日々様々なスポーツ界での出来事や、気になった記事を取り上げ考えていくブログです。
スポンサーサイト
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
人気と戦力以外に必要なことがある!楽天が渡辺直人と共に放出したもの
2010年12月22日 (水) | 編集 |
             田口元義 = 文 


12月1日の契約更改交渉後の会見で過去最低の出場試合に終わった
今季を振り返り、
北楽天の渡辺直人は忸怩たる思いをぶつけた。

「今年は本当に自分でも納得していません。
 来年は競争になるけど、
 試合に出たら最高のパフォーマンスを出せるように
 自分を高めていきたい」

メジャーから松井稼頭央と岩村明憲が移籍してきたことで、
内野のレギュラー争いが激しくなることは覚悟している。
だからこそ、
「今まで自分がやってきた自負もある」と己を鼓舞した。

加えて、副選手会長に任命されたことでより一層、
責任感も芽生えた。
渡辺直には、ひとかたならぬ決意が漲っていた。

 そんな矢先、である。

9日、金銭トレードにより渡辺直が横浜へ移籍することが決まった。
理由として、
「ショートは松井稼とポジションが重なる。
 横浜でレギュラーとしてキャリアアップしたほうがいい」
という説明が球団からあった。

「来年も楽天でやりたい気持ちがあるなかで、
 仙台を離れるのは寂しい。横浜でも頑張ろうと思います」

渡辺直は、そう気丈に現実を受け止めたが、記者からの
「楽天ファンへメッセージを」という質問を受けると言葉を詰まらせ、
涙ながらに感謝を述べた。

「仙台のファンは本当に熱くて、温かく……応援してくれました」

~降って湧いたトレード話にチームメイトも動揺~

急転直下の移籍劇は、チームに波紋を呼んだ。

翌日の契約更改交渉に臨んだ選手のほとんどが、
渡辺直に惜別の言葉を贈る以上に、悔し涙を見せた。

公私ともに仲が良く、渡辺直を「師匠」と慕う鉄平は、
自身の契約にはわき目もふらず、
事態の説明を球団に求めたほどだ。

「直人さんがあんなことになって……。
 技術だけではなく、
 人間的に未熟だった自分にいろいろなことを教えてくれた先輩でした」

同期入団で、来季から「二人三脚で頑張っていこう」と
渡辺直と誓い合ったばかりの新選手会長の嶋基宏も、
涙ながらに語った。

「悩んでいるときに声をかけてくれましたし、
 来季も副会長としてサポートしてくれると言われていたので……。
 直人さんがいなくなってしまって、僕も悔しくて」

さらに翌日には、チームの精神的支柱の山崎武司ですら、
「プロだからトレードは仕方がありませんけど、
 出すべき選手ではなかったと思う」と、
球団に疑問を投げかけた。

 これで十分に伝わるだろう。

 彼はチームメイトから信頼される選手だった。
 そして、ファンから愛される選手であった。

渡辺がどれほどファンから愛されていたか。
それを裏付けるエピソードがある。

~渡辺の厚い人情を知るファンは球場で熱い声援を送った~

1年目のことだった。
同期入団のゴールデンルーキー・田中将大に
ファンが群がりサインを求める。
しかし、一部のファンが営利目的のため
ネットオークションで売却していたことを知った球団が、
公式イベント以外でのサインはしないよう全選手に通達した。

だが、渡辺直だけはサインをし続けた。

関係者の話によれば、
球団が困惑しながらやめるように言うと、彼はこう返答したという。

「100人にサインをして、99人がネットオークションで売ったとしても、
ひとりだけ本当に喜んでくれるファンがいるかもしれない。
だからやめません」

ファンは、そんな渡辺直の人情を知っているからこそ、
ホームゲームではどの選手よりも大きな声援を贈るのだ。

~派手さには欠けるが「フォア・ザ・チーム」を貫いた~

プレーヤーとしても、渡辺直は自分の持ち味を貫いた。

派手さはない。
だが、右方向へ打球を飛ばすために何球もファウルで粘り、
死球を恐れることなく思い切り踏み込んでインコースの球を打ちに行く。

出塁すれば果敢に次の塁を狙った。
4年通算97盗塁がその証。

上位、下位どの打線を任されても力を発揮した。

守備では、'09、'10年と2年連続でショートの守備率1位。
堅実かつ必死に打球に食らいつく守りでチームのピンチを幾度となく救った。

 渡辺直は、「フォア・ザ・チーム」の塊のような男だった。

 そんな選手が楽天からいなくなる。

~人気と戦力以外で、球団を支えている要素とは何か?~

 結局、球団はチームを強くすることを優先した。

監督が星野仙一になり、松井稼、岩村を獲得したことで
人気、戦力は底上げされた。
そのことで、来季は優勝争いに加わるかもしれないし、
ホームの集客率も上がるだろう。

だからといって、楽天がより
「ファンから愛されるチーム」になったかというと疑問符が残る。

渡辺直のように、
ファンと真摯に向き合う生え抜き選手がひとり、
またひとりと増えていくことで信頼関係が生まれ、
愛されるチームになっていくのではないだろうか。

なにより仙台を拠点とする楽天は、「地域密着型のチーム」だ。
バレンタイン解任騒動で揺れた'09年の千葉ロッテのように、
ファンの意思が形になって表れやすい。

今回の渡辺直の放出を教訓に、
球団にはそのことを少しでも理解してもらいたい。

【筆者プロフィール 田口元義氏】

1977年福島県生まれ。
元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じてアスリートの魂(ソウル)を
感じられる瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。

スポンサーサイト
『復帰組』~メジャー経験を日本球界に還元
2010年11月21日 (日) | 編集 |
メジャーで変わった姿を見せる―。
それが大事な仕事になるはずだ。
前アスレチックス・岩村明憲内野手の楽天入りが発表された。

『メジャーで学んだのはチームワーク。
 弱いチームからワールドシリーズまでいったけど、
 みんなでカバーしようという和。
 四球を選んで進塁でつなぐことも必要だし、
 そういうことをこのチームでも伝えたい』―。

入団発表での岩村の発言だ。
ヤクルト時代は長打狙いの粗いバッティングが目立つ
場面もあった。
そんな岩村の口からこういう言葉が出る。

ア・リーグ東地区の万年最下位だったレイズで、
08年に米国版下克上ともいえるワールドシリーズ進出を達成。
チームが若かったこともあり、
リーダーとしてメジャーの選手を引っ張った経験は
ダテではないということだった。
メジャーを経験することが、
選手にとって大きな肥やしになっている。
今の岩村からは、そんなムードが自然と伝わってくる。

日本人選手のメジャー流出を危惧する声は多い。
今年もポスティングでアスレチックに入札された
楽天・岩隈に続いて、ロッテの西岡、小林宏、日本ハム・建山らが
メジャー移籍の可能性を模索している。
また、来年にはソフトバンク・和田に川崎、西武・中島らも
移籍希望を出すのは確実とみられている。

この流れはもはや止めようがない。
だとすれば、それをもっと建設的に考えたい。
そのための一つの道として、メジャー帰りの選手達が、
色んな意味で活躍して、
日本球界にいい影響を及ぼすことが必要なのだ。

かつて日本ハムに戻ってきた新庄は、賛否両論はあったが
チームの活性化を導いた。
今年も日本シリーズを制したロッテには、
井口と薮田という復帰組がいて、
2人は下克上日本一のキーマンとなっている。

選手のメジャー挑戦が、日本球界にとってマイナスだけではない。
オーバーに言えば、復帰組には、
それを身を持って示す義務がある。
その気概を持ってグラウンドに立つ―。
そう語る岩村に大きな期待をしたくなった。


    サンケイスポーツ 『球界インサイドリポート』より
               鷲田康氏(スポーツジャーナリスト)
チームまとめる大切さ学ぶ~楽天ヘッドコーチ・田淵幸一氏~
2010年11月10日 (水) | 編集 |
読売新聞 『私の先生』より

幼い頃、引っ込み思案だった私に、人と交流し、
集団で物事を成し遂げることの大切さを教えてくれたのが、
豊島区立目白小学校で4年生から卒業するまで担任だった
竹内宏先生(故人)です。

当時20歳代後半で、気さくな親しみのある先生でした。
普段は優しいのですが、
掃除をさぼったりして集団行動を乱す者がいると怖かったですね。
自分たちの目線に降りてきてくれて、
心から尊敬できました。

放課後になると、よく男子を近くの原っぱに集めて、
野球をさせてくれました。
所属していた少年野球チームよりも、
野球の面白さを実感できたように思います。

地元中学を経て進学した法政一高(現・法政大学高校)の
野球部で、1年生は球拾いが日課。
嫌気がさしそうになった時、
『自分のやるべき事は自分でつくるんだ』
という先生の言葉を思い出し、
バッティングキャッチャーを買って出ました。
それがポジションを決定づけた訳です。

最後に会ったのは、亡くなる半年前。
阪神の打撃コーチ時代で、先生が定年退職後に暮らしていた
高松市で行われたオープン戦でした。
『頑張れよ』と言ってくれた先生の温かい眼差しが、
今でも忘れられません。

様々な性格や技量の選手たちの気持ちを思いやりながら、
どうチームをまとめ上げていくのか。
野球の指導者としての土台を築けたのは、
先生の教えがあったお陰です。

先生との出会いがなかったら、今の自分はなかったでしょう。


          (聞き手 奥田祥子)
今季の楽天は大化けする!! 野村克也の後任監督が優勝するわけ
2010年01月26日 (火) | 編集 |
              中村計 = 文  


緊張と緩和。
組織とは、畢竟(ひっきょう)、このバランスなのだと思う。
どちらに傾き過ぎても「平均台」の上を上手に歩くことはできない。

全国優勝の経験もある高校野球の監督が、
こんな話をしていたことがある。

「それまでずっと厳しくしていた監督が辞めて、
 おおらかな監督に変わった途端、
 ポッと強くなることがある。
 張り詰めていたものが緩んでちょうどいい状態になるんですよ。
 でも逆はないですね。
 監督を代えて、それまでの緩みを締め直そうとしたら、
 やっぱり最低でも3年はかかる」

そんな話を思い出したのは、ある野球解説者が、最近、
西武について似たような分析をしていたからだ。

「あそこは前監督の伊東(勤)さんがけっこう厳しくやっていたでしょう。
 それで選手たちともギクシャクしていた。
 そんなときに放任主義の渡辺(久信)さんがやってきた。
 就任1年目はうまい具合に結束したんですよ。
 そういう状況だと、
 おおらかな監督というのは求心力を得やすいですしね。
 でも、それが通用するのは1年だけ。
 勝ち続けるには厳しさも持ち合わせていないと無理ですよ」

~野村監督からの「親離れ」の時期を迎えていた楽天~

そんな見方を用いると、今季、
恐ろしいチームがいることに気づかされる。
そう、楽天だ。

前監督の野村克也氏は、縛って、縛って、縛り付けた。
サインプレーなどが多すぎて、投手陣からは
「投球に集中できない」と不平不満もあったが、当時、
まだよちよち歩きだった楽天にとっては、
そういう「義務教育」が必要な時期でもあったのだろう。
しかし、それが功を奏するのは草創期もしくは再建期だけだ。

チームが強くなってくると、そのバランスは微妙に崩れ始める。
自立し始めた選手の中に監督を疎む気持ちが芽生えるのだ。
親離れの時期を迎えた子が、親をうっとうしく思うのと同じだ。
そんな風の変化を読み違えると、せっかく上昇気流が生まれても、
それに乗り損ねてしまう。
昨季の楽天は、まさにそんな状況の真っ直中にあった。
風をつかまえたり、見失ったり、そしてまたつかまえたり、と。

楽天の上昇気流は、今はまだ勢いを失っていない。
そして、そんなタイミングで、監督交代劇が起こったわけだ。
この人事は、これまで挙げた2人の証言に照らし合わせると、
これ以上ない吉兆なのではないか。

野村氏が残留していたとしてもそれなりの結果は残しただろう。
だが、ブラウン監督にバトンタッチしたことで、
絶妙な時期での「緊張」から「緩和」という黄金リレーが成立したことになる。
楽天が大爆発しそうな予感がプンプンするではないか。



~ 野村氏の後任監督は必ず優勝。二度あることは三度ある!~

思えば、野村氏の後任監督は、
プレイングマネジャーを務めていた南海時代を除き、
いずれも優勝を経験している。

ヤクルトの若松勉氏は3年目、
阪神の星野仙一氏も2年目に優勝を果たしている。
いずれも、どちらかに分類するとすれば「緩和」の人だ。
強面な星野仙一氏は、一見すると逆のタイプに見えるが、
当時を知る記者が明かす。

「星野さんはヘッドコーチの島野(育夫)さんあっての星野さん。
 あの人の恐さは、生きているときからすでに伝説化していましたからね。
 島野さんが、締めるだけ締めてたから、
 星野さんは楽だったと思いますよ。
 星野さんは怖いことは怖いですけど、
 それは消極的なプレーをしたときだけ。
 基本的には伸び伸びやらせるのがうまい人です」

監督を引き継いだ1年後というわけではなかったが、
「緊張」のあとの「緩和」が十分効いていたのだ。

つまり、二度あることは三度ある。
結果、野村氏の再建屋としての名声はますます高まることになるだろう。
もちろん、その一方で
「貧乏くじを引いた感」も強くなり、
野村氏の悲哀の色もますます深くなるのだが……。



【筆者プロフィール 中村計氏】

1973年千葉県出身。ノンフィクションライター。
某スポーツ紙を経て独立。『Number』(文藝春秋)、
『スポルティーバ』(集英社)などで執筆。
『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で
第18回(2007年度)ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。
他に『佐賀北の夏』(ヴィレッジブックス)、
共著に『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)などがある。
『雪合戦マガジン』の編集長も務める。
趣味は、落語鑑賞と、バイクと、競艇。
「億」の重みを存分に伝える、“熱い男”山崎武司のプロ意識
2010年01月11日 (月) | 編集 |
                    田口元義 = 文  


シーズンオフのこの時期、現実的な重みなど想像もつかないためか、
どうしても「億単位」の金額を軽く受け取ってしまう。

スポーツ新聞などを開けば、
連日のように億、億、億……の文字。

日本ハムのダルビッシュ有が3億3000万円で更改した。
あれほどの成績を収めたのだから周囲も納得だろう。

西武の涌井秀章が「沢村賞の重みを全く分かっていない」と、
8000万円増の2億円をいったんは保留した。
その気持ちも分からなくもない。

ただ正直、こうも思ってしまう。
「年俸の頭打ちがない分、球団も大変だろうな」と。

活躍すればするだけ選手の年俸は上がっていく。
上昇の額は球団の財政状況にもよるだろうが、
新人から3、4年続けて結果を残せば1億など軽く超えてしまう。
楽天の田中将大が3年目(4年目シーズン)にして
1億8000万円を手にしたのがいい例だろう。

1986年に落合博満(当時中日)が球界初の「1億円プレーヤー」となり
周囲を騒がせた、あの時代が懐かしい……。


~史上最高齢、プロ24年目41歳で「2億円プレーヤー」に!~

そんなプロ野球界の金銭事情において、
彼の年俸は「億」の重みを十分に伝えていた。

 楽天の山崎武司、である。

39本塁打、107打点はともにリーグ2位。
4番としてチームをクライマックスシリーズに導いたこともあり
アップは確実。
契約更改交渉前、山崎本人も冗談交じりで「2億5000万円」
を希望するほどだった。
そして、その希望は実際に叶った。
年俸2億5000万円プラス出来高の2年契約。

この金額は、シーズン中に数々の「40代記録」を塗り変えた山崎にとって
新たな記録を作ることとなる。

24年目にして自身初となる2億円台。
2005年の中日・山本昌の22年を抜き、
プロ野球史上最も遅い24年目での「2億円プレーヤー」となったのだ。

交渉を終えた会見の席で、彼は満面の笑みを浮かべながら、
不況下の世間に詫びるように過去を振り返った。

「オリックスで1度クビになった男がこんなにもらっていいのかなぁ。
 不況なのに大金を貰ってしまい責任を感じる」

これを「自慢」と捉える人間はいるかもしれない。
だが、山崎においては断言できる。
この言葉は偽りのない「謙遜」だ、と。



~引退の決意を翻し、オリックスから新天地の楽天へ~

山崎のプロ野球人生における最高年俸は、
1億2000万円で1度、終わっている。

オリックス2年目、
’04年の山崎は出場機会の激減に加え首脳陣との軋轢も囁かれ、
野球に対するモチベーションがゼロになった。

二冠王に輝いた’07年、彼は豪放磊落な性格そのまま、
オリックスから離れた当時の気持ちを話してくれた。

「なんか、このまま野球を続けても『人間がダメになる』って
 思ったんですよね。
 だったら辞めて家族と楽しい時間を過ごそう、と」

シーズン途中にあっさりと引退を決め、
家族や親、知人にも早々と「辞めます」と伝えたという。
西武の松坂大輔が6年目にして「2億円プレーヤー」となった年の話である。

それが一転、現役続行を決めた。
理由は大きくふたつ。
ひとつは息子から「パパ辞めないで」と何度も懇願されたから。
ここで引退の意志が大きくぐらつき、
新規参入の楽天初代監督・田尾安志から
「若手もベテランもない。君が必要だ」と熱心に誘われたことで、
現役を続けることを決意した。  


~移籍3年目には二冠王に輝き、山崎のなかで何かが変わった~

移籍初年度の年俸は、前年の半分以下である5000万円だった。
それから3年目には二冠王にも輝いた。
翌'08年シーズンには、年俸が自己最高額となる1億9200万円にまで到達した。


~39歳で二冠へと飛躍~

若い頃は技術とプライドで金を稼いできたかもしれないが、
それも薄れてきているのだろうな、
そう感じさせたのが二冠当時の発言の中にあった。

「僕はホームラン王と打点王を獲らせてもらいましたけど、
 仮に『これであと2、3年はやっていける』なんてね、
 そう思っている人がいたとしたらほんっとめでてぇことだな、って。
 来年ダメなら辞める。楽天に入ってからそう思ってやっています」

勝手に解釈すれば、今シーズンまでの山崎は、
年俸よりもむしろ引退を撤回してまで移籍した
“意地”に執着していたのではないだろうか。

それが、来季からの2年契約を結んだということは、
少なからず彼のなかで何かが変わった、と判断するのが自然なことだろう。
「次の年がダメなら」という意識のままであれば、
1年契約でもよかったはずだからだ。


~「『コノヤロー!』って気持ちがプロには必要だと思う」~

「プロの晩年は悔しさいっぱいでしたから。
 最後に『コノヤロー!』って気持ちを出していければね。
 古い精神かもしれないけど、
 それってプロには必要だと思うんですよ」

二冠獲得時、山崎はオリックス時代の最後を
「晩年」という言葉で表現した。

楽天ではそれを自分に強く認識させ、
熱い男を積極的に演じ続けるほどになった。

その結果が今年の2億5000万円という評価に結びついたのであれば、
彼が古いと苦笑する時代錯誤の“熱さ”もまだまだ捨てがたい。

少なくとも「晩年」は2年伸びた。
この期間の山崎武司のプレーを見ていれば、
複数年契約の真意が分かってくる。そんな気がした。



【筆者プロフィール 田口元義氏】

1977年福島県生まれ。
元高校球児(3年間補欠)。
ライフスタイル誌の編集を経て2003年にフリーとなる。
Numberほか雑誌を中心に活動。
試合やインタビューを通じて
アスリートの魂(ソウル)を感じられる瞬間がたまらない。
共著に「戦力外通告 プロ野球をクビになった男たち」、
同「諦めない男たち」などがある。