日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
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理屈を実戦で生かす、中日・高橋周平の野球偏差値の高さ
2012年02月25日 (土) | 編集 |
小関順二 = 文

セ・リーグは高橋周平(中日)が最大の注目株。
2月18日のLG(韓国プロ野球)戦までの5試合で18打数6安打、
打率.333という好成績。
これには高木守道新監督も頬を緩ませ、
「ずっと使いたい」とコメントしている。

~高橋のよさは大嶋のよさに似ている。共通するのは形のよさ~

簡単に書いたが、バッティングのことを考える習慣がないと
「いい打ち方」は身につかない。
昨年夏、山梨大会の準々決勝で敗退してから金属バットを
木製バットに替え、
「考えないと打てないから(木製バットは)面白い」
と言ってのけた。

大事なところで負け続け、甲子園に縁がなかった高橋を見て、
「持ってない奴」と批判する人もいたが、
私はこの一言で高橋を見る目が変わった。

~「当ててから腰を回す」非凡な打撃術で飛距離を稼ぐ~

そして、AAAアジア野球選手権では甲子園大会未出場でありながら
代表選手に選ばれ、
何と全試合3番・遊撃手で出場し、
通算20打数10安打13打点の成績でMVPを獲得している。
結果がいいだけではない。
何度も言うが、打つ形がいい。

高橋のインタビューを掲載した1冊の雑誌がある。
『アマチュア野球31号』(日刊スポーツ出版社)で、
「考えないと打てないから(木製バットは)面白い」という発言も
ここから引用した。ここで高橋は
「スイングではどういったことをこころがけているのですか?」
という質問に対して、次のように答えている。

「ボールを呼び込んで、ポイントを近くして打つようにしています。
 感覚としてはバットに当ててから腰を回すという意識でやっています」

プロ野球関係者がさまざまな媒体で
「回転で打つ」「腰を回して打つ」
と言ったり書いたりしていることもあり、過剰に腰を回して、
バットがインパクトのとき斜めに入る高校球児が結構いる。
高橋の「バットに当ててから腰を回す意識でやる」という発言は、
なかなか意味深長なのである。

しかも言うだけではなく、
「バットに当ててから腰を回す」バッティングを
実践しているところが非凡である。
AAAアジア野球選手権の決勝、韓国戦で放った
2ランホームランがまさにそういう打ち方で、
打ったボールは137キロのストレート。
これを右中間上段まで運んだ。

~1、2年後には「サード・高橋」で一軍定着か~

プロでは遊撃から三塁に回ることが予想されている。
遊撃には井端弘和がいて、荒木雅博
(昨年遊撃を守り、今年は二塁に再コンバート)、
岩崎達郎、若手の堂上直倫、吉川大幾と後継候補が目白押しである。
それに対して三塁を守るのは守備に難がある森野将彦。
ゆくゆくは森野を一塁に回し、
三塁には高橋周平を持ってくるというプランが首脳陣の中で進行していると聞く。

高校卒野手は3~5年で一軍に昇格してくれればいい、というのが
監督、コーチの一般的認識だが、高橋には回り道せず、
すぐ実戦の場に飛び込める下地が既に出来上がっている。
一軍定着は1、2年先、というのが私の予想である。


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ついに殿堂入りを果たした落合監督。野球人としての行き着く先は・・・
2011年02月01日 (火) | 編集 |
              鷲田康 = 文 

いつも「権威」や「力」に背を向けてきた、と言われている。

確かに高校時代は学校に背を向けた。
だからしょっちゅう授業をさぼり、映画館に通っていた。
いつも一番後ろの右端に座り、南北戦争で没落した南部貴族の娘、
スカーレット・オハラの波乱万丈の半生を描いた
『風と共に去りぬ』を観るのが大好きだった。

大学に進むと野球部に所属したが、体育会的な気質に背を向けた。
わずか半年で退部して、ブラブラしていた頃には、
プロボーラーを目指したこともあった。

そして東芝の府中工場で季節工として働いたのをきっかけに、
再び野球と出会った。
社会人野球でメキメキと頭角を現し、
1978年のドラフト3位でロッテに入団した。

しかし、ここでも球界の常識には、背を向けて生きた。

1年目のキャンプで元監督に打撃を酷評され、
コーチの声にも背を向けた。
独特の打撃理論で3度の三冠王を手にすると、
「選手は個人事業主」と選手会労組にも背を向けた。

監督になっても、ワールド・ベースボール・クラシックに背を向け、
チームがペナントで勝つことのみを価値として追い求め続けている。
勝利至上主義はファンという見えない力にも
背を向けているとも言われてきた。

~球界の常識に背を向けつづけた落合監督が手にしたものとは?~

そんな中日・落合博満監督が、
ついに野球殿堂という「権威」を手にした。

「私はユニホームを着ている間は、
 この賞とは無縁だろうと思っていました。
 ユニホームを脱いでから、いつかもらえればいいなと思っていた」

受賞の会見で落合監督は、静かにこう語ったという。

選手時代の実績は、あのONと比肩することは誰もが認めるものだった。
しかしその文句ない実績にもかかわらず、
この2年、続けて1票差で殿堂入りを逃したことは、
記者投票というシステムの在り方に大きな波紋を投げかけるものとなった。

マスコミという「権威」に背を向け、
その「力」にそぐわなければ評価を得られない――
特に地元でもある名古屋の記者クラブ所属記者の票が、
あまり入らなかったことが、余計にこの印象を強くするものとなった。

「どうせなら3年連続1票差で落選した方が面白かったんじゃないか。
 他人がやらないことをやるのはいいことだ」

スピーチではそんな経緯も、らしいコメントで笑い飛ばした。
ただ、ゲストスピーチでOBの杉下茂さんはこう断じている。

「もっと早く入って然るべきだった」

そういう意味では、やっと正当な評価を受けて、
落合監督は殿堂入りを果たしたということだった。

~ミスターも認める、落合監督の群を抜いた「監督力」~

そんな「反権威」の落合監督だが、実は監督としては、
最も「権威」と「力」をもってチームを動かす監督である。
こう評したのは巨人の長嶋茂雄終身名誉監督だった。

「いま、もっとも厳しい、非情な監督は中日の落合監督でしょう」

長嶋さんに「監督論」を取材したときの話だった。
勝つために監督は権力を持ち、その権力を非情に行使しなければならない。
これがミスターの「監督論」の第一条だった。

「巨人の原監督も、そういう意味では決断力もあり、
 特にここ数年は、いい意味で非情な監督になっている」

 ミスターの評価だ。

「ただ、監督の持つ権限を冷徹に行使するという点では、
 いま落合監督に勝る監督はいないかもしれない」

独特の野球観で選手を見定め、
その野球観から外れる選手は容赦なく切り捨てていく。
常に“競争”という言葉で選手を駆り立て、
ちょっとでも油断を見せれば主力選手といえどもポジションを奪っていく。

~WBCの逆風を受けた落合監督が思った、正力松太郎の心~

監督という権力を存分に行使してチームを動かす――
それが落合監督の力だ。
と、同時にこれまでの「力」に背を向けるイメージとは真逆に、
実は意外に「権威」を求める部分があるのも、
この監督のもう一つの顔だった。

「これが正力松太郎さんの目指した野球界か聞いてみたい」

WBCの選手派遣辞退から思わぬ逆風にさらされた一昨年のシーズン。
東京ドームでのクライマックス・シリーズに敗れた落合監督から、
想定外の名前が口を突いた。

 なぜ正力松太郎だったのか?

それはちょっと意外だが落合監督にとって、
正力松太郎という存在が、
日本のプロ野球の権威の象徴だからだったというのだ。

WBCへの選手派遣で猛烈なバッシングを受けたが、
ペナントレースを重視した自分の考えは、
プロ野球の父と言われる大正力の「権威」が担保してくれるはずだ。
そんな思いがあるから、
あそこで思わず正力松太郎の名前が口を突いたのだという。

だからプロ野球の世界で最も欲しかったのが、
その名を冠した「正力松太郎賞」だった。
その最も「権威」ある「正力松太郎賞」は、
監督就任4年目の2007年に日本一に輝いて手に入れている。

~正力松太郎賞と野球殿堂では、まだ夢は終わらない~  

「現役時代に自分で取れる賞は全部取った」

 落合監督は豪語した。

だから現役を退いた後は、
人から与えられる三つの賞を手にすることが夢なのだともいう。
その一つ目が正力松太郎賞。
そして二つ目の野球殿堂入りも果たしたいま、
落合監督が最後の三つ目として求めるものは、いったい何なのか……。

 それは国民栄誉賞だというのだ。

球界では、王貞治ソフトバンク球団会長と
連続試合出場の世界記録を持つ元広島・衣笠祥雄さんの
二人しか持たない最後の「権威」は、
もはや野球界という枠を越える世界の話だった。

「野球界からもらえるものは全部、いただいた」――。

殿堂入りのスピーチ。
そんな話を胸に聞いたこの言葉に落合監督の願いを感じ、
「なるほど」と妙に納得させられた。  



【筆者プロフィール 鷲田康氏】

1957年埼玉県生まれ。
慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。
およそ10年にわたり読売ジャイアンツ取材に携わった。
2003年に独立。日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、
Numberほか雑誌・新聞で活躍。
著書に『僕のメジャー日記 松井秀喜』(文藝春秋)、
『ホームラン術』(文春新書)がある。

オレ流“自主キャンプ” 落合監督には辛い1ヶ月
2010年02月22日 (月) | 編集 |
キャンプでの監督の仕事とはいったい何なのか?
陣頭指揮を執りグラウンドを走り回る。
これも一つのあり方だ。
チームを各担当コーチに預けて泰然自若と仕上がりを見守る。
これもチームを預かる身として一つの考え方となる。

『オレは何もしないよ』―。

中日・落合監督は、2月1日のキャンプ初日にこう宣言したという。
言葉通りキャンプが始まってから、
ほとんど報道陣の前には姿を見せない。
ブルペンでピッチングを見守る姿はあるが、
それ以外はほとんどグラウンドには姿を見せることもないのだという。

動かないだけではない。
キャンプ始動方針も大きく変えた。
右腕の森バッテリーチーフコーチをヘッドコーチに、
辻2軍監督を1軍総合コーチに指名。
キャンプでは前線の指揮はすべてこの2人に委ね、
監督はネット裏に“引きこもり”状態となっている。

『いろんな意味でチームが変わらなければならない』―。
落合監督の言葉だ。

理由はマンネリの打破だった。
荒木と井端のニ遊間入れ替えコンバートは、
チームに風を吹き込むことが狙いだという話は以前に書いた。
と、同時にキャンプそのものの考え方をもガラッと変えてしまった。

昨年までの練習は野球枝主体。
基礎体力を作るのも打撃練習やノックなど
野球の動きで作らせてきた。
そのため日が暮れるまでの居残りの特打、特守が北谷キャンプ名物
だったが、
今年はノックの量もグッと減っている。
ここ数年の長い練習に慣れた選手が、
午前中は力を抜いて午後に余力を残すようになってしまった。
成熟したチームが陥りがちな落とし穴。
そこから抜け出すために、あえて指揮官は何もしないことを
選んだわけである。

『練習中も宿舎に帰っても、ずっと大好きなガンダムを
 いじっているかDVDを見ているらしい』―。

こんなうわさも飛び交っているが、実は監督にとって
何もしないことほど辛いことはないはずだ。
自主性キャンプ。
言うは易く、行うは難し。
落合監督にとっては就任以来、実は今年が一番、
キツイ1ヶ月となっているはずである。


          サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
                          鷲田康氏


この記事を読んで、うちも次元は違えど
『何もしないことほど辛いこと』という体験を今まさに
進行中(?)であります・・・。

息子の反抗期にここ数日直面してしまい、
どうしたらいいのか、とても困惑していました。
でも、答えは簡単。
“何もしない”。
落合監督と同じ結論でした。

今、むちうちで毎日、接骨院通いしています。
そして、先生の思春期の頃の話をしてもらいながら、
色々とヒントを頂きました。
『お父さんと兄弟になってしまっているんだよ。
 あまり構わないで、勇汰君が言う言葉にいちいち反応しないで
 放っておいたらいいと思うよ』―。
私より主人の方が勇汰に対して感情剥き出しで、
ケンカになったりもします。

思春期の男の子は独りになりたがるようで、
そっとしておけば、向こうから話しかけてくるし、
とにかく見守ることにしました。

初めてのことで、息子も大人の階段を
着実に昇っているんだな、と
母親としてちょっぴり寂しい思いも感じつつ、
成長過程を目の当たりに出来て
勉強させられました。

男の子の生理は私にとってまだ、未知の世界です・・・


ただのデブと見くびるべからず。中日・中田亮二の「きらめく才能」
2010年02月16日 (火) | 編集 |
                  中村計 = 文  


身長171cm、体重115kg。愛称は「ブーちゃん」。
そのシルエットは、野球選手というよりは、まるで力士だ。

昨秋のドラフト会議直前、中田亮二の元には、
パ・リーグの1球団からしか進路希望調査書の依頼が届いていなかった。
そこも、さほど高い評価ではなかったため、
指名されるかどうか、中田亮は心配顔だった。

だから、中日が3位という上位で指名したことは意外だったが、
中田亮の実績からいって、その評価が決して不当だとは思わない。

なぜなら、彼は、東都で通算103安打をマークした選手だからである。

~東都で通算100安打以上を記録したのは79年間でわずか14人~

東都で通算100安打以上をマークした選手は、79年の歴史で、
わずか14人しかいない。
85年の歴史を持つ東京六大学にはちょうど倍となる28人もいることからも、
その記録達成がいかに難しいかが窺える。

 参考までに東都で100安打以上した打者を列挙してみよう。

 1位 133本 藤波行雄(元中日)
 2位 115本 高木豊(元日本ハム)
 3位 112本 大下剛史(元広島)
 4位 107本 佐々木正詞(日本生命)
 5位 105本 尾上旭(元近鉄)
 6位 103本 野村謙二郎(元広島)
 6位 103本 井口資仁(千葉ロッテ)
 6位 103本 村田修一(横浜)
 6位 103本 中田亮二(中日)
10位 102本 南渕時高(元オリックス)
11位 101本 亀井義行(巨人)
12位 100本 広瀬哲朗(元日本ハム)
12位 100本 今岡誠(千葉ロッテ)
12位 100本 大崎雄太朗(西武)

そうそうたる顔ぶれだ。
この内、中田亮を含む13名がプロ入りしており、唯一、
アマチュア球界に残った
佐々木正詞も社会人の名門・日本生命の主力として活躍し、
全日本メンバーにも何度となく選ばれている。

~ 実力伯仲の東都リーグで打ち立てた中田亮の記録は本物だ~  

東京六大学の方が100安打した選手が多いのは、
まず何より入れ替え戦がないからだ。
そのため期待のルーキーであれば我慢して使い続けることができる。
また東大や一時期の立教大など、
極端に力が落ちるチームがいることも有利だ。

一方、実力が伯仲しており、さらに入れ替え戦がある東都の場合は、
1敗が命取りとなるため、
主力であっても調子が悪ければ簡単にスタメンを落とされる。

つまり、東京六大学の場合はどこかに
「つくられた感」があるのに対し、
東都は「正真正銘の記録」だと言っていい。

それだけの選手が、あわや指名漏れしそうだったのだから、
そちらの方が不思議といえば不思議なのだ。

~「きらめく才能」がなければデブはプロで生き残れない!?~

2001年のドラフト会議で中村剛也が
西武から2位指名を受けたときのことを思い出す。
あのときも意外な思いがしたものだ。

中村は大阪桐蔭時代、実に83本もの本塁打をマークしていた。
これは、対戦相手の問題等、多少の「保留事項」があったとしても、
半端ではない数字だ。
監督の西谷浩一も、当時、
歴代の大阪桐蔭のスラッガーの中でも柔らかさは随一だと太鼓判を押していた。

だから、どこかが1巡目指名してもおかしくないと思っていたのだが、
フタを開けてみると2巡目だったのだ。

西谷は、
「三塁手を任せられるほど動ける選手だとはどの球団も
 思っていなかったようだ」と振り返るが、
高校時代から中村は一塁手としても、かなりいい動きをしていた。

中田亮も同じだ。
もし、動けないと思われて評価が落ちたのなら、
その点は心配ないだろう。
50m走は6秒4だし、高校時代はバク転もできた。
中田亮も普通以上に動けるのだ。

~デーブこと、西武の二軍打撃コーチ、
 大久保博元がこんな話をしていたことがある~

「よくデブはバッティングが天才的だとか言うじゃない。
 俺も、インコースだけは、なんの苦労もなく打てた。
 でも、それはいろんな話を総合するとね、
 デブだからうまいわけでもなんでもない。
 デブという見た目のハンディを背負った人たちは、
 それぐらい何かきらめく才能がないと
 上ではやっていけなかったってことなんだよ」  

~涌井を打ち砕いた怪力と技術は「きらめく才能」そのものだ~

明徳義塾高校時代のことだ。
'04年夏の甲子園で、2年生ながら出場していた中田亮は、
横浜の涌井秀章(西武)の真っ直ぐを詰まりながらも
反対方向のレフトスタンドへ放り込んだ。

「あれは打ち損じでしたね。まさか入るとは思わなかった」

つまり、高校生の段階で、芯を外しながらも、
オーバーフェンスさせるだけの怪力と技術を中田亮は持っていたのだ。

中田亮にも大久保が言うような「きらめく才能」がきっとある。

ブーちゃんがブレイクする日が今から待ち遠しい。




【筆者プロフィール 中村計氏】

1973年千葉県出身。ノンフィクションライター。
某スポーツ紙を経て独立。
『Number』(文藝春秋)、『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。
『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で
第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。
他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、
共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。
『雪合戦マガジン』の編集長も務める。
趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。
立浪和義の22年を支えた、ふたつの『資質』とは?
2009年10月28日 (水) | 編集 |
                       
                           永谷脩 = 文  


現役生活22年目、立浪和義らしいバッティングだった。
9月30日の巨人戦で、越智大祐の投じた内角ストレートを
きれいにはじき返すと、打球は右中間に転がった。
自身の持つ最多二塁打記録を487本に伸ばす一打は
「ミスター二塁打」の名に相応しいヒットだった。

~PL育ちの選手らしく、常にチームの勝利を求める選手だった~

ここ数年は代打での出場が多かった立浪だが、
ナゴヤドームにその名が告げられると、
誰よりも声援が多かったものだ。
「PL育ちの選手は、
 どんなに活躍してもチームが勝たなければ意味がないことを、
 徹底的に教え込まれている」との言葉通り、
常に勝利を追い求めファンから愛される存在だった。
ナゴヤドームでの引退セレモニーには、
高校の2年先輩にあたる清原和博、桑田真澄の他にも
同期の片岡篤史、橋本清、
監督だった中村順司らPL黄金時代のメンバーが顔を揃え、
立浪の打席に拍手を送っていた。

入団当初、薬局を営んでいた母親の好子さんは
「プロ野球で通用しますか」と心配していたが、
素質を見抜いていた当時の監督・星野仙一は
「責任を持って一人前に育てます」と言い、
少々のミスにも目をつぶり我慢をして起用し続けた。
その結果、見事期待に応え新人王を獲得したのである。
身長は173cmとプロ野球選手にしては小柄な体格だったが、
その野球センスは図抜けていた。

ホームラン王1回、ベストナインを3回獲得した宇野勝が
「グラブさばき、あの野球センスには敵わないと思った」
と舌を巻くほどだった。

~三冠王の落合から手首を柔らかく使う技術を学んだ~

もちろん野球に取り組む姿勢も、入団当初から際立っていた。

三冠王を三度獲得した現監督の落合博満が打撃練習を始めると、
必ずバッティングケージの後ろでその姿を見つめる立浪の姿があった。
「あの手首を柔らかく使う落合さんの技術を盗みたい」
と言っていたが、
野球へのあくなき向上心が小さな体を支えていたのである。

「慢強いヤツや」とポツリと漏らしていたが、
ファンの多くは立浪の活躍をまだまだ見たかっただろう。