋、新チームがスタートした。
だが、万全の態勢で秋を迎えたはずの清原は
ここでさらに難問にぶつかる。
左投手の力ーブにどうしてもタイミングがあわなかったのだ。
秋季大会の京都西戦、堀井から2三振を食っている。



『僕の原点 甲子園』 (1)
2009年08月14日 (金) | 編集 |
1989年にナンバー誌上に載った清原和博の
『僕の原点甲子園』。
プロ4年目にして日本一も既に手にしていた清原が、
弟・幸治がプレーする母校PL学園のグラウンドを訪れる。
清原にとって甲子園とはどういうものだったのか?
3年間の想い出を詳細に語った貴重なインタビュー。

 ~「まわり道をしていこうか」~

清原和博は、オールスター第2戦が行なわれる
藤井寺球場に向かう道すがら、
こんなことを言った。
7月26日のことである。

この日弟・幸治が主将をしているPL学園は、
近大附属高と対戦していた。
その結果が気になって仕方がない様子である。
車は環状線から富田林にあるPL学園に向けられた。

「試合前、PL学園に行くなんて、
 今日は何か打てそうな気がするな」

車が学園に近づくにつれ、
ふだんは減多なことで自分から口を開かない男が、
少年のように能弁になって来た。

この雲、この緑、思い出すなあ、
桑田はいつも近くのゴルフ場を走っていたけど、
ボクはいつも御正殿前の広場を走っていた。
そん時、見ていた雲と同じ形の雲なんだ。
同じ緑の匂いなんだ。
高校時代を思いだすなあ。
ところで幸治たちはどうしたろうか。

PL学園の広場では、
7月31日に行なわれるPL教の大花火大会の準備が、
進められていた。

甲子園に出られない年は、花火大会が終わってから、
ゴルフ場のゴミ集めをするんだ。
だけど、予選に勝っている年はそれが免除になる。
打ち上げられる花火を見て、
ああ、甲子園に今年もいけるんだと何度も思ったよ、
たまらない嬉しさだね。

弟の幸治を甲子園に行かせたい。なぜなら……。
清原は3年間、一度もゴミ集めをする経験がなかった。
彼が見た花火は、いつもきれいで華麗な心安まる花火だった。

大会予選が行なわれているため、
人っ子一人いないグラウンドに来た。
彼はネット裏にある水汲み場で立ち止まった。

「ファウルボールを拾いに行って、
 先輩の目を盗んでは、よくここで水を飲んだ」

4年前の青春の一コマ一コマが、
清原を童心に戻していたのかもしれない。
じっとグラウンドを見る眼は、17歳の少年のそれであった。

幸治を甲子園にいかせたかったんだ。
兄貴が出たからとか、
大学にその方が行きやすいとかそんなことではないんだ。
ボクが経験した甲子園というのは、その一回ごとが、
全部新しい経験だった。
出るたびに野球を学ぶことが出来たと思ってる。
その経験というのを弟にも味わってもらいたかったんだ。

甲子園に出られなかった人は、
その侮しさをパネに野球に励むってよく言われるけれど、
ボクはそうじゃないと思う。
あそこに出た時の緊張感というのは、中途半端ではないものね。
ボクは初めて甲子園に出場した1年の夏に、
神経性の下痢にかかった。
バスが甲子園に近づくと、極度の緊張で下痢をしてしまうんです。
だから球場入りして一番に飛び込んだのは、
ベンチに向かう通路のワキにある便所。
それほど怖しかったんです、甲子園でプレーをすることが――。
1年生から4番を任されたという重責もあったと思うんだけれど、
でっかいなあと思うより前に、怖さの方が印象に残っている。
そういう経験っていうのが、今のボクを支えてくれていると思うし、
これは何物にもかえられないものなんだ。

今考えると、甲子園に出るまでのボクは、
チャンスを何度か与えられて、
それを確実にものにして来たんです。
テストされていたんだなあと思いますけど、
春季大会や練習試合で打って、確実に結果を出していましたよ。

ピッチャーとしての挫折が清原の心に傷をつけた。
それはいいんだけれど、
レギュラーになった1年の6月ぐらいだったかな、
ピッチャーの練習はもうしなくていいと言われた時は、
ものすごくショックでした。
体が大きいので早くから、レギュラー組の中に入って
練習をさせてもらっていたのです。
1年生では、ボクと田ロだけだったですかね。
中学時代から4番でエースだったし、それに憧れていた。
なのに、ピッチング練習はいいというのは、
投手としてはダメだっていわれたようなもんでしょ。
ショックですよ。
そりゃ、自分でも打者としての方が素質があるとは思ってましたよ。
でも簡単に失格だって言われるとね。
入学した時は、ポクの方が桑田よりスピードがあったんだもの。

それでも、まだどっかでピッチャーにこだわっていたんだな。
バッティング投手だけは一日も欠かさずやっていた。
三振なんてとると“どうだ、ボクの球は速いだろ”って、
胸張っちゃったりして。
誰も誉めてはくれなかったけれどね。
PLでは投手は、自分達の調整があるから、
余り紅白戦で投げないんです。
PLの紅白戦っていうのは、下手な練習試合をするよりも、
ずっと激しいんですよ。
いつも逆転、逆転だったですからね。
負けたチームの方が、点差によって、
グラウンドを走らされるんだけれど、その紅白戦のエースは、
いつもボクだった。

清原 『右打ち』と『フォア・ザ・チーム』
2008年10月14日 (火) | 編集 |
オリックスの清原が引退した。
巨人担当時代、2000本安打と500号に立ち会う幸運に
恵まれ、清原という打者について検証したことがある。
その時、西武入団時のコーチ、土井正博氏と
PL学園高時代の監督、中村順司氏に何度か話を聞く機会が
あったが、出てきた答えが
『右打ち』と『フォア・ザ・チーム』という二つの言葉だった。
土井氏は言った。
『入団時から、右方向に打つ技術はプロもマネ出来ない
 素晴らしいものを持っていた。
 打った後、右手がグーンと伸びて、押し込んでいく。
 これは彼にとって、ものすごい宝です』―。


清原の通算本塁打は525本。
その一本一本を調べると、半数以上の272本が中堅から
右方向へのものだった。
そう言えば、引退試合での最後のヒットも右中間への二塁打だったが、
この右方向に大きな当たりを打てる技術こそ、
清原というスラッガーを特徴づけるものでもある。
中村氏は『フォア・ザ・チーム』を強調した。

『彼はチームの中で自分が何をすればいいのか、
 常に考えていた。
 (29-7で勝った)東海大山形との試合でも
 ホームランを打っていない。
 チャンスを広げる打撃をしていた。
 (清原は5打数2安打2四球)』―。
PL学園では2度の全国制覇、西部と巨人で計10度ものリーグV・・・。
打線の中心としてチーム打撃を見せなければ、決して、
この数字は残っていなかったことだろう。
目立たないが、通算四球1346個という数字は王、落合に次ぐ、
歴代3位。
つなぎの姿勢の一端を物語ってもいる。


最近の清原は、真っ向勝負のような『男気』という言葉の陰に
隠れてしまったが、実は広角の長距離砲で、
野球というスポーツで最も大切な
『フォア・ザ・チーム』を体現した選手でもある。
いつの日か、グラウンドに戻ってきた時には、
是非、この技巧と精神を後進に伝えて欲しい。


                     読売新聞 『熱視線』より
                               荒井秀一氏